2 令子さんの袋麺

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2 令子さんの袋麺

「ねえ、お姉さんいくつなのよ? いやちょっとまって。俺当てちゃう。えっと……二十五! 大学生って言いたいところだけど、スーツ似合うからそこそこいってるね」  僕と叔父さんはそっと目を見合わせた。  うるさくて下品な飛び込みの酔客。  からまれている令子さんを助けようと、僕らはかわるがわる男に話しかけて気をひこうとしたけれど、完全に無視。  打つ手なしと、さっきから僕らは必死に(今日は撤退したほうがいい)と彼女に目くばせしているが、帰る気配はゼロ。  玲子さんは酔客を相手にはしないが睨みつけることもない。  黙々とぶりの照り焼きを味わっている。  今夜も大盛りのご飯がすすんでいるのだけが救いだ。 「ネギ買ってくる」  うんざりしたのか、とうとう叔父さんはそう言って店から出ていってしまった。  僕はため息をそっと飲み込む。  令子さんの大事な金曜の夜に、こんな邪魔が入るとは。 「サービスです」  僕は二人にタコとキュウリの酢の物を出した。  男はビールを早いピッチで飲んでいるが、来店した時は既に缶チューハイを握りしめていた。それも強めの。  年は五十前後だろうか。  野球帽をかぶり、薄汚れた服を着ている。  白髪交じりの顎鬚には何かゴミのようなものがついていた。 「当たり? ねえ当たりでしょお?」  こういう厄介な客が入ってこないように、ここ『おかや』は看板ものれんも出していない。  常連客やその紹介、近所の知り合いたちが安心して立ち寄れる飲み屋なのだ。  だが、運悪く変な客がまぎれこんでしまう時もある。 「私、もう三十過ぎてますから」  令子さんは僕に目で笑いかけてから、酢の物を食べ始めた。 「令子さん、ご飯のおかわりは?」 「もう大丈夫。ありがとう」  うん。今日はさっさと食べて早く帰るべきだ。大事な客の早い帰りを望むなんて嫌だけど。 「そりゃいいや。三十過ぎの女は最高だ。俺は五十。で、バツイチ。指輪してないし、旦那はいないんだ?」 「お客さん」  我慢できずに僕は酔客に声をかけた。笑顔のまま。 「なにか召し上がりますか?」  なにも出したくないが。 「あ? いや、いまはいいよ。ビール追加」  どうしたもんだろうか。  こういう客をうまくあしらうことができなくては、こういう商売はできないわけだ。  僕が働いてた店でもクレイマーのような者はたまにいたが、他の客に迷惑をかけるようなことはなかった。 「レイコちゃんて言うんだ? かわいー名前だね。レイコちゃーん、俺、さみしーのよ。家でも外でも独りぼっち。ねえ、良かったらもう一軒いかない? 俺、いい店知ってんのよ。美人にはおごるからさぁ」  令子さんはきれいに全部食べ終えると、ティッシュペーパーで口を拭いて腰をあげた。 「すみません、化粧室お借りできますか?」  バッグを手に持つ。 「ええ……どうぞ」  だが、令子さんはトイレではなく、店の奥に入っていった。  その後ろ姿を舐めるように男は見ている。気持ち悪い奴だ。 「兄ちゃん、あの子、よく来んの?」  酔客はタバコに火をつけるとぷかぷか吸いはじめた。帽子を脱いで、埃を払うようにばしばしカウンターに叩きつける。脱いだ靴からいやな匂いがした。 「僕は手伝いなんで、よくわかりません」 「はあ? 名前で呼んでたくせに? 常連なんだろ、あの子」 「すみません。よくわかりません」  じろりとすごむように男は僕を睨みつけた。 「ビールもぬりぃし、金とんならしっかり仕事しなよ」  昨日から冷蔵庫に入れているビールがぬるいのなら、あんたの感覚がおかしいんだろう。  心の中で毒づきながらも、令子さんが戻ってきたらどうしようかと必死に考えた。  この客に帰ってもらうのがベストだが、どう伝えても揉めるだろう。  しばらくして、叔父さんが外から戻ってきた。ネギは持ってない。  カウンターの中に入ると、酔客をじいっと見ながらカウンターをふきんで拭き始めた。 「すんませんが、今日は店じまいにします」  客は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに不機嫌そうに顔をゆがめた。 