説得屋

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「鍋がいい」  コーメイの向かいのソファで思案していたテーコが、おもむろに意見を表明した。山野リコの一件が片づいたのを祝しての食事はなににするか、意見を出し合っている最中のことだ。  外食をすると思いこんでいたコーメイは、虚を衝かれた思いがした。そのすぐあとで、目から鱗が落ちた。自分たちで作る。なるほど、その手もあったか。 「鍋か。簡単に作れるし、後片づけも楽だし、いいかもしれない。季節的には外れてるけど」 「鍋がいい」 「はいはい、分かりました。鍋が食べられない人ってまずいないし、詩音ちゃんも異論はないよね。なに鍋にしようか。キムチ? やっぱりキムチかな?」 「なんでキムチ鍋推しなの」 「だって美味しいでしょ」 「辛いのが平気か分からないから、一応訊いたほうがいいと思う。今晩参加できるかの確認も」 「あっ、そうっすね。気が回るね、テーコちゃんは。それじゃあ、電話してみましょうかね」  詩音は昼前から外出していた。行き先も目的も聞いていない。夜までに帰ってこないのだとすれば、そのときは二人で鍋をつつくことになるだろう。詩音は大事な仲間だが、鍋の魅力には抗いがたい。 「あっ、コーメイさん。こんばんはー」  ワンコールで電話が繋がり、元気いっぱいな声が聞こえてきた。 「あれっ? 今ごろって、こんばんはでいいんだっけ。それともこんにちは?」 「それは難しい問題だね、詩音ちゃん」  まず壁にかかったアナログ時計を、次いで窓外を窺う。あと数分で午後五時という時間で、外はまだ明るい。 「攻略法としてはね、迷ったときは相手に先に言わせればいいよ。で、こんにちはって言ってきたらこんにちはって返せばいいし、こんばんはだったらこんばんはでいい」 「ああ、なるほど!」  心の底から感心したような声を詩音は発した。顔がぱっと明るくなったのが目に見えるようだ。 「挨拶の使い分けって、ようするに、双方の単語のチョイスが合うか合わないかの問題ですもんね。相手がこんにちはって言ったのにこんばんはって返すのがいけないのであって。それを避けるには真似っこ戦術が最善策、か。なるほど、なるほど」  出し抜けに袖を引かれたと思ったら、いつの間にかテーコが傍まで来ている。おもむろにコーメイの耳に唇を近づけ、 「日没を基準に使い分けるんだと思う。ようするに、日が沈む前はこんにちはで、沈んでからはこんばんは」 「ああ、なるほど」 「えっ、おうむ返し?」 「いや、こっちの話。あのね、詩音ちゃん。それ以外だとね、日の入り前と日の入り後で使い分ける、なんて方法もあるよ」 「あっ、なるほど! それだと相手の出方に左右されずに済みますね。さすがはコーメイさん! 尊敬の念を深めちゃいました!」 「ははは、まあね」  テーコを横目で窺うと、駄目な大人を見る目でコーメイを見ていた。同時に、さっさと本題に入れと言っているようでもある。拳を口元に宛がって空咳をし、 「俺の仕事は一段落したし、金も入ったしってことで、三人で食事しない? いっしょに鍋でもどうかなって思っているんだけど。俺とテーコは今晩だと都合がいいんだけど、詩音ちゃんの予定は?」 「もちろん大丈夫です! 現在進行形でニートなんで、スケジュール空きまくりなんですよ」 「それはそれは、喜ぶべきか悲しむべきか微妙だね」 「喜ぶべきに決まってるじゃないですかー。えっと、事務所に行けばいいんですか」 「食べる場所はそうだけど、まだ食材を買ってないから、店で合流したほうがいいかな。詩音ちゃんもいっしょに買い物しよう」 「買い出し、ですか」  声のトーンが少し落ちた。 「買い出しにはちょっと、参加は難しいかな。ほんと申しわけないですけど」 「スケジュールは空いているのに、買い出しは無理なんだ。遠いところまで行ってるんだね」 「遠いわけではないんですけど、ちょっと用事があるので」  どこへ出かけていて、用事とはなんなのか。友人の仕事の手伝いだとしたら、ちゃんと報酬は得られそうなのか。そこのところを確認しておきたい気持ちがなくもなかったが、 「分かった。夕食、だいたい六時半ぐらいからの予定だから、それに合わせて事務所まで来てよ。なに鍋がいい?」 「第一希望豆乳、第二希望キムチです!」 「分かった。じゃあ、六時半に事務所まで来てね。遅いと俺が全部食べちゃうよー」 「糸こんにゃく、ふたパックもいらない」  事務所の最寄りのスーパーマーケット。