説得屋

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 朝からしとしとと降りつづけている雨は、昼下がりから時折、地面を叩くような激しさを見せはじめた。 「暇だなぁ」  窓外を眺めながら、あるいはソファに仰向けに寝そべって、コーメイは何度同じセリフを口にしただろう。  山野ルルカの依頼は、依頼者にとってハッピーエンドではなかったが、とにもかくにも終結し、あとは少々の事務的な手続きを残すのみだ。テーコは学校に行っている。詩音はこの雨にもかかわらず、友だちに会うために出かけたらしい。今朝、事務所に朝食を食べに来たときにそう話していた。  雨の日には決まって、三年前の雨の日の出来事を思い出す。  あの一件は、コーメイにとってのターニングポイントだった。あの日を境に、彼の人生は緩やかに好転していったのだから、ポジティブな感情が湧いて当然のはずだ。それなのに、なぜだろう。脳内に甦るのは、雨に濡れそぼち、泣いていないのに泣いているように見える、小学四年生のテーコの顔ばかりだ。  ドアを開けた先にテーコの姿を見た瞬間は、切なさとは別の感情を抱いた気もする。しかし今となっては、その場面に関する記憶は薄らいでしまっている。 『なんでもない。気にしないで』  昨夜アプリを通じて、ファミリーレストランでの一件について問い質してみたが、テーコの返信はたったの二文だった。  テーコにとって一番話しやすい相手は牧岡広明だと、コーメイは自負している。その相手に「気にしないで」と言ったのだから、彼女にとってあの出来事は「なんでもない」ことだったのだろう。  そう信じたいのだが、なにか引っかかる。あと一歩か二歩のところで、一件落着と認定するのを躊躇ってしまう。  雨が降っていて気分が塞ぎがちだから、ネガティブな解釈をしてしまうのではない。雲一つ漂っていない空模様だった昨夜の時点で、彼は違和感を覚えていた。  本当になんでもないの? 放っておいても平気なの?  そう食い下がりたい気持ちはあったが、しつこいとテーコが嫌がるので、それ以上の追及は控えた。  しかし、果たして、その判断は正しかったのだろうか。  弄んでいたスマホを、ソファに寝そべったままテーブルに置こうとすると、突然バイブした。メールを受信したという通知で、差出人は山野ルルカ。  開いた瞬間に長文だと分かり、辟易したが、不承不承ながらも冒頭から読みはじめる。  文章は、娘のリコを救うために尽力してくれたことへの感謝の言葉からはじまり、娘の死や、死因が自殺だったことについての所感へと続いている。  昨日電話で山野ルルカと会話をしたさい、娘の死にさほど感情を動かされていないらしいことに違和感を覚えたが、メールではしっかりと娘の死を悲しみ、嘆き、自らの責任を痛感していた。吐露された思いは、いかにも突然娘を失った親の思いらしかったが、同時に違和感も覚えた。悲しみかた、嘆きかた、責任の痛感しかたがいかにも一般的で、面白味がなく、「自殺によって娘を失い、悲しみ、嘆き、自らの責任を痛感する親」を演じているような、そんな印象がなくもないのだ。  終盤になってようやく、報酬を指定の口座に振りこんだ旨が明記されていた。コーメイのメールアドレスに送信されたメールとしては最長といっても過言ではない長文は、こんな一文で締め括られていた。 『近いうちにまた牧岡さんに依頼するかもしれないので、よろしくお願いいたします』 「近いうちに、か」  ため息とともにスマホをジーンズのポケットに押しこみ、緩慢に体を起こす。 「とりあえず、金を下ろしてきますかね」  藍色の傘を手に部屋を出て、コーメイは「あ」と声を漏らした。振り向いて、コーメイの姿を認めたその人物も、同じように「あ」とつぶやく。 「泰助くん。どうしたの、こんな雨の日に」  詩音の部屋の前に佇んでいた青年――浜屋泰助はコーメイに向き直り、キーを持った手で鼻の頭をかいた。もう一方の手に提げているのは、煉瓦色の工具箱。ドア近くの壁には漆黒の傘が立てかけられ、雫をしたたらせている。 「辻さんに頼まれたんです。雨漏りがしているようなので、外出しているあいだに直しておいてほしいと」 「ああ、そうなの。雨の中、ごくろうさまです。でも、俺のところは全然ないけどね。故障とかそういうのは」 「部屋によって状態は違いますからね。