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3 石川のグラタン
春の鎌倉ははじめてかもしれない。
鎌倉のあじさいは有名だけど、咲くのはもう少し先のようだ。
江の島の海岸も人はまばらで、波音だけが騒がしい。
腕時計を見る。
石川月菜との約束の時間にはまだ早い。
ミネラルウォーターを一口飲んでから、砂浜をゆっくり歩いていく。
僕は東京生まれの東京育ちで、海水浴というと江の島か湘南、千葉まで出向いた。
夏の家族旅行も海が多かったので、海というと遠出のイメージがある。
そのせいか、海が近い場所に行くと、どうしても海を見ておきたくなる。でないと損をした気になるのだ。
石川は今日休みをもらったらしいが、午前中は用事があるとかで一時に約束をしている。
ランチは彼女がおすすめの店を予約してくれたらしい。
ここに来る前に石川が兄とやっている店『創作料理ishikawa』にちょっと寄ってみた。店は開店したばかりだったが、既に客が数人入っていた。
僕はランチプレートを注文した。
ローストビーフと鎌倉野菜、自家製パンの、いかにも女性が好きそうなものだった。
パンにローストビーフと野菜をはさんで食べることもできる。
それぞれの味をまず試してみたが、どれも文句なしにおいしかった。ローストビーフは味はもちろん、やわらかさに驚いた。鎌倉野菜は契約農家からの朝採れのものらしく、ぱりっと新鮮だった。
焼きたてのパンは香ばしく、おかわりしたくなったぐらいだ。
手間をかけたのがわかるコンソメスープに、デザート、コーヒーまでついている。
(季節のデザート)として出されたオレンジのシフォンケーキはお世辞なしにおいしかった。
これで1800円は安い。
駅から遠過ぎず、店構えは高級感が漂う。店内は広々としていて、店員の質もいい。
おそらく鎌倉に暮らす少し余裕がある人たちが利用する店なんだろう。夜になれば雰囲気もまた変わるのかもしれない。
特別な日に使うこともできる店だし、普段使いで気軽に通うこともできる。
なんというか、すべてがちょうどいい。そして居心地がいい。
石川が店にいないことはわかっていたが、彼女の兄はどんなひとだろうと気になって、ちらちらと厨房のほうを見た。
だが、彼女の兄らしき人物を確認することはできなかった。
そのあと海にやってきたわけだが、もう一時間も浜辺に座って海を眺めている。
徐々に日差しが強くなってきた。
頬を触ると熱を含んだように少し熱い。
心がなだらかになっていく波の音。横になったら寝てしまいそうだった。
しばらくして腕時計を見ると、約束の時間が近づいている。
慌てて立ち上がり、砂がついたパンツや靴をはたいた。こんなことをするのも久しぶりでなんだか楽しい。
石川が予約した店にはぎりぎりの時間についた。
案内されたテーブルには、数年ぶりに会う彼女が笑顔で待っていた。
記憶の中の石川とほとんど変わらない。
ただ、少しだけ頬に丸みが出て、大人になった感じがした。
きちんと化粧をしているのを見るのも初めてだ。
以前短かった髪は胸あたりまで伸びて、ふんわりパーマがかかっている。
「先輩、お久しぶりです」
彼女はすっと立ち上がると、昔みたいに元気よく頭を下げた。
それから、にいっと大きく笑う。
学生時代の石川は少年みたいな印象だった。
髪はベリーショートで、ノーメイクが当たり前。痩せていて、顎先がとがっていたのが記憶にある。いつもデニムにカジュアルなTシャツという、おしゃれにも無頓着な子だった。
それがいまは、上品なワンピースで女性らしく装っている。この色はなんという色なんだろう。明るいグレーのようなベージュのような。
ヒールのない靴を履いているのを見て、少しだけ安心した。
「久しぶり。変わらないね」
雰囲気が変わったと指摘するのはなんだか照れ臭かった。
石川は嬉しそうに目を輝かす。
「先輩もお変わりありませんね」
店員からメニューを渡されると、石川の顔を見た。
「まかせるよ。おすすめがあるんでしょ」
彼女はにっこり笑って、大きくうなずいた。
「もちろんあります。先輩、食べられないものはなかったですよね」
「ないよ。なんでも食います」