「店じまい? こっちは飲み始めたばっかなんだけどね」 「すみません。店の都合で今日は閉めることにしました。お引き取りください」  明らかに、客に(帰れ)と言っている。  さすがに僕も驚いて、少し怖い顔の叔父さんを見つめた。 「帰れって? 客にそういう態度とるなんてひでえ店だな。二度と来るか! おい、いくらだよ。ぼったくりしやがったら警察呼んでくっからな」 「いえ、お代はけっこうです」  そう言って、頭を下げる叔父さん。  お代はいらないと言われて、さすがに客は言葉を飲み込んだ。  もごもご口の中で文句を言い、舌打ちしながら騒々しく店を出ていった。  外で痰をからませた大きな汚い音がする。  やれやれといった風に叔父さんは酒を飲みはじめた。 「中のやりとり聞こえてました?」 「ああ」  そういえば令子さんがなかなか戻ってこない。 「彼女なら帰ったよ」  店の奥を覗き込む僕に叔父さんはそう言った。  焼酎をビールに注ぎ足し、疲れたように目頭を指で押す。 「帰った?」 「裏口から帰るように、メールしたの」  そうだったのか。全然気づかなかった。  僕はやっと安心して、ペットボトルの水を飲んだ。 「令子さん、前にもこんな目にあったことあるんですか?」 「いや、ないけどさ、常連の女性客には嫌な客に絡まれたら裏口から逃げていいって、教えてあるんだよ」 「なるほど。安心しました」  ふっと叔父さんは笑った。 「俺の店だから、客は守らねえと」 「見直しました」 「でもあんなひでえ客は久々だよ」  叔父さんはマジックと白い紙を持ってくると、カウンターできゅきゅきゅっと書き始めた。 『貸し切り』  その紙を持って外に出ていくと、すぐに戻ってきた。 「これからうちは年がら年中貸し切りでいくわ。俺の客と友達と家族だけの貸し切り」  僕は呆れて笑うしかなかった。 「本気ですか」 「本気も本気。貸し切りってあったら、さすがに変な客は入って来れないし、来たら堂々と追い返せるだろ。貸し切りなんですってさ」 「そうですけど、それで店やってけますか」 「やってくしかないだろ。やってけなかったら、新、食わせてくれや」 「無理です」  そこを頼むわ、と叔父さんは愉快そうに笑った。  そうして鼻歌をうたいながらいつものように腰を据えてビールを飲み始めた。 *  翌週、令子さんはひょこっと、入口から顔を覗かせた。 「貸し切りなの?」  叔父さんは、そうだよ、と笑った。 「令子さんの貸し切りだよ」  叔父さんの言葉に、令子さんが目を丸くする。 「どういういこと?」  僕らは先週の迷惑客の一件を詫びた。 「謝らないでよ。気にしてないから」と彼女は笑う。 「今日は好きなもの好きなだけ飲み食いしてってよ。店のおごりだから」と叔父さん。 「気を使わなくていいのに。でも……ラッキー」  からから笑う令子さんを見て、僕はほっとした。  嫌な目にあったから、しばらく店には来ないかもしれないと不安だった。  叔父さんも同じくほっとしたのか、うまそうに酒を飲んでいる。  僕が少しだけ入口の戸を開けると、春の夕暮れの風が吹き込んできた。  だんだん夜になっても気温が下がらなくなった。  桜も咲いて散って、過ごしやすい日が続いている。 「ゴマ豆腐作ってみたんでよかったら」 「うわ、嬉しい」  彼女が注文したメインは大好物の豚カツ。それに山菜とサツマイモの炊き込みご飯と、あさりの味噌汁も添える。 「私、小さな車買ったの。東京だし車は必要ないと思ってたけど、家族になにかあったときに、車があるとやっぱり便利でしょ。それに気分転換に一人でドライブもできるし。あと、念願のキャンプもしやすいかなって」  令子さんのいつになくはしゃいだ様子に、僕の頬もゆるむ。 「キャンプ、いいねえ。焚火したいなぁ」  叔父さんはマイムマイムのメロディーを口ずさみはじめた。キャンプファイヤーを囲んで踊ったのだろうか。 「おかさんや新君はキャンプとかする?」 「いんや。俺はバリバリのインドア&ドランカーだから」  叔父さんはなぜか胸をはる。 「ただの飲んだくれでしょ」  僕は叔父さんに突っ込みつつ、僕もしません、と答えた。 