千日紅

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千日紅

❁ …遠くて近い、むかしのこと。 所々、白い靄に覆われた記憶。 途切れ途切れのセピア色。 いつも、私のそばで微笑んでいた、あのひと。 暑かったあの夏の日、私は庭に咲く丸い形の朱い花を指差して、 「あれの花言葉、知ってる?」 そう尋ねた。 「知らないけど。…なんで?」 あのひとが、応える。 不思議そうな顔をして、私を見る。 朱色の中で星が瞬く花。 なぜって、 「…特別な、花だから。」 「理由になってないけど。…素直に教えてよ。」 どこか不満そうな彼の横顔と、ふてくされたようなその声色に思わず、笑みが零れた。 「―の花言葉はね…――」 あの時の言葉を、貴方はまだ覚えているだろうか。 ❁  晩夏の休日。午前十時頃。 目が覚めた僕は、「今日はいい天気だね。」 君に、声をかけた。 君の動く音。テレビの音。 食パンの焼けるいい匂い。 寝室を照らす穏やかな日差しと、 朝特有の気だるさ。いつもより遅い時間。 正直、もう少し寝ていたかったけど パンの匂いにつられたのかお腹が鳴った。 顔を洗うために立ち上がり、洗面所に向かう。通りすがりにキッチンに居る君を見たら、表面が少し焦げた食パンに、ジャムを塗っているところだった。口元には優しげな微笑が浮かんでいて、動作がいちいちひらひらとでも効果音がつきそうだ。広くはないキッチンで蝶の様に舞っている。上機嫌に動いている。 何故、朝からそんなに元気なんだろう。 変なひと。パンの端からジャムがはみ出しているのが、微かに見えた。 不器用なひと。 冷たい水で、顔を洗う。 突如、鈍い痛みと同時に頭の中で響く声。 『―…の花言葉はね…―』 だれかのこえ。 大切だった、誰か。 ぼやけた輪郭。 冷たい水が勢い良く手の甲を撫で、そのお陰でふっ、と我に返る。 ちょうど、香る。赤い花、君の芳香。 音を立て水が止まった。君が肩越しに不満気な顔を覗かせていた。 水道代がもったいないよ。 とでも言う感じで。 鏡に映った君。 朝食の準備はもう終わったのだろうか。 タイミングよく腹の虫が鳴る。 ご飯できたよ、一緒に食べよ。 花が咲いたような。笑顔。 「…うん。食べよっか。」 君につられて、笑みが零れた。 僕を追い越す音。 机の上のパンに塗られた赤いジャムが太陽の光を浴びて輝いている。一足先に椅子に座った君が不思議げに首を傾げながら僕を見る。 どうしたの? …ああ。…幸せ、だ。 「なんでもないよ。」  君の正面に座る。 二人で手を合わせ、いただきます、をした。 君は待ってましたとばかりに、パンにかぶりつく。相当お腹が空いていたみたいだ。もぐもぐ動く口はまるでハムスターの様で、僕の目にはひどく可愛らしく映る。僕の視線に気づいたのか君は、 なに? と目で尋ねてくる。 動く口は、そのまんま。 不思議そうなその視線にひどく焦った。 こう言ったらなんだけど、こっちに気づくとは思わなかったから。 食べ物に夢中な君が。 「く、くちにジャムついてる!」 唇の端の苺色が目に入り、それで誤魔化す。…ほんとは、ただ君を見ていたかっただけだったんだけど。 でも本人には言わない。恥ずかしいし、きっと君は調子に乗るだろうから。 君は、慌てる僕とは対照的で、冷静にティッシュを取り口を拭っているように見えた、でも。微かに耳が赤く染まっていて。 それに気づいた途端、僕は僅かな罪悪感と膨大な愛慕に囚われて、つい君を抱きしめてしまいそうになった。 その衝動を抑えるためにパンに囓りつく。 冷えてるけど美味しい。 君が作るものは何でも美味しい。 君が僕の元に帰ってくるなんて。 なんて、なんて幸せなことだろう。 幸福感に浸っていると、急に庭先から花の匂いが漂って。