6 杏奈ちゃんの蕎麦

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6 杏奈ちゃんの蕎麦

「先輩! 全然ダメじゃないですか!」  鍋奉行というのがいるが、どうやら七尾はキャンプ奉行だったようだ。  こいつがこんなにキャンプにこだわりを持っているとは知らなかった。 「テグはこの角度でってさっき言いましたよね? そうじゃないとすぐ倒れちゃいますから。あと、ここもっとピンとさせてください。じゃないとたわんでて格好悪いでしょう」 「……だったらお前がやればいいじゃん。そのほうが早い」  七尾は大げさにため息をつく。 「あのですね、そうやって他の人に頼んでたらいつまでたっても覚えられませんよ。初心者って、そこでまず躓くんです。できる人にやってもらえばいいや~って。めんどくさいでしょうけど、最初にしっかり覚えれば次からさくさくできますから。はい、頑張って!」 「……」  なんかむかつくのは、七尾の態度のせいなのか、それとも自分がうまくできないせいなのか。 「先輩、そんな怖い顔しないで。楽しんでやらないとキャンプしに来た意味ないですよ。苛々しない」  お前がうるさく言うから楽しめないんだろ。 「わかってるよ……あっち行ってろ」 「大丈夫ですか? できます?」  こいつ、面白がってるんじゃないだろうか。 「大丈夫ですか?」  心配そうに声をかけてきた、長身のすらりとした男。  七尾がキャンプ要員として連れてきた藤堂の新人、須賀田健人(すがたけんと)だ。  キャンプ好きで道具一式を持っていることから、七尾が誘った。  令子さん家族は彼女の車で、僕らは須賀田君の車でキャンプ場までやってきた。  千葉のキャンプ場は想像以上に広大で、足を踏み入れた瞬間に爽快な気分になった。来てよかったと素直に思う。ただし、七尾がうるさく喚かなければ、だが。 「俺、ちょっと令子さんたちの様子見てくる」  そう言って七尾から逃げると、川のほうへみんなを探しに行った。  魚釣りも楽しめるらしく、須賀田君は釣り竿も二本持ってきてくれた。  それを使って叔父さんが大物を釣ってやると息巻いていたのだが。  川の音が近づいてくると、風もひんやりしたものに変わった。光も明るさを増したように感じられる。  叔父さんの姿はすぐに見つけられた。  他のキャンプ客から少し離れた場所で、令子さんの母親である美津子さんと並んで釣竿を垂らしている。  二人の笑い声が聞こえてきた。すっかり打ち解けてるみたいだ。 「叔父さん、釣れた?」  大きな声で呼びかけると、同時に二人は振り返った。 「なかなか難しいよ。もう飯か?」  まだテントもはれてないのに、ご飯なわけがない。  昼食はバーベキューの予定だ。野菜や肉などは家で仕込んできた。 「まだだよ。令子さんたちは?」  若々しい美津子さんが笑顔で川の上流を指さした。 「あっちのほうに歩いて行きましたよ」  美津子さんは令子さんに似ていてとても美人だ。明るくてお喋りが好きなところも似ている。 「探してきます。魚、いますか?」  僕は二人に近づいて釣り糸の先を見た。  川面は光を反射してきらきら光り、眩しくて凝視できないほどだ。  今日は恐ろしく天気がいい。気温もぐんぐん上がり、叔父さんは半袖をさらにまくっている。 「さっき、むこうで魚が飛んだ気しがんだけどな」  叔父さんが見た先は少し流れが急になっている。しばらく川を眺めたけれど、魚の影はどこにも見当たらない。 「……じゃあ僕、二人の様子見てきます」  二人に見送られながら、川沿いを上流に向かって歩き出す。  杏奈ちゃんがいるのだから、そう遠くには行っていないだろう。  川向うの高い木々から激しく鳴きかわす鳥の声が聞こえてくる。東京では聞いたことのない声だ。  五分ほど歩くと、遠くに令子さんたちらしき姿が見えてきた。  