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4 七尾のオムライス
「うまいっすねぇ」
七尾優(ななおゆう)はラーメンを食べるとそれしか言わない。
仕事終わりになにか食べていこうかという時、七尾はいつもラーメン屋を選んだ。
藤堂はわりとなんでも出すけれど、さすがにラーメンは出さない。
仕事では作らないものを食べたいのかと思っていたが、単純に大好物なんだろう。
「おい、鼻水出てるぞ」
「え、嘘っ」
からかっただけなのだが、そのあと七尾はずるずるずると鼻水をすすったので、本当に出かけていたらしい。
そういう僕もさりげなくティッシュで鼻をかんだ。
カウンター席しかない狭いラーメン店だが、昼時をはずれているのに半分以上の席が埋まっている。見事に男性客ばかりだ。
豚骨味のがっつり系。
僕と七尾は細身だが、他の客はけっこうがっしりした体格をしている。
「お前は体型変わらなくていいな。こっちは仕事辞めて太ったよ」
そう言って、僕はすこしぽっこりしたお腹をなでる。
七尾はそんな僕をちらっと見て得意そうな顔をした。
「僕、最近筋トレしてるんですよ。先輩もしたらどうです? 細マッチョは女の子ウケがいいですからね~」
七尾は恋活系アプリで知り合った女の子とよく会っているらしい。
かなり前から真剣に恋人を探しているが、いっこうにできる気配がない。
悪い奴ではないし容姿も普通なのだが、若いせいかまだ子供っぽいところがある。女の子にはそこが物足りなく感じるのかもしれない。
「で、いま、いい感じの子はいるの?」
僕がそう訊ねると、七尾はぐいと水を飲んでからぐふふと変な笑い声を漏らした。
「一応いますけどね。何度かデートしてるんですけど、とっても可愛くていい子なんすよ」
「いつもそう言ってんじゃん」
「今度の子は一番です」
周りを気にしたのか、七尾は急に話すのをやめてラーメンを食べることに集中した。
十分ほどで食べ終わって店を出ると、七尾はスマホを取り出した。
「ねえ、先輩、このあとカフェ行きましょうよ。僕、行きたいお店あるんです」
七尾はおしゃれなカフェやスイーツが好きという、女子的な趣味がある。いまはこういうのが普通なのかもしれないが。
「いいけど、ラーメン食べ終わったばっかだし、アイスコーヒーぐらいしか入らないよ」
「そうですか……そこ、マロンケーキで有名なお店なんですよねぇ。僕、食べたいなぁ」
マロンという言葉で石川のことを思い出した。
お土産に買ってきたマロン味の焼き菓子は叔父さんや常連の人たちに好評だった。令子さんも喜んで食べてくれた。彼女には家族分もこっそりあげた。
「七尾だけ食べたら」
「じゃあ少しあげますね」
「いや、いいよ。好きなだけ食べて」
七尾が相変わらず天真爛漫にふるまっているので、ちょっと安心した。
藤堂を僕を辞めてから彼と会うのは今日が初めてだ。
久しぶりに連絡が来たときは正直嬉しかった。
店で一番仲良くしてた後輩だし、辞めると打ち明けた時は涙ぐんで引き止めてくれたのだから。
まるで弟みたいに思っていたので、七尾と一緒に仕事ができなくなるのは寂しかった。
自分からは連絡しにくかったけれど、こうしてまた前みたいにラーメンを食べに行けたのは嬉しい。
「たぶん、こっちなんですよね……」
スマホの地図アプリを凝視する七尾と並んで、初夏の陽気の街を歩いていく。
七尾は長袖をまくりあげているが、半袖でもいいぐらいだ。
すぐそこまで夏が来ている。
「先輩、仕事の方は見つかったんですか? この前の電話ではまだって言ってましたけど」
「ああ……そうだな。まだだな」
七尾にはまだ神楽坂の店のことは話していない。
まだ自分の気持ちが固まってないからだ。
七尾はちらっと心配そうな目で僕を見る。
早く安心させる言葉を言えたらいいんだけど。
「じゃあ叔父さんの店でまだしばらくは働くんですね」
「そうだな」
「僕、今度食べに行ってもいいですか?」
「いいよ。月曜以外はやってるから」
今日は月曜だ。叔父さんはおそらく深酒がたたってまだ布団の中だろう。というか、夜まで起きないはずだ。
気づくと七尾はちらちら僕の顔を見ている。
「なんだよ」
「いえ……なんか、先輩、やさしいですね」
「は?」
「今日会った時からずっと思ってたんですよね。なんかやわらかい雰囲気になったなぁって」
なんだ?