言い表せない感情に襲われた。 どこかで鳴るだれかのこえ。 急に、苺の酸味が増した。 気がした。 正面の皿は空っぽ。 食べ終わるのが早い。 視線を感じ、顔を上げる。 君の視線と僕の視線が交じり逢った。 すぐに離れてしまったけど。 「…あげないよ。僕だってお腹すいてるんだから。」 そう言うと君は焦ったように首を大きく振りテレビに視線を向けて、 これを見ていただけだから。 嘘をついてるのがバレバレだ。だってテレビは君の真後ろにあるじゃないか。 だけどそんな仕草も、表情も、 あのひと、と重なって。愛おしい。 ふと、君が僕をじっと見る。 君の急激な変化に戸惑う。 …白い指がゆっくりと動いて、僕を指した。 食べないの?もらっちゃうよ。 悪戯っ子の笑み。 「…あげないってば。今から食べるんだ。」 わざとぶっきらぼうに応えた、 君の表情に胸が高鳴ったのを隠すため。 恥ずかしくなって、俯いた。 僕が君の嘘を見抜けるように、君も僕の嘘を見抜いているんだろう。 だからきっと、君は笑う。幸せそうに。 それを見て僕はどうしようもないくらいに、 君のことを愛おしく感じるんだ。 それが僕達の愛のサイクル、愛の廻り方。 …だから僕は、ほんの少し皿から目を離して君を見た。 けれど。 すごくすごく綺麗なかお。 微笑んだ君は慈愛に満ちていて。 神様みたいだった。 そこにいるのは確かなのに。 ひどく、儚い。  そんな顔を見てしまった僕は戸惑う。 迷い子の様な気持ちになる。ほんの少し、ほんの少しの違いが僕を哀しくさせる。 …ああ。 やっぱり君は、あの誰かとは、少し違うんだね。 ついそう思って、再度気付かされるんだ。 君にあの誰かを重ねているってことに。 だから、いつも僕は、君だけを真っ直ぐ見れない。 そう何度も思ってきた。あの時から。 でも、それは違うのかもしれない、と最近思う。 だって、なんだかそれは…なんだかそれは、言い訳みたいじゃないか。 残りのパンを噛みちぎって飲み込んだら、 空っぽの皿が僕を見た。 まるで責めるように映しだされた、僕の影。 台所の流しで皿を洗う。ここからだと君の様子がよく見える。 テレビに夢中な君。一体何の、番組だろう。 ―『最先端の科学技術を紹介!ホログラム特集!!』― ホログラムか。テレビから視線を外し皿を泡立てるのに集中するが、中々泡立たない皿に苛ついて息が漏れた。 もういい、流してしまえ。 適当に、水で洗う。皿は拭いて食器棚へ。 君の後ろのソファに倒れこむ。 心地よい風が窓から吹き抜けていく。 気持ちがいい。 急に袖を引っ張られた。 「…なに?」 せっかくまったりしていたのに。君は僕の袖を引っ張りながら小さな庭の方を指差した。 そこにはミニトマトを植えた鉢と、誰かが大好きだった赤い花々が咲き誇って、在るはずだ。 視線を向ける。 「あ。」 赤い真珠達。 大量のミニトマトが植木鉢から 身をのりだすようにして実っていた。 これを見せたかったのか。苛ついてしまったことへのほんの少しの罪悪感を抱く。 こっちを見る君に、柔らかく声をかけた。 嬉しそうに君は庭に下りて、ミニトマトを採り始める。僕も庭におりて、綺麗な赤色の実を、君が持ってきていたザルに入れる。 …かなり大量に採れたから、しばらく食卓が トマト料理ばかりになるだろう。 最後の一つは敢えて採らずに残しておく。僕らの願掛けみたいなものだ。 君は満足気だ。ひらひらと、冷蔵庫にミニトマトを仕舞いに行く。 僕は縁側に座る。 秋を待つだけになった今の季節。 青い空と独りぼっちになったミニトマト。 仲間がいなくなって、寂しそうに見える。 やっぱり、採ってしまった方が良かったかな。 風に揺れる花の匂い。 心が、苦しくなる、香り。 あの時から、僕はすごく涙もろくなってしまったみたいだ。なんでもないことが、すごく哀しく思えて泣きそうになる。