説得屋

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 コーメイは本日の山野レイの尾行を終え、事務所に帰宅した。  山野レイは今日も自殺を決行しなかった。  一つの若い命が失われなかったのは、率直に喜ばしいことだ。行動パターンをおおむね把握できた、という収穫もあった。  それにもかかわらず、心は薄曇りに覆われている。テーコが行動をともにしてくれなかったし、事務所に遊びに来てもくれないからだ。 「日曜日に買ったホラー小説を読むのに夢中、なんだろうな」  自らに言い聞かせるように、あえて声に出してつぶやいてみる。裏腹に頭の中では、最悪の可能性を想像している。最善と最悪、どちらに近い状態にテーコは置かれているのだろう? 前者であることを願わずにはいられない。  山野ルルカへのメール報告は、いつものように手早く済ませた。小腹を満たすために手にとった焼きそばパンは、賞味期限が一日過ぎている。非常食として買った缶詰さえ一週間後に食べてしまうコーメイにしては、珍しい。 「まあいっか」  つぶやいて、一口目を大きくかじる。炭水化物に炭水化物だな、と思う。テーコから毎回のように指摘されるのには苦笑いしてしまうが、なにも言われないよりも言われるほうがいい、という気はする。  半分ほど食べたころ、雨音が聞こえてきた。窓外を窺うと、空は晴れているのに雨粒が落ちている。強さとしては小雨だ。  パンの全量を胃の腑に収めてしまうと、詩音のことが気になった。  鍋をいっしょに食べて以来、顔を合わせる機会が少なくなっている。山野レイを尾行するために事務所を空けることが多くなり、結果的に会えない場合が増えているだけだと理解してはいるが、心配は心配だ。  ベランダに出て、身を乗り出すようにして隣を覗いて、思わず小さく声を上げてしまった。  ただちに仕切り板を取り外し、隣のベランダまで行く。敷かれている布団の傍らに片膝をつき、目を瞑っている詩音の肩を弱く揺さぶる。 「ちょっと、どうしたの詩音ちゃん」  ううう、という不明瞭な呻き声。揺さぶるのをやめて顔をよく見ると、頬が紅潮している。表情は、誰がどう見てもしんどそうだ。 「もしかして、体調が悪い?」 「はい……」  弱々しい掠れた声が、申告が真実であることを如実に物語っている。 「どこか痛いの? 苦しくない? 吐き気はある?」 「頭と喉が痛い……。熱があって、しんどいです……」 「ということは、風邪かな。病院に行く?」  首が横に振られる。 「じゃあ、とりあえず部屋に入ろう。雨を避けないと」 「でも、部屋、汚い……」 「布団を敷けないほどじゃないよ。少し片づければ、だけど」  カーテンがかかっていない窓越しに室内を一瞥して、コーメイは付言する。少しでは足りないかもしれないが、ネガティブなことは言いたくない。 「だとしても、嫌だ。恥ずかしい……」 「気持ちはよく分かるけど、今はそんな場合じゃないよ。じゃあ、そうだな。風邪が治ったら詩音ちゃんが行きたい場所に連れていってあげるから、それで差し引きゼロってことでどうかな?」  緩んだ顔とは対照的な、真面目くさった口調で提案する。詩音は思わずといったふうに口元を綻ばせ、頷いた。コーメイは雨を防ぐように仕切り板を立てかけ、掃き出し窓を開けて中に足を踏み入れる。  室内を乱雑にさせているものの内訳は、食べ物の空き容器と使用済みのティッシュが大半を占めている。どちらも明らかに無許可で捨てても構わないものなので、分別してごみ袋に放りこみ、口を縛って部屋の隅に置く。他には雑誌、化粧品、衣類。手をつけるのには抵抗を覚える下着類も含めて、最低限片づけながらスペースを生み出していく。  軽いとはいえない上に、体に触れるのに遠慮があるため、詩音を部屋に移動させるのには苦労した。寄りかかるように掴まる姿からは、普段の元気のよさは見る影もない。看護しているコーメイまで元気がなくなりそうだ。 