この前、石川も似たようなことを言ってた。
「やわらかい? じゃあ、おかたい感じだったんだ?」
七尾は慌てて、「いやいや」と否定する。
「おかたいっていうか……そうですね。なんかいつも、ぴりぴりしてましたから」
「ぴりぴり? まあ、仕事の時はな」
七尾は迷ったのか足を止めた。
「というか……なんか怖かったです」
「怖い?」
あ、と言って七尾は先に立って歩きはじめた。店が見つかったらしい。
オープンテラスがあるいかにも女性が好きそうなおしゃれなカフェだ。
一人ならまず入らない。
僕は食には興味があるが、店の内装や外観にはそれほどこだわりがない。どちらかというと昔から大事に使われてきた建物やインテリアに惹かれる。
だから、叔父さんの店も意外と好きなのかもしれない。
最近の店はどれも似たり寄ったりで店主の個性が感じられないものが多い。こざっぱりとしていて体裁がよく、いまどきを寄せ集めたような店は店主の顔が見えない。魂が込められていないというか。
どこかいびつでバランスが悪くても、そこに誰かのこだわりが感じられる店が僕は好きだ。
「やっぱりここだ! わー、おっしゃれーな店ですね」
七尾は大興奮。
彼のこういう素直で純粋なところは嫌いじゃない。
「えらくおしゃれだな」
店に入ると、テラス席に通された。どうやら七尾はしっかり予約していたらしい。
外から丸見えな席なんて落ち着けないから嫌だが、七尾をがっかりさせたくないので、おとなしくテーブルに通された。
通行人たちがちらちら見てくる。
しかも僕らは男二人だ。
七尾はきょろきょろ周りを見たり、メニューをぱたぱためくったりしてはしゃいでいる。
急に汗が出てきて、何度も額を手で拭った。
「わー、今日は暖かいし、最高ですね。先輩、僕ね、いつか海外でこういうおしゃれな席に座ってみたいんです。昼間からワインなんか飲んじゃったりして」
いいじゃない、と僕は汗を拭いながら乾いた笑いを漏らした。
「先輩も一緒に行けたらいいな、なんて」
「彼女か奥さんと行ったらいいよ」
「それですよね~。あ~、早く彼女作んないと」
「だな」
ふふふ~ん、と鼻歌を歌いながら七尾はメニューを吟味しはじめる。
「先輩はなににします? せっかくだから、マロンケーキ食べましょうよ。そんなに大きくないからいけますって」
「言っただろ。僕はアイスコーヒーでいい」
「後悔しません? じゃあ僕の少しあげますからね」
注文をすませると、ほっとしたように七尾は水を飲んだ。
「ラーメンのあとって、やっぱり喉乾きますね」
「スープ全部飲み干すからだろうが。塩分がやばいぞ」
「だって、ラーメン屋さんはスープ作りにすごく労力使ってるでしょ? 残すのなんてもったいない」
「ケーキなんか食べたらもっと喉乾くぞ」
「それは違う喉の渇き方だからいいんです」
「なんだそれ」
テラス席にも慣れてきた。通りがかりの知らない人にじろじろ見られたってかまうもんか。
「それで、店の方は変わらず?」
僕がいなくなったあと、藤堂がどうなっているのか、やはり少しは気になっていた。
こんな自分でも一人抜ければ、いろいろ困ることもあるだろう。
あと、七尾は僕と仲が良かったから、僕がいなくなったあと冷遇されていないかも心配だった。
「ええ、変わらずですよ。でも最近、新人が二人入ったんです。僕と同い年なんで仲良くやってます」
「そうなんだ。よかったな」
それを聞いて少し安心した。七尾の表情も嘘を言っているようには見えない。
男女の新人で二人とも筋がいいらしい。どうやら戦力として採用されたようだ。
「たぶん、先輩の穴埋めに入ったんじゃないですかね。先輩のあとは二人必要だったということですよ」
なんとも言えないので僕は黙っていた。
やがてアイスコーヒーが運ばれてきた。
喉が渇いていたこともあり、僕らは水のようにごくごく飲んだ。最初に運ばれてきた水はもう空だ。
ここのウェイターは忙しいのか、水を注ぎ足しになかなかこない。
藤堂だったら客がうんざりするほど頻繁に水が注がれるのだが。
