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5 陽太さんの酢豚
夜のスーパーで令子さんを見つけた。
いまは夜の九時。
仕事終わりではないようで、ワンピースにカーディガンを羽織っている。
家族も一緒かと思ったが、まわりには誰もいなかった。
お惣菜コーナーで真剣に商品を選んでいる。
「令子さん、こんばんは」
声をかけると、彼女ははっと振り返った。
「新君か。驚いた」
彼女はすぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「お買い物ですか?」
「うん、明日の朝食とかちょっとね」
彼女のカゴには揚げ物やポテトサラダ、煮物などが既に入っている。
「仕事で疲れて、ついお惣菜に頼っちゃう」
言い訳するように言う。
「僕も同じですよ。家に帰ったら作る気になれなくて」
そう言って、僕はカゴにカニクリームコロッケや焼きそばを入れた。
本当は作り置きがたっぷり冷蔵庫の中にあるけれど、そんなことを話せば彼女はどう思うか。
「おっとサラダも」
生ハムサラダもカゴに入れる。
そんな僕を令子さんはただじっと見ていた。
「朝なんか、こういうお惣菜をパンで挟んだものですましたりしますよ。スーパーやコンビニのお惣菜ってどんどん進化してますよね」
彼女は少しほっとしたように微笑んだ。
「だよね。昔よりずっとおいしい……でも、子供には手作りのもののほうが栄養的にいいんだろうけど」
「だったら、お休みの日にお鍋いっぱいの煮物でも作っておくといいですよ。小分けにして冷凍しておけば、いつでも安心して食べられる一品になりますから」
「なるほど、それならできそう。作り置きって、いろんな種類をいくつも作らないといけないと思って、なかなかやる気になれなかったの。前は頑張ってたんだけどね」
「料理は無理せず楽しくです。しんどい時は楽していいんですよ」
「そうだね……ありがとう。ちょっと気が楽になった」
令子さんは笑顔でほうれんそうの胡麻和えをカゴに入れた。
そのあと、二人でぶらぶらとスーパーの中を歩き始めた。
彼女は牛乳や卵、納豆やヨーグルトなんかもカゴに入れていく。つられて僕も同じものを手にした。
「今日はお店、お休みだったんでしょ。どこか出かけたの?」
令子さんが動くたびになにか甘い香りがする。
「部屋の掃除とかで終わっちゃいました」
「そっかあ。いつもそんな感じ?」
「ですね。特に趣味もないですし。令子さんはお休みの日はなにしてるんですか?」
娘さんと過ごすんだろうなとは思いつつ訊ねた。
「家族でお買い物行くときもあるし……でも、新君と一緒かな。家のことしてるとあっという間に休みなんて終わっちゃうから」
「そうなんですね」
コットン風のワンピースを着ている令子さんはいつもより若く見える。
他人の目には、僕らは同年代のカップルに映っているのかもしれない。
仲良く夜のスーパーで買い物する同棲カップルか若夫婦。
そういうのもなんかいいな。
令子さんが突然振り返ったので、僕は心の中の妄想を打ち消した。
「もうこんな時間。帰らないと家族が心配しちゃう」
「あ、じゃあ、急ぎましょう」
スーパーで一時間ぐらい過ごしていた。
慌てて会計を済ませると、僕は彼女の買い物袋を持った。
「重いから家まで送りますよ。時間も遅いし」
「そんなのいいわよ。すぐ近くだから大丈夫」
「近くなら遠回りじゃないし、気にしないでください」
「そう?」
ありがとう、ごめんね、と言って、令子さんは僕と並んで歩きはじめた。
空には刷毛ではいたような白い半月がある。
申し訳程度の星と、藍色の夜空。
視界のはしでちらつく令子さんの白いワンピース。
「結婚したのは間違いだったかも」
ぽつりと独り言みたいに令子さんが呟いた。
「結婚したのは子供ができたからだったの。いわゆるデキ婚。相手は最初から気乗りじゃなかったし、お互いの両親もいい顔をしなかった。でも私も必死だったの。当時は相手のことが好きだったし、きっとうまくいくって思ってたから」
突然の打ち明け話に僕は驚いたけれど、黙って耳をすました。
