黒百合

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黒百合

❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁  雨音が、煩い夜だった。その中で、彼女の出した音は、鮮明に、生々しく響いた。 目の前の、いろ。 とても…、綺麗だ。予定とは違ったけれど。ぞわり、と背中を這った感情は、快感か、興奮か、それとも。…畏れか。息がしにくい。 『―――ッ!』彼女の名前を呼ぶ、声。 硝子に映る、その色に。窓を閉めていても、微かに漂う、その芳香に。酔いしれてしまいそうだ。…なんて、なんて美しいのだろう。オレが、彼女をこんな姿にさせている。こんな風に成っても、彼女はとても美しい。いつまででも、其処に居たかった。きみの香りに、きみの姿に、魅入って居たかった。 君を呼ぶ、誰かの声は、未だ止まず。 雨も、まだ、その上に降り注いでいる。 ⌛  彼女と出会ったのは、春だった。大学の入学式に向かう途中。慣れぬスーツを疎ましく思っていた。 麗らかな小春日和だった。舞い落ちる桜の花びらの中、オレを追い越していった、その人。揺れる、ポニーテール。みっともなくて危なっかしい名前も知らない背中が、やけに美しく見えた。きっと、相当に浮かれていたからだ。言い訳としては、小学校の頃から意識させられていた、大学受験の壁を乗り越えたからだとしておこう。これで親から、受験だなんだと急かされることがなくなるばかりか、この春から、念願のひとり暮らし。どちらかというと、過保護で過干渉な両親から離れられると思えば、浮かれもする。 今や少し遠のいた美しい背中を、なんともなしに目で追っていた、けれど、不意に視界からその背中が消えた。なにかに躓いたのだろうか。その人は、顔から地面に突っ込んでいった。さすがに、そのまま見て見ぬ振りをすることもできず、その人に駆け寄った。明らかにスーツに慣れていないが故の、その事故に、同じ新入生だろうと決めつけ、「大丈夫か。」と、手を差し出す。敬語はいかんせん苦手で、同期であるならば、なるべく使いたくなかった。その人は、突然現われた手のひらに驚いたのか、目を瞬かせてそれを凝視した。感情が、表情や行動に出やすい子だな、と少し幼な子を観察しているような気持ちになる。ようやく状況が理解できたのか、涙目ではあるが、彼女は、恐る恐る、オレの手を取ってくれた。  「あ、ありがとう。」妙に掠れた声色。指先は、ほそやかで白い。綺麗に切りそろえられた爪の薄紅色がやけに目についた。小さくはないが、指が長く華奢な手のひら。それは、こけた時についたのか、砂の余韻で少しざらついていた。相手もそれに気づいたのか、あたふたと立ち上がり、慌てた様子でハンカチを取り出す。あっけなく離れていった、体温。真っ白なハンカチを汚すのも忍びなく、軽く手で制した。 「ごめんなさい。」と一言だけ、呟いた彼女。その声が、表情とは正反対に落ち着いたものだったから、違和感を覚えて、可笑しくなる。 「気にするな。」小さくそう言ったのがきちんと届いたのか、表情が目に見えて明るくなった。…なるほど。目は口ほどにものをいうとはこういうことを言うのか。その人は、自分のスーツについた砂を払っていた。案外、手つきが雑だ。それも終わって落ち着いたのか、「あなたも、蓬華大学の人?」大きなまるっこい瞳がオレを見上げた。その口元は柔らかく綻んでいて。ああ、ワクワクしているのだな、となんとなく分かる。なんだか、懐かれてしまったようだった。何にワクワクしているのか、全く分からないが。分からないが、知りたい。と思った。懐いてしまったのは、こちらも同じだった。今から思えば、その時から彼女のことが、もう既に好きだったのだろう。きっと、出会ったこの瞬間の感情が、彼女へ向けた一番綺麗な、モノだった。ソレを、恋と呼ぶことが許されるのなら。 ⌛⌛  オレはその人と、彼女と、徐々にではあるが、親しくなっていった。なんせ入学式も隣の席だったのだ。元々、無口なオレでも、彼女は屈託なく優しくて、明るくて、それでいて周りに、心地良さを与えることができる人間だった。そんな彼女は、当然、多くの人から好かれ、愛されていた。オレは徐々に彼女との距離、壁といってもいいかもしれない、ソレを、色々な局面で感じるようになっていった。しかし、度々、彼女はそんな壁を、ものともせずに乗り越えてきて、なんの取り柄もないオレとの関係を切ろうとするどころか、頼ってきさえした。それは例えば、サークルの先輩と揉めた時であったり、友人関係に悩んだ時であったり、自分の未来のことであったり、学生らしく勉学のことであったりした。小さなことから大きなことまで、彼女は度々、オレを頼った。彼女の方がオレより全てにおいて優れていて、多くの人にも恵まれているというのに、何故わざわざオレを頼るのか、理解ができなくて、以前尋ねたことがある。 その時の彼女は、紅茶を一口飲んで。口角を緩やかに上げた、その表情がいかに艶やかだったことか。 「だって、あなたは私の弱いところを、受け入れてくれるから。聞いてくれるだけで、落ち着くの。」 彼女が口を開く度に、最近はまり始めたという、赤い花の紅茶が密やかに香る。不快ではない、ささやかな匂いだった。微笑んではいたが、どこか仄暗さを感じさせる、それ。彼女のなかの、薄闇。オレはその言葉だけで、充分だった。充分で、その先を望もうとしなかったのが間違いだったのだろうか。でも、その頃は、それだけで、満たされていた。満ち足りた日々だった。しかし、それは砂の城でしかなかったのだ。 ⌛⌛⌛  それをオレが知ったのは、ある春の日のことだった。彼女と出会ってから、一年が経とうとしていて。あの日の再現のような、小春日和。 彼女がやけに嬉しそうだったから、話を振らずにはいられなかった。オレから、なんて珍しいことだった、と思う。 「嬉しそうだな。」 オレがどんなに小声で話しかけたとしても、彼女の耳には、いつもきちんと届いた。 「分かる?」彼女は、鈴が鳴るように笑った。春にふさわしい明るい音色だった。彼女が動く度に、ふわり、と花が香る。小さなワンルームは、いつだって彼女の好きな千日紅の香りで満たされていた。「あのね、」  「今日、後輩が入ってきたの。