赤い果物と自分を重ねている。自分で決めたことなのに。胸に何かがつまってしまった様に感じるんだ。  ふわり、と頭に優しい感触がした。 君が僕の頭を撫でていた。そっと。 まるで優しく触れないと壊れてしまうとでも思っているかの様に。 安心する手のひら。 おかしいな、僕ってこんなに単純な奴だったっけ。 君の手のひらは、 大丈夫だよ。 って言ってくれてるみたいで。 …随分前、僕にそう言った誰か。 また、重なる。 「本当に?」 僕はもう独りにならない?言葉にできなかった部分も君には伝わってしまったみたいで。少し寂しそうに笑った君はこくり、と頷いた。 君は手を下ろし、僕の隣に座り込む。 君の手を握る。握り返してくれた手のひらは、やっぱり、脆くて儚くて、また哀しくなった。君がせっかく慰めてくれたのに。 感情が何処か壊れているんだろう。君は僕の隣にいて、それはずっと変わらないはずなのに。こんなにも幸せな癖に哀しい、なんて。 ❁︎ …奏でられた望まぬ音。 花の色。 飛んだ傘。 誰かを見ていた。 よく知っている人。とても弱い人。 壊れてしまったような顔をして。 迎えに来てくれた、黒い彼。 なんで貴方も、あの誰かと同じ表情を。先程とった自分の行動を思い返す。 ❁︎  「…っはぁ、…っ。」 乱れた呼吸を整える。久々に嫌な夢を見た。 何十年経っても、いくら歳を重ねても、色褪せないあの頃の記憶。カーテン越しの太陽はすでに高く昇っていて、寝坊してしまったことを知る。 まず、君に謝らなければと振り返った。昨日の晩せっかくの休みだから2人で朝から庭いじりをしようと約束していたのに。 「おはよ。ごめん疲れてたみたい…で、」 振り返った先には、居た痕跡が残っているだけで、 …君がいない。 …まさか。ふとさっきの夢が蘇る。 忘れたい記憶。でも、忘れたくない記憶。 リビングの電気がついていない。 君の動く音が、無い。ベットから出て君を探す。背中に汗が伝う。 まさか、早すぎる、と思う。 それと同時に遅すぎるぐらいだったんだとも、思う。だって君と出逢ってから、何十年も、経つ。期限が迫っていた。いやでもまさか。 頭を振り、余計な思考を止めた。 きっと君は不満気な顔をして 寝坊した僕を怒るんだ。 待ちくたびれたよ、って。 そうしてまた僕と君の日常が始まるんだ。 そうじゃないと、おかしいだろう。きっと、大丈夫だ、まだ大丈夫なはずだ。   君のお気に入りのソファ。  陽光を浴びて柔らかく発光している。 テレビの前の特等席。  敷かれたラグがただ在るだけ。 洗面所。  水滴がポタポタと。 蛇口を締める。 君が料理をしたときに焦がしたキッチン。  仄かな灯がついている。消す。 小さな庭。  赤い実が一つ転がっているだけ。地に落ちていた。 お風呂、トイレ。 鍵がかかっていない。ひんやりとした空気。 僕が寝ていた間に買い物に行ったのかも。 きっと、そうだ。外に飛び出す。鍵を閉める。僕は未だ冷静だ、大丈夫だ。言い聞かせる。 近所の公園。 君とよく散歩に行った。 遊んでいる子供達を見るのが好きだ、と言っていた。記憶が陰る、ほんの少し頭が痛い。 子供達と、その親たち。幸せそうな家族。 君は居ない。 近所のカフェ。君と週に一回はここで待ち合わせをした。仕事帰り。雨が降っている時は特に。僕が君の分も傘を持って。彼女がいつも折り畳みの傘を持っているのは知っていた。ただの迎えに行きたい僕の口実。それに彼女はいつも気づかない振りをして、優しい嘘をついてくれた。僕らはカフェで待ち合わせするのが好きだった。だから、 ―――あの時も、そうすれば良かったんだ。 当然の様に君は居ない。 店を出る。 頭痛が酷くなる。足が止まりかける。でも、走る。 息が切れる。心臓が鳴っている。どれほど走っただろうか。 家の近くの歩道橋から下を眺める。