「実は先輩、ひとつだけ困ってることがあるんです」
七尾は少しだけ表情をくもらせた。
僕も少し身構える。
「どうした」
「信濃(しなの)さんのことなんですけど、先輩のことをよく訊かれるんです。いまでも連絡を取ってるのかって」
信濃学(まなぶ)は三十五歳の藤堂の料理人だ。
腕はいいがプライドも高く、上には絶対服従で下には高圧的にふるまう僕が苦手としているタイプだ。
僕に敵意を向けてきた先輩連中の中心的な人物でもある。
「それで?」
「連絡とってないですって答えたんですけど、それでよかったですかね? 今度訊かれたらどう答えたらいいですか」
信濃学。
いまさら僕になんの用があるんだか。
もう辞めたのに、まだ文句があるのか。
僕は小さく息を吐いた。
「好きに答えたらいいよ」
「というと?」
「連絡とってるって言えばいいよ。嘘は苦手だろ?」
七尾は不安そうに顔をしかめた。
「そうしたら、あれこれ訊かれると思うんです。僕、信濃さんのことあんまり好きじゃないし、先輩の不利になることはしたくないんです」
自分が辞めればすべてがおさまると単純に考えていた。
辞めてもなお、こんなことで頭を悩ますことになるなんて。
陽太さんが気にしていた、誰かが僕の再就職を邪魔している、というのに、信濃学は関係してるんだろうか。
そんな力が彼にあるだろうか?
いくら狭い業界だと言っても、一介の料理人があらゆる飲食店に手をまわすことなんて不可能だ。
ウェイターがやっと来て水を継ぎ足してくれた。
冷たい水をたっぷり飲むと、少しだけ冷静になれた。
「別に話されて困ることはないから安心していいよ。もし今後、嫌がらせでもされたら、そのときはこっちで対処する。七尾はなんにも心配しなくていいから」
「でもなんか、嫌なんですよ、僕が。僕、信濃さんのことほんとに嫌いだし」
言っちゃった、という顔をしながらも、少し怒った風に七尾は口をよじまげる。
「信濃さんたちが嫌がらせみたいなことしなきゃ、先輩は辞めなくてすんだのに。理不尽過ぎますよ。許せません」
「七尾。僕の二の舞はするなよ? 職場の人間関係を大切にしないと、僕みたいなことになるのは今回のことでよくわかっただろ。僕はもう辞めたんだよ。僕の意志で。だから、僕のかわりになって誰かを憎んだりするのはやめろ。意味ないから」
「わかってますけど、わからない」
七尾は意外と頑固だ。純粋なだけに。
「とにかく、七尾はなにもしなくていい。訊かれたら正直に答えたらいい。僕は話されて困ることはなにもない。これでいいか?」
「いえ、僕は話さないことにします。嘘は苦手だけど、これは話が別です。信濃さんにはなにも教えませんから」
「七尾の好きにしたらいいよ」
七尾はいっちょまえに難しい顔をしていたが、マロンケーキが運ばれてくると子供みたいにわかりやすく顔を輝かせた。早速スマホで写真をとりはじめる。
マロンケーキは思ったよりかなり大きかった。
細いマロンクリームが山ほどかかっている。かなり甘そうだ。
「食べれるのか、それ全部」
「楽勝ですけど、先輩にもあげますから、心配しないでください」
「じゃあ一口くれ」
マロンクリームを一匙もらう。
口当たりはいいが、想像以上に甘い。栗感もしっかりある。ふんだんに栗を使っているんだろう。
「おいしいけど、ラーメンのあとは重いな」
待ちきれないように七尾は僕からフォークを奪うと、ケーキを山盛りすくって口に入れた。
「わっ。すっごく栗。おいしぃ~。来てよかったぁ~」
満面の笑みでぱくぱく食べている七尾を見たら、ラーメンよりこっちが本命なのではないかと思えた。胃は苦しくないんだろうか。
「さっきの話だけど、気になる子とは付き合えそうなの?」
七尾は幸せそうな顔のままうなずく。
「このまえ、告白したんですよ。返事はまだですけどね」
「へえ、頑張ってるじゃない。次のデートはいつ?」
「僕の次の休みの日に約束してます」
「じゃあそのときに返事が聞けるわけだ」
「どうでしょう? 前に会ったときは、まだ考え中って言ってましたから」
考え中。