とっても良い子。」実を言うと、オレはその時点で少し、嫌な予感がしていた。サラサラと砂の城が、崩れていくような、そんなものを、感じていた。 「それで?」オレは、いつだって、二人で話しているとき、不意に覗く、彼女のせがむような、(もしくは縋る、というのだろうか)眼差しに弱かった。そのせいもあってオレは、彼女の望む、オレでしか居られなかった。「それでね、あの子ったら…。」 時が経つのと比例して、彼女のなかでどんどんその後輩の存在が膨らんでいった、のをオレは何も言わず、見守るしかなかった。そういうオレを、彼女は望んでいたから。ただ、彼女が頼るのはいつだってオレだった。後輩が現われても、その立ち位置は、揺らぐことすらしなかった。後輩だって気づいていただろう、時折、刺すような目線をこちらに向けていたから。それに晒される度、相手に対して、優越感と、不思議な感情を覚えたものだ。お願いだから、お前もその立場で満足していてくれ、お願いだから。今から思えば、それは懇願に近い祈り、だった。それは生憎、届くはずもなかったのだが。 現実は、非情だった、そして、それが、必然だったのだろう。 ⌛⌛⌛⌛  四年生になった頃から、彼女からの連絡が一気に減った。お互い、卒業論文や就職の関連で、予定を合わせることも難しくなっていた。しかしそれだけではないような、そんな気がしていた。オレは焦燥にとらわれて、一日に連絡を何件も何件も、送りつけるようになった。それに返信がくる時もあれば、こない時もあった。ただ、彼女の部屋には一度も行かなかった。…行くことができなかった。 ⌛⌛⌛⌛⌛ ある日、偶然、彼女と大学ですれ違った。 「…なんで。」些細なその一言で、彼女はオレの言いたいことが分かったようだった。以前までのはじけるような笑顔は消えて、怯えが見え隠れしていた。彼女はついと、目を伏せ、 「あのね、」「言うのが、遅れたけど。」「わたし、あの子と付き合ってるの。」「もう、一年になる。」見上げられた、その瞳の色に、以前のような暖かさは微塵も無かった。縋りつくような、弱さ、だけ。 「…そうか。」自分でも聞き取れないような、呟きだった。彼女はともすれば、泣きそうな顔つきでこちらを見上げていた。その顔を見て、オレは想う。祝福、したい。祝福するべきだ。オレが、そうすることを、彼女は望んでいる。望まれている、まだ。 「おめでとう。」  彼女は驚いたように、目を見開いた。なんだ、その顔。お前が、望んだ、ことだろう。お前が、そうさせた、だろう。訳の分からぬ焦燥に駆られ、届くように、もう一度言う。「おめでとう。」自分の声が、自意識の中に、落とし込まれ、波紋が広がっていく。崩れていく、愛おしい砂城。オレの、ゆいいつ。  「ありがとう。」桜のような、ほころんだ、その笑みに、もういい、と思った。彼女がまだ、そうやって笑ってくれるなら。笑いかけてくれるなら。こんな、痛みを伴う感情くらい。いつだって、春が来る、と想った。そうして、オレの学生生活は、終わっていった。 ⌛⌛⌛⌛⌛⌛  オレは卒業してからも、彼女と連絡を取り続けていた。2,3ヶ月の頻度で彼女と会っていて、4回目くらいだったから、卒業から一年くらい経ったころ。いつも通り、彼女と仕事帰りに落ち合って、行きつけの居酒屋で、お互いの職場の愚痴やら、近況報告をしていた時、急に彼女が声を潜めて、 「あのね。」と言った。それが、合図だった。彼女がオレに、学生時代と変わらずに、自分のこころの中身を、話してくれる、そんな合図。 「彼にプロポーズされて、一緒に住むことになったの。」 「好きな人と、一緒に住めるなんてすごく素敵なことじゃない?」 「いつも相談のってくれて、本当に、ありがとう。」 「今の幸せは、あなたのおかげだから。」 「ありがとね。」 オレの好きな人が、オレの好きな表情で、オレの砂城を、細かく、細かく、切り刻んでいく。不意討ちのそれに、なんともない表情をして、黙って耐えるしか、その時のオレには術がなかった。 ―――もう、止めてくれ。叫び出しそうだった。そろそろ、おかしく、なりそう、なんだ。その道を選んだのは確かにオレ自身だけど、もう、いいだろう。もう。なにも聞きたくなくて耳を、塞いでしまいたかった。 「今の部屋は引き払って、今度、一緒に部屋を選びに行くの。決まったら、絶対教えるから。」「だから…、遊びに来てよ。ね?きっと、彼も喜ぶから。」 縋りつくような、その眼差しを、初めて、憎い、と思った。ふわりふわりと、香る彼女の匂い。ある花の芳香。その、花言葉。それが、オレへの感情だったら。ことばだったら、どんなに良かっただろう。 そのあと、彼女になんと返したのか覚えていない。毎日毎日、同じことを繰り返すだけで、いつの間にか月日は経っていて。…もう、自分の恋心が元々、どんな色をしていて、どんな味がしたのか、思い出せなくなっていた。在るのは、手元に残ったのは、土気色の苦味、だけ。彼女が、いつか、今よりもっと、自分の見えないところにいってしまいそうなのが、それが、なによりも怖くて、何通も何通も、メールを送って、不在着信を残した。その衝動は、何年か前の感情と同じようでいて、まったく異なるものだった。もっと、どろどろと纏わり付くような、それは、強迫観念ともよく、似ていた。彼女は、変わらずあの頃と同じように、度々それに返信をくれ、度々電話もくれた。オレの携帯電話には、留守番の伝言だけが残った。一つ変わったことと言えば、いつも最後に、「遊びに来てよ。」と、強請るような、結びの言葉があることだけだった。オレは、彼女がもう何も気づいていない、なんてあり得ないと思っていて、それゆえに度々、彼女のことをひどく憎んだ。憎んで、憎んで、どうしたって、愛していた。どうせ、報われることなどないのだから、と離れてしまいたかった。離れようとした。しかしそういう時に限って、「遊びに来て。」と携帯が震えるのだ。それは、メールであったり、電話であったりした。とっくの昔に崩れたはずの砂城は、ドロドロに溶けて、もう、オレの手には、負えなくなっていた。ああ、憎い、憎い、愛おしい、好きだ、愛している、愛しているよ。オレを、見て。せめて、片隅にだけでも、置いて、ほしい。 渇望。 ⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛ オレは、教えられた彼女の家の住所を、地図で、探すようになっていた。また実際に、そこへと続く道のりを、帰る途中に、辿るようになった。偶然、彼女の背中を見かけて、声をかけることもせずに、追いかけるように見届けることが、増えた。そして、それを出迎える、後輩の姿も。 そのふたりの姿は、幸せを絵に描いたようだった。幸せというものが、具現化するならきっと、このような形で、このような色をしているのだろう、と誰が見てもわかる、正しい、在り方だった。…愛している、のに。なぜ。何故、オレは、敵わなかったのだろう。何故、あそこに居るのが、オレではないのだろう。一ヶ月、二ヶ月と彼女の背中を追うのが、日常となった。 ある日、彼女から相談された。いつだって、その席は、その場所だけは、オレのものだった。彼女は変わらず、他の人間に言えないことを、弱さを、内緒話をするように、オレに教えてくれた。 「あのね、」 「なんだか最近、尾けられているような気がするの。」オレが、その犯人だと言ったら、君は、この居場所さえ与えてくれなくなるのかな。もう、オレを、一時でさえ、見てくれなくなるのだろう。それだけのことを、オレはしている。胃がひどく痛んだ。彼女の香りが、責めるように鼻腔をくすぐった。「送っていく。」せめてもの罪滅ぼし。縋るような眼差しから、溢れた笑顔。そのことへの、安堵。安堵。醜さ。安堵。「ありがとう。」その日彼女を、尾ける者は誰もいなかった。それに安心したような、その顔。家の前で立ち止まり、「今日は、寄っていく?」と、安心しきった表情そのままに、君は微笑む。 「いや、いい。明日も早いんだ。」何度も使っている見え透いた嘘に、気づきもしない、鈍感さ。オレ以外に笑いかける、特別を、直視したりしたら、オレはもっと、もっと、おかしくなってしまうだろう。 彼女は、家に入っていく。彼女の、帰る家は、そこなのだ。オレの傍ではない、彼女にとって、唯一の傍に。彼女が、あの花言葉を捧げた、唯一。彼女がオレをその位置に選ぶことは、彼女が彼女である以上、あり得なくて。そのことを、そのことは、ずっと、ずっと前から、分かっていたけれど。振り向くことのない、美しい背中を、オレはそろそろ、受け入れないと、いけなかった。彼女が望む、オレで在るためには。そこまで、オレは、彼女の笑顔が頭から離れなくて、それ故に、憎んでいて、愛していて、狂わされている。その事実が、ひどく悔しくて、涙がでた。 とても、冷たくて美しい、よるだった。月が綺麗でした、と呟いたら、嗚咽が喉の奥から、溢れて、あふれて、止まらずに。ふらふらと。 ⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛    その日から、オレは彼女と連絡を取るのを少しずつ減らしていった。それでも、度々連絡が来るその人は、相も変わらず幸せそうで、オレはこれで良かったのだと、毎回毎回、何度目かの納得をした。その人の居ない日々は、代わり映えすることもなく、このまま自分は安らかに骨を埋めていくのだろうし、それが自分にとって調度良い幸せのような、そんな気がしていた。砂城は跡形もなく流れていってしまったけれど、それでも、砂城がそこに在ったという事実だけで、オレは生きることができたし、幸せを感じることのできる、そういう人間だった。オレが返事をしなければ、その人からの連絡は、徐々に途絶えていった。 ⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛  毎日毎日、同じことを繰り返して、その日もまた、同じように帰路についていた。夕飯をどうしようか、久々にあの人とよく行っていた馴染みの居酒屋にでも顔を出そうか、とぶらぶらしていた時だった。ふわり、と懐かしい芳香が、した。スーツの女性が、オレの横を足早に通り過ぎ、そして、転けた。それはもう、盛大に。春の桜が散ったような気がした。まだ、晩秋だというのに。深夜の街中は冷たいもので、周りの人間はだれひとり手を貸そうとはしなかった。奇異の目を向けて、無難に、立ち去っていくだけ。オレもそうするべきだった。けれど、そうするにはこの光景に既視感がありすぎて。まさか、と思いながら、手を差し出す。白く華奢なその、指先。「ありがとうございます…。…ッ!?」ああ、やはり。逃がしては、くれないのか。オレは、君を、不幸にするだけなのに。突然のことにその人は、目を白黒させ、言葉も出ないらしかった。「…すぐ転けるの、変わらないのな。」笑うしかなかったオレとは対照的に、彼女の目尻はどことなく赤い気がした。彼女が愛するあの紅い花のように。よく見ると、頬には涙の乾いた跡がある。その上、転けた衝撃で、だろうか、目尻に新しい涙が溜まりつつあった。いい大人が鼻を鳴らして、泣いているその様は、情けなく、まるで学生の頃に戻ったようだった。彼女が、オレを拠りどころとして、寄り添って居てくれた、あの頃のようで。だから、オレはあの頃と変わらない、穏やかな気持ちで、尋ねた。 「…どうした。」彼女は目を瞬かせ、 あの頃と、同じように。 内緒話を、するように。 「…。あのねッ…、」 合図をくれた。 砂の城が次々と、つくられていく日々。あっという間に。固く、前よりもずっと。コロコロと表情を変える、君に。好きだ、と言えたなら。好きだ、と叫べたなら。オレは崩れていく城をこんなにもたくさん、つくることもなくなるのだろう。でも、言っては、駄目だった。それさえも、あの頃と、同じだった。 彼女はあの日、同居人と喧嘩になったらしい。曰く、くだらないこと。帰宅してすぐ、会社の愚痴を吐き出す彼女に、同居人は辟易したのか、そんな会社辞めれば良いと言い放ち、彼女は、その一言になぜかいつも以上に腹が立ち、どうして良いか分からず、着替えもせず、外に飛び出したらしい。 私の方が、年上なのにね、子供のままだ。彼女はそう言って、自嘲した。前向きな彼女には珍しい、表だった負の感情を、頬に浮かべていた。ルージュを引いた唇の先には、前にはなかった煙草が、咥えられていた。薫らせて、吐き出す。銀色の皿に落ちる、灰。それを導く、華奢な指先。増える、煙草の残りかすと、空いたグラス。それを、視界の隅に置きながら、年齢なんて関係ないだろ、そういう日だってあるさ。