説得屋

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 混雑した駅前大通りを、コーメイとテーコは肩を並べて歩く。駅ビルで物産展が催されている影響らしく、普段よりも人通りが多い。  四つの瞳は、五月晴れの空には一瞥もくれない。現在地を覆う陽性の賑やかさの対極、気が滅入りそうなまでに鬱々としたオーラを発散する、少年の猫背を常に視界の中央に置いている。依頼者である山野ルルカの息子であり、飛び降り自殺した山野リコの兄である、山野レイだ。  ターゲットとの距離は、あとをつけはじめてから一貫して、十五メートルから二十メートルの間隔に保っている。大通りに入り、行き交う人々の数が増えてからは、アベレージ十五メートル程度に縮めるという微調整も行った。  コーメイは説得屋であって探偵ではない。だから、現在の距離が最適かは知る由もないし、最適解を模索しようとも思わない。尾行がばれていないのだから、これでいい。なにか不都合な事態が起きるまで、これでいこう。そんな考えのもと、つかず離れずあとを追っている。  山野ルルカはコーメイが探偵ではないのを承知の上で、息子のレイの尾行を依頼した。外出時の動向を追い、その結果を報告し、尾行中に行動に踏み切ろうとするようであれば全身全霊をかけて阻止してほしい。それが依頼人の要望だ。山野リコのときも、依頼内容はまったく同じだった。 『私のほうから山野さんのご自宅を訪問し、山野レイくんと話し合うことも可能ですが、いかがいたしましょう?』  電話で話をしたさいにそう伝えると、山野ルルカは間髪を入れずにといってもいい素早さでこう答えた。 『いいえ、息子を尾行してください。お願いします』  驚くべきことに、一度尾行に失敗し、娘の自殺を許した人間に、再び尾行を依頼したのだ。  山野ルルカはなにかがおかしい。  娘が自殺しても取り乱さなかった。一日経って送られてきたメールでは、娘の死を悲しみ、嘆き、自らの責任を痛感していたが、文章がどこか嘘くさかった。  しかし、どこがどういうふうにおかしいのかは、言葉にはできない。把握してもいないのに、おかしいですよ、と本人に面と向かって指摘するわけにはいかない。本人に問い質すのも右に同じだ。  だから、コーメイは今、山野レイの背中を目と足で追いかけている。 「おっ」  コーメイが発した声に反応し、テーコが振り向く。コーメイはまず前方左斜め方向の一点、次いで右斜めの方向の一点を注視した。歩道の両サイドに、レモンイエローのパーカーを着た若い女性が佇み、道行く人々にポケットティッシュを配布している。 「ティッシュ配りだ。ラッキー」 「喜ぶほどのイベント?」 「陰気な少年を尾行するよりはね」 「どっちもどっち」 「んなことないって」  そうこう言っているあいだに、ティッシュ配りのお姉さんたちとの距離が縮まってきた。目の前を通過する全ての人間に渡してやろうという意気で、ポケットサイズのティッシュを通行人に押しつけている。  山野レイは歩道のほぼ真ん中を歩いていたため、お姉さんたちに近寄ってこられることすらなく、関所を通過した。  コーメイは左側のお姉さんに狙いを定めた。距離は早くも三メートルを切っている。受けとる態勢に入ろうとして、気がついた。両手をポケットに突っこんだままだ。  コーメイは軽いパニックに陥った。急いで手を出そうとしたが、太ももの肉に圧迫されて上手く抜けない。慌てふためいているうちに、お姉さんとの距離は一メートルを切った。  右手がやっと外に出たときには、お姉さんは目前まで迫っていた。ポケットティッシュが差し出される。咄嗟に右手を伸ばしたが、ティッシュまでの距離の遠さが災いした。右手が自らの体の左側に移動を完了したときには、お姉さんはコーメイの三十センチ後方にいた。 「うああ……!」  コーメイは左手をポケットに入れたまま、羞恥の念に呻いた。テーコが振り向いた。 「なんてこった。受けとりに失敗しちゃったよ、ポケットティッシュ。