二人は川の方を向いてなにか話している。  少し声が大きかったので足を止めると、杏奈ちゃんがなにか強く言っている声が聞こえた。  喧嘩でもしているのだろうか。  二人はまだこちらに気づいていないようなので、引き返した方がいいだろうかと一瞬迷った。  すると、杏奈ちゃんがくるりと振り返り、僕と目が合った。  彼女が人間に見つかった野生動物みたいにパッと駆け出したので、僕はあっと小さく声をあげた。  令子さんもこちらを振り返ったが、すぐに慌てて杏奈ちゃんを追いかける。 「一人で行っちゃだめ! 杏奈戻ってきなさい!」  すると杏奈ちゃんはスピードをゆるめずにUターンして、こっちに向かって走ってくる。 「杏奈!」  杏奈ちゃんは令子さんの手をすり抜けて、なおも走り続ける。  呆然と見ている僕の脇も走り抜けて、そのまま下流に向かって駆けていった。  そのあとを追いかける令子さんは一瞬僕を見たけれど、何か言う余裕もないまま走っていく。  杏奈ちゃん、どうしたんだろう。  ただの親子喧嘩?  それとも、本当は杏奈ちゃん、今日のキャンプに来たくなかったんだろうか。  ここに来るまでの車は別々だったし、キャンプ場についてからも簡単に自己紹介しただけで、ちゃんとまだ言葉を交わしてない。  令子さんとはまた違う、きりっとした雰囲気のきれいな子だが、意志の強そうな目をしていた。  杏奈ちゃんがキャンプに乗り気だったかどうかは令子さんに確認していない。  令子さんの息抜きになれば、とそれだけを考えて話をすすめてしまった。  親子喧嘩の原因になってしまったのだとしたら、元も子もない。  ため息をつき、川の流れをぼうっと眺めた。 「先輩! そんなところでなにしてるんですか」  声をかけられて振り向くと、呆れた顔の七尾が駆け寄ってくるところだった。 「探したんですよ。全然戻ってこないんだもん」  腕時計を見ると、三十分もたっていた。 「珍しい魚でもいました?」  僕が眺めていた川面をいぶかし気な顔つきで七尾が見る。 「令子さんとか、みんなそろってる?」 「そろってるに決まってるじゃないですか。須賀田がおいしいコーヒー淹れてくれたんで、先輩も早く戻って飲みましょ」  令子さんや杏奈ちゃんも戻ったのか。  ほっと息をつく僕を見て、七尾が不思議そうな顔をする。  その視線を避けるように歩き出した。七尾も慌ててついてくる。 「先輩、あんなとこでぼーっとしてなにしてたんです? 考え事ですか?」 「ちょっとな……」 「仕事のことですか? 石川さんでしたっけ。あの人の店で働くことに決めたんですよね?」  答えたくなくて無言で歩き続けた。 「あの、先輩。あれから令子さん、僕の話なんかしたりしました?」  は? と僕は七尾を振り返った。 「なんで令子さんがお前の話をするんだよ」 「キャンプに誘ってくれたのは、令子さんの意思もあるのかなぁって」 「お前を誘ったのは俺の意思だよ。男手が多いほうがなにかと便利かと思ったから。そう説明したよな」 「それは建前で、実は僕と令子さんをくっつけようとしてくれてるのかなあって思ったんですけど」 「そんなわけあるか。あのな、令子さんに変なちょっかいだすなよ。これは本気で言ってるからな」  七尾はむっとした顔をした。 「ちょっかいってひどい。僕は本気です。令子さんを正式にデートに誘いたいとも思ってますから」  正式にって。 「令子さんとじゃ年齢が離れすぎてるだろ」 「人を好きになるのに年齢なんて関係ありませんよ」  それはそうだが、それは覚悟がある場合に限るだろう。  アプリで出会った子をデートに誘うのとはわけが違う。  だいたい彼女はうちの大事な常連さんだ。  僕のせいで嫌な思いはしてほしくない。  それに、彼女には杏奈ちゃんがいる。  令子さんを好きになるなら、杏奈ちゃんの存在は切り離せない。 