と、彼女の望む否定を返す。それと同時に、同居人に対して、馬鹿だな、と思う。彼女は…、こんなにも、弱いのに。知らないだろう。ぞくり、と背中が震えた。快感だった。彼女はいつだって、結局、オレを頼ってくれる。アイツの特別は、彼女の唯一だけれども、オレも確かに、彼女にとって特別な存在で、アイツはオレの立場には、成れない。オレは、彼女の唯一、なのではないか。ゆいいつ。砂城に新しい水が染み込んでいって、固くなっていく。「ありがとう。あなたは、いつも私を、認めてくれるね。」今日も、君は綺麗に笑う。 「また連絡しても、いい?」ふと、のぞく君の弱さ。ああ、見たい、もっと。君の弱さを。もっと、君が、いかにどのようにして弱さを、曝け出すのか、見ていたい。手に入らないと思っていた、けれども、それは間違いだった。もう、手に入れていたのだ。彼女の持つ、弱さや寂しさは。負の感情全て、オレのモノだった。 ⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛⌛ ある日、ふと目に入った花屋に、黒々とした百合が咲いていた。珍しいな、と思って近づく。白百合はよく見るが、黒、だなんて。なんだか… 「気になりますか?」 いつの間にか近づいてきたのか横に、男の店員が立っていた。年齢が掴めない、不思議な雰囲気を持つその男は、はっきり言って、可愛らしい花屋には、全くもって馴染んでいなかった。しかし、その店のロゴが入ったエプロンを着ているために店員であることは見間違えようがない。 「これは、黒百合です。店先に置くのには、なんだか不気味、と思いませんでしたか。」質問口調の割にはオレの返答を期待しているようには見えなかった。黒々とした瞳が、オレを見つめる。見透かされそうなソレに、気味の悪さを覚えて口を開く。 「そうですね。」不気味というより不吉だ。でもなぜだが、その黒百合から目が離せない。 「今の私は、花屋店員ですが、あなたがこれからしようとしていることに、賛成はできませんね。」 オレがしようとしていること。自分の中でも曖昧にしていた部分を覗き込まれたような。いや、でも、分かるはずがない。あり得ない。 何も言えず、その店員を見返した。 「…この花に惹かれるというのはそういうことですよ。」見透かすような、その口調も、口元に浮かべた笑みでさえも、何から何までその男は、花屋の店員らしくなかった。 「…惹かれてなど。」みっともなく、声がうわずる。 「警告、ですよ、これは。」 「本当はこんなこともしてはいけないのですが。」溜息のようにして、言葉を漏らしたその男は、黒百合をバケツの中から、一つ引き抜いてオレに差し出した。 「忘れることです。何もかも。」 この男は、なんだ。薄気味悪さが最高潮に達して、黒百合を差し出したその手を払いのけ、店を後にしたはずだった。 しかし、いつの間にか、オレの手のひらには黒百合がしっかりと握らされていて。 「餞別です。警告をお忘れなきよう。」 頭に響く、その声に振り返ると、男の姿は、消えていて、花屋には白い百合と他の花々しか咲き誇っていなかった。黒い百合なんて、一輪もない。あんなにも咲き乱れていたのに。白昼夢でも見ていたかのよう。しかし、手のひらには黒百合が残ったまま、僅かな風に揺れている。気持ち悪くて、一刻も早く、この花を手放してしまいたかった。けれども、それができなかったのは。花が好きな彼女のせいで、一通り花言葉の知識を持っていたからだ。黒百合の、花言葉は。オレが彼女に向ける感情、そのもの。オレの足は自然と彼女の家へと向かっていて、気づけば、黒百合を、ポストへとねじ込んでいた。なんと、醜いことだろう。その日からオレの砂城は、黒百合へと姿を変えた。 ❁❁ 後日、あの花屋に訪れると、男の店員はひとりもおらず、女性店員しか見当たらなかった。次の日も、そのまた次の日も、同じだった。しかし花屋に寄る度に、黒百合はそこに在った。オレが訪ねるのが分かっていたかのように。以前、男が黒百合を抜き出したバケツが店の近くに置いてあって、当たり前のように、黒百合が一輪だけ咲いていた。オレを諫めるようなその色は、冷水から取り出す度に、男の声が聞こえてくるようだった。『あなたがこれからしようとすることに賛成はできませんね。』『忘れることです、なにもかも。』『警告ですよ、これは。』  …ああ、そうだろう。昔から、オレは人の忠告を聞かない子供だった。特に、このことは、誰からの賛成も求めちゃいないし、忘れることなんてできっこない。頑固なまま、図体しか大きくなれなかった。しかし、あの人間離れした男に、そう言われたことによって、心は大きく揺さぶられていた。正直に言おう。怯えていたのだ。オレは自分が思っていたより、随分と臆病者だったらしい。だからオレは毎日ではないが、気持ちが大きくなりすぎた時、花屋の近くのバケツに寄っては、黒百合を手に入れ、彼女のポストにねじ込んだ。そうすると、気持ちがほんの少しだけ、軽くなったような気がしたのだ。長年募りに募った想いが、彼女に届いているような気がして。そうして、また幾日が過ぎた。 ❁❁❁❁ 電話が鳴った。彼女からだった。オレはその時、休憩室(と言う名の喫煙所)に居た。「もしもし。」 彼女の声はどことなく沈んでいた。『今晩、仕事帰りにどこか寄らない?相談があるの。』彼女はそう言った。オレは黒百合のおかげでだいぶ気持ちが落ち着いていた。だから、急な彼女の誘いにも動じることなく、快く了承できた。以前のように、返答に迷ったりすることもなかった。「いいぞ。どこがいい。」最近、断ってばかりだったオレの瞬時な返答に驚いたのかほんの少し息を詰まらせたような、そんな気配を電話越しに感じた。数拍の間の後、彼女は言う。『…いつものところで。』彼女の声はひそめられていて、休憩と言って職場から少し抜け出してきたのかもしれないな、と思う。彼女は、度々そういうことをした。ずっと仕事をしていると息が詰まるのだ、とそう言っていた。社会人失格ね、とも。彼女はいつだって、自分に対する基準は厳しいくせに、行動は甘い。いつもの、というのは行きつけの居酒屋だ。始めの頃は、彼女とのいつも、が増えるだけで嬉しかったのに、いつから、それだけで満足できずに、こうなってしまったのだろう。「わかった。じゃあまたあとで。」