「でも、興味はあるんですよね。ソロキャンプとか流行ってるでしょ」  暇な時にそういう動画を見ることもある。 「ああ、最近よく聞くよね。でも、正直、女だけのキャンプは少し不安でもあるんだ。小さい子もいるし」 「ああ、そうだよな……」  酔客に令子さんがからまれた時のことを思い出したのか、叔父さんは顔をしかめた。 「令子ちゃん可愛いから心配だよ」 「可愛いって年じゃないけどね」 「そうだ、新。令子ちゃんの用心棒でもやったら? いや……お前じゃ無理か。腕っぷし弱そうだもんな」  二人から視線を向けられて、僕はむっとした。  そりゃ、僕の筋肉は料理でついただけの微々たるものだけどさ。  運動は苦手ではないが、いまは特になにもしていない。喧嘩はほとんどしたことがない。だいたい腕力でどうこうするのは好きじゃない。  だが確かに叔父さんの言う通り、用心棒には役不足だ。 「そんなことないでしょ。新君は男なんだし、いてくれるだけで安心感があると思うな」  意外な令子さんの言葉に、僕はどんな顔をしていいのかわからなくなった。  喜ぶべきか、そんなことはないと謙遜するべきか。  叔父さんがにやついた顔で僕を見ていることに気づいて、慌てて無表情を作った。 「だってよ、新君。じゃあ、いつかみんなで一緒にキャンプでもしたいもんだね」  叔父さんの言葉に令子さんはにっこり笑う。 「それ、楽しそう。日帰りでもいいし」  令子さん家族とのキャンプか。  思わぬ展開に戸惑いつつ、僕は無表情のままソラマメを茹でて、令子さんに出した。  彼女は今年初のソラマメだと言って大喜びしてくれた。  玲子さんはなんでもおいしそうに食べてくれるから作り甲斐がある。しかも食べっぷりがいい。彼女が食べ残したことは一度もない。  それにお酒がかなり強いとみた。ビールを数杯飲んでも顔色が変わらない。お酒はたしなむ程度と決めているようだから、飲み過ぎることはないけれど。 「そうそう。このまえの佐藤さんのおでんの話、良かったなあ」  令子さんは佐藤さんの母親が作ったおでんの話にいたく感動していた。 「それで私も、過去にまずいご飯をなにか食べたっけなあって思い返してみたの」  彼女は頬杖をついて宙を見つめた。 「それでパッと頭に思い浮かんだのが、父親が小さい頃作ってくれた袋麺だったんだよね」 「あれってたまに食うとうまいよなぁ」  ジャンクフード好きな叔父さんがにっと笑う。 「というかね、私、カップラーメンが昔、苦手だったの。なんか人工的な味がしておいしくないなぁって」 「まあ、わかる。俺が子供ん時は正直まずいのもあった」  叔父さんはこくこくうなずく。 「でも、袋麺は別。むしろ、けっこう好きだったんだ。たまにお父さんが作ってくれたの」 「具なし?」 「具はなかったなあ」 「俺は卵は落とすけどね」  鍋から直接ずるずる食べる叔父さんの姿が目に浮かぶ。 「小学校低学年ぐらいの記憶だと思うけど、お父さんが作ってる横で私が粉末スープの素を舐めてるの。味が濃くておいしくて。いま考えると、よく許してもらえたなって思う。もし娘が同じことしてたらやめさせるもん」  僕らはみんなで笑った。  即席麺を作る父親の手元を覗きこむ小さな令子さん。  彼女のお父さんはきっとやさしい人だったのだろう。 「お父さんが作った袋麺の味は正直覚えてないんだけど、その粉末スープの素の味は少しだけ覚えてる。不思議だな。記憶って」  彼女は豚カツにたっぷりソースをかけた。 「令子ちゃんて、ソースや醤油は多めにかけるよね。味が濃いのが好きなのは、子供の頃から変わらないわけだ」  叔父さんの指摘に令子さんは恥ずかしそうにはにかんだ。 「ぼんやりした味が苦手なの。そうそう、小さい時はタラコのつまみぐいもよくしてたよ。朝、母親がタラコを焼くんだけど、食べきれなかった分を別の皿によけておくわけ。それを私はもぐもぐ全部食べちゃうの」 「焼きタラコっておいしいですからね」  僕がそう言うと、「でしょ?」と令子さんは身を乗り出した。 「タラコは今でも大好き。でも、体のことを考えて、いつもの食事は塩分控えめを意識するようになったよ。味噌も醤油も家では減塩を使ってるし」 「ほう。