君は居ない。 君は何処にも居ない。当然の様に。 ―――ああ、でも君が居ないことは、分かっていた筈だろう?  公園もカフェも、君じゃない誰かが好きだった場所だ。どこかで僕は、君が外にはいないのを分かっていた。 だって、君は外に出れないから。 なのに、僕はそう知っていながら、探さずにはいられなかった。 息が切れる。きっと、もう一度家に帰れば、はっきりするのだろう。 そんな予感がしていた。でも、それが嫌だった。怖かったし、事実を認めたくなんてなかった。だから知らないフリをして、分からないフリをして、馬鹿みたいに走り回っていたかった。 雨が降ってきた。あの日と同じだ。愛おしい誰かを失った、あの日と同じ憎い雨。 雨に打たれながら帰路につく。 傘を差した人々が、不審そうに僕を見る。 そりゃそうだ。いい歳の大人が雨の中、ずぶ濡れで歩いてるんだもんな。 でも、もう、どうでもいい。 家の扉を開ける。 昨日まで、確かに君は此処に居たのに。今はもう、気配すら感じられない。 ようやく、君を見れるようになったのに。 『君』を好きだったのに。 リビングの机の下。水の粒が落ちる。 暗い部屋の中で唯一光る物。 机の下に、小さな機械が転がっている。 白くて丸い。 それを拾う。君のたましいそのものを拾い上げる。それはまだ少し温かくて、あの花の瑞々しい香りがした。 こうなってしまった時の対処法は知っていた。 数十年前あの男が教えてくれていたから。 君の好きだったソファにその機械を落ち着かせる。手帳に挟んだ古びた名刺を取り出す。 コール音が耳元で煩く響く。 一、二、三回目。 「もしもし…」 相手が出た。低い男の声。 昔の記憶が僕の中で震え、 存在感を主張する。 『君』ではない、『彼女』との記憶。 ❁        彼女の名前は七草朱音(ななくさあかね)と言った。一つ上の大学の先輩だった。部活動が一緒だったのだ。入ってから分かったことだが、部活と言ってもサークルに近い緩いものだった。植物研究会というなんとも曖昧な部活。勧誘に来た彼女を一目見て、好きだと想った。 だけど僕は何もできず、後輩のまま、彼女と出会ってから一年が過ぎた。 でも、あの日。一緒に遊んだ日の帰り道。 季節はたぶん冬だったと思う。 君の吐く息が白く濁っていたから。 月がやけに輝いていて。 スポットライトのように、月光が君に降り注いでいた。その横顔を見て、ふと告白しなければ、と想った。この機会を逃せば次はないぞ、と誰かが僕に囁いた気がした。勝手に口が動いていた。 ひどく、驚いたようだったけど僕の想いに、彼女は笑顔で頷いて。そして、その日から僕達は恋人同士になった。朱音が隣に居る日々は本当に幸せで、このまま一生一緒に居たいと思った。 付き合って二年目。 僕が大学院に進むことを決め、 彼女も仕事に慣れてきた頃。僕はプロポーズした。僕自身の意志を伝えておきたくて。 急な話で彼女は、またかなり驚いた様だった。 「…ありがとう、嬉しいよ。」 笑顔でふわり、僕の頭を撫でて言葉を紡いだ。 「…大丈夫だよ。私も同じ気持ち。 もっと傍に、ずっと隣に居たい。だから、ね。」 彼女はとても恥ずかしそうで。だから、つい先に言ってしまった。 「…一緒に住もう。」告白した時とおなじ感覚。 「…うん。」 顔を見合わせ、二人で笑っていたのに僕は情けなくも、泣いてしまったのを覚えている。だってこんなに幸せを感じた事は初めてだったから。 小さな一軒家が僕達の新居。僕の友人が不動産屋に勤めていて、その紹介で普通よりも安く借りられることになったのだ。院生の僕と新卒の彼女では中々苦しい決断だったが、バイト代と親の仕送りもあったし、なんとかなる金額だった。僕は昔から自分の家が欲しかったから、いずれは買う予定でそこに住み始めた。 朱音が隣にいてくれるだけで幸せで。