「籍を入れても一緒に暮らしたのは最初の一ヶ月ぐらいだけだった。夫はすぐに家に帰ってこなくなって実家に入り浸り。義理の両親からは冷たくされてたから、家に連れ戻すこともできなかった」
でも令子さんのお腹はどんどん大きくなってくる。
自分だけでなくお腹の子供にも無関心な夫。
夫に期待したり頼ったりすることは無理なんだ、と彼女はあるとき悟った。
「離婚は私から言い出したの。杏奈が生まれても、彼は戻ってこなかった。本当に私たちのことが邪魔だったみたい。私が悪いの。そういう人を選んじゃったから」
令子さんの家は本当にすぐ近くだった。五分もかからない。
だから話も突然終わってしまった。
「ありがとう。荷物、重かったでしょ」
彼女はいつものからっとした笑顔を浮かべ、買い物袋を受け取った。
「変な話してごめんね。ちょっと愚痴っちゃった」
僕は笑顔で首を横に振り、彼女に自分が買った分の袋も手渡した。
「これ、よかったらどうぞ。みんなで食べてください」
彼女は驚いた顔をした。
「新君の夕飯でしょ?」
「ラーメン食べて帰ります。急に食べたくなっちゃって」
令子さんはすまなそうに微笑んだ。
「私が変な話したから気を使ってるんでしょ」
「違いますよ。気を使うとしたら、スーパーの総菜じゃなくてもっといいものあげますって」
僕が笑うと、令子さんも笑みを漏らした。
「そう。じゃあ、ありがたくいただきます」
令子さんは両手にスーパーの袋をぶら下げて、膝を軽く折るようにして笑った。
「重い」
「早く家に入ってください」
「おやすみ、新君。またお店に行くからね」
「待ってます。おやすみなさい」
一人で歩き出すと、ふうっと息が口から洩れた。
びっくりした。
令子さんがあんな個人的な話をしてくれるとは。
それにしても、ひどい男もいたもんだ。
いまごろ罰が当たってるだろう。
「あー……」
もやもやする。
ラーメン食べる気分じゃない。
でもなんか食べないとあとで空腹で後悔する……と思ったところで蕎麦屋の前を通りがかかった。
のれんから明るい光がこぼれている。
誘われるように店内に入ると、感じのよさそうな老夫婦が「いらっしゃいませ~」と出迎えてくれた。
とろろ蕎麦を注文し、出された茶色いお茶をすする。
令子さんはなんで急に過去の話をしたんだろう。
ちょっと疲れてたのかな。
夜のスーパーにいる令子さんはなんだか少し寂しそうだった。
*
「キャンプ行くの?」
僕のスマホを覗き込んだ叔父が意外そうな声を上げた。
「いや、ただ見てただけです」
今夜はまだ客が来ない。
そういう日もある。
暇過ぎて僕はスマホ、叔父さんは競馬新聞を眺めていた。
「そういや、令子さんがキャンプしたいって言ってたよな、前」
「え、ああ……そうですね」
「ほんとに行けたらいいよなぁ、みんなで」
「そう、ですね」
キャンプ場って、探してみると近場にもけっこうある。
令子さんとキャンプ。
日常を忘れて、自然の中でバーベキューしたり、焚火をしたり。
彼女にとっていい気分転換になるんじゃないだろうか。
「泊まりは大変かもしんないけど、日帰りなら気楽に行けそうだよな」
「ああ……日帰りはいいですね」
荷物も少なくてすみそうだし。
「テントとかはいりますよね? レンタルで一式借りられるのかな……」
「だいじょうぶっしょ。でも、五人となると、車借りないとだな」
「確かに」
運転は僕か。叔父さんはあてにならない。
七尾に声をかけてみようか。
動ける男が二人はいたほうがいい。
「七尾を誘ってもいいですか? あいつがいると何かと便利だと思うんで」
「そりゃいいね。俺、キャンプしたことないから役に立たねえし」
「わかってます」
笑いながらスマホで奥多摩や千葉のキャンプ場をブックマークしていく。
金曜日に令子さんが来た時に相談してみよう。
「こんばんは」
約束の三十分ぐらい早く、石川と陽太さんが現れた。
陽太さんの巨体がずいと店に入ってくると、元々狭い店内がいっそう狭苦しく感じられた。
「すみません、ちょっと早く着いちゃいました」
今夜の石川はさらっとした素材の白いニットワンピースを着ている。陽太さんは黄色いシャツに白いデニムパンツ。
「いらっしゃい」
叔父さんが黒烏龍茶が入ったグラスを掲げる。