「薬、ないよね。買ってくるよ。ドラッグストアで売っている風邪薬でいいよね?」  なんとか移動を完了させ、枕元から顔を見下ろしながら問いかける。詩音は目の下まで被っていた掛け布団を顎まで下ろした。 「悪いですよ、そんなの。風邪なんて、ほっとけば二・三日で治るし」 「そうかもしれないけど、早めに治すに越したことはないから。他になにか買ってきてほしいものはある? 飲みたいものは? なにかおなかに入れなくて平気?」 「トンカツが食べたいです。飲み物はグレープフルーツジュースで。あとは、アロエヨーグルトと、ココア蒸しパンと、バタークッキー」 「もしかして、お昼まだなの?」 「朝も……」 「オッケー、分かった。じゃあ、なるべく――」 「待って!」  病人が発したとは思えない、大きいというよりも強い声が響いたので、コーメイは驚いて詩音の顔を見た。彼女は潤いを帯びた瞳で見つめ返し、 「寂しい。行かないで……」  心細い気持ちは理解できるし、同情もするが、外に出なければ要求されたものはなに一つ用意できない。彼女はもちろん、それを理解の上で心情を吐露したのだろう。それだけに、余計に困ってしまう。  異性から一心に見つめられる気恥ずかしさにこめかみをかきながら、どうしたものかと考える。幸いにも、すぐに一案を閃いた。 「ちょっと待って。一分以内――いや、三十秒以内に戻るから」  そう断り、自らの部屋へと引き返す。  宣言どおり時間内に戻ってきたコーメイは、サボテンの鉢を手にしている。まだ芽が出ていない、湿った黒い土がたたえられているだけのプラスチック製の鉢を。  きょとんとしている詩音の枕元に鉢を置く。コーメイはそれに顔を近づけ、 「ぼく、サボテンのテンくん」  突然の裏声に、詩音の顔は虚を衝かれた人間ならではの驚きに包まれた。コーメイはにこやかに演技を続ける。 「ぼくのご主人さまはテーコちゃんだけど、詩音ちゃんが寂しいって言ったから、詩音ちゃんのところまで来たんだ。コーメイおじさんが買い物に行っているあいだ、ぼくが詩音ちゃんの傍にいるから、絶対に寂しくないよ。詩音ちゃん、ぼくといっしょにコーメイおじさんを待ってくれる?」  詩音は目の縁に溜まっていたものを指で拭い、晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。  一軒目に寄った店にココア蒸しパンがない、というつまずきはあったが、言いつけられた全ての商品を入手できた。  買い物に出ているあいだに、詩音は上体を起こせるまでに回復していた。トンカツをたいらげ、グレープフルーツジュースを飲み干し、蒸しパンとヨーグルトとクッキーを食べる。パンの半分とクッキーの数枚は、詩音にすすめられてコーメイも食べた。間食をとったばかりなのを忘れたわけではなかったが、甘いものは別腹だ。  薬を飲み、再び布団に横になったときには、頬の赤味こそ抜けないが、顔色は悪いなりに改善しているように見えた。あとは安静にしているだけとなったところを悪いと思いながらも、コーメイは言及せずにはいられない。 「困ったことがあったら、すぐに連絡してくれていいからね。遠慮とか、そういうのは全然しなくていいから。いや、これはほんとマジで」 「でも、迷惑はかけられませんから。自殺願望を持った人を尾行しているんでしたよね。呼び出して、その隙にその人が大変なことになったらと思うと、怖かったというのもあるし」  風邪薬が早くも効いてきたのか、詩音の瞳は少しとろんとしている。とんでもない、というふうにコーメイは頭を振り、曇りのない笑みを浮かべる。 「そういうのも含めて、気にしないでよ。自殺を食い止められるならそれに越したことはないけど、しょせんは他人だからね。赤の他人が向こうの都合で勝手に死ぬよりも、近しい人が長く苦しむほうが、俺としてはよっぽどつらいよ」 「つまり、コーメイさんにとって私は、他人じゃない……」 「もちろん! 