こんな日々がずっと続くって信じてた。 でもある日、帰ってきたら定時で帰ると言っていた朱音がいなかった。僕は夕飯を作って、彼女を待った。窓の外は、ぽつりぽつりと、雨が降り始めていた。朱音の傘は玄関にあって、なんだか不安になった僕は『傘、持ってく。会社で待ってて。』とメールを送った。 傘というのはただの口実で、朱音に早く会いたかっただけだったんだけど。 ―――もし過去をやり直せるなら、ここから過去を変えたいと何度願ったことか。 傘を持って、会社へ向かう。 朱音はまだ仕事をしているのだろう、返信は無い。僕が着く頃には終わっているだろうか。 雨のせいで視界が悪い。車なんてもっと見えにくいだろうなと、ふと思った。 今日は朱音の好物ばかり作ったからきっと、喜んでくれるだろう。楽しみだ。 携帯が震える。 『ごめん、遅くなった。 今、会社の前にいるよ。傘ありがと。 そっちから見える?』 会社前の横断歩道は赤信号で。 「見えるよ!」と大声で応えた。 雨音にかき消されないように。 愛しいひとに、届くように。 彼女が笑顔で手を振っていた。 すぐ行くよ。 青信号になったから、 急いで駆け寄った。 不協和音。 鳴って。 傘が、飛んだ。 鋭い光。眩しいと思った瞬間。 突き飛ばされていた、 ……。 …………。 ………。 心臓の音が聴こえる。 何かが潰れた音も聞こえていた。 ぐしゃり。 何がおきたのかわからない。 妙な感触がして下を見ると手元に、 (あか)。 雨と混ざった朱い色。 まだ生温い液体が流れ出た先はタイヤの下。 車の、下から覗く、 ちゃいろのかみとあかいいろ。 咽返るような、はなのにおい、 …朱音の。 …あかね? 手を伸ばす。 …朱音? ぬるり、とした感触。 アスファルトと相反する液体の感触。 自分の手のひらが真っ赤になっていく。そんなことは構わなかった。彼女を、其処から出さなければ。いや、違う彼女じゃない、これは何かの悪い冗談だ。だって、数分前は笑っていたじゃないか。当たり前に笑いかけてくれたじゃないか。頭痛がする。吐き気もする。 眩暈もする。 また、不協和音がして、視界の端に車が走り去っていくのが見える。 雨が流していく、赤色もその温度も。 冷たい血がどんどんと排水溝に流れ込んでいく。遠くにサイレンの音が聴こえた。 記憶はそこで途切れている。 ❁ それから暫く病院にいた。精神科の先生を紹介され、何度か話を聞いてもらい、処方箋を貰った。精神が安定してくるとともに、犯人への憎しみも増していった。  数日後、面会に来た警察は、ひき逃げ犯を見つけたが、そいつは森の中で死んでいたと報告に来た。そいつは、彼女の知り合いだった。彼女と奴は仲が良かった。大学の頃から僕は、たまに見かけるそいつの事が嫌いだった。根暗で何を考えているのか分からなかったし、いつも暗い目で朱音の事を見ていたから。でもまさか、そいつが彼女の事を、殺すなんて。 寝ても覚めても、地獄の様だった。常に何を見ても朱音の事を思い出した、同時に殺した奴の事も。どうせなら奴を自分の手で殺してやりたかった。自分で死ぬなんて、奴は何処まで卑怯なのだろう。たとえ自分が捕まって君を悲しませたとしても、そんなことをしても無意味だと分かっていてもそう思わずにはいられなかった。 ただ、朱音に会いたかった。帰ってきて欲しかった。帰ってきてくれるなら、何でもする。 ❁ 自宅は、空気がこもっていた。家中が君の匂いで満ちていた。映り込む君の影。どこからか漂ってくる。見たくなくても、映り込んでくる。なんだかこれまでの数週間が、全部が夢だったような気がする。 そこのキッチンでは、一緒に料理を。 君の好物だったシチューは変色していた。 食べると思って作っておいたのはいつだっけ。昨日の様な気がする。そうだったよね。全部、悪い夢を見ていたんだ、きっと。