「ふふ。鎌倉なのでやっぱり魚介系がおすすめです。新鮮な海のものをせっかくですから召し上がってもらいたいです」
この店はアクアパッツァが有名だというので、それを注文することにした。
ランチコースの中に入っているらしい。
さっきローストビーフのランチプレートを食べたばかりだけれど、まだお腹には余裕がある。朝ごはんを抜いてきたのもあって、むしろお腹が空いているぐらいだ。
「忘れないうちに、これをお渡ししておきます。神楽坂のお店の概要をまとめてきたものです。オープンは秋ごろの予定になっています。ですので、できれば一ヶ月以内にはお返事いただきたいです」
「わかった。秋ごろオープンなんだ……」
石川から受け取ったファイルにざっと目を通したが、すぐにはなんとも言えなかった。
店の立地もいいし、店内の写真でなんとなくイメージもつかめる。料理人、スタッフの人数も理想的だ。料理は主に鎌倉野菜を使い、神楽坂店限定のメニューも出すようだ。
さっき石川兄妹の店で食事をしてきたこともあって、どんなお店になるかはだいたい想像がついた。
だが新店は、神楽坂という場所を意識して、より大人の雰囲気を目指すとも書かれている。
もし神楽坂の店がうまくいったら、他の場所にも出店することを想定しているのかもしれない。
食前酒を飲みながら、僕らは少しだけ昔話をした。
彼女はまだ学生時代の友人たちと連絡を取り合っているらしく、彼らがいまどこでどうしているかを楽しそうに話した。
前菜が運ばれてくると、僕らはしばらく食べることに集中した。
石川は昔から、食べはじめると沈黙した。意図してそうしているのではなく、自然とそうなってしまうらしい。
そのせいで、他人と食事に行くと、「つまらない」と文句を言われてしまうと嘆いたこともあった。
でも今日は、前菜を半分ほど食べ進んだところで、彼女が口を開いた。
「どうです? お口にあいますか?」
僕がどんな感想を抱いたか気になっているようだ。
「おいしいよ。まあ、石川のおすすめのお店なら間違いないわけだけど」
彼女はほっとしたように微笑んだ。
「それならよかったです。けっこうシンプルな味付けのお店なので、どうかなと思いまして」
「素材の味が活きてて僕は好きだよ」
「よかった……」
安心したのか、石川の食べるスピードがすこし上がった。おいしそうに味わっている。
アクアパッツァが運ばれてくると、彼女はまた食べることに集中した。
石川は同僚としては申し分ない。
料理の腕は確かだし、お互い性格もわかっている。言いたいことも言いやすい。
お店のコンセプトは共感できるものだし、待遇も以前の職場とそう変わらないなら、文句のつけようがない。
神楽坂には数回行ったことがあるぐらいだけど、大人っぽく落ち着いた街だった。おいしいお店も多い。
秋には石川と毎日働いているのか……。
そう考えるとなんだか不思議だ。
でも、これでいいのかもしれない。
もう就職活動をしなくてもすむし、きちんとした職場でまた以前のように、料理だけに集中する生活を送れるようになる。
このチャンスを逃したら、もっといい条件の職場はしばらく見つからないかもしれない。
「先輩、ひとつだけ訊いてもいいですか?」
石川はナプキンで口を軽く押さえたあと、そう訊ねた。
「いいよ。なに?」
「藤堂はどうして辞めたんですか?」
僕はフォークをおいて、水を一口飲んだ。
やはりそこを避けては通れない。
専門学校を出た後、僕はフランスに渡った。
有名レストランになんとか潜り込み、文字通り料理漬けの毎日を三年間送った。
帰国してから働きはじめたのが老舗レストランの藤堂だ。
フランスとはまた違う、緊張感のある職場の雰囲気にはじめは戸惑いながらも、これもまた修行だと日々料理に励んだ。
そうして二十四歳の時、世界的な料理のコンクールで幸運にも僕は優勝することができた。
腕のいい料理人は星の数ほどいるから、たまたま運とタイミングがよかっただけだ。
それでも、取材を受けたり、テレビや雑誌などに取り上げられたりした。
そのころからだ。職場の先輩たちからの風当たりが強くなったのは。
「調子にのるなよ」
そんな言葉を直接投げかけられたこともある。
藤堂は長年勤めている料理人がほとんどで、働きはじめて間もない僕のような人間が、世間でもてはやされるのが面白くなかったのだろう。