「本気なら、杏奈ちゃんのことも考えてるんだろうな。安易に手を出して、令子さんを傷つけるまねだけはするなよ」  七尾は少し黙りこんだ。  しばらく無言で歩き続けたあと、彼は僕をちらっと見た。 「なんか先輩、やけにむきになってませんか。もしかして令子さんと先輩、なにかあるんですか? それなら僕……」 「あるわけないだろ。大切なうちのお客さんだから心配してるんだよ」  七尾はこちらを見続けたけれど、僕はまっすぐ前を向いていた。  確かに僕はちょっとむきになってるかもしれない。  夜のスーパーで会ってから、なぜか令子さんのことが気になる。  しばらくして、七尾がいつもの明るい声で言った。 「そうそう、杏奈ちゃんがみんなに折り紙で風船を作ってきてくれたんですよ。きれいな和柄で、とってもかわいいんです。先輩のもありますよ」 「そっか……」  みんなに紙風船の贈り物。  さっきの杏奈ちゃんの様子とのギャップに戸惑いながら、僕はこくこくとうなずいた。  みんなのところに戻ると、完成したテントの前でみんなが楽しそうに談笑していた。  コーヒーのいい香りが漂っている。  バーベキューコンロにフライパンを置き、須賀田君がバナナを焼いていた。軽くキャラメリゼして、軽いおやつにするようだ。  他の人たちは焚火台を囲みながらチェアに座り、コーヒーを飲んでいる。  杏奈ちゃんだけは紙パックのジュースを両手で握り、じゅうじゅうと焼けているバナナを見つめていた。  彼女の表情が穏やかで安心した。  令子さんもコーヒーを飲みながら、笑顔で叔父さんや美津子さんと話し込んでいる。 「先輩を無事発見して連れ帰りましたー」  七尾がふざけてそう言うと、みんなが僕を見た。 「団体行動できないタイプか」  叔父さんの言葉にみんなが笑う。  令子さんはどこかすまなそうな表情を浮かべているように見えた。  僕は笑いながら、「おさわがせしました」と頭を下げた。  空いていたチェアに腰をおろすと、須賀田君がコーヒーが入ったマグカップを持ってきてくれた。 「少しぬるくなってしまったかもしれませんが、どうぞ」 「ありがとう。焼きバナナおいしそうだね」  彼はにっこり微笑む。 「食べていただくのは緊張します」 「出されたものはなんでもおいしくいただくよ」  須賀田君はくすりと笑って持ち場に戻っていった。  叔父さんは後ろに倒れそうなぐらいチェアに身を預けて足を放り投げている。 「叔父さん、魚は釣れました?」 「釣れたよ」 「なにが釣れたんですか」 「ヤマメ」  てっきりボウズかと思っていたので驚いた。 「すごいじゃないですか」  叔父さんはにやりとすると、近くに置いてあったバケツを持って僕に見せにきた。  思ったより大きな魚が二匹、狭いバケツの中で泳いでいる。 「二匹も」  ふふんと叔父さんは得意そうに顎をあげた。 「まあ、釣りは若い頃からやってたからな。勘は鈍ってなかったってことだ」 「釣れた時は大興奮でしたよ。私はだめだったけど」と美津子さん。「でも、釣竿なんてはじめて使ったから楽しかった。またやりたいな」  できましたよーと須賀田君が焼きバナナを皿にのせてみんなに配りはじめた。  甘いバナナの匂いがふんわり漂う。  焼きたてのバナナはとろりとやわらかく、キャラメリゼがほろ苦くておいしかった。コーヒーにもよく合う。  杏奈ちゃんも全部たいらげていた。  そのあとみんなでフリスビーをした。昔からある定番の遊びだけど、久しぶりにやってみると意外と盛り上がった。  次に須賀田君がバトミントンを取り出すと、真っ先に七尾が相手役を買って出た。  叔父さんはなぜかシャトル拾い。  杏奈ちゃんは美津子さんとシロツメクサを摘んで花冠作りをはじめる。  令子さんは新しくコーヒーを淹れると、ゆっくりみんなから離れて歩いていった。  僕はそんな令子さんの後ろ姿を見守りながら、バーベキューの支度をはじめた。 *  三十分ほどすると、みんなはバーベキューコンロに戻ってきた。  下準備してきたタンドリーチキンやハンバーグ、野菜を焼いていく。  野菜は見栄えがよくて女性陣が喜びそうなカラフルなものを用意した。赤と黄色のパプリカやズッキーニ、紫キャベツにヤングコーン。  叔父さんが釣ったヤマメも焼いた。  杏奈ちゃんが好きかもしれないと、フランクフルトや焼きそばも用意しておいた。 「このタンドリーチキン、味がよくしみこんでておいしいですね」  須賀田君に褒められてほっとする。彼は肉を焼くのを途中から手伝ってくれた。  彼は人当たりがいいだけでなく、仕事の手際がいい。しかも丁寧だ。  藤堂はいい人材を選んだ。僕よりずっとお店に貢献できているだろう。 「おーい、先輩、食べてます?」  七尾が焼きそばを頬張りながら僕に手を振っている。  軽く手を振り返して、僕も少し食べることにした。  タンドリーチキンに齧りつきながら、視線のはしっこで杏奈ちゃんの様子をうかがう。  長い髪を二つに結んだ彼女は、白いフード付きのトップスにベージュのズボンがよく似合っている。  目はくりっとしているが、鼻筋が通っているのでシャープな印象だ。  彼女は令子さんの隣に座っておとなしくフランクフルトを齧っている。あっという間に食べ終えると、令子さんになにか囁いて腰を上げた。  令子さんの顔が曇る。 「川は危ないからやめておきなさい」  杏奈ちゃんの顔が不満げにこわばる。 「大丈夫よ」と美津子さんが間に割って入った。 「杏奈ちゃん、おばあちゃんと行きましょうか」  それでも令子さんの表情は曇ったままだ。 「目を離さないから大丈夫だって」  美津子さんがぽんと令子さんの腕を叩く。 「川は怖いのよ。おばあちゃんと一緒でも絶対入っちゃだめだからね。たとえ何かを落としても、入っちゃだめ」  わかってるよ、とうるさそうに杏奈ちゃん。 「せっかくキャンプに来たんだから、ちょっとぐらいしたいようにさせてあげましょ」  そう言って美津子さんは杏奈ちゃんの手を引いて川の方へ歩いていった。  二人の後ろ姿を令子さんは腕組みしてじっと見ている。 「じゃ、ここからは大人だけで楽しみましょうや。令子さん、ビールいっちゃう?」  ビールを一人で飲んでいた叔父さんが令子さんに缶ビールを差し出す。  久しぶりに飲んだせいか、既にけっこう酔っぱらっているようだ。 「だめだよ、叔父さん。令子さんと須賀田君は車の運転があるから飲めない」  僕がそう言うと、叔父さんは七尾を見た。 「僕もお酒は弱い方なんで遠慮しときます」  七尾も断ると、叔父はのけぞった。 「嘘だろ。みんなで飲めると思って楽しみにしてたのに……新は?」 「みんなが飲まないんだから、僕もやめときます」  しょんぼりした叔父さんだったが、僕がどんどん料理を食べさせると、満腹になったのかうとうとしはじめた。  やがてみんなも食べ終えると、七尾と須賀田君はトイレに行った。  僕は後片付けに取りかかる。 「おいしかった」  いつの間にか令子さんが隣に来て、余った野菜などをタッパに戻しはじめた。 「杏奈ちゃんもたくさん食べてくれてましたね」  彼女はすまなそうな顔をした。 「さっきはごめんなさい。川で……びっくりしたでしょ」  僕が口を開こうとした時、叔父さんが唸りながら身を起こした。寝ぼけた目をこすってから僕をじっと見る。 「トイレ、どこだ? ビール飲み過ぎた……」  あっちんほうですよ、と指さすと、叔父さんはふらつきながら立ち上がり、よろよろ歩いていった。  令子さんはみんなが使った紙皿やコップ類をゴミ袋に集めている。  僕はバーベキューコンロの汚れに水をたらし、ブラシこすり落とした。 「僕もよく親と喧嘩しましたから」  そう僕が笑うと、令子さんは振り向いて小さく笑った。 「でもあの子、いつもはあんなふうじゃないの。