説得屋

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 夕食が済むと、テーコはさっさと自室に引っこんだ。 「じゃあ、俺もそろそろ――」 「広明は残って。話があるから呼んだのに、帰ったら意味ないでしょう」  姪に続いて席を立とうとすると、強い口調で引き留められた。 「いやいや、分かってますって」  椅子に座り直し、シンクに立つ姉の背中を直視する。 「ていうか、話ってなに? もったいぶっちゃって、怖いなぁ」  綾香はそれには反応を示さず、洗い物を再開した。終わるまで待て、ということらしい。  コーメイは密やかにため息をつき、テレビ画面に注目を移す。ニュース番組はいつの間にかバラエティ番組に変わっている。リモコンのボタン一つで電源を消した。  小気味のいい音を立てて蛇口が閉まり、綾香がダイニングまで来た。自席ではなく、コーメイの真向かいに当たるテーコの席に座り、実弟の顔をまじまじと見つめる。至って真剣で、どことなく不機嫌そうな顔つきだ。 「……なんだよ、黙りこんじゃって。気味が悪いなぁ」  たまらなく居心地が悪い。暗澹たるニート時代、親に呼び出され、正座をさせられ、説教をされた記憶が甦るから、家族だった人間と一対一で向き合うのは苦手だ。 「単刀直入に言わせてもらうけど」 「断っている時点で単刀直入では――」  思い切り睨まれたので、口を噤む。シリアスな雰囲気に支配された場でふざけたくなるのはコーメイの悪癖だが、さすがにそんな場合ではなさそうだ。 「自殺しそうな娘を説得してくれ、という依頼を受けたそうね。でも、広明の働きも虚しく、その子はビルの屋上から飛び降りて亡くなった」 「よくご存知で。テーコが話したの?」 「ええ。で、その女の子が飛び降りたのは、広明とテーコがその子のあとをつけている最中だったって話じゃない」  なにを言いたいのかはこの時点で察した。少し間を置いて、予想どおりの言葉を綾香は口にした。 「飛び降りた瞬間を見たって禎子は言っていたけど、それは本当なの?」 「いや、見なかったよ。間近からは見ていない」  想像を凌駕する権幕に押されて、コーメイは上体を十五センチほど退かせる。追撃するように身を乗り出して顔を近づけてきたので、さらなる後退を余儀なくされた。 「雲行きが怪しくなってきたから、テーコをその場から立ち去らせたんだよ。ファミレスで食事をする約束になっていたから、先に店に行ってなさいって。でもテーコは、言いつけを半分破ったということになるのかな。少し離れた場所から、その子が飛び降りたビルのほうを見ていたらしいんだ」  言葉を重ねれば重ねるほど綾香の表情は険しくなる。これ以上上体を退かせると、椅子ごと引っくり返ってしまいそうだ。 「でも、飛び降り死体自体は見なかったよ。確実に見なかった。というのは、飛び降りた直後にテーコと電話で話をしたんだけど、ほら、八百屋があるでしょ、八百屋のたいなか。あそこで流れているBGMが聞こえてきたんだ。たいなかの近くにいたなら、他の建物に遮られて、ビル近辺の地上は見えなかったはずなんだよ。……ただ、その子が飛び降りたビルは、界隈で一番高いビルだから、その子がビルの屋上から飛び降りた瞬間を目撃した可能性はあると思う。でもまあ、地面に叩きつけられる瞬間と比べれば――」 「はあ? なにふざけたこと言ってるの? 充分に衝撃映像でしょうが。心が弱い子なら一生もののトラウマになるくらいの」  似たような思いはコーメイも抱いただけに、反論できない。 「だいたいね、対応が不徹底なのよ。やばそうになった時点で、その女の子は放っておいて現場から立ち去って、可能な限り遠くまで離れるべき。そうでしょう?」 「いや、でも、依頼されているわけだから。自殺を決行しそうになったら全力で説得してくださいって。そう簡単に見切りをつけるわけにはいかないよ」 「……広明。あんた、クライアントと自分の姪、どっちが大事なの?」 「そりゃテーコだよ。もちろんテーコだ」  コーメイは言下に断言した。 「かわいい姪と比べれば、小金持ちの家の自殺願望を持った娘なんて、どうでもいい。道端の石ころみたいなものだ」  大雑把な比喩を使ったが、その価値観はコーメイの偽らざる本心だ。  気勢を削がれたらしく、綾香は口を噤む。それに続いて、前屈させた上半身を元の角度に戻したため、コーメイはようやく上体を立て直す念願が叶った。