他人の失敗をなすりつけられたり、情報を与えられずにミスしたりすることが日常的になっていった。
小さい嫌がらせならもっとある。
同年代や年下の同僚たちとはうまくやっていたのだけれど、彼らにも先輩たちからの圧力があったのか、最終的には店で孤立するようになってしまった。
最終的にはオーナーに呼び出されて、「周りとうまくいっていないようだね」と心配されてしまった。
ここまで来ると、僕もこのままではいけないと思うようになった。
「ご迷惑をおかけしているようなので辞めます」
辞めることになって、正直僕はほっとしていた。
オーナーは、君に落ち度はないのだから辞める必要はない、と引き止めてくれた。
ただ、ここでは居心地が悪いだろううから地方の別の店で働かないかと打診された。
でも僕は断り、辞表を出したというわけだ。
「同じ系列の店だから、やりやすくなる保証はなかったしね」
石川は驚いたのかしばらく何も言わず、ただ眉をひそめていた。
「……そんな理由だったなんて。残念ですね」
「もう終わったことだから」
彼女は首を横に振った。
「先輩にはぜひうちの店で思う存分腕を振るってもらいたいです」
僕はアクアパッツァを再び食べはじめたけれど、彼女は少し食欲がなくなったようだった。水ばかり何度も飲んでいる。
そんな彼女を見て僕は苦笑した。
「石川がそんな顔することないよ。料理が冷めたらだいなしになるから食べよう」
「……はい」
彼女は再び食べはじめたが、まだなにか聞きたいことがあるような目で、ちらちら僕のことを見ていた。
「このへんで評判のお菓子ってある? 叔父にお土産に買っていこうかと思うんだけど」
「叔父さん? ああ、いまお手伝いしている居酒屋の」
「うん。酒飲みだけど甘党でもあるんだ」
石川は小さくうなずきながら、僕をじっと見た。
「叔父さんはずっとおひとりでお店をやられてたんですか?」
「そうだよ。だから僕が職を見つけても問題ないって言ってる」
石川は何度かうなずいてから、また思案気な顔つきをした。
デザートとコーヒーが運ばれてくると、彼女はやっと明るい表情になった。
「ここの焼き菓子なんてどうでしょう。このあたりでは評判ですし、とてもおいしいんですよ。マロンの粒がごろごろ入っているマドレーヌがおすすめです」
「へえ、おいしそう。じゃあ、それを買って帰るよ」
デザートのレアチーズケーキはとてもおいしかった。
でもランチ二回はさすがに満腹になる。ウエストがきつくて、何度もおなかに手がいった。
「あの、先輩」
チーズケーキを食べ終えた石川は、少し焦ったように口を開いた。
「先輩はまだ結婚とかされないですか?」
「結婚?」
意外な質問に驚いたが、即答した。
「しないよ。相手がいないもん」
石川もなぜか驚いたような顔をしている。
「え? 石川は結婚したの?」
苗字は変わってないようだけど、と思いながらたずねると、彼女も即答した。
「してません。私も相手はいません」
彼女は笑い、僕もつられて笑った。
「いい雰囲気のところごめんなさい」
いきなりバリトンのいい声が聞こえたかと思うと、髭をはやした大男がテーブルのすぐ横にずいと現れた。
「お兄ちゃん」
お兄ちゃんと石川に呼ばれた男は、満面の笑みを浮かべながら頭を下げた。
「はじめまして。月菜の兄の陽太(ようた)です」
彼は石川の隣の椅子にすっと腰をおろした。
座ってもでかい。190㎝ぐらいあるかもしれない。
顎にはもわもわと髭が生えているが、つぶらな目は人懐こくて可愛い。
少し長い髪はゴムですっきりとまとめられている。
石川と同じく色白なので、爽やかな青シャツがよく似合っていた。
「一応、今日ここで先輩と会うことを伝えておいたんです」
石川は言い訳するように説明した。
「はじめまして、斎藤新です」
僕は慌てて自己紹介をして、これから長い付き合いになるかもしれない陽太さんに頭を下げた。
「いやいや、そんな堅苦しいのはなしで」
陽太さんは豪快に笑い、大きな手を顔の前でぶんぶん振る。
感じのいいひとでよかった。
前の職場のこともあるし、お兄さんに気に入ってもらえるか、内心心配していた。