「ご店主ですか? はじめまして、石川陽太です。今日はおいしいお酒とご飯をいただきにあがりました」
陽太さんはうやうやしく叔父さんに名刺を差し出す。
「これはこれはご丁寧に」
叔父さんもかしこまって名刺を受け取り、じろじと見た。
「鎌倉におこしの際はお寄りください。これからはあじさいが見頃なので、ぜひ」
「そりゃどうも……」
出不精な叔父さんは誘いを受けるのがとにかく苦手だ。
あとはまかす、というように僕の後ろに下がった。
「なにを召し上がります?」
カウンターに腰を下ろした二人はおすすめメニューの貼り紙をじっと見る。
「ここに書いてあるの全部お願いします。どれもおいしそうなんで。お腹は空いているのでいくらでも食べられますよ」
そう陽太さんは言ってふふっと笑う。
テストというわけではないが、彼に初めて料理を食べてもらうのだからやはり緊張する。
そんな僕の気持ちを察したかのように、石川が笑顔で口を開いた。
「先輩、グラタンなんかできますか?」
グラタン? と不思議そうな陽太さんに、彼女は母親が失敗したグラタンの話をした。
「ああ、あれね。僕も覚えてるよ。どうしてスープみたいになっちゃったのか、あのときは不思議だったなぁ」
春キャベツと新タマネギのサラダをまず出す。濃厚な胡麻だれを軽くかけて。
叔父さんが陽太さんにビールを注ぐ。石川はビールではなく烏龍茶。
「山菜の天麩羅です。塩を少しかけて召し上がってください」
「山菜の天麩羅ははじめてだな」
陽太さんはすぐに箸を伸ばし、さくさくといういい音をたてて食べた。石川も一口食べ、陽太さんと目を見合わせて笑う。
「おいしいね」
「うん、うまい。今度作ってみよう」
いわしと新ショウガのつみれ汁も出す。それから、たけのこご飯の焼きおにぎり。ぱりっと外側に焦げ目をつけるのがポイントだ。
「やっぱり和食はいいな……口にぴたっと合うというか」
陽太さんはそう呟き、ばくばくと大きな口に料理を吸い込ませていく。
メインは得意のメンチカツにした。今日は中にたっぷりチーズを入れてある。
「陽太さんは普段、どんなものを食べられているんですか?」
店では洋食ベースの創作料理を出しているようだけど、普段からそういう料理ばかり食べてるんだろうか。
「やっぱり洋食が多いですね。ハーブやスパイスが好きなんで、アレンジし過ぎて失敗することがよくあります」
「自分で畑を借りて育てるぐらいハーブ好きなんですよ」と石川。
「小さい畑ですけどね。うちで出すハーブティーも自家製なんですよ」
なんだか楽しそうだ。
揚げたてのメンチカツを出すと二人ははふはふしながら、食べることに集中した。
楽しんで料理を作る。
そういう発想が以前の僕にはなかった気がする。
料理は戦い。
そんな意識が常につきまとっていた。
料理は他の人より上手に作り、食べる人を圧倒するものでなければいけない。
一番になれなければ、この道を志した意味がない。
ずっとそう思い、自分にも他人にも厳しくあるようにしてきた。
そうすることが正しいと信じて。
でも僕は藤堂からはじき出された。
いらない、と言われたようなものだ。
職場の同僚だけでなく、客からも見放されたら本当に終わりだ。
食べるほうにしたら、料理人の自己主張ほどうっとうしいものはないだろう。
お客さんはみんな自分が食べたいものをちゃんとわかっている。
それをきちんと提供するのが僕らの役目なんだろう。
「お客さんの体のことも考えて作ってたりします?」
梅で風味を加えた蛸とキュウリの酢の物を出すと、陽太さんはふとそんなことを訊ねた。
「多少は。うちのお客さんと話してると、一人暮らしで外食ばかりの人も多いので。あと、血圧や血糖値が高いって話を聞くと、味付けなんかも少し変えることもあります」
生い立ちからいまの暮らしまで赤裸々に語る客もけっこういる。
誰かと話をしたくて、話を聞いて欲しくて来る客が本当に多いのだ。
「そういうの苦じゃないんですね。お客さんとのやりとりや、味を変えたりすることは」
陽太さんの言葉に僕は「ええ」と即答する。
「もう慣れました。それに、お客さんの要望に合わせて作ってあげると、みんなすごく喜んでくれるんです。それが僕も嬉しいんですよね」