じゃあ、その反動でここではたっぷりかけちゃうわけだ、ソースを」 「まあ、そのぐらいは許して欲しい」  彼女は豚カツにカラシもたっぷりつけた。  それをほおばり、炊き込みご飯も口にぎゅっと押し込む。 「健康には気を付けないとね。私にもし何かあったら、母親と娘がどうなることやら。最近は野菜にもドレッシングかけないでそのまま食べてるんだから」  叔父さんは苦笑した。 「ドレッシングぐらいかけたって大丈夫だよ。ノンオイルとかもあるだろうに」 「外でサラダ食べる時はドレッシングかけてるよ。家ではってこと」  かけるで思い出したけどさ、と叔父さんは顔をしかめた。 「このまえ、家でコショウを野菜いためにかけたら、大変な目にあったよ」  コショウ? と僕と令子さん。 「コショウの入れ物の蓋が開いてのかな。虫がびっしり中で繁殖してたんだよ」  その光景を思い出したかのように、叔父さんは顔をゆがめる。 「コショウも虫がつくのな。香辛料だから平気かと思ってた」 「想像しただけで鳥肌立っちゃった」  令子さんは身を縮めている。 「野菜いためにその虫入っちゃったんですか?」  どんな虫なんだろう。 「入ったけどつまんで捨てたよ。最初、コショウが固まったやつかと思ったんだけどさ……」 「いつからいたんでしょうね、その虫」 「それは言うな」  ぱちんと両手を叩いて、叔父さんは話を終わらせようとした。  自分から話し出したのに。  令子さんはすべてきれいにたいらげ、お酒も楽しむと、満足そうに帰っていった。 「令子ちゃんのお父さんの袋麺か」  叔父さんのつぶやきに、僕は皿を洗いながら振り返った。 「袋麺買っときましょうか?」 「粉末スープの素、舐めたくなっちゃった」 「実は僕もです。じゃあいま、買ってきますよ」  今日はもう客が来ないかもしれない。  なにしろ(貸し切り)と貼り紙をしているのだから。 「俺が行くよ。少しぐらい歩かないとな。新も適当に休んでていいよ」  そう言うと、ふらっと叔父さんは店を出ていった。  一人になった店でふと不安にかられる。  あんなことがあったとはいえ、貸し切りの貼り紙をいつまでも貼っておいていいものだろうか。  それとも叔父さんはこの店を辞めてしまうつもりなんだろうか。  元々、風来坊みたいなところがある叔父さんは、若い頃にふらりと家を出たまま数年間、居所がわからなかったことがある。  人生のほとんどを、根無し草のような生活で送ってきた。  実家に戻ってきて、この店をはじめたのは中年になってからのことだ。  叔父さんの人柄と近所のやさしい人たちの応援もあって、なんとかいままでやってこられたようだけど、叔父自身がこの店に執着しているようには見えない。  なにか気に食わないことがあれば、簡単に手放してしまいかねない。  とはいえ、この店がなくなるようなことがあれば、叔父さんは困るだろう。人の下で働けるよう性分ではないのだから。  僕は少し考えてから表に出て、入口の戸に貼った(貸し切り)の貼り紙をはがした。  しばらくして、サラリーマンの二人連れが来店した。  そのあと常連さんも二人来て、店は久しぶりに賑わいを取り戻した。  叔父さんは一時間ほどして戻ってきたが、表の貼り紙がなくなっていることには触れなかった。  常連さんといつも通り楽しく話しながら、酒を飲んで、僕をたまに手伝ってくれた。  サラリーマンたちは近くの会社に勤めているらしく、すぐそこの煙草屋でこの店をすすめられたらしい。煙草屋のおじさんはうちの常連さんだ。  彼らに煮物をサービスするととても喜んでくれた。  会計の時には、「おいしいのに安いね。また来るよ」と声をかけてくれた。  そのあとも、客は店を閉めるまで途切れなかった。  久しぶりに売り上げもよく、叔父さんも上機嫌になった。  剥がした貼り紙は捨てずにおいたのだが、いつの間にかなくなっていた。 *  久しぶりの休日はたっぷり朝寝坊を楽しんだ。  ベッドから出るとコーヒーを入れて、ゆっくり飲みながら洗濯機をまわす。 「天気よすぎるなぁ」  ベランダの窓を開けて、真っ青な空を見上げた。  こうも晴れていると、外に出ないと罪悪感を覚えるほどだ。  本当は家で映画でも見ながらだらだら過ごしたい。  