『ありがとう。ごめんね。』最後の謝罪は、半ば掠れていて、オレは今すぐ彼女の傍に駆け寄りたくなる。その衝動。彼女が弱くなればなるほど、咲き乱れる、黒百合。抑えても、抑えても、溢れそうになる、ソレ。抑えるのなんて慣れきったはずだろう、なのに、なんでこんなに痛むんだ。いくら経っても、この痛みは変わらないし、なんでもない声色を装うのも、もう意識するまでもなくできるようになった。なんの自慢にもならないけれど。「いいや。気にするな。」もう一度、耳元で、『ありがとう』と聞こえて電話が切れる。ぞくり、ぞくり、快感が背中を這う。今日の夜が、待ち遠しい。 ❁❁❁❁❁❁ オレより少し遅れてやってきた彼女は、表面上は、いつも通りだった。しかし、以前会った時よりか、少し頬がこけているように見えた。居酒屋に入って、彼女はビールを注文する。疲れが溜まっている証拠だ。でも、それも、仕事帰りの彼女にとっては、いつものことだった。彼女は、一杯目にビールを飲むのが好きだ。前にそれを親爺みたいだと、揶揄うと、彼女はコロコロと笑って、それはまた違うでしょ、と。その笑顔があまりにもあどけなく可愛らしくて、なにも言えなくなった。それ以降、オレも一杯目ビールを頼む回数が増えたのに、気づいているのだろうか。 オレが席に落ち着いたのを確認して彼女は、「ごめん、吸って良い?」と尋ねてきた。 わざわざ確認しなくたって、オレも喫煙者であるしなにも気にしないというのに。同じ穴の狢だ。そうは思うものの、彼女のその配慮の仕方は好きだし、彼女が多くの人間から好かれるのはそういうところに起因するのかな、とも思う。胸ポケットから取り出した箱に、少しの違和感。 「銘柄、変えたのか。」「うん、ちょっとね。彼に臭いがきついって怒られちゃって。」照れくさそうに笑う、その顔。飽き性なのに珍しく、随分と気に入って、長続きしていた銘柄だったはずなのに。 「そうか。一緒に住んでるし、当然か。」とっさに飛び出した自分の言葉に、何処かが痛む。…自傷癖はないはずなんだが、なんで自分を追い詰めることをわざわざ言ってしまうんだろう。思考がどんどん鬱々としたものに変わっていく前に、話題を変える。 「…今日はどうしたんだ。」まどろっこしいのは苦手だし、彼女は誰かに聞いてほしいから、オレをここに呼び出したのだろう。彼女は、オレの言葉を聞いているのか聞いていないのか、感情の読み取れない曖昧な表情で、煙草に火をつけ、ひと息吸う。その表情。迷子のようだ。どこか頭の隅で冷静に、思う。「なぁ、」 「お待たせしましたーッ。ビール二つ、お持ちしました。」勢いよく置かれた、ジョッキによって声は遮られた。まだ、ひと息しか吸われていない煙草が、灰皿に捨てられたのが、そのジョッキ越しに見えた。このご時世では、煙草代も高いのに。勿体ない。 「あのね、」向こう側から微かに聞こえた、合図。周囲の喧噪に、その声がかき消されぬようにと、耳を傍立てる。 「あのね。最近、ポストに、この花が入ってるの。」僅かに震えた、その指先には、黒百合が。少し萎れているが、間違いない。オレが今朝入れた、その花。縋るような、その眼差し。 …ああ。綺麗だ。急激に、快感をも、超越するような歓喜が、全身を、支配していく。鳥肌が立った。オレのひとつの所作が、彼女をこんな表情にさせている。背中が震えた。 「彼にも、心配させたくないし、そもそも何の意味かも、はっきりしなくて…。」「誰にも言えない。」「あなた、いがいに。」指先の震えが、彼女の声帯まで侵したように、揺れる声。付け足された、その言葉。黒百合を、机の上にそっと手向けた、白い指。彼女は、とても、とても弱い女性だった。ほんの些細なそんな理由で、一緒に住んでいる最愛の人に相談すらできない、なんて。口角が上がるのを、必死に押さえながら、オレは、いつも通り、彼女の望むオレで居ることを、そう在ることを、選択する。 「確かに、それは、不気味だな。でも、そんなに、気にすること無いんじゃないか?」心底、気遣うように、そして訝しげに。茶番でしかなかった。必要な茶番。いつもだったら、これで済むはずで。オレの愛する笑顔が、覗くはずだった。しかし、彼女の顔は浮かないまま、靄がかかっている。内面の脆さが消えないまま。彼女は思ったより、憔悴しているらしい。なぜだか、その時、オレは妙な感覚に襲われていた。黒百合をポストに入れたのは紛れもなく、今の自分と同じ自分のはずなのに。他人事のように思える。 「ねぇ、これの花言葉、知ってる?」いつだって、感情の渦から引っ張り上げてくれるのは、君の声。引きずり込むのも、君の所作。 無論、知っている。けれど、言うわけにはいかない、彼女には。 「なんだ、またあの頃みたいに、花言葉当てゲームか。」オレはビールを、一口煽って、笑いを含めて呟く。彼女は、花言葉に詳しくて、一時期は、自分の心境にあった花を身につけたり、人に贈ったりしていた。そして、傍に居るオレが、それに気づく度、尋ねるのだ。 「ねぇ、これの花言葉、知ってる?」と。 懐かしい、記憶だった。つい、頬が緩んだオレを見て、目の前の彼女は自分の発言が茶化されたと受け取ったらしい。「違うってば。真剣に聞いてるの。」それも、わかっている。でもここで、言うわけにはいかなかった。だから、嘘をつく。「黒百合は、知らないな。」オレの表情を見て、彼女は、安堵と疑いが混じったような目線を向けて、小さく、そう、と呟いた。雨音のような、ソレ。けれども、縋るような、眼差しは未だ瞳の奥底に残っていて。なにより、そのことに深く、安堵した。彼女はまた煙草に火をつけ、「変な話して、ごめんね。」小さく笑う。「私、なんかお腹すいちゃった。」「飲んでばっかりだったし、なんか頼んでいい?ここのだし巻き、大好きなの。」今日の内緒話は、これで終わりらしい。瞬時に、それでいて自然に、普段の雰囲気に戻った彼女は、メニューを見て、微笑んでいる。そんな彼女へ、オレは、曖昧な相槌を返した。 ❁❁❁❁❁❁❁❁ 「おい。酔いすぎじゃないか。そろそろ帰るぞ。」途中から机に突っ伏しだした、その丸い頭に声をかける。「ん~、だいじょうぶ。でも、お冷やほしい。」店員を呼び止めて水の入ったコップを二つもらう。「ありがと。」弱々しくも微笑んだ彼女は相変らず、心臓に悪く、直視しないようにしながら、ちびちびと自分の分の水を飲む。