こんな簡単なことで、というような些細な気遣いをみんなとても感謝してくれる。
そうすると僕はもっと喜んでもらいたくなって、あれこれ工夫をこらしてもてなそうとする。
お客さんも頻繁に足を運んでくれるようになるし、会話も弾む。
それが楽しい。
「いや、ちょっと驚いてます。前に月菜から聞いていた話だと、斎藤さんは仕事に対してきわめて厳しい方だという印象を抱いていたので……」
厳しい。
七尾もこの前、そんなことを言っていた。
自分では気づいてなかったけれど、僕はずっとまわりを緊張させていたのかもしれない。
仕事に緊張感を持つのは当たり前だとは思う。
でも良い緊張と悪い緊張がある。
僕のは悪い緊張感だった。
「変わったのかもしれません。変わらざるを得なかったというか。挫折をはじめて味わったので」
僕の言葉に陽太さんは微笑み、ビールが入ったグラスを軽く掲げた。それをぐいっと一気に飲み干す。いつの間にか彼の顔は真っ赤になっていた。
石川が少し心配そうに彼を横目で見ている。
あんまり酔わせると鎌倉まで帰るのが大変そうだ。
彼にビールを注ごうとしている叔父さんをさりげなく制して、僕は冷たい水のグラスを陽太さんの前に置いた。
でも彼の手はビールを探すようにカウンターの上をさまよいはじめる。
「そういう僕ももっと若い時はとがってましたよ。客は黙って俺の料理を食ってればいいんだってね。でも、そういう態度って味に出るのかな。突然、客足が遠のいたことがありましてね。慌てましたよ。店をつぶすわけにはいかないですから……で、心を入れ替えて、お客さんに喜んでもらえるような店作り、料理を追求するようになったんです」
ビールがないことに気づいた彼は水を一口含んで小さく息をついた。
「でも、うちみたいな店はどうしてもお客さんとの密なふれあいは難しい。こういう風にカウンター越しにおしゃべり、とはいかないですからね。何度か足を運んでくれている方には意識的に挨拶したりはしますよ。でも、うちの店のどこが気に入ってくれてるのかとか、どの程度満足してもらえているのかまではわからない。あと、お客さんがどういう方なのか、ということも」
僕も藤堂で働いていた時、「よく見るけど、あのお客さんてどんな人だろう?」と思ったことがある。
厨房からフロアが少し見えたので、頻繁に来る客は自然と覚えていた。
週末ごとにドレスアップして一人で食べに来る中年女性、年の離れた美しい女性を伴ってくる高齢男性(親子ではないようだった)、帽子を深くかぶったまま食事をする若い男性、無言で食事をする黒いスーツ姿の三人の男たち、などなど。
気にはなっても、彼らが何者であったのかは永遠の謎のままだ。藤堂では客に気軽に話しかけることは不可能だったから。
でもここは違う。
気になったことは、失礼にならない程度に触れる。相手もそれを待っていることがある。
「オープン当時からずっと通ってくれている近所の男性がいたんです。一人暮らしの中年男性で、道で会えば挨拶するぐらいの関係でした。でもね、二年ぐらいたった時、ぱたりと来なくなったんです」
どうしたんだろう、と陽さんはあれこれ想像した。
引っ越しをしたのかもしれないし、体調を崩して来られなくなったのかもしれない。
「でも、ある日、知り合いの店でばったりそのお客さんと会ったんです。相手は僕に気づかないふりをしていたから、僕も挨拶は控えました。でも、気まずそうな顔つきを見て、気づいたんです。そっか、ただ単にうちの店にはもう来る気になれなくなったんだなって」
陽太さんは自分が傷ついていることに驚いた。
無意識のうちに自分が一番傷つく理由を排除していたのだった。
「別にお客さんに飽きられることはよくあることだし、趣味嗜好が変わることも人間だからあります。僕だってありますからね。単純に新しいものに興味が移ることも。悲しい理由で来られなくなったんじゃないなら、それでいいじゃないかと思おうとしました。でも、なんだろう。なんだかもやもやしてしまって……」
石川は少し驚いたような目で陽太さんを見ている。初めて聞く話なのかもしれない。