コーメイが提げたプラスチック製の買い物カゴには、野菜がひととおり放りこまれていて、すでにずっしりと重たい。 「叔父さん、なんで入れたの」  二人は今、豆腐やこんにゃくなどが陳列されている棚の前で足を止め、商品を吟味している。 「ごめん。糸こんにゃく、好きでも嫌いでもないけど、ノリで入れちゃった。堪忍して」 「堪忍する」 「豆腐を選んどこう、豆腐を。テーコは絹ごし派だっけ? それとも木綿?」 「木綿。崩れるし、絹ごし」 「あ、豆苗を買ってないな」 「もやしがあれば平気」 「でもさ、緑がないと寂しくない?」 「寂しくても平気。叔父さん、行こう」  鍋とは無関係の菓子や、テーコが綾香から購入を依頼されたらしい台所用洗剤なども、次から次へとカゴに放りこむ。コーメイの右手にかかる負荷は順調に増していく。 「ま、こんなもんすかね」  満杯になった商品の山頂に鍋スープを置き、カゴをいったん床に下ろす。 「買い忘れたもの、ないよね。姉ちゃんから頼まれた洗剤は買ったし、歯磨き粉も買った。豆苗は買ってないけど、それはまあ――」 「あ」  テーコが遠くを指差した。なにか買い忘れたものがあるのかと思って振り向くと、雑誌コーナーで見覚えのある人物が立ち読みをしている。 「詩音ちゃん! おーい、こっち、こっち!」  大声を飛ばすと、背後から肩を叩かれたかのように素早く振り向いた。コーメイとテーコの存在を認識した瞬間、ばつが悪そうな顔をしたが、それも一瞬のこと。すぐに人懐っこい笑みを浮かべ、本を棚に戻して二人のもとへと駆け寄ってくる。 「コーメイさんにテーコちゃん! 奇遇ですね!」  詩音は上下ともに真っ赤なジャージを着用している。外出するさいのお馴染みの服装だ。理由について、着ていく服をいちいち選ぶのが面倒くさいと、年ごろの女子らしからぬ発言を過去にしていた。 「奇遇もなにも、どうしたの詩音ちゃん。買い物には付き合えないって言ってたのに」 「ごめんなさい。荷物持ちとかが面倒くさそうだったので、美味しいところだけいただいちゃおうと思って、嘘つきました」  悪びれる様子もなく、ぺろりと舌を出す。コーメイの口元は自然に綻んでいた。詩音のそういうところは、はっきり言って嫌いではない。むしろ大好きだ。 「ところで、詩音ちゃんはどうしてここに?」 「暇つぶしです。ガイドブックを読んでました。京都のガイドブック」 「いいよね、京都。行きたいんだ?」 「はい! 無性に旅行に行きたくなるときって、ありません? 今その波が私の中で来ていて、だからと言ってどこでもいいわけじゃなくて、行き先は絶対に京都なんですよ。伏見稲荷大社とか、よくないですか。鳥居がいっぱいある神社なんですけど」 「京都で思い出したけど、そういえば、テーコは修学旅行は京都だったよね」 「うん。京都と、奈良と、大阪」 「奈良! 奈良もいいですよね。奈良公園の鹿、すごくかわいいし。私は修学旅行じゃなくてプライベート旅行だったけど。鹿せんべいをあげたらわらわら寄ってきて、凶暴ではないけど強引っていうか」 「怖かった」 「えっ、そう? かわいいよ、鹿さん」  詩音は奈良公園の魅力について熱弁を振るいはじめた。コーメイは二十年前の自身の記憶を思い返しながら、ほほ笑ましい気持ちでそれを聞く。テーコは我慢強く話に耳を傾けていたが、やがて愛想を尽かしたらしく、 「叔父さん、詩音、会計は? 鍋、早く食べたい」 「あっ、そうっすね。詩音ちゃん、なにか欲しいものはない? 少しくらいなら俺が出すから、いっしょに買っておこう」 「いいんですか? やった! あ、でも、カゴ満杯なんで、新しいカゴを持ってきますね」 「いっぱい買うんだ」 「はい! それじゃあテーコちゃん、いっしょに回ろっか」 「わたしは関係ない」 「だって、一人よりも二人のほうが楽しいし。というわけでコーメイさん、お会計だけお願いしますね!」  テーコにべたべたとまとわりつく、無邪気で人懐っこい詩音。馴れ馴れしいスキンシップに眉をひそめながらも、詩音の存在を受け入れているテーコ。二人の関係はまるで姉妹のようで、見ているだけで心が温まる。コーメイは砂場で遊ぶ我が子を見守るような心境で、通路を遠ざかっていく二人を見送った。  鍋の誘いに飛びついてきたくらいだから、詩音の経済状態はよくないのだろう。  でも、屈託なく笑えるのだから、今はそれでいい。  無責任を承知の上で、そう思った。
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