前の住人の使いかたにも左右されますし」  湿り気を帯びた毛先を気がかりそうに指先でいじくりながら、淡々と答える。いつものことながら、しゃべりかたはどこか気怠げで、早く話を終わらせたがっているかのようだ。そこはかとなくアンニュイな雰囲気も普段と変わらない。 「牧岡さんは、これからお仕事ですか」 「いや、実は暇でね。あてどもなく街をぶらつこうかな、と」 「この雨の中、ですか」 「なんといっても暇だからね。詩音ちゃんの部屋の雨漏り、どんな感じ? やばそうなの?」 「見てみないことには、なんとも分からないですね。辻さん、言っていることがよく分からないんですよ。曖昧っていうか、抽象的っていうか。直す側からしてみれば不親切ですよ」  泰助は大仰にため息をついた。 「あれっ、どうしたの。今日の泰助くん、なんだか憂鬱そうだね」 「憂鬱にもなりますよ。こんな雨の中、面倒な仕事をやらされるんですから。祖父の跡を継がされたばっかりに、こんなつまらない街に縛りつけられて……」 「大げさだなぁ。お祖父さんの事故の件、泰助くんにとっては大きな出来事だったのは分かるけど」 「本当にそうですよね。僕の人生が確定しつつありますもん。こんなボロアパートの大家なんて、お金が貰えるとしてもやりたくないんですけどね。たしかに僕は、やりたいことを探している最中でしたけど、少なくともこの仕事は――」  言葉を打ち切り、眉尻を下げた表情でコーメイを見つめる。愚痴を聞かせたことを申しわけなく思ったらしい。気にしないで、というふうに頭を振ると、弱々しい苦笑が灯った。 「じゃあ、お仕事頑張ってね。詩音ちゃんの部屋、足の踏み場もないくらい汚いけど」 「えっ……。本当ですか」 「あっ、知らないんだ。脅すつもりはないんだけど、残念ながらマジだよ。それじゃあ、いってきまーす」  202号の玄関ドアを施錠し、傘の柄を握り直して歩き出す。泰助はドアの前に長らく佇んでいたが、やがてなにかを断念したかのように息を吐き、203号室のドアの鍵穴にキーを挿しこんだ。  金は過不足なく口座に振りこまれていた。  銀行はアパートからそう遠い場所にあるわけではないが、小刻みに下ろしに行くのは面倒くさい。多めに引き出しておき、傘を開いて雨の中を歩き出す。  信号待ちをしていると、自転車の男子中学生が横断歩道を駆け抜けていった。テーコが通う中学校の制服だ。それに続いて二人組の男子が、少し遅れて一人の女子が、いずれも自転車で走り去った。 「テーコを迎えに行こうかな」  決意に呼応したかのように信号が青に変わった。現在地から中学校までは五分もかからない。  目的地に近づくにつれて、制服姿の中学生たちと擦れ違う頻度が高まっていく。恋人同士なのか、友人同士なのか、相合傘をしている男女のペアを目にするたびに、若いな、とほほ笑ましい気持ちになる。若いっていいな、ではなくて、ただただ、若いな、と。  道幅が広くなく、人通りが多いため、傘と傘が接触しないように気をつかった。それでも完全に避けるのは難しい。弱い接触だった場合、中学生たちはそんな事実などなかったかのように去っていく。強めにぶつかった場合、「しまった」という顔でコーメイの顔を見るが、せいぜいかすかに頭を下げる程度。謝意を表明せずに遠ざかっていく生徒が大半を占めた。  正門付近は柘榴の実のように混雑していて、眺めも声も騒々しい。近づきがたさを感じるとともに、見つけられるだろうか、という不安が萌した。  コーメイは中学生の親にしてはいささか若く、兄と言い張るには老けすぎている。若干の居心地の悪さを感じながら、歩道の端に佇んでテーコを探す。  思いのほか早く、その瞬間は訪れた。 「テーコ! おーい、こっちこっち!」  空いているほうの手を挙げて声を飛ばす。近くを歩いていた三・四人がコーメイのほうを向いたが、肝心のテーコは気づかない。彼女が差しているビニール傘越しに、俯いた顔が窺える。  彼女のもとへと歩を進めながら、もう一度名前を呼ぶ。今度は気がついた。足を止めた直後、後ろを歩いていた男子生徒とぶつかり、小さな体がよろめいた。男子生徒はぶつかった相手を一瞥しただけで、さっさと遠ざかる。コーメイはその男子生徒と擦れ違い、姪のもとに到着した。 「やあやあ。偶然だね、テーコちゃん」 「絶対わざと。道端に立ってたし」 「あっ、ばれた?」 「なにとぼけてるの」とでも言いたげな、不満そうなテーコの顔。