「今日は比較的お客が少なかったんで、店は同僚にまかせてきました。うちはそういうのけっこう融通がつくようにしてるんです」
陽太さんは大きな声でそう話すと、やって来た店員にコーヒーを注文した。昼食は店で軽くすましてきたらしい。
「本来なら鎌倉の店に来ていただいたほうがいいんですが、妹がまだ本決まりじゃないからと……」
お兄ちゃん、と石川がはらはらしたように制する。
ははは、と僕は小さく笑った。
陽太さんはがはがは笑う。
「斎藤さんのことは昔から妹がよく話していたので、勝手に親近感を抱いてしまってましてね。初対面な感じが全然しませんよ」
あっはははと一人でおかしそうに笑う。
「いや、想像どおりの爽やかな男前で。ぜひ、神楽坂の店で働いていただけたら嬉しいんですけどね。なんせ妹一人にまかせるのは心配も大きいところでして……」
「お兄ちゃん、ちょっと声が大きい」
一人でしゃべり続ける兄にうんざりしたように、石川がにらみをきかせながら制止する。
「まあまあ、そんな怖い顔しなさんな。斎藤さんもびっくりしておられるよ。うん、まあたしかにいま僕は若干興奮してはいるけどね」
「お兄ちゃん、本当に一度黙って」
少し怒気をはらんだ石川の声に、さすがに陽太さんもぴたりと口を閉じた。
サーカスの口枷をつけられた熊みたいに急におとなしくなった兄と、険しい目つきの妹。
ふうん。こういう関係性なのか。
僕は一人っ子なので、こういう兄妹のやりとりはうらやましくもある。
気づくと、陽太さんは愛くるしいつぶらな目をウインクさせて僕に目くばせしている。妹に怒られちゃいましたよ、というように。
僕はそっと笑いかえした。
まだよく話せてはいないが、陽太さんとはうまくやれそうだ。
石川の兄だから、てっきりスマートでストイックな感じの人かと想像していた。これは嬉しい誤算だ。
僕たちはコーヒーを飲みながら、それから一時間ほど色々話した。
鎌倉野菜の魅力、彼らが目指す店の在り方。
陽太さんのこれまでの経歴も簡単に教えてもらった。
彼も二年ほど留学経験があり、帰国後に有名店で修業していたらしい。そして、僕と似たような目にあった、とさらりと触れた。
「月菜から、斎藤さんの輝かしい経歴は聞いていたので、お店を辞めたらしいと聞いた時には、(もしかして)とは思ったんです。職場の人間関係は意外と難しかったりしますからねえ。……本当に他からはまだ仕事の話はきていないんですか?」
「ええ、どこも」
彼は、そうですかと首をひねった。
「案外狭い世界ですから、邪魔のようなものが入っているのかもしれませんね」
そんなことは思いもしなかったので、僕は驚いた。
でも、言われてみればその可能性はゼロではないのかもしれない。
ただ、彼らがそこまでやるとはちょっと思えないのだけれど。
「どうでしょう。たまたまだと思いますけどね」
「そうですか……」
どこか浮かない表情の陽太さんと石川。
そんな二人を見て、僕も少しだけ不安になる。
確かに、顔の広い松井が方々に声をかけたと言っていたのに、いまだに石川からしか連絡が来ないのはちょっと意外ではある。
細かい条件などはつけてはいないのだから、普通に考えてみれば、もう少し仕事の話が来てもおかしくはない気はする。
実際、僕と同じ時期に仕事を辞めて、松井が仕事探しを手伝った人は、一週間以内に面接が決まったらしい。そして一ヶ月以内には別の店で働きはじめたと耳にした。
「まあ、そんなこと気にしてもしょうがないですね。余計なことを言ってすみません。いやあ、せっかくいい日なのに僕が湿っぽくしてどうするんだって話で」
がはははと笑う陽太さん。
今度は石川も苦笑しつつも制することはなかった。
陽太さんは豪快そうに見えて、繊細な一面もあるようだ。
「斎藤さんと一緒に働けたら僕としても光栄ですよ。オープンしてしばらくは、僕もちょくちょく手伝いに行きますので」
ご機嫌な陽太さんは、僕の創作料理もぜひ新店で取り入れたいと話してくれた。僕としては心惹かれる言葉だった。
「ああ、さすがにそろそろ仕事に戻らないといけません」
陽太さんは腕時計を見ると、悲しそうな顔をした。
「まだまだ話したりないのに」
彼と一緒に僕と石川も腰をあげた。
「実はさっき、お店のほうに伺ってランチをいただいたんです。ローストビーフ、とてもおいしかったです」
