ある夜のこと

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ある夜のこと

 夜遅く、俺は仕事から帰ってきた。  帰宅途中、コンビニによって買ってきた弁当をまずかっくらう。ハンガーに背広を適当に掛け、そのまま風呂場に直行。湯を沸かす時間ももったいないため、シャワーで体を洗うだけで済ませた。  そのままリビングに戻ろうとした時、ふと、洗面台の鏡を見る。  そこにいたのは、見るからに覇気の無いアラサー男だ。  元々太り気味だった自分だが、この所は()せてきて――いや、()けてきたと言った方が正しいかもしれない――いる気がする。それだけなら喜ばしいことなのかもしれないが、顔の方はまるで冴えない表情を浮かべていた。  常に眉は不安げに垂れ下がり、自宅に帰って尚オドオドした顔……髪だって元々短めの方が邪魔にならなくて好きだったが、今は休日に散髪にいく気力すら無くて、伸ばしたままになっている。 「……はあ」  ため息が、出た。こんなことをしても何もならないのに、勝手に出てきてしまう。  首を振ってリビングに戻り、テレビとパソコンを起動。なるべく明るい雰囲気の番組や動画を選んで1時間ほどそれらを楽しむ。そしてそれらを楽しんだ後は、寝るだけだ。  ごそごそと、布団の準備をする。  今の時間は午後11時。出勤時間は8時だが、通勤にかかる時間やゴミ出しや朝食の用意、身だしなみを整えるために6時には起きていたい。睡眠時間も6時間ほどは取っておきたいため、今くらいに寝るのがベストだった。  遠くから、ガタンゴトンという電車の音。電気を消し、テレビやパソコンを切った部屋にはやたら大きく響いた。  そろそろ終電だろうかなどと考えつつ、布団に入った俺は目をつぶり続ける。だが今日は、なかなか寝付くことができなかった。  頭に浮かぶのは、今日の仕事でした失敗の数々。自分でなんとかできる小さい失敗は毎日のようにしているが、今日は特に大きいのをやらかしてしまい、大勢の人に迷惑をかけてしまった。  そんな失敗がある度に、いや、小さいものでも失敗をする度に思うこと――  どうして俺は、こうなんだろう。  人前に出れば上がってしまうし、失敗を恐れる余りに緊張しすぎて逆に空回りしてしまう。そのせいでなかなか仕事が覚えられないし、上司や同僚からはまだ仕事が覚えられないのかとずっと言われ続けている。  そしてその度に、できない自分への憎しみが降り積もっていくのだ。 「……どうして他の人間にはできて、俺にはできないんだろう……」  そんな呟きが、暗がりの中に漏れる。  会社に入ってまだ一年目で、完全に仕事を覚え切れていないせいもあるのかもしれない。それに自分は色々な事情があり、社会人として生活し始めるのが遅かったせいもあるのかもしれない。  けれど周りは、そんな俺の事情など知ったことかと『できること』を要求してくる。  だから俺は、自分なりに努力した。  余裕があるときは仕事について勉強もしたし、それ以外に自分の上がり症などを治したくていろいろなことを試してみた。けれどその全てで、余り効果は出ていない。  上がり症を変えたくて、自分をコントロールしようとした――  未だその成果は出ておらず、会議などの時によく言葉に詰まった。  緊張のしすぎを直したくて、精神科に通った――  出された薬を飲んでも大して効き目が出ず、副作用で眠くなるだけだった。  ダメ元で、仕事の量を少し減らしてくれと上司に頼んだ――  甘えるなと一蹴されて、却って怒られる羽目になった。  何もかもが上手くいかなくて、仕事を辞めようかと思う時もあった。  けれど30近くにまでなって親に頼るのもどうかと思うし、それに一年程度で辞めてしまえば次に就職する時不利になるかもしれないという思いもあった。また、このまま辞めてしまうのは逃げたようで、それはそれで嫌だという思いだってある。  それで結局、辞められなくて。  仕事で失敗する度、自分への憎しみが降り積もっていって。  こんな夜は、情けなくて情けなくて、涙が出そうになる。  こんな自分なんか消えてしまえば良いのにと呪いにも似た言葉すら吐いてしまい、同時に胸の中にやりきれない思いが渦を巻いて、呼吸を荒くさせる。  そうやって俺は、まんじりとした夜を過ごしていた――  どれくらいの時間が経っただろう。  ふと、瞼を開ける。窓から朝日が差し込んできていた。 「……ああ……結局、朝まで起きてたのか……」  またため息。せっかく早めに布団に入ったのに、一睡もできなかった。  のろのろと布団から抜け出し、洗面台に向かう。鏡に映った俺は、昨日よりも酷い顔になっていた。  そのまま顔を洗い、着替えをする。  最低限の身だしなみを整えた俺は、玄関に立ってドアノブに手をかけた。  また、一日が始まる。  辛いことが続く一日。  怒られ続ける一日。  ……そして。  自分を嫌い続ける一日。  重いため息を吐きながら、俺はドアを開ける。  登り始めた朝日が、目に眩しかった。
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