予想の範疇のリアクションだ。 「大正解。山野さんから金を振りこんだって連絡があったから、下ろすついでに様子を見に行こうと思ってね」 「様子を見るって、どういうこと」 「傘を持ってないんじゃないかなって、心配になって」 「見てのとおりだけど」 「傘は持っていたからよかった、じゃあ帰るね、だったらつまらないでしょ。特に俺が。というわけで、入って」  藍色の傘を差し出すと、テーコの眉間にしわが寄った。  年齢差と、表情の明暗の対照が、いかにもちぐはぐなペアという印象を与えるらしく、校門から吐き出される生徒の大半が二人に注目している。あからさまではないが不機嫌そうなテーコの顔つきは、叔父の存在や振る舞いではなく、彼らからの視線がうっとうしいと言っているかのようだ。 「自分で差すよりも、差してもらったほうが楽でしょ。お姫さま気分になれるぞ。それとも、叔父さんと相合傘は嫌かい、プリンセス?」 「うん、嫌」 「うわあ、即答。凹むなぁ。ストレートなのがなんだかんだで一番凹む」  テーコは叔父を置き去りにして歩きはじめた。邪魔者を振りきってしまいたいという無意識の表れか、少し早足だ。テーコはもともと歩幅が狭いので、コーメイは苦もなく横に並んだ。 「テーコちゃん、相合傘しようよ。人助けだと思って、ね? ね?」 「そんなにしたいの」 「したいです」 「なんで」 「したいものは、したいの」 「内田百閒みたいなこと言うんだね、叔父さん」 「えっ、誰それ」 「小説家のおじさん。日本芸術院の会員にならないかって誘われたときに、『いやだから、いやだ』って言って断ったの」 「へえ、それは面白いおじさんだね。そんな面白いことを言われたら、言われたほうは『はい、そうですか』って引き下がるしかない。テーコだったら譲歩する?」  不意にテーコが立ち止まったので、コーメイも歩みを止める。テーコはビニール傘を下ろし、畳んで紐で縛った。そして、叔父が差す傘の下に入った。 「おお、ありがとう! 絶対に『いやだから、いやだ』って断ると思ったけど」 「……その手があったか」  悔しそうに唇を歪めたので、コーメイは思わず笑ってしまった。そのリアクションに対して、笑われた本人からのお咎めはない。アイコンタクトを交わし、二人は歩き出す。 「せっかくだから、どこかに寄ってなにか食べて行かない? もちろん、俺の奢りで。テーコはおなか空いてる?」 「ちょっとだけ空いてる、かも」 「あ、やっぱり。学校帰りだから、小食でも小腹はすくよね。じゃあ、どの店に行く? リクエストがあるなら応えちゃうよ」  自らの靴の先に視線を落とし、すぐにコーメイと目を合わせる。 「中学生が来なさそうな店なら、どこでも」  一杯の大盛りのかけうどん、野菜のかき揚げ、卵焼き、おにぎりが三個。  それらをトレイに乗せて、コーメイはテーコが待つテーブルまで来た。店の隅に据えられた、二人がけの一席。昼食には遅すぎ、夕食には早すぎる時間帯の現在、二人を除けば客は一人もいない。  コーメイは健啖家であって美食家ではないから、安くてたくさん食べられる店が好きだ。この個人経営のセルフ形式のうどん店は、彼が学生のころから足繁く通っている店で、二つの条件を満たしている。食事時には賑わうが、開店から閉店まで常に繁盛している店ではない。だから、「中学生が来なさそうな店」というリクエストに応えて、姪を連れてきた。 「おまちどうさまー。あ、水をいれてくれたんだね。どうもです」 「炭水化物と炭水化物」 「いや、ここのおにぎり美味しいんだって。具材を真ん中に入れて『はい、おにぎりです』じゃなくて、均一に混ぜこまれているから。テーコも食べろ。おすすめはなんといっても梅味で、和歌山県産の――」 「太るからいい」  すげなく断って、割り箸を割って卵焼きをつまむ。コーメイも同じく割り箸を手にとり、湯気が立ち昇る丼にかき揚げをのせて、うどんを豪快にすする。雨のせいで少し肌寒かったから、温かく優しい味わいが胃にも心にも嬉しい。 「一昨年だったかな。今日みたいに雨が降った冬の日に、テーコが傘を差さずに学校から帰ったことがあったよね」  二個目のおにぎりの全量を胃の腑に収めたのに続いて、うどんを半分ほどに減らしてから、おもむろに切り出した。コーメイが言及した過去は、記憶の保管庫の分かりやすい場所に収納されていたらしく、間髪を入れずに首を縦に振った。