でも最近運動不足だし、散歩ぐらいしたほうがいいだろう。  気づくと二十分もコーヒーを飲みながら、ぼうっと外の景色を眺めていた。  洗濯機が終わったという音がぴーぴー鳴っている。  一週間分の洗濯物を干しながら、またちらちら外を見てしまう。  特に面白いものはないのに、なんだか気になる。  マンションの五階から見えるものは道路や建物だけだ。  でも道路を走る車は以前より多く、行き交う人々の姿も以前より増えたように感じる。  春だからか。  冬はこの景色も寒々と感じられて、道行く人たちも目的地に向かって急いでいるように見えた。  いまは手をつないだ男女や家族連れが、歩くこと自体を楽しんでいるように見える。  ふわっとした暖かく上向きな空気感に、いつのまにか世界は移り変わっていた。  なんだか置いてきぼりをくった気がする。  冬の間に職を失い、叔父さんの店を手伝っている自分。  世間のふわふわとは違うふわふわの中にいる。  なににもつながっていない、不安定なふわふわ。  洗濯物を干しているうちにおなかがすいてきた。  なにを食べよう。  トーストで簡単にすましてもいいけど……。  洗濯物をすませてキッチンに行くと、叔父さんからもらった袋麺が目に留まった。  叔父さんは五種類の味の袋麺を買ってきた。  僕が選んだのはシンプルな醤油味。  令子さんが食べたのは何味なんだろう。 「せっかくだから食べてみるか」  卵や野菜でも入れようと思ったが、令子さんの話を思い出して手が止まった。 「シンプルにいくか」  彼女の父親が作ってくれたという、なにも入れないバージョンを試してみよう。  湯を沸かしている間に、令子さんをまねて粉末スープを少し舐めてみた。  想像通りの味だ。  濃すぎて決しておいしいものではない。  でも、子供の令子さんがおいしいと思ったのもうなずける。  ポテトチップスのコンソメ味みたいな感じがしなくもない。濃縮された、ちょっとジャンクな味。  沸騰したお湯に硬い麵を入れた時、電話が鳴り始めた。  ちらっと茹で時間を時計で確認してから電話に出る。 『先輩? 石川です』  ずいぶん懐かしい声が聞こえてきた。 「石川月菜(るな)?」 『そうです。覚えてますか?』  石川月菜は料理の専門学校の後輩だ。  彼女も卒業後は留学して、そのことで相談にのったことがある。  共通の友人も多いので、たまに連絡を取り合っていたが、ここ数年はご無沙汰だった。 「覚えてるよ。どうした?」 『先輩、仕事辞めたそうですね。松井先輩から聞きました」  松井遼太郎はやはり専門学校時代の友人だ。  彼は親の店で働いている。顔が広いので、仕事を辞めた時にはすぐに連絡した。僕にできそうな仕事があったら紹介してほしいと。 「そうだよ。いまは叔父の店をちょっと手伝ってる」  電話の向こう側は少しだけ沈黙した。 『……そうでしたか。新しい職場は探してるんですか?』 「探してるけど」 『よかった』  ほっとしたような明るい声に戻った。 『実は先輩にうちで働いてもらえないかと思いまして』  石川月菜は三つ年上の兄と、生まれ育った鎌倉で店をやっている。  地元野菜を使ったこだわりの創作料理を出しているとか。  店に行ったことはないが、松井からはとてもいい店で、いい客もついているとは聞いていた。 「鎌倉のお店で?」  お兄さんとやっているのなら、僕の出る幕はないのではないだろうか。 『いいえ。神楽坂にもう一店出す話が進んでいるんです。私が行くことになっているんですけど、手伝ってくれるはずだった人の都合が急に悪くなってしまって……』  そういうことか。ずいぶんいい場所に店を持つんだな。  ということは鎌倉の店はだいぶ流行っているのだろう。 『待遇の方は、以前のお店よりもいい条件で働いていただけると思います。どうですか、先輩』 「どうって言われても……急な話で驚いてる。でも声をかけてくれて嬉しいよ。ありがとう」  神楽坂の新店で石川と仕事をする。  悪くないかもしれない。いや、かなりいい話だ。 『よかった! 断られるだろうってびくびくしてたんです』  僕は笑った。 「びくびくってそんな。でもちょっと考えてみてもいい?」 『もちろんです。一度会ってきちんと話もしたいですし。