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テーコの自宅を訪れるとき、コーメイはため息をこぼす回数が激増する。
自分と歳が五つも離れていない男がマイホームを持っているなんて、信じられない。毎回そう思う。
くり返し思っているうちに、健也はもうじき四十歳になるのだから、世間一般の基準と照らし合わせても早すぎるわけではないと気がつき、いっそう深く息を吐き出すのも恒例だった。
まったく、俺はなんで説得屋なんてやっているんだ? 三十四にもなって、妻もなく、子どももなく。健也さんは中学生の娘がいるっていうのに。
しかし、二階建ての洋風建築、広くはないながらも庭つきの一戸建ての門前に立ったときには、俺は俺、他人は他人と、気持ちの切り替えに成功している。健也が不在の折に呼ばれることが多く、劣等感の対象と相対しなくて済むから、割り切るのはそう難しい作業ではない。
インターフォンを鳴らす。しばらく待つと内鍵が開く音がして、ドアが開いた。
「こんばんは」
応対に出たのは、テーコ。思春期の少女にしてはいささか地味な服装に身を包んでいて、袖まくりをしている。
「ごはん食べに来たよー。作ってる真っ最中?」
「うん、嫌々手伝ってる。今日はギョウザ」
「おおっ、いいねぇ。それは楽しみだ」
その一言に、テーコの眉間は不可解に狭まった。さらになにか言いかけたが、唇を結んでそれをやめ、「入れば」と告げてドアから離れる。コーメイは中に入ってスリッパに履き替え、姪のあとに続く。
突き当たりのドアを潜った先、リビングとダイニングとキッチンがひと続きになった空間の最奥で、長髪をポニーテールにまとめた長身の女性が調理に励んでいる。コーメイの姉で、テーコの母親の綾香だ。人が入ってきた気配に振り向いたが、すぐに手元に視線を戻し、
「広明、太った?」
「今日はもっと太りに来たよ。ギョウザ?」
「そう。パリパリの羽根つきギョウザ」
「水ギョウザがよかった」
テーコはぽつりと言って、キッチンへ歩を進める。きちんと手を洗い、母親の隣に立って作業にとりかかる。
「メインらしい貫録が出ないじゃない、焼かないと」
綾香は視線の方向はそのままに、さばさばと反論を述べる。
「でも、水ギョウザのほうが食べたかった」
「今度はそっちにするから、黙って手を動かして。太ったおじさんが文句言い出すよ、食事が遅いって」
「そこまで食い意地張ってないよ。食事ができるまで、俺はなにをすればいいの? 床に正座して読経?」
「できるものならしてみなさいよ。一文字も暗唱できないでしょ」
「うん。俺の手には余る」
「じゃあ、なんでそんなこと言ったの」
「いや、なにか面白いことを言おうと思って」
「砂粒ほども面白くないから、大人しく席に着いてて。マネキンかなにかみたいに」
「水ギョウザにすればよかったのに。強情なお母さんだよね、テーコちゃん」
「い・い・か・ら、座って」
「……はーい」
健也の席の隣の椅子に腰を下ろす。リビングにはローテーブルとソファが置かれていて、俺の持ち物でこの家の持ち物に勝っているのはソファセットだけだな、と毎回のように思う。
ソファには、巨大なクマのぬいぐるみが両足を投げ出して座っている。栗毛で、瞳は円らで、首には真っ赤なリボンが巻いてある。『吾輩は猫である』の猫のように名前はない、とテーコは過去に説明していた。テーコがねだったのではなく、安売りされているのを綾香が見つけて、「ダイニングテーブルの空席に座らせるとちょうどいいと思って」購入したらしい。しかし、食事の席に着かせると汚れるからということで、そちらが定位置になったのだそうだ。
過去にぬいぐるみの定位置だった席に、今はコーメイが座っている。そして、隣席に健也は不在だ。
「健也さん、今日は出張だっけ」
姉に向かって尋ねると、弟を振り返ることなく、
「そうだけど、どうしたの?」
「サラリーマンは大変だな、と思って」
「そういう広明はどうなの、仕事のほうは」
「まあまあっすよ。春先は懐がさびしかったけど、ついこの前報酬が振りこまれたから、なんとか」
「やばいことに巻きこまれてない?」
「なんでその質問を?」
「胡散くさい商売をやってるからよ」