「たぶん、二年も自分の料理を食べに来てくれた相手と、なんの関係も築けないまま終わってしまったことが、悲しかったのかもしれないですね。こちらからもう一歩踏み出して、料理以外のことも少し話せていたら、なにか違ったのかなって。相手が(もうこの店には行かなくていいかな)と思ったら、それで終わり。それじゃあやっぱり寂しいですよ」
石川は僕をちらっと見て、少し困惑したように微笑んだ。それから、陽太さんの背中に手をおいて、そっと顔を覗き込む。
「お兄ちゃん、酔ったんじゃない? 気分悪くない?」
「気分はいいよ。ただ体が熱いかな……ちょっと」
「すみません、先輩。お水のおかわり、いただけますか?」
「もちろん。ちょっと待って」
ところが、新しい水を出したときには既に陽太さんはカウンターに突っ伏していた。小さな寝息が聞こえてくる。
「すみません」
小声で石川がすまなそうに謝る。
僕は首を横に振った。
「大丈夫だけど、陽太さん、お酒弱かった?」
「そんなことはないんですけど……最近ちょっと忙しかったので、疲れてたのかもしれません」
「そっか。少し寝たほうが酔いもさめるかもね」
叔父さんはふわーあとあくびをかみ殺した。
「眠気がうつった。あっちでちょっと横になっててもいい?」
「いいですよ」
叔父さんがのろのろと奥の部屋に引き上げていくのを石川はそっと見送る。
「ほんとゆるいお店でしょ」
僕の言葉に彼女は微笑んだ。
「なんか落ち着きます。こういう雰囲気だから兄も安心して酔っぱらえたのかもしれません。あんな風に話すなんて、意外でした」
「陽太さん、ほんとにいいひとだね。自慢の兄でしょ?」
「そうですね。兄がいなかったら、自分のお店を持つなんてずっと先のことでしたでしょうし……私は幸運です」
「石川の力も大きいよ。二人なら心強いし、なにより相談相手がいるってのが大きいよね」
「そこに先輩の力も加えていただいたら無敵なんですけど」
僕がただ微笑むと、石川もはにかんで俯いた。
「そうだ。まだお腹に余裕ある? グラタン作っておいたんだけど」
「え、本当に作ってくれたんですか」
「もちろん。この前グラタンの話を聞いて、作ってみたくなったんだよね」
「食べます、食べたいです。先輩のグラタン、絶対おいしいに決まってる」
下準備しておいた大きなグラタンをオーブンに入れて焼き上げる。
赤いグラタン皿は30㎝はあるだろう。大人四人で食べてもちょうどいいぐらいの大きさだ。
「いい匂い。チーズが焦げる匂いって大好きなんです」
「僕も。ワインでも飲む?」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「白ワインがいいかな」
オーブンの中を覗くと、グラタンの表面がふつふつと踊るように盛り上がっている。どんどん焼き目がついてきた。
冷えた白ワインを開けて、居酒屋の普通のグラスに注ぐ。
「ごめん。しゃれたグラスがないもんで」
「かまいませんよ。気取らないグラスで飲むのがまたいいじゃないですか」
石川は上目遣いで僕をじっと見た。
「なんかロマンチックですね」
「どこが」
「全部です。とても特別な感じがします」
なんと返せばいいかわからず、沈黙が続いた。
咳払いをしてオーブンをチェックする。
いい感じだ。
「できたよ」
グラタン皿をオーブンからそっと取り出すと、石川は腰を浮かせて身を乗り出した。
「めちゃめちゃおいしそう。海老入ってます?」
「入れたよ。石川は海老好きだもんな」
「覚えててくれたんだ……」
大きめのスプーンでとろりとしたグラタンを皿に盛り付ける。
「こんぐらいでいいかな……もっと食べられそうだったらおかわりして」
「ありがとうございます。グラタンって火傷しがちですよね」
「ふうふうして食べな」
はい、とはにかみながら石川が皿を受け取る。
僕も自分用に皿に盛り、高めのスツールに腰をおろした。
「乾杯しましょ」
石川がワインのグラスを軽く掲げる。
「お母さんのしゃばしゃばグラタンに乾杯」
僕の言葉に彼女はあははと笑いながら、グラスをカチンと合わせた。
ワインを一口飲んで、グラタンをぱくり。
うん、なかなかよくできた。
マカロニもぷりっといい食感だ。
「おいしい」
石川の口にもあったようで、満面の笑みを浮かべている。ぱくぱくと立て続けにスプーンを口に運んでいるのを見てほっとした。