まさかこんなことが……」 「変な声出すの、やめて」  コーメイとテーコはほぼ同時に立ち止まる。二人のすぐ後方を歩いていた人々は、突如として進路に出現した壁に一瞬足を止め、左右に分かれて先へと進んでいく。 「いやいや、変な声も出ますよテーコちゃん。だってさ、ティッシュを受けとり損ねたんだぜ? こんなことって有り得る? 俺、今年で三十五だよ」 「米粒を箸でつまむよりも簡単なのに」 「テーコは手先が器用だからねぇ」 「器用っていうか――あっ」  進行方向に顔を戻したとたん、テーコは声を漏らした。 「どうした。青い鳥でも見つけたかい」 「山野レイ、いなくなった」  コーメイは前方を広く見渡す。負のオーラをまとった猫背の少年の姿は、どこにも見当たらない。 「あー……。痛恨のミスだな、これは」  やっとのことでポケットから引っ張り出した左手でこめかみをかく。ついでに尻もかく。 「叔父さんのせい」 「ごめん。三十四歳なのにしょうもないミスして」 「反省してない」 「物産展のせいで人が多いからなぁ。北海道だか沖縄だか知らないけど。ここまでついてこられただけでも、すごいよ。うん、すごいすごい」 「ポジティブだね」 「それだけが取り柄だからね」 「捜さないの」 「面倒くさいから、捜したけど見つからなかったことにしようぜ。テーコが望むなら続行してもいいけど、どうする?」  テーコはため息をついた。叔父を軽蔑する以外の意味もこめられたため息らしい。 「元気に外を歩いているくらいだから、今日は自殺しないでしょ。多分だけど。せっかく駅前まで来たんだから、遊ぼうぜ。メイドカフェとかで」 「本屋さんで本買って」 「いいよ。順番としては、まずメイドカフェ、それから本屋、ということでどうでしょうか。巨乳のメイドさんがいるぞ」 「わたしにメリットない」 「楽しいぞー。勉強にもなる。声は低いよりも高いほうが好感をもたれやすい、とか」  テーコは黙っている。今度はコーメイがため息をつく。 「しゃーない、かわいい姪の頼みだ。行くか、メイドカフェ」 「命は有限だよ、叔父さん」  コーメイの袖を掴み、駅ビルがある方角に向かって歩き出す。駅ビルには本屋があるが、メイドカフェはない。  物産展は京都だった。  テーコが本を選んでいる時間を利用して、コーメイは足を運んでみた。詩音のために生やつはしを買って帰ろうかとも思ったが、やめておく。見て回るうちに、ここで買うのは違うな、という気がしたからだ。お土産は現地に行って買ってくるからこそ価値がある、という彼女の意見は正鵠を射ていたわけだ。  本屋に戻ってくると、レジにテーコの姿を発見した。文庫本一冊サイズに膨れた袋を小脇に抱えている。たった今、おつりを受けとった。体が百八十度回り、叔父の存在に気がついた。  互いに歩み寄って合流を果たす。テーコはもともと感情表現が豊かではないので、あからさまに表われているわけではないが、上機嫌だと一目で分かった。 「叔父さん、おつり」  右手を差し出して指を開き、掌には何枚かの硬貨がのっているのを見せてから、再び握りしめて差し出す。コーメイは頭を振った。 「おつりはいいよ。テーコにあげる。ありがたく受けとっておいて」 「五百円近くあるけど、いいの」 「金銭的に余裕があるときの叔父さんは、寛容の塊だからね。どこを切りとっても寛容が出てくる、金太郎飴の球体バージョンだから」 「丸いの」 「棘はないはずだよ」  店に出入りする人間の邪魔になる位置に立っていることに、遅まきながら気がついた。手振りで姪にその旨を伝え、移動を開始する。 「ところで、なにを買ったの?」 「短編集。グロテスクなシーンがたくさん出てくるやつ」 「ほう、ミステリか。面白そうだね」 「どっちかと言うと、ホラーだと思う」 「あっ、そう? グロテスク、イコール人が死ぬ、イコールそれにまつわる謎解きがメイン、みたいな逆算をしたんだけど。深読みだったか」 「うん」 「テーコって、グロいの割と好きだよね。話を聞く限りでは、なんかそういう本を好んで読んでいる印象がある」 「だめ?」 