詩音ちゃんは大切な友だちで、気兼ねなく付き合えるお隣さんだよ。年上だし、詩音ちゃんがここで一人暮らしをはじめた経緯が経緯だから、保護者代わりっていう意識は多少あるけどね」 「あのときは、ありがとうございました。コーメイさんへの感謝の言葉、何千回言っても言い足りないんですけど」 「たくさん言ってもらったから、充分だよ。これ以上してもらったら、俺が詩音ちゃんになにかしてあげなくちゃいけなくなる」  詩音が説得屋の事務所のドアをノックした日のこと。彼女の両親と激論を戦わせたこと。引っ越しの準備を手伝ったこと。  詩音にまつわる過去が駆け足で脳裏を去来し、懐かしさに心が温かくなる。説得屋としての経験の浅さもあり、歴代でも指折りの難敵だったが、今となってはその感情しかない。  当時に思いを馳せているのは詩音も同じらしく、沈黙が降りた。このまま眠ってしまうかとも思ったが、 「実は、コーメイさんが来る前に、大家さんを呼んだんですよ」 「えっ、泰助くんを?」  首肯。 「それなのに、あんな場所で寝ていたってことは、来てくれなかったの?」 「はい」  詩音の顔が泣き笑いの表情に歪む。 「私、泰助さんに二回嘘をついたんです。鍋に誘うつもりで、コーメイさんの部屋のトイレが故障したという嘘。それから、私の部屋が雨漏りをしたっていう嘘」 「雨漏りの修理に来た泰助くんと偶然顔を合わせたんだけど、嘘だったんだね」 「はい」  どうして? そう眼差しで問うと、 「私はただ、泰助さんと仲よくなりたかっただけなんです。でも、泰助さんだって忙しいのに、わざわざ呼び出されたら迷惑ですよね。電話をしたら、怒るっていうよりも呆れたように言われたんです。『その用件で、辻さんの部屋にお伺いすることはできません。もっと心が広くて親切なお友だちに頼んでください』って」 「……そんなことが」 「嘘をついた報いですよね。狼少年みたいな。あ、でも、泰助さんを責めないでくださいね。悪いのは、この歳になっても平気で幼稚な真似をする、私なんですから」  言葉を切り、何回か洟をすすり上げる。双眸は、今にもこぼれ落ちそうなほど涙に濡れている。  俺に連絡を入れるのは躊躇ったのは、それが一因でもあるのだろう、とコーメイは考える。  持ち前の天真爛漫さが分かりにくくさせているが、詩音は他人の気持ちを考えて行動できる人だ。他人に迷惑をかけたくない。誰かの役に立ちたい。それらの思いは人並み以上に持っている。コーメイに助けを求めなかったのは、まさに前者の働きだ。泰助との距離を縮めようとしているのも、後者の変形のようなものだろう。 「私、本当にだめな人間だなって思います。もうすぐ二十歳になるのに、定職に就かずにふらふらしているし。コーメイさんの力のおかげで納得してもらったけど、やっぱり、親の言い分のほうが正しかったんだと思います。一人で横になっているあいだに、そのあたりのことをいろいろと考えたんですけど、自分のことが情けなくて、情けなくて、涙が出そうで……」 「らしくないね、詩音ちゃん」  声を強めて言葉を遮る。視線が自分のほうに向いたのを確認してから、爽やかに笑いかける。落涙までのカウントダウンが一時停止した。  悲しいときは、涙を我慢するよりも思い切り泣いたほうが、悲しい気持ちが早く去ってくれる。それと同じように、詩音は自らの欠点を羅列することで、暗い想念に囚われた状態から逃れようとしているのだろう。それを否定してしまえば、気持ちを立て直すのを邪魔することになる。  分かってはいたが、割りこまずにはいられなかった。これ以上詩音の悲しそうな顔は見たくないし、それに、立ち直るための方法は一つとは限らない。 「その程度で駄目人間だなんて、とんでもない! 俺なんて、三十過ぎまでずっとニートだったからね。しかも、詩音ちゃんみたいに友だちの手伝いに行くとか、誰かの役に立つようなことはまったくしていないし。