反撃に転じるのではなく、黙って姉の出方を窺う。 「説得屋なんて胡散くさい仕事に、娘が関わるのを許可した理由、覚えてる?」  綾香は表情こそ険しいままだが、口調からは落ち着きが感じられる。 「経験を広く積んでほしいからでしょ。テーコは消極的な性格だから」 「よくできました。じゃあもう一問。そのさいに一つ条件をつけたけど、それはなに?」 「テーコに悪影響を与える体験はさせないように」 「正解。でも、あんたは約束を破った」 「いや、でも、あれはしょうがない部分もあるよ。俺としては最善を尽くしたから」 「最善? どこが? さっきあたしが言ったように、女の子が飛び降りそうになった時点で、禎子といっしょに現場から遠ざかるのが最善の一手だったんじゃないの?」 「そうかもしれないけど、まあ、仕事との兼ね合いといいますか」 「仕事のほうが大事なの? 禎子のほうが大事ってさっき言ったのは、口から出任せだったわけ?」 「違うよ。そういう意味じゃない。仕事と私どっちが大事なの、みたいなことを言ってもしょうがないだろ」 「ふざけてるの? こっちは真面目に話してるんだけど」 「俺だって真面目だよ。大真面目だ。たしかに、姉ちゃんが言った方法がベストだったのかもしれないけど、それは机の上での話だろ。いざそういう状況に直面したら、最善の行動をとれる人間はそうはいないよ。俺みたいな凡人に、そんな芸当は無理」 「つまり、一定の非があったと認めるわけね?」 「それは、まあ……」  間が生じた。不吉な予感がひしひしとする空白だ。  綾香はやがて深々とため息をついた。それがしゃべり出すきっかけとなった。 「親の立場としては、これ以上、広明にあの子を任せるのはどうかなって思う」 「えっ? いや、ちょ、ちょ、ちょっと待って」  コーメイは手振りで姉を制した。 「まだ一回ミスっただけじゃん。それなのに、そんな極端な」 「その一回が大きいの。大きすぎるの。というわけで、今後は――」 「姉ちゃん、待って。待って待って待って」 「うっさいわね。なに?」 「姉ちゃんが、テーコが俺と行動をともにするのを推奨したのは、テーコにいろんな経験を積んでほしいからだよね。俺といっしょにいるのを禁止したら、その目的が達成できなくなるよ。違う?」 「どうせソファに寝ころがって飲み食いしてるだけでしょ、大半の時間は。そんなことをしているあんたといっしょにいても、なにも得るものはない。言い換えれば、あんたと距離を置いても禎子にはなんのデメリットもない。そうでしょう?」 「姉ちゃんにはそう見えるかもしれないけど、家で一人で過ごすことが多いテーコにとっては価値があって、楽しくて、かけ替えがない時間なんだよ。それを奪うのはやめてもらいたいね」 「だらだら過ごす時間が価値があって、楽しくて、かけ替えがない、か。全然成長してないわね、あんたは。もうじき三十五になるっていうのに、鼻水垂らして走り回っていた子どものころのまま」 「ガキなのは認めるよ。潔く認める。でも――」 「でも?」 「俺がそういう人間だからこそ、テーコと仲よくやれているんじゃないかな。精神年齢が同レベル、下手をすると下だからこそ親しみやすい、みたいな」  綾香はなにか言いかけて、やめた。コーメイは勢いづいた。 「世間一般の基準からすれば、幼稚なのは恥ずかしいことかもしれない。大人になれよって、呆れられるかもしれない。でも、テーコにとっては好ましいことなんだから、それでいいんじゃないの? 違うかな」 「まあ、それは……」 「姉ちゃんはなにかにつけて俺を馬鹿にするけど、馬鹿にされるような人間っていう一面も含めて、テーコにとって俺は、言ってみれば特別な存在だと思うんだよ。母親としては不安もあるだろうけど、今の関係をもっと続けさせてくれないかな。今後はもっともっと、テーコのことを考えて行動するから」  数秒にわたって音のない時間が流れて、綾香は首を横に振った。緊張が走ったが、懸念とは裏腹に、姉は表情を軟化させた。 「あんたの言い分にも一理あると思う。あの子、広明のことをよく話すだけじゃなくて、本当に楽しそうに話すから」 「えっ、じゃあ、セーフ? セーフなの?」 「この一件を機に接触禁止とか、そういう極端な処置はもともと考えていなかったから。途中からおかしな話の流れになって、こんな展開になったけど。今日のところは、胡散くさい仕事で培った口の上手さに免じて、ということにしておこうかな」 「なんだ、そうだったんだ。