「返事って、どのぐらい待ってるの?」
「一ヶ月ぐらいですかね」
「……長すぎないか?」
「うーん……でも相手は、本当に好きになってから付き合いたいらしくて。とっても真面目な子んです」
「そうか……相手は働いてる人?」
七尾は僕の二つ年下の二十三歳だ。
「まだ大学生です」
「じゃあ、デート代はいつも七尾が持ってるのか」
「そりゃまあ。相手もアルバイトはしてるみたいですけど」
「また貢いでないだろうな」
「え? なんですか急に」
以前、七尾はアプリで知り合った女性に高額なブランドものを買わされている。
高額な食事をごちそうさせられたり、旅行代金をすべて負担させられたりしたこともある。もちろん部屋は別で。
「大金をその子に使ってないだろうな」
「そんなには……」
「使うなよ。本気な子は、お前にたくさんお金を使わせたりしないから」
七尾は食べるのをやめて、少し悲しそうな顔をした。
「それは前にも聞いたんでわかってるつもりです……」
でも、その浮かない表情は、思い当たることがあるのだろう。
かわいそうに。
七尾が悪いわけじゃない。
このままでは、せっかく楽しみにしていたマロンケーキの味にも響く。
「そうだったな。悪かった。うちの店のことだけど、ほんとにいつでも来ていいからな。好きなもの作ってやる」
単純な七尾はすぐに明るい表情に戻った。
「好きなもの、なんでもですか? じゃあタンシチュー」
「居酒屋メニューの中から選んでくれるか」
「あ、そうでしたね……じゃあ餃子」
七尾は餃子が大好物なのだ。
「いいよ、しこたま餃子食わせてやる」
「やったぁ。僕、すぐ行きますからね、本当に」
わかってるよ、と僕は笑った。
*
「聞いたよ、新君。再就職先決まりそうなんだってね」
令子さんは即席麵をずるる、と食べたあとに言った。
「おいしい料理が食べられなくなるのは残念だけど、新君みたいな人はもっときちんとした場所で実力を発揮するべきだよ」
「きちんとしてないからな、ここは」
叔父さんが笑いながら言うと、令子さんはいたずらっぽく笑った。
「きちんとしてないとこが、ここのいいとこ。私にとっては一番の店だよ」
令子さんが家族みんなと袋麺を楽しめるようにと、僕はヘルシーメニューを考案した。
といっても、鯖缶や家の余り野菜を入れて煮込むだけの簡単料理だ。
もちろん卵も落とす。
「まだ決定じゃないですけどね」
そんなこと言っても決定したようなもんでしょ、というように二人はにやにやしている。
叔父さんはさっきからずっと黒烏龍茶をちびちびやっている。お酒みたいに。
最近叔父さんは酒量を減らしはじめた。
どうやら健康診断で肝臓の数値がひっかかったらしい。
僕に言わせれば、いままで正常値だったのが不思議なぐらいだ。
でも、素直に健康に気をつけはじめたのはよかった。
「でも秋にはオープンするんだろ、神楽坂のお店」
「秋? そっかぁ……秋にはもう新君いないんだね」
石川には今月中にはいい返事をするつもりでいる。
他にあてはないし、いつまでも叔父の世話になるわけにもいかない。
「神楽坂なんか行ったことないなぁ」と令子さん
「俺も」
僕は茄子の煮びたしを二人に出した。
「よかったら食べにきてください。招待しますから」
「機会があったらね」
そう令子さんは微笑んだけれど、おそらく来ないだろう。
神楽坂の店で緊張しながらかしこまった料理を食べるより、ここでほっと一杯楽しむほうが彼女にはあっている。
「俺は行かない。場違いだからな」
ここの常連さんたちも、令子さんや叔父さんと同じく、神楽坂には来たこともないし、来たいとは思わないだろう。
その気持ちが、いまの僕にはよくわかる。
僕もこの店の魅力に気づき、離れがたく思いはじめているからだ。
以前は、こんな風に自分が作った料理を目の前で食べてもらうことはなかった。
どんな表情を浮かべているのかを見たり、直接気軽に感想を訊いたりすることもできなかった。
いまは毎日、お客さんの反応をまるごと全部、受け取ることができている。
「おいしいね」