時刻は、いつの間にか0時を回ろうとしていて。それに気づいたのか、目の前の君は、優しい声で終わりを告げる。 「そろそろ、お開きにしよっか。」お会計は割り勘ね、なんて。水は、すっかり飲み干されていた。 ――まだ、一緒に居たい、なんて言ったら、君はどんな顔をして、その言葉を否定するのだろう。ああ、ばかげた妄想はしないに限る。虚しくなるだけだ。今日は珍しく飲み過ぎたのかもしれない。頭の中でぐるぐる、水に溶けきれなかったアルコールが、回っている。余計なことばかり、考える。 「送っていく。」夜道は暗いから。そういう言い訳を紡いで君の返答を待つこの心持ちは、学生時代と何も、変わってはいない。そのことに、君は気づいているのだろうか。「うん、ありがとう。」帰り支度をしながら、目の前の彼女は、いつも通り、微笑んだ。 ❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁ 夜道を、二人で歩く。お酒が入っていたとしても、適切な距離を保って。学生時代の友人、の正しい距離は、手を伸ばしてやっと届くか届かないか、くらい。もしくは、数歩先、数歩後ろ。近からず遠からず。今日は、数歩後ろで彼女の背中を、後ろ向きの横顔を、眺める。冷えた夜道を歩いたおかげで、店を出た時に感じた酔いはもうほとんど感じられなかった。そろそろ彼女の家に着く、というところで、数歩先を歩いていた、彼女が振り返って言った。彼女の瞳は、いつも、オレをとらえて放さない。 「…黒百合の、花言葉は、呪い、って言うの。」その滲んだいろは、酔いのせいなのか、それとも別のなにか、なのか。後者だったらいいな、とオレは想う。その時点で、この想いは、正しくなんかない。わかっている。なにも、変わらずに、なんて居られない。わかっていた。「…。ついたぞ。」 「…うん、ありがとう。」なにも返さないオレに、彼女はなにも言わない。昔から、そうだった。都合が悪くなると、すぐに逃げるオレに、彼女は慈愛の満ちた笑みで。いつだってそういう時は、決して縋ってなんてこなかった。それは、優しさ、だったのだろう、彼女にとって。オレはいつだってその優しさに、ジワジワと首を絞められていた。今だって。いつだってそうだ。 「帰るね。じゃあ、また、」 君は、帰るのだ、オレとは違う場所に。何も言わずに、何も言えずに、いつものように、彼女の背中を見送る、はずだった。彼女が鍵を取り出す前に、ドアが開く。「ッ…朱音。」彼女の名前。オレが、呼ぶことのできない、ソレ。「中々帰ってこないから、心配した。おかえり。どこ、行ってたの。」眉根を寄せた彼は、彼女の背後に、目をやって。当然、後ろに立ちすくんだオレと目が合う。「…先輩、」「一緒だったんですね。」滲み出る、警戒心。威嚇。彼女を、手に入れることなんて、オレにはできやしないのに。知っている頃より、彼はなんだか大人びたように見える。そうだよな、お前も、もう院生だって彼女が笑って言っていた。学生なことは変わらなくても、もうあの頃とは、お前でさえ。 「ああ。送っただけだ。」 「…朱音が迷惑かけたみたいで、すみません。」彼の瞳の強さは、彼女と、とてもよく、似ている。「でも、もう、大丈夫なんで、気をつけて帰ってください。」早く帰れ、と訴える、突き刺すような目線に、いつもよりは酔っ払っていないよ、なんて。そう言ったら。この男は、どういう風に、その顔を歪めるのだろう。どういう、表情をするのだろう。けれど、振り返った彼女の、縋るような眼差しが、オレを止める。いつも…、そうだ。吐き出しかけた言葉が、ただの吐息となって空気に溶けていく。…馬鹿だな。 「…ああ。ありがとう。」オレは、二人に軽く手を振り、背を向ける。数歩歩いて、近くの角を曲がる。彼ら、の会話が、声が、聞こえる距離を考えながら、立ちどまる。何日か、想いを届けるのを我慢して、小さなブーケに仕上げた黒百合たち。それの僅かな隙間に潜ませた、盗聴器は上手く作動しているようだった。さすが高性能と謳われていただけあって、それは小さな音ですら逃さない。彼らが、部屋に入ってくる開閉音が、聞こえる。黒百合は、きっとゴミ箱にでも捨てられているのだろう。度々物が落ちてくる音が、聞こえてくる時があったし、開放的な場所に置いているにしては、聞こえてくる音がくぐもっている。それに、誰かともわからない薄気味悪い花束を花瓶に生けることもしないだろう。だから、これが聞けるのは、次のゴミ出しの金曜日まで。 ―また、あの人と飲んでたの。 呆れたような、でも甘い声に、君は少しの罪悪感を含めた声で、相槌を打つ。君のことだから、言葉だけではなく、きっと、小さく頷いてもいるのだろう。 ―最近、顔色悪いし、やつれてない? ―朱音、大丈夫? 通信が悪いのか、度々雑音が交じる。彼女は、その問いかけに『大丈夫。』と言うだろう。否、そう応えなければならない、君は。確信があった。だって、彼女が弱さを、見せるのは、オレだけだ。なのに。 ―…ちょっと、辛いかも。 応じる、掠れた声。黒百合のことは言わずに、仕事がちょっとね、と彼女は続けた。ソファのスプリングがきしむ音。彼女が、体重をかけたのだろう。 ―あんまり、無理しちゃ、駄目だよ。 ソファに体重をかけたのは、彼女だけではなかったらしい。二人分の足音が消えた代わりに、ソファが大きく、きしむ音。 ―ちょっと、 ―…お酒くさいでしょ、いつも嫌がるくせに。 ―嫌だよ、 男の声が、途切れて、数秒の間。 触れ合う、音。 ―ぼくは。 ―君が、他の男と、ふたりっきりで、 飲んでるの、嫌だよ。 ソファのきしみが、より一層大きな音を立てて、そして、止んだ。何かに顔を押しつけているような、くぐもった声。 ―朱音が好きな、千日紅の紅茶淹れるから、それまでゆっくりしてて。 ―…うん。ありがとう。 若干の罪悪感の混じったその声。 なのに、しあわせ、そうな。 ―まさとの、淹れた紅茶、わたし好きだよ。―…千日紅じゃなくても。 あいつの、名前を呼ぶ、照れるような、甘えるような。そんな。 ぶちり、ぶちり、とオレの中の黒百合が、千切られて、千切られて、散っていく。彼女は、オレ、以外に弱みを、見せていた、見せることができていた、多分、ずっと前から。その事実。 彼らの音を聞いていられなくて、盗聴器の電源を切る。