おとなしくていい子過ぎるくらい。……本当は知らない人とのキャンプは気乗りがしなかったみたい」  考えてみれば、当たり前だ。  十歳の女の子にしてみれば、母親の行きつけの居酒屋の人間たちとキャンプに行くなんて、気が重いに決まってる。  しかも全員男だ。 「僕のほうこそ、そういうことに気づかず誘っちゃってごめんなさい」 「新君のせいじゃないよ。誘ってもらってすごく嬉しかったもん。でも、自分ばっかりで、杏奈の気持ちを無視してた」  彼女はゴミ袋の口をぐっときつく結ぶと、チェアをたたみはじめた。 「私ね、川で杏奈を叱っちゃったの。挨拶をもう少しきちんとしないとだめだよって。それで、あの子の不満が爆発しちゃったみたい。私が行きたがってたから気を使ってついて来たのに、いい子でいることまで強要されて頭にきたのね」  杏奈ちゃんははじめて会った時、ちゃんと僕らに挨拶していた気がする。でも、親である令子さんには、声が小さいとか、目を合わせないとか、そういう細かいところが気になったのかもしれない。 「令子さんも杏奈ちゃんも悪くないですよ。仲直り、できたんでしょ?」 「一応ね。今度、あの子が好きなパフェをおごる約束させられたけど」  令子さんがいつもみたいに笑ったので、僕は安心した。 「前に杏奈、駅前の大きな公園でピクニックしたいって言ったの。それを私、キャンプの方が喜ぶだろうって勝手に決めつけちゃった。杏奈にしたら、お弁当持って公園で食べるだけでよかったのかも」 「じゃあ今度、ピクニックに行ったらいいですよ。今日のキャンプだって、大人になって思い返したらそう悪くないって思えるかもしれないし」  バーベキューコンロはきれいになり、令子さんもチェアを畳み終えた。 「そうだね。私、杏奈をどこにも連れていってないことが、ずっと気にかかってたの。だから、今日あの子を連れてきたのは、自分のエゴだったのかも」 「そんなことないですよ。そんなふうに思わないでください」  令子さんはズボンのポケットから檸檬味の飴を取り出した。  それを一つ口に含み、僕にもくれた。 「私、小さい時に親にどこかへ連れて行ってもらったことがないの。うちの父親は、私が小学生の時に病気で亡くなって、母親は仕事で忙しくて子供にかまってる暇はなかった。杏奈には思い出を作ってあげたいんだ」  ちょっと歩いてくるね、と令子さんは言ってすっと立ち去った。  僕はうまく令子さんを励ますことができなかった。  ぼうっと彼女との会話を思い返していると、七尾と須賀田君が戻ってきた。 「わぁ、先輩、全部きれいに片付けてくれたんですね。すみませーん」 「令子さんと一緒にね」 「令子さんは?」 「散歩に行った」 「一人で? 僕も一緒に行きたかったなぁ……、あ、いまね、焚火しようって話してたんです」  七尾の言葉に須賀田君が感じのいい笑顔でうなずく。 「焚火でマシュマロ焼きましょうよ」 「いいね。杏奈ちゃんも喜ぶんじゃないかな」 「焚火は意外と大人のほうが夢中になりますよ」  須賀田君は焚火の準備に取りかかった。 「叔父さんもさっきトイレ行ったんだけど、会った?」  七尾に訊くと、会いましたよーとのんきな返事が返って来た。 「そのうち戻ってくるんじゃないですか」  焚火を囲みながら三人でコーヒーを飲んでいると、美津子さんが一人で戻ってきた。 「あれ? 杏奈ちゃんは?」  驚いてたずねると、彼女は笑った。 「岡谷さんがついてくれてます。私、トイレに行きたくなっちゃって。二人もじきに戻ってくるはずですよ」  そう言って、焚火を囲む椅子に腰をおろす。  叔父さんはかなり酒に酔っていたけど大丈夫だろうか。  心配になり、僕は腰を上げた。 「迎えにいってきますね」  僕は小走りで川に向かった。  少し風が出てきて、肌寒く感じる。  杏奈ちゃんは上着を着ていっただろうか。  