👻

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

👻

「はじめまして幽霊です」  シャワーして髪を乾かしているときだった。鏡に映る僕のとなりに見えている。 「あ、こんにちは」  とっさに返事できたのはゼミの教授くらいの年齢に見えたからだ。いつもの紺色のジャケット。知的な雰囲気の丸眼鏡。血色がよくなくて生気が乏しいのは幽霊だからだろう。 「なんか映っちゃうんですよ勝手に、申し訳ない」  幽霊のおじさんさんは深々とお辞儀する。 「あ、大丈夫です」  それほど驚かないじぶんに驚いたけど、小心者の僕だから、これが色気むんむんな妖艶な女性や筋肉むきむきな厳ついおじさんだったら心臓がくちから飛び出していたはずだ。  僕は鏡のなかの幽霊のおじさんを見つめ、幽霊のおじさんは鏡の外の僕を見つめている。ふりかえるとおじさんのすがたはない。鏡のなかに非現実として存在しているらしい。 「唐突で理解に苦しむでしょうが、私にもうまく説明できません、ほんとうに申し訳ない。I'm sorryです」  声は鏡から聞こえるがうまく実感できない。精神に語りかけられている気がしないでもない。声とは音で、音は空気を波打って鼓膜をふるわせることで伝わるから、声をもたない幽霊は会話に非現実的な手段を用いるのだろうけど、それにしてもI'm sorryって剽軽というかチャーミングだ。 「そんなに謝らないでください」  プライバシーを侵害してしまって恐縮しているようだけど、僕は人に知られて困るなにかを抱えているわけではなかった。泥棒が入ったらあまりに物がなさすぎて気の毒でなにか置いていってくれるかもしれないくらいだ。 「あの、なんて言えばいいのか、失礼ですが『地縛霊』って感じですか?」 「嗚呼、そのへん気になりますよね、おそらくプレミアム化した地縛霊系ではありません。地縛霊系でしたら因縁のストライクゾーンにぼんやり現れればいいだけで、わざわざ鏡に入りこむ必要ありませんからね。そこはご安心ください。おそらく私は一般的なスタンダードな幽霊です。鏡に映るところから判断すると生前に鏡に執着していたのかもしれません、憶測ですが」  はじめての幽霊だからプレミアム化とかスタンダードとか言われても詳しくわからないけど、怨みや憎しみといった負の感情に囚われている実害を来たす幽霊ではなさそうだった。幽霊にも様々な種類があるみたいだけど、幽霊のおじさんのあまり幽霊っぽくない律儀なところに僕は親しみを覚えた。 「その、どんな鏡にも映る──っていうか現れるんですか?」 「嗚呼、それも気になりますよね。生前に少なからずご縁があった方が映る鏡にこうして現れることができるみたいなんです、憶測ですが」 「僕とも関係が?」 「おそらく」  思い出そうとしたけど駄目だった。歳が親子ほど離れているし、身なりからして僕と住む世界がちがっているのがわかる。記憶にないところからすると友だちの友だちの友だちくらいのつながりかもしれない。 「名前ってわかりますか?」  名前を知れば思い出せるかもしれないと思ったけど、幽霊のおじさんは哀しそうな目をしてくびをふった。 「私も知りたいのですが憶えていません。生きていたころは名前があったのでしょうが幽霊化してから消えました」  幽霊のおじさんは内ポケットから名刺入れをとりだして一枚見せてくれたけど名前はなく空白だった。名刺サイズの白い紙。 「あなたは記憶の片隅で、ほんのすこし私を憶えてくれているんだと思います。それでこうして鏡に現れることができる」  幽霊のおじさんを僕いがいの人も見れるのだろうかとか、洗面台のこの鏡いがいにも現れるのだろうかとか、いろいろ疑問がうかんだけど、質問しても幽霊のおじさんを困らせるだけだろう。  鏡から出られない幽霊のおじさんに、こちら側の世界を知る手段はないだろうから、あちら側でもわかる質問だけ投げかけることに決めた。 「なんて言うか、心残りみたいな感覚って残っているんですか?」 「そうですね……」  幽霊のおじさんは悩んでいるようすだった。 「悔いというか、やり残した気持ちというか──」  僕がそう訊くと、幽霊のおじさんはくびを傾けて上のほうを見ながらこたえた。 「あるような気がしますが、ハッキリとはわかりません。なにかを伝えたいた気がしますが、残念ながら詳しくはわかりません」  幽霊のおじさんは途方に暮れているようだけど、狼狽しているように見えなかった。理解できないわからない現実、というか非現実をぜんぶ認めて受け入れることができるのは、幽霊のおじさんの魂が透き通っているからだろう。だれかを憎しみ呪って怨霊化していたらこんな剽軽でいられるはずがない。  しかしながら、怨霊化しないで一般的なスタンダードな幽霊になってしまうと、名前も記憶も消えてしまうらしい。幽霊のおじさんが体現している。それはじぶんがじぶんではなくなるということだけど、中身の消えた空っぽのじぶんとはいったいなんなのだろうと、僕は幽霊のおじさんを見ながら思った。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!