「それはまあ、否定はしないけど、やばい人はうちには来ないよ。なんていうか、アトピーがなかなか治らない人が、得体の知れない漢方薬を買い求めに来る感じ? 神頼み的な」
「……なにをやってるんだか」
「いや、たとえだからね、たとえ。別に変なもの売りつけたりはしてないよ。売るようなものなんて一つもないし」
「胡散くさいサービスを売りつけているじゃない」
「まあ、そうだけど」
「あ」
テーコの声に、綾香が娘の手元に注目する。
「まあいいんじゃない、それくらい。広明に与えておけば」
軽い調理ミスがあったのだな、とコーメイは察した。綾香は娘の顔を見ながら言葉をかけたのだが、返事はない。
綾香が作業を再開した直後、コーメイは驚くべき光景を目撃する。
テーコが母親を思いきり睨んだのだ。
「あとはお母さんだけで大丈夫。テーコは広明の話し相手になってあげて」
娘からの視線に気づいた様子もなく、綾香は言う。またしても返事はない。ハンドソープで神経質なまでにていねいに手を洗い、コーメイの真向かいの席に椅子を引いて座る。頬杖をつき、叔父には目を合わせようとしない。
テーコが不機嫌なのは疑いようがない。たまたま虫の居所が悪いだけなのか、積もりに積もったものが器から溢れたのが今日ということなのか。表情が読めないと、こういうときに不便だ。尋ねても素直に答える性格ではないし、母親の前だと言いにくくもあるだろう。
「ギョウザ、焼き上がるまでどのくらいだっけ。空腹すぎて、テーブルに突っ伏したまま息絶えたりして」
よって、いつもの調子で会話することをコーメイは選ぶ。
「意外と早いよ。何分かは知らないけど」
テーコはコーメイがしゃべっているときだけ発言者を見て、自身が発言するときはそっぽを向く。上機嫌ではないのはたしかだが、どん底ではないらしい。
「テーコ、この前買ってあげた小説の話をしてよ。もう読み終わったんでしょ」
「いいけど」
テーコは話しはじめた。
テーコは趣味に関する話題を語るとき、声量やテンポは据え置きながらも、切れ目なく言葉を連ねる。今回もその例に漏れなかったが、どこか熱量が不足している。小説は面白かったし、語っている感想は嘘ではないが、この場でしゃべる意義は見出せていない。母親から命令され、叔父から要請されたから、多数決に従う形で仕方なしに話をしている、といったような。
わずかながらも不穏さを孕んだ空気が漂っていただけに、料理の完成が早かったのは幸いだった。
綾香とテーコの手によって、次から次へとテーブルに運ばれてくる。主菜のギョウザに、副菜の卵焼き、青菜の和え物、味噌汁、たくあん。ごはんは白く、緑茶は温かい。豆腐、わかめ、ジャガイモ、タマネギと、姉が作る味噌汁らしく具だくさんだ。
「ギョウザ、どう? 手作りしたのは久しぶりだけど」
あんたはどうせなに食べても美味しく感じるんでしょ、というふうに、綾香が感想を求める。
「美味いっす。テーコも手伝ったんだよね」
「この子は肉だねを皮に包んだだけ。だいたいあたしがやったから」
「母さんって、ギョウザといえば市販の冷凍のやつを焼くだけだったじゃん? だから手作りっていうだけで、なんかもう尊いよね。うん、尊い」
綾香も同感だったらしく、味噌汁のじゃがいもを咀嚼しながらくり返し頷く。
「でもさ、ギョウザって作るの面倒くさくない?」
「慣れればそうでもないし、今日は禎子に手伝ってもらったから。無理矢理だけど」
「姉ちゃん、そういうのよくないよ。料理は最初から最後まで楽しくないと」
「なに一つやらないし、できないくせに、よく言うわ。というか、この子が急にへそを曲げただけだから。レシピ本を熱心に読み返したりして、やる気充分だったのに」
綾香を睨んだ場面が甦った。テーコの顔を窺う。和え物の青菜を黙々と食べていて、母親や叔父には見向きもしない。
「まあでも、こうして美味しいギョウザを食べることができているんだから、それでいいんじゃないの。それにしても、姉ちゃんはほんと料理が上手くなったよね。新婚当初に家に呼ばれたときなんて――」
咄嗟の判断で話頭を転じる。言葉のキャッチボールが切れ目なく続くようになったという意味では、よかった。ただ、きょうだい間の思い出を語り合う形になったため、テーコは会話からますます遠ざかった。
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