「言ったでしょ、叔父さんは寛容だって。現実は現実、フィクションはフィクションだから。叔父さんはおじさんだけど、そこのところを混同して子どもを抑えつけるような人間じゃない」 「知ってる。でも」 「どうした? トイレ?」 「なんで言語を使い分けたの。現実って言ったあとで、フィクションって」 「なんとなく。ほら、口にしたくなる響きじゃん、フィクションって」 「小学生みたい」 「残念。三十四歳のおっさんです」  テーコが山野リコの遺体の様子を知りたがった一件を、コーメイは思い返していた。肩肘を張らない調子で言及してみようかとも考えたが、やめておく。テーコがその話題に触れたのはあの日一日だけ、それもファミリーレストランでの一件が起きるまでだった。彼女にとって過去になった話を、こちらから蒸し返す必要はない。  エスカレーターで一階まで下り、駅ビルを出る。人通りの多さは相変わらずだ。コーメイは念入りに周囲を見回し、 「いないな。よかった」 「誰かに追われてるの」 「いや、山野レイ。もし姿を見つけたら、尾行を再開しなきゃいけない空気になるじゃん? だから、いなくてよかったなって」 「怠惰」 「強い大人ばかりじゃないんだよ、テーコちゃん」  二人は来た道を引き返す。小銭がちゃらつく音が聞こえたと思ったら、テーコはまだつり銭を手にしていた。財布に仕舞うタイミングを逸したらしい。 「つり銭の有効活用ってことで、なにか食べて帰りますか」 「そんなにおなか空いてないけど、元は叔父さんのお金だから」 「おお、寛容。さすがは俺の姪」 「馬鹿にされてる気がする」 「そんなことはないさ。で、なににする? 大判焼き? ドーナツ? それともアイスクリーム? 美味いものを食べるためなら、俺は予算の追加も厭わない男だよ」 「なんで甘いものばかりなの」 「甘いものが食べたい気分だからさ」  意見を出し合いながらしばらく進むと、行きにティッシュ配りのお姉さんがいた場所に、募金箱を手にした若者たちがいた。震災の義援金を募っているらしい。募金を呼びかけるその声は大きく、よく通り、若々しい。  何気なく隣を向くと、テーコは掌の上の小銭を見下ろしていた。その横顔からは表情が消えている。顔を上げて募金を呼びかける者たちを見やり、再び一円硬貨や十円硬貨に目を落とす。  通行人は時折若者たちの前で足を止めては、募金箱に硬貨を投入している。可哀想だから恵んでやる、といった横柄なオーラを醸している者は一人もいない。硬貨が箱の中に落下するたびに、若者たちははきはきとした声で謝辞を述べる。透明な立方体の中には、数こそ少ないが紙幣も入っている。 「テーコ」  声をかけると、かけられたほうは驚いたように足を止めた。一円硬貨二枚が掌からこぼれ、足元に転がる。コーメイは二枚を素早く拾い、自分が拾ってもらった側であるかのような笑顔で持ち主の掌上に戻す。 「募金なんてものはね、したい人間がすればいい話であって、したくないなら一円もしなくていいんだぞ。困っている人がいたとしても、絶対に助けなきゃいけないなんて道理はない。困っている人がいれば、救いの手を差し伸べる人が必ず現れるんだから、無理に手を差し伸べる人にならなくてもいいんだよ。人を助けるのは、向こうから助けてくださいってすがりついてきたときに、こっちに助ける余裕がある場合だけで充分だ。あとは、助けたら自分に利益が発生するとかね」  テーコは叔父の顔を食い入るように見つめている。 「俺だって山野さんの依頼を受けたのは、困っている人を助けたかったからじゃなくて、金が手に入るからだからね。そういうことを堂々と言うと、世間からは眉をひそめられるかもしれないけど、悪いことでも恥ずべきことでもないと思うよ。ていうか、それが普通だ。自己弁護とか、正当化とか、開き直りとか、そういうことじゃなくてね」  コーメイはおどけた表情で肩をすくめた。テーコの眉間に不満の色が浮かび上がる。 「最初から募金をするつもりなんてなかったんだけど。