脅かさないでよ、もう」 「きつく釘を刺しておこうとは思っていたから、予定どおりとも言えるわね。――広明」  ほとんど睨むような鋭さで弟を見据える。 「なんでしょう」 「禎子のことを最優先に行動するっていう言葉、死んでも守りなさいよ」 「もちろんだよ」 「蔑ろにしたら、殺すから。子どもがいないあんたには分からないだろうけどね、親は我が子のためなら殺人鬼にでもなるの。あんただって死にたくないでしょう?」 「死ぬ気で守るよ。それは約束する」  綾香は小さく頷く。その口元は、いっときと比べて明らかに緩んでいる。 「話はこれでおしまい。もう特に用はないから、さっさと帰って。あんたと話すと疲れるのよ、ああ言えばこう言うから」 「それを仕事にしているんだから、仕方ないよ」 「昔からそういう傾向があったけどね、あんたは。くだらない屁理屈を嫌というほど並べて、相手をうんざりさせて、自分に都合の悪い展開をまんまと回避するっていう」 「よく殴られたよね、姉ちゃんには。ごちゃごちゃうるさいとか、そういう言葉とセットで」 「よかったわね、あたしが大人になって。少なくとも、むかついただけでは殴らないから」 「まったくだね」  コーメイは席を立つ。直後、訊いておきたいことの存在を思い出した。 「そういえばテーコ、今日はちょっとご機嫌ななめみたいだけど、なにかあった?」 「……ああ、それね。言っておくけど、あたしと揉めたとかじゃないから。今日からなのか、昨日からなのか、一昨日からなのかは知らないけど、ここ二・三日はずっとあんな感じ」  三日のあいだに、テーコの身になにが起きたのだろう? 思い当たる節は――ない。ちょうど詩音が風邪を引いていた時期と重なっていて、テーコへの関心は相対的に薄れていた。なにか見落としていることがあるのかもしれない。 「四月になってから、今日みたいな日がちょくちょくあるの。ナイーブな子だから、環境が変わったのが原因じゃない」 「中学生になったこと?」 「そう。違う小学校出身の子ともいっしょになるから、あの子にとってはストレスだと思うの。いずれは慣れていくだろうけどね。人よりもゆっくりと、でも着実に」 「……そうか。やっぱり、そういうことか」 「なに? なんか言った?」 「帰る前に、ちょっとテーコと話をしてくる」  返事を待たずにダイニングを出て、階段を駆け上がる。廊下の突き当たりにあるドアをノックする。 「テーコ。十秒だけ話がしたいから、ちょっと開けて」  応答はない。淡い不安が胸に生まれたが、すぐに近づいてくる足音が聞こえて、ドアが薄く開いた。隙間越しに無表情がコーメイをじっと見つめる。 「わざわざごめんね。伝えたいことが一つあったから」 「うん」 「テーコが来ないとむちゃくちゃ暇だから、また事務所まで遊びに来てよ。待ってるからね。以上です」 「……分かった。またね」  平板な声で答え、音もなくドアが閉ざされる。見えなくなる寸前の顔は、ほほ笑んでこそいなかったが、最低限柔らかかった。  今日のところはこれで満足することにして、踵を返した。  山野レイが昼食になにを買ったかや、立ち寄った店や公園の名称を、依頼者にいちいち報せているわけではない。過度に詳細な報告は不要だと、依頼者である山野ルルカ自身が明言したからだ。  従って、コーメイはただ「ホームセンターに立ち寄り、買い物をした」とだけ伝えればよかった。しかし今回は、いつもと同じ対応をとるのは、決して弱くない躊躇いを覚える。迷いに迷った末、 (購入品・ロープ)  という一文を付記した。山野ルルカは、息子の自殺を阻止してほしくて説得屋にすがりついたのだから、いくら報告義務がないといっても、その事実だけは伝えておく必要があると判断したのだ。  山野ルルカからの返信はなかった。毎日の尾行結果報告メールに対して、彼女はリコの時から一貫して返信を送らないので、いつもどおりの対応がとられたに過ぎない。しかし、息子が自殺を決行する兆候を示したことを伝えたのだから、いつもどおりから逸脱してもいいだろうに、という思いは持った。そして、我が子の自殺を阻止したい意を表明しながらも、我が子の死に対して淡泊なことを不審に思う気持ちを強めた。  その日、山野ルルカから、息子が自殺したという一報が送られてくることはなかった。
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