テーコみたいに小説を書いたり読んだりしていたわけではないし、泰助くんみたいに嫌々ながらも大家の仕事をした経験もない。マジでなにもしてなかったからね、あのころの俺は。姉ちゃんから駄目人間って散々言われて、当時は反発したけど、そう言われても仕方ないなって今では思うよ。俺のことを駄目人間だと思わないほうが駄目人間だよ、みたいな」  詩音はしきりにまばたきをしながら話に耳を傾けている。 「今のところは、今の詩音ちゃんのままでいいと俺は思うけどね。家計は苦しくても、他の人の助けを借りながらなんとか生活していけているんだから。大学に通うとか、就職するとかが普通なのだとすれば、それからは外れているってことになるのかもしれないけど、楽しいならそれでいいんじゃない? ポジティブに考えていこうよ、ポジティブに。十年後くらいには絶対、今よりも大人になっているし、今よりも楽しい人生を送っているよ。俺という先例があるんだから、間違いない。詩音ちゃんの未来は輝かしいよ、うん」  言葉を重ねれば重ねるほど、詩音の表情は明るさを回復していった。それが頂点に達したのを見計らってしゃべるのをやめ、改めて顔を見つめる。気分はどうだい? とでも言うように。  詩音は白い歯をこぼした。目頭を小指の先で拭ったが、そこにはなにも付着していない。 「そう、ですね。未来のことは誰にも分からないけど、だからこそ、前向きにならなくちゃいけませんよね。気持ちが前を向いていないのに、前に進めるはずがない」 「そうそう。詩音ちゃんは体調が悪くなったせいで、弱気になっているだけだよ。あれこれ考えずにじっくり体を休めれば、きっとまた元気になれる。元気になった暁には、柄にもなく弱気だった今日の自分を振り返って、笑い飛ばせばいい」 「ありがとうございます。コーメイさんのおかげで、心のほうはすっかり元気になりました。さすがは説得屋さんですね」 「説得と言えるのかは分からないけど……。じゃあ、ネガティブ思考に囚われた詩音ちゃんを、ポジティブな元の詩音ちゃんに戻るように説得して、成功したということにしておこうか」 「報酬を支払わないといけないですね」 「二・三日後に元気な顔を見せてくれたら、それで俺は満足だよ。それじゃあ、おやすみなさい」  サボテンの鉢を抱え、速やかに部屋を辞した。  コーメイは基本的には、なんらかの見返りが期待できない限り、説得の仕事は引き受けない。  詩音の元気な笑顔が見られる日が、今から待ち遠しかった。  再び同じスーパーマーケットまで行き、詩音の今日の夕食と明日の朝食を購入する。それを渡すさいに少し話をしてから、事務所を仕舞い、自宅があるほうのアパートに帰る。  その道中でスマホを確認すると、テーコからの着信が四件あった。二分置きにかかってきている。時刻は午後五時前。詩音にかかりきりになっていた最中だ。 「やっべ。怒らせちゃったかな」  頭をかき、すぐさま電話をかける。コール音は聞こえてくるのだが、繋がらない。やはり、怒っているのだろうか。  どうしたものかと考えているうちに、第二の可能性に思い当たり、思わず足が止まる。  なにかトラブルに巻きこまれて、助けを求めてきたのでは?  まさか、とは思う。性格的には慎重で、危険には積極的に近づこうとはしないタイプだ。しかし、工事現場から落下した資材、暴走するトラック、人生に絶望して刃物を振り回す男――危険のほうからテーコのもとを訪れないとも限らない。確率としては低いかもしれないが、決してゼロではない。  今からでもメッセージを送るべきだろうか。それとも、家に電話してみようか。  逡巡していると、一件のメッセージが届いた。テーコからだ。大急ぎで内容を確認する。 『水曜日、お母さんが「うちに夕食を食べに来い」って。あと、電話にはちゃんと出て。でも今はおうちで読書中だから、今日はもうかけてこなくていいから』 「……マジすか」
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