「やさしい味ですね。しっかりした味付けだけど、後味は軽い。料理人が作ったグラタンなのに、家族が作ってくれたような温かさもある」
「気に入ってくれたならよかった。石川のために作ったんだから」
彼女はまた一口食べてうなずく。
「今日がお誕生日だったらよかったな」
「誕生日、近いの?」
「来月です。誕生日にまたこのグラタン食べたいな」
「いいよ。来る日を教えてくれれば用意しておくよ」
本当ですか、と石川が目を輝かす。
「私の誕生日は六月二十日です。忘れないでくださいね」
「了解。書いておく」
店の壁に貼ったカレンダーに(石川誕生日)と書き込む。
「誕生日も仕事?」
「いえ、休みをもらいます」
「デートとかはしないの?」
石川は少しだけ表情をかたくする。
「彼氏はいないって言いましたよね」
「そうだけど、デートぐらいする相手はいるのかなって……」
「デートだけする相手ってなんですか。私、そういう半端な付き合いはしません。先輩がデートしてくれるなら話は別ですけど」
ごめんごめん、とすぐに僕は謝った。
「石川、もてそうだと思ってさ」
彼女は驚いた顔をした。
「私が? そう思います?」
「普通に可愛いからもてるでしょ」
「可愛い……先輩がそんなこと言ってくれたのはじめてですね」
陽太さんは寝て、叔父さんが奥に引っ込んだせいだろうか。話がややおかしな方向にいっている気がする。
「先輩はいま、彼女いないんですよね?」
「いないけど」
「好きな人は?」
「いない」
即答なんだ、と石川は複雑な表情を浮かべる。
「もしかして石川、酔ってる?」
白ワインがきいてきたのかもしれない。
「私、全然酔ってません。むしろ冴えてます。私、なんかおかしい言動してますか?」
「いや……」
そのとき、店の戸ががらがらと音をたてて開いた。
ひょこっと顔を覗かせたのは七尾だ。
僕と石川をちらりと見くらべて、にんまりする。
「先輩、おつかれさまです! 来ちゃいました!」
来ちゃいましたって……狙って来たんだろうが。
でも、今夜ばかりは七尾の邪魔に助けられた気がした。
これで、酔った石川の妙なからみから解放される。
「怒ってませんよね?」
後ろでに戸を閉めながら僕の顔色をうかがう七尾。
「お客に怒る店員がいるか」
「ですよねぇ。あ、失礼します」
七尾は石川の隣に腰をおろし、ぶしつけな視線を彼女に向ける。
可愛い、という心の声が漏れ出ててるような顔をして。
「彼は前の職場の後輩の七尾優。お調子者だから適当にあしらってくれていいよ」
僕の紹介にむっとしながらも、七尾は石川にぺこぺこ頭を下げた。
「はじめまして、七尾です。優って呼んでください」
呼ぶか。
「で、彼女が料理学校の後輩の石川月菜。その隣がお兄さんの陽太さん」
石川は七尾のことを興味深そうに見つめて、会釈した。
「藤堂の……」
「ええ、そうなんですよ。先輩にはたくさんお世話になりまして。いまは親友って感じです」
いつから親友になったんだ。
「なに食べ……」
「あ! おしいそうなグラタン!」
僕の言葉を遮って七尾が無邪気に声を上げる。
「僕もこれ食べたいです! あとビール!」
グラタンを皿に盛り、白ワインをグラスに注ぐ。
「白ワイン開けたから飲みな」
「そんなしゃれたもんがここで出るとは」
「うるさいよ」
七尾の登場でうるさくなったからか、陽太さんが唸りながら顔をあげた。
目をこすりながら、まわりを見る。
僕や石川を見て、いま自分がどこにいるか思い出したような顔をした。
七尾が陽太さんに向かって手を振る。
「はじめまして、お兄さん! 七尾優といいます! 新先輩の後輩です!」
お兄さんてなんだ。
どうも、と陽太さんはまだ目をこすりながら、七尾に軽く頭を下げる。それから鼻をくんくんした。
「この匂いは……」
「先輩が作ってくれたグラタンだよ。お兄ちゃんもいただく?」
「いただきたい」
僕は笑いながら、陽太さんにもグラタンをよそった。
「覚えてる? お母さんが昔作ってくれた、しゃばしゃばの失敗グラタン」
陽太さんは水を一口飲んでから、しゃばしゃばグラタン……と口の中でつぶやいた。