頭痛がする。 目線を上げると、庭が見えた。 朱音の大好きな花が咲き誇っている。…花言葉はなんだっけ? 君が帰ってきたら、教えてもらおう。 眩暈がする。 とっさに手をついたテーブルの上に置いてある見覚えのない封筒。 なんだろうか、全く心当たりがない。 どうでもいい。 なんだか朱音が傍にいるような気がする。早く、早く、早く君に会いたい。 会いたいよ。 …どこにいるの? 子供達がいる公園? 君は子供が大好きだったね。 すぐ行くよ。 外に出て君を探す。 公園には子供達だけで。君がいない。 すぐ近くにいるような気がするのに。 そう言えば、君は近所のカフェも、大好きだった。店主が強面で、一人だったら絶対入らなかった。君はいつも美味しそうに珈琲を飲んでいて、僕も飲ませてもらったけど、僕には少し苦かった。 カフェには店主と常連客が居るだけ。 そういえば、今日は木曜日。平日じゃないか。 会社員の君は仕事中だ。そりゃ公園やカフェ にはいないよね。どうして気づかなかったんだろう。君に見られたら笑われてしまう。 ある日の君は残業が多いって。会社の文句ばかり言って、だったら辞めればって軽い気持ちで言った僕に君はすごい怒ったよね。君が何時間か帰ってこなかったのは、正直凄く焦ったけど、あの時も君は見つからなかった。僕が寝付くころに帰ってきて凄く安心した。それでも僕は君がなんで怒ったのか分からなかったから謝らなかった。意地を張っていたんだ。二人とも何日も口をきかなかった。 でも、結局は「喧嘩両成敗!」って君が言ってくれて仲直りした。 …いつも、君は大人だったね。 僕よりずっと。 会社の前の横断歩道。 電柱の下に、花が手向けられている。 揺れる、無垢な色。 彼女の香りが鼻腔を擽る。 ああ、…いた。 横断歩道の真ん中に立っている。 綺麗な笑顔で僕を見てる。 ようやく、逢えた。 今すぐそっちにいくよ。 足を一歩踏み出す。 花咲くような笑顔。花の匂いと、朱い音。 …おまたせ。 手を伸ばす。 わらう、わらう、わらう。 君の手に触れ ることなく引っ張られた、後ろに。 同時に車のクラクション。 愛しい人に向かって伸ばした手は行き場を失い、宙をさ迷って。 力が抜ける。服の襟をやすやすと捕まれて、そのまま道路の端の方へ引きずられていく。 ぼくはおかしいのかもしれない。こんなに君を忘れられないのは、こんなにも君に依存しているのは。全然立ち直れない。 愛してるんだ。 そう思う度になんでこんなに虚しいのだろう。なんでこんなに悔しいのだろう。愛しているなんて。僕は何も出来なかったのに。 君が居ない。 ただそれだけ、それだけなのに。 「何をしているのですか。」 「…。」 冷静な男の声が思考を遮る。普通なら感謝するべきだ。でも、僕は彼に感謝できそうにもない。自分が何をしようとしたか分かっていた。 あのまま、朱音と一緒に。一緒に、。 路地裏の真ん中で唐突に手を離された。そのまま僕は地面に転がる。青い空が見える。覗き込まれたが、その顔に見覚えは無い。真っ黒い瞳。何だか妙な気配を持つ男だった。目の奥に感情が見えない。 「自己紹介代わりの名刺です。」 握らせてきた名刺には死神としか書かれていなかった。裏面には電話番号。シンプルなものだ。なんとも馬鹿げた名刺だった。何かの名称なのだろうか。でもなぜだか納得してしまう。彼の持つ人ならざる雰囲気と目の色。底なし沼の色。暗い暗い色。彼は僕から目を逸らし、僕を見下ろして、再度問う。 「…なぜあんなことを?」 「っ。」 素直に答える気は無かった。でも何故だか答えなければいけない気がした。 「…朱音が、呼んでいたから。」 逆光のせいで彼の表情は窺い知れない。でも漏れ出た息は仄かにあざ笑う様だった。 「もう、死んでいますよ。」 「…っ。」 一気に頭に血が上る。