なんの関係性もない、はじめて会ったお客さんからの率直なその一言がこんなに嬉しいなんて知らなかった。
またその言葉が聞きたくて、僕は毎日家を出る。
はやくみんなに僕の料理を食べてもらいたい。
シンプルな思いと小さな感動でまわるこの生活が、僕は大好きだ。
そう。
僕はここを去ることを惜しがっている。
そんなはずはないと自分をごまかそうとしていたけれど、やっぱり無理だ。
もちろん、ずっとここにいられるはずはない。
十年後二十年後、ここにとどまっていたいというわけではない。
それでも、いまはまだ、ここにいたいと願っている。
石川に返事をしなくてはいけないのに。
どうしよう。
「こんばんはぁ」
聞きなれた声がして顔をあげると、七尾が恐る恐るといった感じで入口から顔を覗かせていた。
「先輩、来ちゃいました」
「お、来たか。入んなよ」
七尾は先客の令子さん、そして叔父さんに軽く会釈してから、するりと店内に入ってきた。
ジーンズに白いパーカー。リュックサックにスニーカーという大学生みたいな格好だ。
「仕事終わり?」
「はい。自転車できました」
「自転車通勤にしたの?」
「ちょっと前から。運動もかねてです。運動不足気味なんで」
筋トレだけじゃ足りないわけか。
すみません、と恐縮したように令子さんから一席開けて腰をおろす。
「はじめまして。七尾優っていいます。先輩には同じ職場でお世話になっていました」
そう簡単に叔父さんに挨拶する。叔父さんのことはすぐにわかったようだった。
それから令子さんに視線をうつし、また会釈した。
彼女もにっこり笑い返す。
令子さんが視線をそらしても、七尾はじろじろ彼女を見つめ続けた。
「おい、七尾。餃子でいいよな?」
「あ、はい。お腹空いてるんで多めでお願いします!」
「了解。令子さんも食べますよね?」
「もちろん」
僕は七尾に、叔父さんと令子さんを簡単に紹介した。
「おきれいですね」
七尾はストレートに令子さんを褒めた。
またか、と僕は呆れたが、ぐっとこらえた。
一瞬驚いた表情をした令子さんだったが、すぐにおかしそうに笑う。
「ありがとうございます。びっくりした」
「いや、本当に。女優さんかと思いました」
「面白い人」
令子さんが笑っているので、胸をなでおろした。どうやら気分を害してはいないようだ。
ったく、七尾のやつ。
ナンパはよそでやれ。
「それなんですか? ラーメン?」
不思議そうに令子さんの丼を覗き込む。
「袋麺です」
彼女は簡単に、袋麺の思い出話を七尾に話して聞かせた。
「へえ。そういう思い出の味もここで注文できちゃうんですか。すごーい」
「いや、注文できるわけじゃないけどね」
僕は苦笑しながら訂正したが、七尾は聞いていない。
叔父さんが佐藤さんのおでんの話もぺらぺら喋りはじめたのに熱心に耳を傾けている。
だが、僕が餃子を焼きはじめると、七尾は腰を浮かせてカウンターの中を覗きこんだ。
「叔父さん、令子さんにビール」
「はいよ」
令子さんのグラスは空っぽ。餃子にはやっぱりビールがないと。
袋麺もきれいに全部たいらげて、満足気に頬杖をついている。
「七尾君もビールでいいの?」と叔父さん。
七尾は慌てて首を横に振った。
「僕、お酒だめなんで」
「へえ、そうか。じゃあ烏龍茶?」
「コーラありますか?」
叔父さんは一瞬言葉を失ったが、すぐにおかしそうに笑った。
「コーラあるよ」
七尾にはコーラ、自分にはビールを注ぐ。
「今日ぐらいいよな。餃子だし」
そう僕にお伺いをたてる。
「いいと思いますよ」と僕。
そうこうしてるうちに、餃子が焼きあがった。かりっとした焦げ目がいい感じだ。
「はい、餃子できたよ」
先に七尾に二人前出して、大盛りのご飯もつける。
令子さんと叔父さんには一人前ずつ。
「おかわり欲しかったら言ってくださいね。焼きますから」
香ばしい匂いが店内に充満している。
「うまそう! いただきます!」
七尾は夢中で餃子を食べはじめた。
令子さんや叔父さんも、黙々と餃子を頬張り、ビールで流し込んでいく。