陽太さんと石川は「えっ」と同時に声をあげて驚いた。
「お店の雰囲気もとても素敵でした」
「なんで黙っていたんですか。じゃあ、ランチを二回も食べたんですね」
石川は驚きながらも、すまなさそうな表情を浮かべた。
「最初からそのつもりで朝飯を抜いてきたから大丈夫」
「そうだったんですか……」
少しほっとしたように石川は微笑む。
「なあんだ、声をかけてくれればよかったのに。サービスしたかったなぁ」
すっかりうちとけた感じの陽太さんが茶目っ気たっぷりに言って、がはははっとまた豪快に笑った。
「うちのローストビーフ、うまいでしょ。あれ目当てで来店される方も多いんですよ」
「でしょうね。僕もまた絶対食べに行きます」
「嬉しいなあ。今日はほんとにいい日だ」
別れ際、なかば無理矢理、陽太さんにハグされた。恥ずかしかったけれど、ちょっと嬉しかったりもした。
帰りの電車に揺られている時、前向きな気分になれている自分を感じた。
こんな感覚は久しぶりだ。
仕事を辞めて以来僕は、自分のなかにある不安を無意識に抑え込んでいたのかもしれない。
その不安が少しだけ消えた気がする。
太さんのもわもわの顎鬚に、女性らしくなった石川、ざあざあという静かな波音が、頭の中でまざりあい、心地よい疲労感を覚えた。
早いうちに返事をしよう。
僕は目を閉じ、心地よい眠りに落ちていった。
*
石川が叔父の店にやってきたのは、それから一週間ほどたった頃だった。
がらがらと戸を開けて入ってきた彼女を見てさすがに驚いた。
来るとは聞いていなかったから。
「どうしたの?」
石川は薄いベージュ色のジャケットに紺色のパンツという、きちんとした格好だった。
「神楽坂のお店の用事で東京に来たので寄ってみたんです。先日はありがとうございました」
「こちらこそ。どうぞこっちに座って。汚い店だけど」
叔父さんがいないのをいいことにそう言うと、彼女は店内をぐるりと見まわした。
こういう店が初めてなのか、物珍しそうな顔をしている。
「けっこう狭いんですね」
カウンターしかないのだから、そう思うのも不思議はない。
荷物を置く場所も、背後の壁についているフックだけだ。
「驚いたでしょ」
石川は僕の顔を見ると、一生懸命に首を横に振った。
「いや、僕も最初驚いたからね。狭すぎだろーって」
「先輩がこれまで働いてきたお店は立派でしたもんね……」
「それ、叔父さんの前では禁句ね。立派じゃなくてすまんなーって怒るから」
「すみません!」
「うそうそ、冗談。叔父さん、若くてきれいな子には弱いから何言っても大丈夫だよ」
石川は少しうつむいて頬に手をやる。
店を開けてすぐなので客が入ってくる気配はない。
それに週末なので、平日よりは若干客足が減る。うちは平日の方が客の入りがいいのだ。
今夜は暇なのがわかっていて、叔父さんはぶらりと出ていってしまった。
一時間ぐらいパチンコでもしてくるんだろう。
「叔父さんは今日はいらっしゃらないんですか?」
「ちょっと出てるだけだから、そのうち戻ってくるよ。根っからの風来坊なんだよね」
石川は目を丸くしてうなずく。
「そうなんですね。会ってみたいです」
叔父さんも石川には会ってみたいだろう。彼女のことはちゃんと話してある。
「なんか食べる? 夕飯はもうすましたの?」
「夕飯はまだです。ここで食べていってもいいですか?」
「もちろん。お酒はどうする?」
「相変わらずお酒は苦手なので烏龍茶で」
「了解。それ、今夜のおすすめね。あと、他に食べたいものがあれば頑張って作るよ」
カウンターに貼り付けた今日のおすすめ料理の紙を石川は顔を近づけてじっと見つめた。
「家庭料理ばかりなんですね。てっきり、創作料理的なものを出してるんだと思ってました」
「気取った創作料理なんてここじゃ誰も頼まないよ。食べなれたものをいかにおいしく出すかに気を使ってます。はい、烏龍茶」
居酒屋らしい大きなグラスになみなみ注いだ烏龍茶を石川はまじまじと見つめる。
「なるほど……じゃあ、おすすめのメンチカツとマカロニサラダをお願いします」
「メンチカツ、かなり大きいから覚悟してね」
「お腹空いてるので大丈夫です」
「お味噌汁とお新香もつけるね。あと煮物も何種類か作ったから、少し食べる?」