そいつの胸ぐらをつかもうとした。気配が消える。 「乱暴ですね。」近くに居た筈なのに数メートル先に一瞬で移動していた。 「まぁ、逆なでしたのは私なので不問にしましょう。」 くるり、と回る。今気づいたが、彼は燕尾服を着ていた。 「さて本題ですが、」 「貴方は大切なひとを取り戻したいですか。」 死神と言うのは本当、なのか。それとも、僕が本当におかしくなったのかもしれない。その可能性の方が高い。現実で死神なんてものは居るわけがない。でも、僕にはもう失うものなんてなかった。こいつを信じて痛い目に遭ったとしても、もう悲しむ人間は居ない。 「…勿論だ。」 「なら。協力してあげます。」 彼は、僕の耳にそう囁いて。それは、悪魔の囁きだったのかもしれない。でも、僕の耳には神のお告げの様に響いて。諦めたくなかった、微かな希望に縋りたかった。 死神は、僕に向かって息を吐いた。 目が渇いて瞬きをした。 その瞬間に僕は白い天井を見ていた。慌てて立ち上がる。病院だろうか、ここは。 数歩先に死神が立っている。 微笑んでいる。 「還ってきますよ。」 何故移動したのか、どうやってとか今はどうでもいい。不思議なくらい気にならなかった。だって、こいつは死神だ。 「…死んでしまった人間を蘇らせるなんて、 できるのか。」 それは禁忌じゃないのか。 震える声で彼に問う。 「死人を蘇らせるなんてことはしませんし、職務違反です。ただ。」 言葉を切り、僕の反応を楽しむかのように。 「…彼女を模したものなら、創ることが出来る。」 「どういうことだ。」 「ホログラム。」 「分からないって顔ですね。」「まぁ、面倒くさいので割愛しますが、人間の技術は驚くほど進歩する。ホログラムは、その産物の一つです。しかし、今の人間の技術ではできない。」 「しかし、私にはそれができる。」 「喋ることは出来ない。只、感触もありますし、食べることもできるモノ。調節すれば人に成り代わることも可能。そして、彼女の欠片を入れ込む。」 「…貴方の求めている彼女が、戻ってくる。」 「…馬鹿げている。」そんなことは聞いたことがない。こいつの話を鵜吞みにしたとしても信じられる話じゃない。しかも、ホログラムと言っても、只の映像だろう。騙し絵に近い。いくらなんでも、ありえない。 「信じなくてもいいですよ。事実として、その技術と魂の欠片を私は使いこなすことが出来る。今の数百歩先の科学とほんの少しの魔法で。」 「死神ですからね。」 「さぁ、どうします?」 「貴方がyesと言えば与えることが出来る。」 僕の中の欲望をたたみかける様に、揺さぶる様に。苦しくなる。まるで、悪魔との取引きだ。じわじわと甘い蜜が僕の中に染みこんでくる。つい、なにも考えずに、頷いてしまいそうになる。でも…いくら何でも話がうますぎる。なんで僕に。 「…代償は、なんだ。」 もし、彼が悪魔なら。心臓を寄越せとでも言いそうだ。でも、それでも僕には抗うことなんて、できそうにない。悪魔に心臓を奪われても、君が戻ってくるのなら。 「…代償ですか。いい言葉ですね。」 「しかし、私は死神です。悪魔の様に魂を欲したりしません。美味しくないですし。」 「でもあなたが敢えて代償を差し出すのなら、貴方の人生だ、とでも言いましょうか。」 少し口角を上げて。試しているような、その視線。 僕の人生? 「このホログラムは、期間が限られています。」 「最低でも一回はコレは壊れ、もう一度別れを経験することになる。その時貴方には、報告義務が発生する。」 「要するにお試し期間です。その段階では、引き返すこともできます。」 「しかし本契約になると、引き返すことはできません。壊れたものを直し継続するなら、死ぬまでは、彼女と一緒に居られる。そして、彼女は声を取り戻すことも出来る。」 こいつは彼女、と言っているけれどそれは彼女じゃない。