料理人にとって一番嬉しいことは、賞賛の言葉をもらうよりも、ひたすら食べることに没頭する姿を見ることかもしれない。
三人は見事に僕のことを忘れて、食べ続けた。
二人前の餃子と大盛りごはんをぺろりと胃におさめた七尾は、満足そうに息をついて天井を仰いだ。
「先輩、うますぎました」
「そりゃよかった。満足した?」
「大大大満足です。また先輩の餃子が食べられて感無量です」
どういうわけか七尾の目はすこし潤んでいる。
困ったなと思いながら、むいておいた洋ナシを彼に差し出した。
「口の中がさっぱりするよ」
令子さんや叔父さん、そして自分にも用意する。
しゃりしゃりと洋ナシを食べていると、七尾がしみじみといった様子で話しだした。
「さっき聞いた、思い出のいまいち飯のことなんですけど……僕もあったかなって考えてたんです。それでオムライスのことがぱっと頭に浮かんだんですよね」
いまいち飯とか勝手に名付けている。
「僕ね、両親が共働きだったんで、小さい時からけっこう食事とか自分で作ってたんです。でも料理がうまいわけじゃなかったから、手抜きというか、変な料理しかできなくて」
「何歳ごろの話?」と令子さん。
「小学校高学年ぐらいですかね。本当はハンバーグとかカレーライスとか洋食系が食べたかったんですけど、僕にはまだ難しくて……そういうときによく作って食べてたのがオムライスなんです。ただのケチャップごはんを卵で包んだだけのものなんですけどね」
「意外とおいしいんだよな」
僕がそう言うと、七尾はぱっと表情を明るくした。
「そうなんです! 言葉にするといまいちっぽいんですけど、実際作って食べると想像を超えておいしいんです。ケチャップって超スーパー万能調味料ですよね。僕、小さい頃はなんでもケチャップつけて食べてました。おかずがない時は、ごはんにかけたりもして」
七尾はぱっと立ち上がった。
「そうだ! ちょっと作ってみてもいいですか?」
「え、オムライスをいまから?」
「はい」
「いいけど……」
驚いている僕たちをよそに、七尾はカウンターの中に入ってくると、手を洗いはじめた。
慌てて僕は卵やごはんを用意する。もちろんケチャップも。
フライパンを握ると七尾も料理人の顔になる。ご飯を軽くいためたらすぐにケチャップを投入。わきに寄せて空いたところにといた卵をいれて軽くまぜる。器用にケチャップご飯を卵の上に移動させ、フライパンにのせた皿ごと裏返したら完成。
数分たらずでできる、七尾の思い出オムライス。
「僕はいつもケチャップでこう書いてたんですよ」
そう言って、オムライスの上にケチャップで、(ゆう)と書いた。
「そのまんまじゃん」
「サインみたいな。一応僕の作品なんで」
なるほどね、と令子さんが微笑む。
「食べてみてください」
七尾に促されて、僕らは一口ずつ味見をした。
シンプル過ぎるオムライスなのに、想像よりずっとおいしい。
想像のハードルが低いからおいしく感じられるのだろうか。
いや、単純においしいからおいしいんだろう。
「あれ、おいしい。 なんで?」
そう言った令子さんは自分の言葉に笑ってしまう。
「なんでって失礼か。でも、不思議。ほんとにおいしいね」
「でしょ!」
令子さんの感想に七尾のテンションは上がりまくり。
「うんめ」
叔父さんも気に入ったらしく、ばくばく食べはじめている。
「なんとなく高い材料使ってるものがおいしいって思い込みがあるけど、そんなことはないよね。卵かけごはんとかも最高においしいし」
令子さんの言葉に叔父さんも大きくうなずく。
「それを言うなら、飯にかつおぶりのっけて醤油たらすだけで最高にうまいよ」
「あと、炊きたてご飯で作る塩むすびとかも」
七尾の言葉にも全員納得。
令子さんが店をあとにすると、七尾はあれこれ彼女のことを訊き始めた。
「へ~、三十五歳なんですか。見えないなぁ。二十代ぐらいかと思いました。美人ですよねぇ、令子さん」
叔父さんは黒烏龍茶を飲みながらにやにやする。
「ひとめぼれ?」
「ええっ。やだな、叔父さんてば」
なんなんだこのやりとりは。