「食べます!」
石川は神楽坂の店の内装のことで業者と打ち合わせに来たらしい。
少し疲れたのか、カウンターの上に手をおいて少し前かがみになっている。
「忙しそうだけど、無理してない?」
僕が声をかけると、彼女は顔を上げて笑顔になった。
「大丈夫です。まだ若いんで」
「それだよ。若いからって無理して倒れるんだよ」
「先輩の実体験ですか?」
「僕はそんな無理はしないから」
「そうですか? 先輩は滅茶苦茶無理するほうだと思いますけど」
石川は腰を浮かせると、カウンターの中を覗き込んだ。僕が料理をする手元を真剣な目でじっと見つめる。
油を温めている間に、マカロニサラダとオクラの煮物を先に出した。
「おいしそう。こういう家庭的な料理をお店で食べるのって久しぶりです」
「まあ、こういう小鉢系を単品で出すのって飲み屋さんが多いからね」
「お酒が飲めたらいいんですけどね」
「別に飲めなくたっていいよ。酔っ払いは正直面倒だもん」
石川は微笑みながらマカロニサラダを一口食べた。
「あ、おいしい。マカロニサラダって、たまにすごく食べたくなりますよね」
「だな。家で料理はするの?」
「残念ながら全然。家では適当にすましてます。店でおいしいまかないをたっぷり食べてるから、帰宅したあとはサラダとか軽いものを少しだけ」
石川はなかなかのスピードでマカロニサラダを食べていく。けっこうお腹が空いていたのかもしれない。
すぐにごはんとお味噌汁、お新香も出した。
熱くなった油に大きなメンチカツを三枚落とす。じゅわっという乾いた音、ぱちぱちと油をはねる音が響いて、急に店内が活気づく。
「でもマカロニサラダって、小さい頃は家で出たことなかったです。あ、買ってきたものは出ましたけどね」
「マカロニサラダよりポテトサラダのほうが定番なのかもね」
彼女は大きくうなずいた。
「ポテトサラダはよく母親が作ってくれました。和食が得意で、煮物とか魚の煮つけとかもおいしかったです。でも、作りなれないものはいまいちでしたね」
「たとえば?」
彼女はおしぼりで口をそっと押さえる。
「マカロニで思い出したんですけど、グラタンで大失敗してました」
「どんな大失敗?」
石川は母親がすぐそばにいるかのように、声をひそめた。
「しゃばしゃばのグラタンだったんです」
「しゃばしゃば? ホワイトソースを失敗したのかな」
「ええ、今考えれば。さすがに家族はみんな残してました。本人も」
僕たちは同時に笑った。
「じゃあ、その日の夕飯はなに食べたの?」
「さあ。私がまだ小学生の頃の話なんで忘れちゃいました。なにかあるものを食べたんでしょう」
「でも、お母さん偉いよ。ホワイトソースを自分で作ろうとしたんだから。買わないで」
「そう言われてみればそうですね。なんで作ろうとしたんだろう。その後二度とグラタンは出てこなかったですけどね」
からっとよく揚がったメンチカツを油から取り出し、山盛りの千切りキャベツと一緒に出した。
「熱いから気をつけてね。やけどするよ」
「はーい。すごくおいしそうですね。手作りのメンチカツなんて久しぶりです」
「味はしっかりついてるから、ソースかけなくてもおいしいよ」
そう言いながらも、ソースと醤油を両方出した。
彼女はまずそのままさくっと一口いった。すぐに満面の笑顔になる。
「おいしー。肉汁すごいですね。先輩の料理、久しぶり。感激です」
「それはどうもありがとう。家でメンチカツ作ったことある?」
「一応あるんですけど、こんなにおいしくできなかったです。特別なお肉とか使ってないですよね?」
「スーパーの肉だよ。安いやつ」
石川は信じられないという表情で早くも一個目をたいらげた。二個目はソースを少しかけて食べる。
「カラシもよかったらどうぞ」
カラシを少しつけると口の中がさっぱりする。
「うん、カラシもいいですね。どんどん食べられちゃう」
三個目のメンチカツには醤油をかけた。
だが石川は頬張る寸前でやめ、少し顔をそむけるようにした。
「先輩。食べてるところあんまりじっと見ないでください。さすがに恥ずかしいです」
「ああ、ごめんごめん」
僕は笑いながら視線をはずして、ソースと醤油を片付けた。