勝手に迷ってることにしないで」 「うん、知ってた。歳をとるとね、折に触れて訓話めいたものを披露したくなるものなんだよ。若いテーコには理解できないかもしれないけど」 「年寄りくさい」 「でも、リアルに加齢臭はしてないよね?」  首肯。 「安心したよ。じゃあ、これからどうする? 従順な騎士のごとくテーコに従うよ」 「なにか買って事務所で食べよう。アイスは溶けるから、大判焼きとドーナツの二択」 「おっ、いいね」 「歩くの嫌だから、バスに乗りたい」 「いいよ、いいよ。バス代も喜んで出すよ」 「匂い、大丈夫かな」 「お裾分けしてやろうぜ」  テーコの表情が目に見えて柔らかくなった。小銭が財布に仕舞われる。二人は目配せをし、街頭募金の若者たちの前を通りすぎた。 「困っている人がいたら、必ず助けてくれる人が現れるって、叔父さんは言ったよね」  三分の一ほど減らした大判焼きを見つめながら、テーコがおもむろに呟いた。  残り三分の一ほどになった大判焼きを手にしたコーメイは、首の動きで姪の指摘を肯定する。口の中が大判焼きで満杯だったのだ。  事務所の掛け時計は午後五時を回っている。土産として買った詩音と泰助のぶんは、「出しておいたら叔父さんが勝手に食べるから」と、テーコの手でキッチンに移動させられていた。 「似たようなことを言った人がいたなと思って、そのときは思い出せなかったんだけど、やっと思い出した。坂口安吾だ。叔父さんは坂口安吾、知ってる?」  今度は横に振る。 「タイトルは忘れたけど、坂口安吾の小説にそういう一文が出てきた。日本の、太平洋戦争の最中の話。若い女の人が主人公なんだけど、その人が、困ったときは自然になんとかなる、みたいな独白をしてた。そういう根拠のない自信って、他人から見ると滑稽なんだろうけど、その一文に遭遇したとき、笑ったらだめだってわたしは思った。強い人だなって。戦争にまつわる話だから、もしかしたら、作者的には別のことを伝えたかったのかもしれないけど」 「どう解釈するかは人それぞれでオッケーでしょ」  口内を空にし、グラスの緑茶を一口飲んでから、コーメイは言葉を返した。 「こう読んでください、こう読むのが正しいだなんて冒頭に注意書きされていたら、そんなものは小説じゃないからね。小説をまともに読んだことがない俺が言うのもなんだけど。ようするに、あれだ。ガラス瓶の中にキャンディが半分くらい入っているのを見て、『半分しかない』と思う人もいれば、『半分も入っている』と思う人もいる。どちらの見方が正しいとかじゃなくて、正解はその人の中にあって、だからつまり、その、キャンディが、瓶の……」 「意味不明」 「ごめん。かっこよくて深い感じのことを言おうとしたら、わけ分かんなくなった」 「かっこつけたがりだね、叔父さん」 「まあね。瓶の中のキャンディ云々は滑ったけど、有名な作家が書いたのとだいたい同じ意味のことを言ったわけだから、名言と見なしてもいいよね。困っている人がいたら、必ずそれを助ける人が現れる、か。うーん、いい言葉だ」 「自画自賛」 「俺の名言、著作権フリーだから、テーコが書いている小説に取り入れてくれてもいいよ。俺が許可する」 「考えておく」 「それは光栄だ」  談笑は尽きないが、心に影を落とすたった一つのことのせいで、コーメイは快い時間を心から楽しめずにいた。  テーコは最初、おやつにドーナツを選ぼうとした。「カロリーが高くて、とびきり甘いものを食べたい気分だから」と言って。実際に、二人は店の前まで行った。  しかし、自動ドアを潜る寸前に「やっぱりやめる」と言って、今度は大判焼きの店へ向かった。コーメイはドーナツに固執する理由を持たなかったし、姪の意見を尊重するつもりだったので、理由は尋ねずに方針転換に従った。  今になって振り返れば、思い当たる節がある。  ドーナツ店の店内に、テーコが通う中学校の制服を着た男女が何人もいたのが、ガラス越しに見えた。
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