皿を洗いながら、僕は七尾に釘をさした。
「令子さんには娘さんがいるんだから、いい加減なことするなよ」
七尾はむっとした。
「どういうことですか。僕は誰の事もいい加減にしたことないですよ」
「アプリで会う女の子たちとは違うって話」
「ひどいじゃないですか、そういう言い方」
七尾はむすっと口を引き結んだ。さすがに怒ったようだ。
だが大事な常連である令子さんに迷惑がかかっては申し訳ない。
「アプリってなんだ?」
僕と七尾は叔父さんの質問をスルーした。
「どうせ、僕なんて誰も相手してくれませんよ。前に話した告白だってだめでしたし」
そうだったのか。
「友達ならいいけど、付き合うことはできないってはっきり言われました」
ふられて傷心中なのに明るくふるまってたのか。
「ごめん、言い過ぎた」
七尾は軽く僕を睨んだ。
「僕だって傷つきますから」
「わかったよ、ごめん」
本当に悪かったと思ってる。
「今日は全部おごるよ。それで許して」
七尾の顔がぱっと変わった。
「え、本当ですか。じゃあまあ……許します」
「じゃあ、仲直りな。コーラ飲むか?」
「はい!」
すぐに機嫌がなおるところは七尾のいいところだ。
「令子さんの娘さんて何歳なんですか?」
「十歳」
「名前は?」
「杏奈ちゃん。令子さんのお母さんと三人で暮らしてるんだよ」
ふうん、とうなずく七尾に冷えたコーラを出す。
「どうして離婚したんですか?」
「知らない」
「訊いてないんですか?」
「お客さんのプライベートを根掘り葉掘り訊く料理人がいるか?」
七尾は少し考えて、「それもそうか」と呟いた。
「でも、ずいぶん仲良さそうだったんで、友達感覚なのかなあって」
「友達ではないよ。令子さんはうちの大事なお客さん」
そのとき、ポケットに入れているスマホが鳴り始めた。
「ちょっとごめん」
僕は店の外に出て電話に出た。
相手は石川だった。
『先輩、いま大丈夫ですか?』
「うん、どうかした?」
『明後日、お店やってますか?』
「やってるけど。来るの?」
『実は兄が先輩の居酒屋に行ってみたいって言ってるんです。連れていってもいいでしょうか?』
陽太さんがわざわざうちの店に。でもなにしに?
「いいけど……お兄さんには説明してある? 狭くて古い居酒屋だって」
電話の向こうで石川は小さく笑った。
『ええ。昔ながらの居心地がいいお店だとは話してます』
「陽太さんて居酒屋とか行くの? 口に合うものを出せるかな……」
『どうぞ気を使わないでください。兄はただ、先輩ともうちょっと話してみたいだけなんだと思います』
「そっか……わかった。じゃあ席を用意しとくよ」
電話を切って振り返ると、すぐそこに七尾がぼーっと立っていた。
うわっと声が出るほど驚いた。
「な、なんだよ」
「先輩、彼女いたんですね」
「はあ? ばーか。違うよ」
「いまの、女の子でしょ。お兄さんがどうとかって、もう家族ぐるみの付き合いまで進んでるんですか」
「だからただの後輩だって」
それでも七尾は疑いの目つきでじとっと見てくる。
「学校の後輩で、仕事の話をもってきてくれただけ」
神楽坂のお店の話を簡単に説明した。
七尾はぽかんとしている。
仕事関係だとは思いもよらなかったようだ。
「なんだ。先輩ちゃんと新しい職場決まってたんですね」
「まだ本決まりじゃないけど」
「でも、その線で話が進んでるんでしょ?」
僕が答えないのを、イエスと解釈したようだ。
七尾はぱあっと表情を輝かせた。
「なあんだ、そうだったんだ。実は僕、すっごく心配してたんですよ。でも安心しました。で、その後輩ちゃんは可愛いんですか?」
僕は無視して店に戻った。
皿を洗いはじめると横に来て、勝手に拭きはじめる。
叔父さんはトイレでも行っているのか姿が見えない。
「彼女、明後日来るんですね。ここに」
僕は七尾を睨んだ。
「お前は来るなよ」
「来ませんて」
そう言って七尾は悪い目で笑った。
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