あの、先輩は自分のお店を持つ予定とかあるんですか?』  彼女は少し不安そうな声でたずねた。 「いや、その予定はまだないよ。いつかは持ちたいと思ってるけど」 『そうなんですね。その話も含めて、今度ゆっくりお話しできたらと思います。次のお休みは空いてますか? 私、店を休んででも会いに行きます』  それは申し訳ない。  それに、まだ働くと決めたわけではないし。 「それだったら、僕がそっちに行くよ。久しぶりに鎌倉ぶらついてみたいし」 『本当ですか! それだと助かります。じゃあ、次の先輩の休みに会いましょう』  電話を切ると、麺は茹で過ぎになっていた。でも粉末スープを溶かしてなんとか完成させる。  一口食べてみたがやはりまずかった。 「そりゃそうだよな」  散歩もかねて、外に食べにいくことにした。  気分がかなり明るくなっている。  石川月菜の電話のおかげだ。  うまくいくかはまだわからないけれど、少し明るい未来が見えてきた。  いつまでも叔父さんの世話になるわけにもいかない。  台所をさっと片付けて、軽い足取りで家を出た。 * 「叔父さん、一応話しておくけど、一つ仕事の相談を受けたんだ」  翌日、開店前に料理の仕込みをしながら、叔父さんに石川月菜からの電話の内容を話して聞かせた。  まだなにも決まってないが、世話になっている叔父に内緒にしておくのは気持ちが悪い。 「へえ、そうか。よさそうな話じゃない。うまくいくといいな」  競馬新聞を見ながら叔父さんはのんびり言った。 「僕がいなくなっても大丈夫?」 「なに言ってんだよ。いままで一人でやってきたんだから、大丈夫に決まってるだろ」  そう笑いながら、僕が作った菜の花のからしあえをつまみ食いする。 「おいしい飯が食べられなくなって客は悲しむだろうけど」 「でもいますぐって話じゃないから」 「ふうん。まあ、とにかくこの店のことは心配無用だからね」  たこ飯にしらすのかきあげ、ふきの煮物。  今日のおすすめ料理の下ごしらえをしてから店を開ける。だが、すぐには客は来ない。 「袋麺は作ってみた?」  叔父さんがふきを箸でつまみながらたずねた。 「作ったけど茹で過ぎて失敗しました」 「へえ、そりゃ珍しいな。彼女が突然来たとか」 「なわけないでしょ」  袋麺は店にも置いてある。 「作ってあげましょうか、袋麺」 「卵は落としてね」 「了解です」  僕は叔父さんに粉末スープの素を差し出した。 「ちょっと舐めてみたらどうです。気になってるでしょ」 「まあね。そのために買ったようなもんだし。舐めてみた?」 「舐めましたけど、まあ……試してみてください」  叔父さんはてのひらに少しだけ粉末スープの素を出して、舌先で舐めた。  ふふ、と笑う。 「うんまあ、思った通りの粉末スープの素だ」  僕もまた舐めてみる。 「令子さんはこれ舐めると、父親のことを思い出すんだろうな」 「そうですね」  出来上がった袋麺を器に入れて、生卵を落とす。 「はいどうぞ」 「うまそー」  確かにおいしそうだ。  ずるずるっずるずるっ、と音をたてて麺をすすった叔父さんは、満足そうに顔をくしゃっとさせた。 「うまいなぁ。即席なのになんでこんなにうまいんだろ」 「不思議とたまに食べたくなりますよね」 「料理人の新でもそう思うんんだ? 邪道とか言いそうなのに」 「言いませんよ。むしろ好きです。冷凍食品とかも僕、好きですし。冷凍パスタは常備してありますよ」 「へえ、意外。おいしいんだ?」 「いまのはかなりおいしくなってます。それに安い。料理人としてはびびりますよ」 「へえ。じゃあ今度買ってみるか」  がらがらっと店の戸が開いて、令子さんが顔を覗かせた。 「あれ? 今日は金曜じゃないのにどうしたの」  驚く叔父さんと僕。 「金曜以外、来ちゃだめだった?」 「大歓迎だよ」  笑顔でカウンターに腰をおろした令子さんは鼻をすんすんさせた。 「娘は友達の家にお泊りで、母親も今日は帰りが遅いらしいの。だから、来ちゃった。この匂いってもしかして」  僕は残りの袋麺を令子さんに見せた。 「どれにします?」
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