さっき杏奈ちゃんと令子さんがいたあたりに向かうと、そこに小さい影が見えた。  杏奈ちゃんが一人で川のほとりに佇んでいる。  長いおさげ髪が風にあおられて、二匹の蛇みたいに泳いでいた。 「杏奈ちゃん!」  驚かせるのもかまわずに叫んでいた。  彼女はびくっと肩を震わせる。  さっと振り返ると、静かな表情で僕を見た。  そのまなざしは、僕を拒絶していた。  なぜ拒絶するのか、僕にはわかった。  彼女は母親に近づこうとしている男を警戒しているのだ。 「ごめんなさい」  杏奈ちゃんはそう言うと、目を伏せた。 「いや……ひとり? 叔父さんは?」  彼女はすっと左の方を指さした。  振り返ると、叔父さんが膝を抱えて座りながら、こちらにのんびりと手を振っている。  目に入らなかったが、最初からそこにいたらしい。 「焚火でマシュマロ焼くけど、食べる?」 「はい」  杏奈ちゃんは小さく頭を下げてから、テントがある方へ向かって軽やかに駆けていった。  風がもっと強くなってきて、叔父さんがかぶっていた帽子が飛ばされた。  テントに戻ると、雨雲が広がりはじめた。  焼いたマシュマロをみんなで食べているうちに、細かい雨が風に交じりはじめ、僕らは慌てて帰り支度をした。  杏奈ちゃんから紙風船をもらえないまま、キャンプは終わった。 * 「キャンプ、私も行きたかったな」  約束通り、石川は誕生日に店にやってきた。  グラタンと白ワインで乾杯すると、叔父さんが彼女にキャンプの話をはじめた。  羨ましそうな顔で聞いていた石川は、「今度は誘ってくださいね」と僕に言う。 「でも週末は仕事だろ?」 「そんなの、事前に言ってくれれば休みぐらいとれますから」  サーモンとオリーブ、野菜のマリネを出す。 「その令子さんて方、常連さんというよりお友達なんですね」  石川は珍しくきれいにマニキュアを塗っている。鮮やかな黄色いスカートに、ふんわりした白いブラウス。髪は髪はおろして、いつもよりきつくカールさせている。  デートでもしてきたかのような恰好だ。  隣の椅子には大きな紙袋をおいている。誕生日プレゼントでももらったんだろうか。 「そうだなぁ。といっても、外で会ったのはキャンプがはじめてだよな」  叔父さんに言われて、ええ、と僕はうなずく。  顔をあげると、石川がやけにじっと見つめてきた。 「きれいなんですか? 令子さんて」 「そりゃ美人だよ。まあ、月菜ちゃんのほうが可愛さは買ってるかな」  なぜか石川はにこりともしない。白ワインをぐいぐい飲んでグラスを空にした。  叔父さんが注ぎ足すと、小さく礼を言う。 「でも月菜ちゃん、誕生日なのにいいの? こんなとこにいて。彼氏と約束は?」  石川は苦笑いを浮かべながら白ワインのグラスをつかんでいる。今日のために、安いが一応ワイングラスを用意しておいた。 「実は、ここに来る前にちょっと祝ってもらってきたんです。恋人じゃないですけど」 「男?」  僕はどういう顔をしていいのか困って、彼女に背中を向けて皿を片付けはじめた。 「元彼です。高校生の時にちょっと付き合ってただけの。最近また連絡をとるようになって、たまに会ってるんです。今日は予定があるって断ったんですけど、店を予約しちゃったからって、仕方なく……」 「店を予約するなんて、元彼はよりを戻したいんじゃないの?」  まさか、と石川は笑い飛ばした。 「復縁はないってはっきり言ってありますし」 「そうなんだ」と叔父さんは意味ありげな視線を僕によこす。  どうやら僕と石川がいい感じだと誤解しているようだ。 「なんで別れたの?」 「私が留学したのをきっかけに、自然消滅したんです。そのあと彼女ができたみたいでしたけど、もう別れたらしくて。連絡してくるのは、たぶん寂しいからでしょう」  どことなく冷めた口調で石川は淡々と答える。  しばらくして叔父さんは競馬新聞を買いに店を出ていった。 