「…ハハッ…。」知らぬ間に息が漏れて、笑ってしまっていた。…なんて、なんて滑稽だろう。裏切られた、そう想ってしまうこと。やめられない。裏切られた、裏切られた、裏切られた、何度も木霊する、事実。誰かからの警告が薄れていく。裏切られた。許せない。其処は、オレのモノ、だったのに。其処だけは、ゆいいつ、だったのに。もう、何処にも、ない。 もういい、だろうか。もう、オレは。彼女の望む、オレで居なくても。もう、いいだろうか。彼女は、オレを裏切ったのだから。 ❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁ それから、何日も何日も、花を、贈った。黒百合の、小さな花束。ねじ込むのではなく、ゆっくりと、ポストへ。君も、この呪いにかかればいい。想いがうつってしまえばいい。新調した、盗聴機の電源をつける。機械から流れ出した君の毎日は、相変らず幸せに満ちていて。朝の君は快活で、たまに寝ぼけていて。夜の君は甘え上手で、たまに疲れていて。そんな中で度々、オレの携帯へ彼女から連絡が来る。オレは、応答する時もあれば、全く返さない日もあった。しかし連絡がきた次の日には必ず、花を贈った。しばらく、そんな生活が続いた。平穏な、日々だった。 そんな平穏の終止符を打ったのは、またしても、君だった。君は全てを変えて、終わらせていく。 チカチカと青く瞬く、電子機器。彼女からの、電話だった。こんな時間になんの用だ。時計は21時前を指していた。 『あのね。』 『驚くと思うけど、』 『わたし、妊娠した。』 『正人(まさと)には、まだ言ってないの。でも、あなたには、言っておこうと思って。』 電話越しに、明るい声が聞こえる。聞いているだけだった。妊娠。思考停止とはこのような状態を指すのだろう、と頭の片隅で冷静に思っている自分がいる。妊娠。 『それでね…、できたら、あなたに…、』息が、詰まる。彼女の、こども。あいつとの、子供。『…もしもし?ねぇ、大丈夫?』 耳元でいぶかしげな声が聞こえる、その吐息まで、聞こえてきそうだった。その吐息の中には、既にもうひとり、違う人間が宿っているなんて。オレの愛しているひと、のなかに、違うものが。吐き気を感じて、トイレに駆け込む。便器の中に顔を突っ込み、嘔吐いてしまったほうが楽になれる気がした。気持ちが、悪い。気持ち悪い。「…すまん。急用が入った。」向こう側に、そう告げて通話を切る。携帯が、勢いよく床に落ちて。その音が、個室のなかに反響した。 ❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁ 数日経っても、考えが纏まらないままだった。収拾なんてつくわけもなく。ふとした瞬間に、思考の渦にのみこまれ、欠勤日数だけが、増えていった。 オレの心の、黒百合が、まだ艶やかな濡れ羽色だったころ、なんてなかったけれど。遠い昔。いつだって随分と汚れきった色だったけれど。綺麗な、綺麗な、深い紫色。やはり、そんなもの、幻想だった、すべて。彼女は、朱音は、弱みだけじゃなく、幸せを、幸せの一端すらもオレに、分け合おうとしている。きっとこれからも、それは続くのだろう。勝手に幸せに、なっていてくれたら、それにほんの少し、影を差せたら良かった。なのに。また、君は、オレの想いを見ない振りをして、そんな見えないところまで、いってしまうのか。オレの見えない、ところまで、あいつとの唯一を、増やして。オレに、それを見ていろ、というのか。君は、オレに、なにもしてくれなかった癖に。オレのなにがいけなかった。そんな残酷を与えられるほどのことを、オレはしたか。教えてほしい。なんで、オレはこんなにも苦しまなければならない、君を想うばかりに。ただ、朱音が、千日紅が、愛おしくて、大事にしたいだけだった。それ、だけだったのに。どうして、正しい水を注ぐことができなかったのだろう。どうして、オレの花は、黒百合なのだろう。どうして、オレの愛おしいこれは、呪い、なんだ。どうして。どうして。…どうして。 こんなことばかり、考えるのは、もう嫌だった。 「は、ははは、ははははっ…。」 …黒百合の花言葉は、呪い、だけじゃ、ないことを、君は、本当は知っているんじゃないのか。知っているんだろ。じゃなきゃ、黒百合がポストに入っていることを、愛するあいつに言わないはずないだろう。捧げているのが、オレだって知っているんだろう。ぜんぶぜんぶ、知っているんだろう。学生時代から変わらないあの、縋るような目線はそういう意味なんだろう。そうやって、オレをいつまでも離さないくせに、どうしてオレを、唯一にはしてくれないんだ。水を注いだのは、君も、じゃないか。手に持っていた、銀色の刃先で、静脈を傷つける。なんの痛みも感じないのは、もう慣れきってしまったからだろうか。冬は良い。手首が、長袖で、上手く、隠れるから。流れる、赤色を見て、すこし心が落ち着く。朱音の色。きみの色がオレの中にも流れている。その僅かな慰め。使い古された言い訳。死にたい訳じゃないさ。ただこうしないと、上手く息ができないから、生きる為に、やっている。でも、こんな日々も、もう。終わりに、しようか。もう既に、準備は、できていた。メールの画面を、開く。宛先は、七草朱音。たった一言だけを、送りつけて、電源を切る。彼女が、これを見るのは、仕事終わりになるだろう。ようやく、言えた。 ❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁ 雨音が、やけに、煩い夜だった。こういう雨の日、彼女のことを、後輩が迎えに行く事を、オレは知っていた。彼女自身が、以前、雨の日に傘を忘れていくと、会社まで迎えにきてくれる、と言っていたから。一応折りたたみは持ち歩いてるけどね、嬉しくて。なんて。お茶目な顔をして。不確定要素は少ない方が良い。どうせなら。 会社の前を決行場所にしよう。車で、荷物を運ぶ。オレの物ではない、知人から借りた、薄汚いトラック。オレが使わなければ、廃車になるところだった車。その知人には、申し訳ないが、載せているのはトラックが必要となりそうな重たい機械などではなく、ただの花々だ。一週間前に黒百合を大量に注文していたのが、今朝届いたのだ。決行日はいつだって良かった、雨の日であれば。