「ああ……そういえば、そんなこともあったね。飲むグラタンみたいになってたっけ」
「そうそう」
二人はそのときのことを思い出したようにおかしそうに笑いはじめた。
陽太さんはグラタンを食べ、こくこくうなずく。
「うん、うまいですよ」
僕に向かって親指を上げてみせる。
「寝起きでも全然いける」
七尾はお腹が空いているらしく、あっという間にグラタンをたいらげた。物欲しそうに残りのグラタンを見ているので、仕方なく叔父さんの分を彼にあげる。
「母さん、酢豚も失敗してなかった?」
完全に目が覚めたらしい陽太さんが頬杖をつきながら石川に言う。
「酢豚?」
「母さん好きで、よく作ってくれたじゃない。でも、僕らは肉だけ食べて他は残した」
「そうだった?」
石川はよく覚えていないようだ。おなじものを食べていても、記憶に強く残っている料理は違うようだ。
「なんでだと思います?」
陽太さんはいきなり七尾にそう訊ねる。
当然七尾はびっくりして、変な音を喉の奥から出した。
「うぇ……な、なんでしょお」
陽太さんはにんまり笑う。
「それは野菜が固かったから。うちの母親、野菜の素揚げを省いてたんです。『私、酢豚を作るの全然苦じゃないのー』って得意げに言ってたけど、酢豚の作り方を知らなかったんですよね。具材を炒めてあんにからめて終わり。そりゃすぐできるけど、酢豚じゃないし、いろいろまずい」
石川は思い出してきたのか、顎の先を人差し指でぐいと押した。
「そういえば、人参とタマネギがかたくて苦くてやばかった記憶が……」
「酢豚の野菜は大きめに切るから、火が通ってないと悲惨だ」と陽太さん。「でも、肉はおいしかったんだよ。不思議だよなぁ。あんの味も悪くなかった」
ティッシュペーパーで口を拭きながら、石川が笑みを浮かべる。
「お兄ちゃん、次にここに来た時、酢豚が出てくるかもよ」
彼女は僕にちらりと視線をよこす。
今度は酢豚か。
「どういうシステムなの?」
陽太さんは笑いながら僕と石川を見る。
「お客さんの思い出の味を聞くと、なんか作りたくなっちゃうんですよね」
「そういうこと」陽太さんは豪快に笑った。「じゃあ、またすぐに来ないと」
「ぜひ来てください。いつでも大歓迎ですので」
突然、陽太さんは太くてたくましい腕を僕に差し出した。
「今夜は楽しかった。ありがとうございました」
僕はびっくりして一瞬ためらったけど、すぐにその手をしっかり握った。
「こちらこそ楽しかったです。またいろいろ話しましょう」
陽太さんはうなずいて、思い出したように照れ笑いを浮かべた。
「次はカウンターで寝ないようにしますよ」
*
その夜、仕事が終わったのは十二時。
店を閉めて叔父さんと別れると、二十四時間営業のスーパーに立ち寄った。
カゴに商品を入れていきながら、総菜コーナーの前で令子さんのことを思い出した。
今夜、彼女はここに来たんだろうか。
なに買ったのかな。
この前、令子さんを家まで送って、彼女のアパートを見た。
二階建てのこぎれいな建物。
あそこで女三人、身を寄せ合って暮らしている。
令子さんはすごく頑張っているはずだ。
弱音を吐けるような人は誰かいるんだろうか。
あの夜から、ずっと考えてることがある。
令子さんに店で作ったお惣菜をあげたい、と。
仕事帰りにでも寄ってもらって手渡せたらいいんだけど。
でも、こんな申し出、彼女はきっと遠慮するだろう。
余計なことをすれば、店にも来なくなってしまうかもしれない。
憐みや同情を受けたような気がして、気分を害する恐れもある。
陽太さんが気にしていた、二年通ってくれて突然来なくなったお客さん。
彼みたいに令子さんが突然店に来なくなったら、本当に悲しいだろう。
いや、悲しいだけじゃない。
僕は彼女の家まで訪ねて行って、「大丈夫ですか?」と様子をうかがいかねない。
そんなの、たぶん普通じゃない。
僕はため息を吐いて、首を横に振った。
こんなこと考えるなんて今夜はかなり疲れている。
陽太さんが店に来て、やっぱり緊張したんだろう。
令子さんが買っていたポテトサラダをカゴに入れて、とぼとぼとレジに向かった。
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