「お誕生日おめでとう」  二人きりになると、僕はカウンターの下に置いておいた茶色い紙袋を取り出して石川の前に置いた。 「プレゼント? ありがとうございます!」  石川はぱっと顔を輝かせたあと、大事そうに紙袋を開けて中を覗いた。  ちょっと不思議そうな表情を浮かべながら、四角い箱を取り出す。  蓋を開けると、黒い四角い石が現れた。 「これって……」 「砥石。家で包丁を研ぐときに使って。腕のいい職人が作ったやつで、僕も長年同じの使ってるから」  はあ、と石川は砥石を見つめている。  それから、ふふ、と小さく笑った。 「ありがとうございます。砥石がプレゼントなんて、先輩らしい。大事にしますね」  叔父さんが帰ってくると、僕は石川を駅まで送り届けた。  駅の改札の前で、彼女は少し改まった顔をした。 「先輩、そろそろ仕事のお返事を頂きたいです。もうすぐ七月になりますし」  そうだね、と僕はうなずいた。 「待たせてごめん。今月末までにはきちんと返事をするよ」  石川は僕の顔をしばらく黙って見つめた。 「先輩が迷っていることはわかってます。でも私も兄も、先輩と一緒に働きたいと心から思っています。いいお返事、待ってます」 「ありがとう」  石川はひとつうなずき、それからいつものように元気な笑顔を浮かべた。 「今日はありがとうございました。砥石も」 「気をつけて帰って」  じゃあ、と彼女は改札に向かおうとしたが、足をとめて振り向いた。 「先輩、いま好きな人いるんですね」 「え?」  驚いて石川を見ると、彼女はにこっと歯を見せた。 「私、わかるんです。先輩のことはなぜかよく」  僕がなにか言う前に、彼女は軽く手を振って、駆けるように改札を通り抜けていった。 *  しばらくして駅に背を向けると、少し離れた場所に令子さんが立っていた。  いつかの夜のようにワンピースを着ている。  あれから夜もかなり暖かくなったので、カーディガンは羽織っていなかった。  半袖から白い腕が細く伸びている。 「いまの新君の彼女?」  口の端をわずかにあげた令子さんに僕は首を横に振ってみせた。 「後輩です。料理学校の時の」 「そうなんだ」  彼女はあまり信じていないような顔つきで歩きはじめた。 「夜のお買い物ですか?」  令子さんの隣に並んで歩く。 「ううん。今日はただの散歩」  散歩にしては遅すぎる。もう十時をまわっていた。 「たまには気分転換しないと」  今日、なにかあったんだろうか。  令子さんの横顔をそっと見ても、その表情からはなにもわからない。  少し疲れているようには見える。 「今日はお店、貸し切りだったみたいね」  店に来たんだ。  もしかすると、ちょっと飲みたい気分だったのかもしれない。 「さっきの後輩の誕生日祝いをしてたんです」 「そうだったんだ。あなたたち、お似合いに見えたよ」 「本当にただの後輩です。僕、他に気になる人がいるんで」  令子さんは目を見開いて僕を見た。 「そうなんだ。どういうひと?」 「いまはまだ秘密で。いつか教えます」 「じゃあ……私の知ってる人なんだ」 「どうでしょう」 「そうなると、限られるね。共通の知り合いだと……七尾君とか?」 「どうしてそうなるんです。僕は女性が恋愛対象なんで」 「ふうん」と令子さんは足を止めた。  そして、すぐそばにある自動販売機を指さす。 「おごってあげる。なにがいい?」  僕はブラックコーヒーを指さした。  令子さんは同じコーヒーを二本買って、一本僕にくれた。  並んでゆっくり歩きだす。  「令子さんの誕生日はいつなんですか?」 「三月」 「じゃあ、来年は誕生日にサービスしますよ」 「やった。楽しみ」  通りがかった小さな公園を令子さんはじっと見つめる。 「少し寄っていきます?」  僕の提案に、彼女は嬉しそうに笑ってうなずいた。  