「いや、僕と同じ食べ方するんだなあと思ってさ。僕もメンチカツやコロッケは、ソースと醤油の両方をかけるんだよ。一個目はそのまま。二個目はこってりめで食べたいからソース。三個目はさっぱりと醤油で」
石川はちらっと僕を見たが、またすぐに顔をそらす。でも口元は笑っていた。
「へえ、そうなんですか。それは……すごい偶然ですね。私、家でもこの食べ方なんです。一つしかない時も、真ん中から半分はソース、もう半分は醤油をかけるんです。そんな食べ方恥ずかしいし、自分だけだと思ってたので、嬉しいです」
僕は水をグラスに注いで石川の前においた。
彼女は大きなメンチカツ三個をきれいに全部食べ終えると、水を一気に飲んで、ティッシュで口をきれいに拭いた。
「本当においしかったです。ごちそうさま」
「お茶でも飲む?」
「いただきます」
グラスに新しい烏龍茶を注ぐ僕を、石川はにこにこしながら見ている。
「なに?」
「いえ、いいもんだなと思いまして。ここに来る前は正直、どんな風に働いてるんだろうって、ちょっと不安だったんです。でも、先輩は先輩ですね。どこにいても完璧においしい料理を作ってくれる」
僕は布巾でカウンターを拭きながら、小さく笑った。
「僕もここで働きはじめた時はかなり不安だったよ。自分に務まるかなあって。お客さんとの会話だって、なんだか面倒だなって思ってたし。でも、実際にここに立って料理作って出してみたら、そういう不安はなくなった。自然と言葉が出てきてくれるから、自分でも不思議なんだよね」
石川は烏龍茶を一口飲んでから店内を見まわし、それから僕に笑いかけた。
「先輩、ちょっと変わりましたね。まるくなったというか」
「そう? 前はとがってたか」
「そうですねえ……とげとげが少しありました。私はそういう厳しい面も尊敬してましたけど。でもいまの先輩はとてもいい感じです。このお店が先輩をまあるくしてくれたのかもしれませんね」
料理に関して、確かに僕は自分にもまわりにも厳しくあろうとしていた。そうでないと、自分が目指す高みには到達できないと思ってたから。
でも挫折を味わって、それだけではやっていけないのではないかと思うようになった。
おいしい料理がすべてで正義。
もしそれが正しいのなら、僕はいまここにはいないはずだ。
僕はなにかを間違えた。
そのなにかはまだよくわからない。
「先輩、ビールを一杯だけいただけますか? なんだか少しだけ飲みたくなりました」
「じゃあ、僕も少しだけ付き合う」
「本当に? 嬉しいです」
二つのグラスにビールを注いで、軽く乾杯した。
石川は喉がとても渇いていたかのように、ごくごくと飲んだ。お酒は飲まないといっていたが、実はけっこういけるのかもしれない。
でもこれから鎌倉まで帰らないとけないし、疲れてもいるだろうから、一杯だけにさせておこう。
「そうだ、先輩」
彼女は突然くすくす笑いはじめた。まさか笑い上戸?
「私、思い出しました。母親のしゃばしゃばグラタン、家族がみんな残したって言ったじゃないですか」
「うん、聞いた」
「残したもの、うちの犬が全部きれいに食べてくれたんです」
「犬?」
「ええ。隣に住んでた祖父が庭で雑種の犬を飼っていたんですけど、その犬にあげちゃったんです」
まだドッグフードがない時代、犬には残飯を食べさせていたらしい。
その当時はもう平成になったが、彼女の母親はせっかく作ったグラタンがもったいなくて、祖父に頼んで犬に食べさせた。
「犬は大喜びで、お皿まできれいに舐めてたって母親が笑って言ってました。ぴかぴかだったって。そのこと、いま思い出して、なんだかおかしくて」
「ふうん。じゃあ、味は悪くなかったわけだ」
「どうでしょうね。まあでも、捨てずにすんで母親はほっとしたと思います」
石川はえらくご機嫌で帰っていった。
帰りがけ、頬を赤くしながら彼女ははっきり宣言した。
「絶対にまた来ます!」
次に来る時には、僕のいい返事を持ち帰るつもりだろう。
早いうちにはっきりさせないといけないのに、今夜はなにも言えなかった。
どうしてなのか、自分でもよくわからない。
これ以上にいい話はないだろう。
僕は皿を洗いながら、なんでだろうと考え続けた。
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