紛い物、ニセモノ。そうわかっていた。でも、 「…会いたいんだ。お試し期間なんて無くてもいい。本契約を結びたい、そしたら、」もう彼女は壊れないんだろう。もう二度と別れたくない。あんな思いをするのは御免だ。 「そうでしょうね。でも本契約になると代償は大きい。貴方が死んだ後、私は貴方を連れてはいけない。」 「どういうことだ。」 「幽霊になって貴方は彷徨うことになる。貴方は貴方であることを忘れ、同じ思い出の中を回り、いつしか消滅する。生まれ変わることは、無い。」 「…。」 輪廻の輪など信じたことは無かったが、こいつが言うのならそうなんだろう。疑うべきだった。でも疑えなかった、この時の僕は。彼女が戻ってくるのならなんだって良かった。人間は信じたいものしか信じられない。 「今決められないのは当然。」 わらった。 「だからお試し期間があるのです。」 彼は、何も答えられない僕の手に小さな丸い白い機械を落とす。 中心に小さな突起。 「そのボタンを押せば彼女は戻ってきます。壊れた時は、名刺に書かれた電話番号に。」 消えかけた彼に言葉を投げた。 「なんで、助けてくれたんだ。赤の他人に、なんで、」 こんなことしてもメリットなんか無いだろう。 なぜ。小さな声だったから届かないと思った。 「ふふ。」 こちらを嘲笑うのとは違う笑み。眉根を寄せていた、自嘲の様だった。 「…私は貴方を助けてはいません。 契約が欲しいだけ。」 そう言って死神は、黒い靄だけを残して消えた。 ❁  気がついたら、家のソファに座っていた。 机の上の皺くちゃな名刺と小さな機械が、僕を見つめていた。初夏を知らせる雑音が、煩く啼いた。 ❁        君と逢ったのは、その日から一ヶ月程経った夏の日のことだった。病院で治療する必要があり、家に帰れなかったからだ。 蝉がなく音。扇風機が回る音。自分の鼓動の音。機械のボタンを押した。 そしたら、 『君』が現れたんだ。 ❁ 「もしもし。」 あの日から何年経っただろうか。 死神の言っていたことを忘れた日は無かった。確かに現れた彼女は朱音そのものだった。つまり、今日が、その日なのだろう。 「僕だ。」 「ああ、壊れましたか。」 「さて、どうしますか。」 沈黙。僕は、必ずいつか死ぬのだろう。もしこれで終わらせれば、通常通り輪廻転生の輪に組み込まれて、またいつか本当の彼女と会えるかもしれない。でも、それは僕じゃない。今世の僕じゃない、彼女も今世の彼女じゃない。偽物でも君は彼女だった。君は朱音そのものだった。少し違っているような錯覚をしても、声が聴けなくても、朱音の欠片が確かにあった。 僕はもう、朱音と別れることはできない。 「…本契約を。」 「そう言うと思っていましたよ。 ご随意に。」 呆気なく電話は切れた。 ❁ 僕は白い機械を持ち、その突起を押した。 指に伝わる振動と共に、『君』は現れた。 また戻ってきてくれた。 何よりも、大切な君が。 その瞬間、記憶を、朱音の言っていた花言葉を、やっと想いだした。 ―…「千日紅の花言葉はね… 色褪せぬ愛、って言うの。」―… 照れくさそうな朱音の顔。 千日紅の芳しい香り。 記憶のなかの彼女が、鮮やかに微笑み。 いま、君と。重なる。 「…おかえり。」 …ただいま。 朱音の声で、そう言った。 確かに聴こえた。懐かしい声。 前が霞んで、よく見えない。 君の笑顔が、見たいのに。 君自身を、見たいのに。 頬が、濡れていく。 いつも朱音が僕にくれていた 永遠に色褪せぬ愛を僕も君に。 ❁❁ 小さな庭で千日紅が、一輪、咲いた。 刹那、黒い神様と朱い精霊が青く掠れて。 小さな庭の千日紅は、一輪枯れた。 ❁❁            『千日紅』了。
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