公園に入っていくと、象を模した黄色い滑り台が静かに街頭に照らされていた。囲むように銀杏の木が植えられている。  ペンキのはげかけた赤いベンチに僕らは腰をおろした。 「実は今日ね、杏奈と夕飯のことで喧嘩したの」  令子さんは仕事を終えると、スーパーでかき揚げと蕎麦を買って帰った。  だが、家に帰るとそばつゆが切れていた。 「だから、だしの素や醤油で適当につゆを作ってみたの。そうしたら、杏奈が食べたくないって言ってね。味が全然しないっていうの」  おいしくない、食べたくない、と杏奈ちゃんは一口も蕎麦に口をつけなかった。 「私もなんだか頭にきてね。せっかく作ったのに、そういう態度はひどいんじゃないって。じゃあ、かきあげとご飯だけでも食べなさいって言ったんだけど、あの子、へそ曲げて言うこときかなくて」  味がしない蕎麦と聞いて、ある記憶がよみがえった。 「僕、蕎麦屋で同じ体験したことありますよ。出てきた蕎麦がまったく味がしなかったんです」 「お店で?」  令子さんは面白そうな表情を浮かべてコーヒーを一口飲む。  今夜のコーヒーはなぜか苦く感じられない。令子さんにおごってもらったからかもしれない。 「僕、本当に驚いて、まわりを見回したぐらいです。けっこう大きなきちんとした店で、客もたくさん入ってたんです。誰も『味がしない!』って文句を言うでもなく、普通に食べてて。だから、なんで僕だけ味しないんだ、って余計驚いたんです」  それこそ、お湯のようなつゆだった。自分の味覚がどうかしてしまったのかと思いながら我慢して全部食べた。 「いまでも謎なんですよね。つゆの色はついてたから、だしが薄かったのかもしれない……すみません、脱線しました」  夜空に光る月は鋭く欠けている。  二羽の鳥が影絵のようにゆっくり空を横切っていった。 「ううん」  令子さんはくすっと笑った。 「そうだよね。だしって大事だよね。私、めんどくさくて、いつも目分量なの。だから作るたびに味が違うって家族からは不評でね。ちゃんとはかればいいんだけど、つい適当にやっちゃう。私のごはん、全部まずいんだって。杏奈にはいつもそう言われる」  令子さんは苦笑し、僕をちらっと見た。 「料理が下手な人間のこと、どう思う?」 「別になんとも。料理上手の人って、実は少ないんじゃないかな。もしみんながみんなうまかったら、わざわざおいしい店を探して食べにいかないだろうし。料理下手どころか、いっさい作らない人もたくさんいますよ」  なるほど、と令子さんは笑った。 「そう考えると、劣等感に苛まれずにすむ」 「令子さんはがんばり過ぎです」  それから一時間ぐらい、僕らはいろんな話をした。  令子さんがヒールの靴を卒業したこと。満員電車が嫌い過ぎて一時間早く家を出ていること。自分へのご褒美に週に一度はおいしいランチを食べていること。  僕は将来の夢を話した。自然に囲まれた温暖な土地で、古民家を改装した一軒家の店を持つ。お客は一日に一組だけ。お客さんの希望の食材を使い、世界に一つだけのコース料理を提供する。  話は盛り上がり過ぎて、気づくと十一時を過ぎていた。 「大変」  さすがに令子さんは慌てたけれど、どこか楽しんでいるようでもあった。  話したりない。  そんな思いを抱きながら、僕は令子さんと公園をあとにした。  彼女を家まで送り届けると、アパートの明かりはすべて消えていた。 「もう寝てるみたい」  かえってほっとしたように、令子さんは僕に笑いかけた。 「たくさん話せて楽しかった。ありがとね」  令子さんは囁くように声をひそめた。あたりがしんとしているから。 「僕もすごく楽しかったです」  彼女は小さくうなずいてから、アパートの階段を上がっていった。  その足音が聞こえなくなるまで、僕はそこに立っていた。
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