テーコは卵焼きを一切れ食べたあとは、水ばかり飲んでいる。  語ろうとしているのは、「雨の日によく思い出す過去」とは別の日に起きた、ささやかな出来事。そちらを思い出す機会はそう多くないので、思い出したこの機会に言及しようと思ったのだ。 「テーコはあのころから携帯電話を持ち歩いていたから、『傘を持ってきて』って要請しようと思えば要請できたよね。でも、しなかった」  テーコからの返答はない。桃色の薄い唇を閉ざし、テーブルに置いた自分の割り箸の先端を見つめている。 「姉ちゃんは仕事だったから無理だったけど、俺はフリーだったんだよね。あのころは説得屋をまだはじめていなくて、ニートだったから。姉ちゃんは『なにか困ったことがあったのに親を頼れないときは、叔父を頼りなさい』ってテーコに言っていたみたいだし、けっこう強く降っていたからね。総合的に考えたら、叔父さんに傘を頼もうかなって考えるのが定石だと思うんだけど」  最後に残ったおかかおにぎりを二口かじり、皿に置いて姪の目を見る。 「だけどテーコは、雨に濡れて帰ることを選んだんだよね。で、たまたま用事があって外を歩いていた俺が、濡れながら歩くテーコを見かけた。テーコは終始一貫、雨に濡れることくらいなんでもないって顔をしていたけど、俺はすごく焦ったよ。濡れたのが原因で風邪をひいて、それが長引いて、みたいな、最悪の想像を巡らせたからね。いや、これはマジで」  テーコがなにか言いたそうな素振りを見せたので、言葉を切る。とたんに、薄桃色の唇は閉ざされた。気のせいだったのか。それとも、心の中でなにかつぶやいて、それが無意識に唇に反映されたのか。  うどんをすすり、おにぎりをかじり、水をゆっくりと一口だけ飲む。そうやって時間を稼ぎながら言葉を探して、脳内原稿を組み立てながら言葉を紡いでいく。 「テーコがどういうふうに考えて、雨に濡れることを選んだのかは分からない。でも、迷惑をかけて申しわけないっていう気持ちがあって、それが頼みごとをするのを躊躇わせたんだったら、その気持ちは捨ててもいいよ。少なくとも俺の場合には、迷惑だからとか、そんなことは全然気にせずに、遠慮なく頼ってくれていい。生き甲斐って言ったらテーコは気持ち悪がるだろうけど、俺にとってテーコはそういう存在だから」  少女の顔が持ち上がり、視線が重なる。コーメイは柔らかくというよりも、だらしなくほほ笑む。  視線が重なるまでは、ずっと決めあぐねていた。ファミリーレストランで挙動がおかしかった件に再び触れて、「悩みがあるなら遠慮なく相談してくれ」と言うべきか。それとも、「困ったことがあるときは相談してくれ」と言葉をかけるだけに留めておくべきか。  しかし、もはや方針は定まった。 「というわけで、お困りのときはいつでも叔父さんを利用してくれ。金欠だからお金を貸してとか、そういうのでも全然構わないから」  ほほ笑みのだらしなさに釣られたとでもいうように、テーコの口角が緩んだ。コーメイは残り一口になったおにぎりを手にとり、差し出す。 「美味しいから、テーコも食べてみろ。炭水化物を摂取するとおなかいっぱいになるから、幸せになれるぞ」  受けとり、まじまじと見つめる。テーコはそれを口には運ぶのではなく、叔父を軽く睨み、 「こんなの、いらない。食べかけだから、汚いし」 「あ、やっぱり? まあ、料理っていうのは食べたい人間が食べるものであって、無理矢理意に詰めこむものじゃないからね。三度の食事と間食をこよなく愛する叔父さんとしたことが、とんだ過ちを――」  椅子が動く音がした。テーコが椅子から腰を浮かし、叔父へと身を乗り出したのだ。さらには、手にしているおにぎりを突きつける。 「はい、あーん」  テーコらしくない行動にまごついてしまったが、一瞬でその感情を消し去り、口でおにぎりを受けとる。口腔が空になるまで見届けて、テーコはほほ笑んだ。ほほ笑む自分を恥ずかしがるようなほほ笑みかただった。  満面の笑みからは程遠い、口元がわずかに緩んだだけのささやかな変化に過ぎない。しかし、簡単には笑わない彼女が笑った、その意味は決して小さくない。  問題や悩みを抱えているのだとしても、笑えるならきっと大丈夫だ。  コーメイは鼻歌でも歌いたい気分で、うどんの残りを食べはじめた。
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