だって赤と、黒は、雨の日に良く映えるだろう。花は届いた。トラックもある。天候は、当分止みそうにもない土砂降りの雨。完璧だ。 彼女の会社を通る道のり。18時頃。彼女の会社の入り口がちょうど見える、しかし数百メートル離れた位置に、車を止める。 なんだか、酷く現実離れしていた。これから自分がしようとしていること。今、していること。自分の感情が原動力になったはずなのに、それら全ては遠い遠いところにあって、肉体だけがついていけずに、漂っている、そんな感じだった。今でも、彼女のことを想っているのか、と聞かれたら。わからないとしか、答えられなそうな、そういう、曖昧な心地。オレ自身の想いを、オレは、彼女に否定してほしかったのかもしれない。携帯はまだ、電源を切ったままだった。いま、つけたってきっと、青く点滅することも、無いのだろう。彼女は、否定なんてしてやくれない。だって、君は優しいから。…そうだろう? 入り口から、彼女が、出てくるのが見えた。その彼女の居る、横断歩道の向こう側に、傘を持った、あいつの姿も、見えた。 アクセルを全開に。向こう側は、赤信号。水は飲んできたはずなのに、喉がやけに渇いていた。手を振る、彼女。振り返した、彼。唸るエンジン。歩道が、青に染まった、幻想。雨なのだから、見えるはずない。ブレーキに、足をかけることもなく、あいつの方へ、真っ直線。そう、車は、あいつの、方に向かっていた。なのに。あいつが、突き飛ばされて、道路に転んだのが見えた。 ―一瞬、 ―こちらを見据える、彼女の瞳。 ―雨だから、見えるはずないのに。そんな、些細なところまで。 なにかが、潰れた、おと。オレが、轢き殺した、音。いつの間にか、オレはブレーキを、踏んでいたらしい。目の前のガラス窓に飛び散った朱が、雨に、ワイパーに、流されて、いく。なぜだか、オレは、彼女が彼の身代わりになって、轢かれたこと。オレが轢き殺したことを、すんなりと受け入れられていた。当然のことのように、思えた。目の前の朱に、ぞくり、背中を這う、その感情。オレは確かに興奮していたのだ。彼女の、中身は、赤く朱く紅く、美しかった。ああ、やはり、オレは彼女のことを、未だ想っている、こんな姿になっても、こんな成れの果てすら、オレは、君を。黒百合が咲き乱れる。ガラス越しの高みから、彼女だったものの、近くにうずくまった、「彼」を見下ろす。叫んでいる、のか。呼んでいる、のか。かわいそうに。お前が、死ぬはずだったのに。彼女が、優しいばかりに、お前はのこされてしまったんだよ。お前も、轢いてやろうか。元々は、そのつもりだったんだ。オレがアクセルを踏もうとした、その時。携帯が、青く点滅しているのに、気づく。おかしいな、電源は切ったはずなのに。画面を確認して、喉が鳴った。七草朱音。彼女、からだった。いつだって、君はオレを止める。時刻は、18時15分。彼女が、まだ生きていて、入り口から、出てくるより、少し前、の時刻。 指先が、ふるえた。 『そんなこと、知ってたよ。 でも、そんなの愛じゃない。』 短い文面だった。 息を、吐いた。 …ああ。ようやく、君は。オレを。否定してくれていた。優しく、しないでいてくれた。 ああ。もう、君に、届くことはない、から、ようやく言える。 「愛している。」 今も。 黒百合の花言葉は、呪われた愛だってさ。それを告げたら、君は、ようやく、否定してくれた。ひらひらと、黒百合が舞う。雨の中。千日紅と混じり合う。君の持っていた、愛とはかけ離れているんだろう。それでも、君が否定してくれたおかげで、自分の中のこの感情をようやく、肯定できそうだった。 「愛している。」 口ずさんで、いつだって、オレを止めるのは君だった。止める君はもういないけど、うずくまったそいつを轢かずに、アクセルを踏む。踏んで、踏む度に、生々しい音、感触。べちゃべちゃと。雨と交じって。 「愛している。」 そう言いながら、雑木林にのりこんで、車を止めた。 「愛している。」 バックから取り出した、銀色の刃物で、自分の、腕を、抉る。肉も血管も、抉り出す。動脈も、静脈も、もう、関係ない。まっしろい骨が見えた。 痛みなんて、感じない。誰かが、唸っている。口から、涎が滴り落ちる。馬鹿みたいに、血が出た。座席が、赤黒い血で染まっていく染まったソレは、汚く、変色して。 「あいしている。」 「あいしている。」 「あいしている。」 「あいして、る。」 「あいし…る。」 あいしている あいしている あいしている、ずっと。 瞼の裏に浮かんだのは、笑顔の彼女なんかじゃなくて、轢かれる直前の澄んだ眼の色。あの花屋で、黒百合に、魅入ってしまった時点で、この結末が決まっていたような気がしていた。あの花屋の、男は一体何だったんだろう。結局、あれから一度も会わなかったし、警告もふいにしてしまった。すこし、悪いことをしたな。なんだか、なにもかもに謝りたい。寒い。寒くて、暑い。目を開ける。寒い。まだ、生きている。血がどんどん無くなっているのを感じるのに、まだ、生きている。不意に視界が陰る。 「警告したでしょう。」ああ、最期に見るのが、お前なんて笑えないな。どうして。 「今の私は、花屋店員ではありませんから。」なんだか、ひどく穏やかな気持ちなんだ。死ぬ時って、みんなこうなのかな。 「これから、貴方には、地獄が待っていますからね。」 ああ、束の間の、静けさ、ってやつか。それなら、それでいいよ。 「黒百合は、役に立ちましたか。」 ああ。そうだ。黒百合。一つ、二つ、三つ、数え切れないほどの、黒百合が。はらはらと、頭の上から、ふってきた。 「人が、死ぬ時は、みんなこうです。 素敵な演出でしょう?」 笑ったその男は、柔らかに、指先を伸ばし、 オレのまぶたを閉じさせた。暗闇。 「おやすみなさい。」 束の間の、よい夢を。 はらはらと。 はらはらと、 花びらと、雫。つたう。 はらはらと。 はらはらと。 はらはらと。 つたう、赤。 呪いになってしまう程に、 君を、 あいしていた。 ❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁ 『君』を殺めた、男の話。 雨音は、まだ、やまない。 『黒百合』 了
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