紫苑

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紫苑

   私には音が聴こえている。 心臓の音だ。自分のものではない、他者のもの。それらは、速いのも遅いのも力強いものも、弱々しいものもある。  私には名前がない。母は私を名付けなかった。その母の音が、記憶している中では一番古い、そう断言できる。過去は、果てしなく遠い様に思えるがすぐ近くにある様にも思える。時間というものはとてつもなく流動的で曖昧な存在だ。  音はいつも耳の傍に在り、鳴り響いていて、仕事に駆り立ててくる。私の仕事には上司という存在はいないが、これらの音がその役割を果たしているのかもしれない。ずっと上司が傍にいると考えると少々厄介だが、音をそんな風に捉えたことはなかった。仕事は億劫ではない、私にとって必要だった。 いつもの音に妙な音が紛れ込んでくる。私の中には無い音。意識を集中させなくても向かうべき場所は分かった。糸を解いていくように音を抽出していく。 今回の音は、波音と重なり合っている。海の近くだろう。それに…一人でもない様だった。二つの音は共鳴していた。波音と混ざり合い、異質な音に聴こえる。このようなことは珍しくなかった。 …事故現場などで良く聴こえるものだ。音が私を急き立てる。過去を思い出す。 私が産まれた時の事だ。私は事故現場から、産まれた。あの日から存在し始めた。そう記憶している。 母の心音がずっと聴こえている。母は私より、あの男を選択した。私が生まれるより、あの男の命を優先した。母は愚かだった、そういう人間だった。只、それを私がどうこう言う権利はない。どれだけ足掻いても、私は只の傍観者にしか成り得ない。 ひとつ瞬きをすると、海岸に来ていた。島国のとある県の端。静謐で密やかな場所。 陽が落ちてきていた。辺りはすっかり夜の気配に満ちつつある。波音に交じって、音が聴こえている。それは未だ共鳴していて、目的地に近づくにつれ、大きくなっていく。頭が割れそうだが、慣れたものだ。音の持ち主たちは、私のほんの数メートル先に居る。手を繋いでいる男女だ。血はないし、彼らは何かを喋っているようで、事故現場のようには到底見えない。この仕事をしていると血を見るのは日常茶飯事だ。 彼らは私の存在に気づいていない。当然だ、彼らは私の姿を見る条件を満たしていない。 人間という存在はいつまで経っても不可解だ。人間はどうして同じことを繰り返すのだろう。 彼らは互いに依存している。ある者は彼らを見て、愛し合っていると捉えるだろう。ある者は彼らを見て、只の執着と吐き捨てるだろう。私はどちらでもない。彼らを見て、何の感情も湧きあがらないが、只、母とあの男のことを思い出す。 海に入っていく二人を何ともなしに眺める。彼らに近づく。濡れるのは性に合わないので、波立つ海面の数ミリ上に状態を移す。彼らの会話も耳に入ってくる。 「せーので飲もうか。」 女は頷く。私のいる角度からは男の影がかかって、表情が見えづらいがひどく弱々しい頷きだった。尤も、愛する男からこんな提案をされて陽気になる女も居ないだろうが。 男は薄茶色の瓶を持っていた。片手に収まる小さいものだ。使い込まれて薄汚れた容器とは不似合いな、錠剤の量。明らかに中身は継ぎたされていて、とても窮屈そうだ。 …そんなものを飲んでも無意味だというのに。努力は認めるが、まだ彼らには甘えが残っている。 興覚めだ。薬を飲んで海に入っても、ダイバー三人が彼らを見つける事になっている。これは動かせない。既に定められている事の一つだ。 端的に言うと、私がここへ来る必要はなかった。違う仕事に向かってもよかった。それでも来てしまったのは、二人の音が似ていたからだ。私が産まれ落ちた時に鳴っていた音と。 ほんの少し煽ってみたくなって二人の会話に合わせて「せーの。」と告げる。赤い糸で結ばれた薬指に些か同情を覚える。最初に意識を失ったのは男の方で、女の方もその重みに引っ張られて態勢を保てなくなったようだ。水飛沫がこちらまで飛んでくる。彼らにもう感覚はないだろう。女がついに目を閉じる。沈んでいく。覗き込むと水泡が続いている。それもすぐに見えなくなる。何事もなかったかのように海は全てを飲み込む。 …綺麗な目をしていた。勿体ない事だ。彼らに今後起こりうることを私は全て知っている。決して憶測や予測などではなく知っている。 彼らから意識を手放す。  ひとつ瞬きすると、私は路地裏に居る。真っ赤な花が咲いている、千日紅だ。他にも花が咲いている、黒百合だ。 血の匂いがする。あれが誰のものかなんてわかり切った事だ。  雨の匂いとともに母の声が聴こえる。母はよく語り掛けた。小さな小さな細胞で彼女には存在も認知できていなかっただろうに。あれは只の独り言だったのかもしれない。母はよく喋るひとだった。 「透明になりたいの。」お腹に手を当てながら母が言う。私は只、私が産まれる前の膨大な時間の流れに取り込まれたことに気がつく。もう路地裏にはいない、血も雨の匂いもしない。暖かなものに包み込まれていて、声だけが聴こえている。未だ細胞の一部だったあの過去だ。 今の私は、彼らを俯瞰して見ている。 母は語り掛けることをやめなかった。 「只、透明になりたいの。」 「誰かからの悪意も受けずに、誰にも悪意を持たない、清潔な人格に。」 「でもそんなのは理想に過ぎない。不可能な事。」「…分かっているのよ。」 細胞であったことと、私が過去に取り込まれたことは矛盾しない。私であって私ではない。産まれたのはこの私だ。彼は生きられなかった。過去に居ることで、今の私の存在は修整されかけている。曖昧な何かに変わってゆく。器がまだ完成していないから。この時点で私という存在が産まれる事は決定していたが、この時代に私が居るのは無かったことだ、これまでの過去では。 何かが変わってきている。漠然としているが、また一つ選択肢が増えるのだろう。一つの結末を変えるためのそれは大きな足掛かりとなる。 「どうしてこうなってしまったのだろう。」過去の母は悩んでいる様だった。 「分かっている、私が悪いと。」ビニール袋の口を固く結んでいる。半透明の膜から中身がぼんやりと見える。あれが何か私は知っている。花だ。黒い花だ。 母は外に出て行って、数分して戻ってきた。手に持っていたビニール袋はもうない。しかし私は知っている。数輪がまだ母の傍に残っていること。それは郵便受けに捻じ込まれている。ある男が入れたものだ。暗い目をした男だ。この数日後、母は死ぬ。殺される。 私は知っている。母の恋人はそれを知らない。母は母であるが、彼を父とは呼びたくなかった。彼は産まれ落ちた私、の父ではない。 私が今の私に成る為には、母は死なねばならなかった、誰もそれを望まなかったとしても。 今からでも只の細胞に戻りたかった。細胞が成長して、母の胎内から出て、只の人間として、この世に。只の、人間として。 この星は人が死にすぎる。今回も呆気なく母は死んで、あの暗い目をした男も死んだ。私は器の中にいる。曖昧ではない存在に成る。母が、七草朱音が死んだ為に、産まれた。彼女を母と呼ぶしかなかった。 私に感情というものは無いが、残った母の恋人を気に掛ける。男はいつも母の後を追おうとする。幻を見て、母はもう居ないことを受け入れられない。私は音が聴こえ始める。母の音だ。他者の音も流れ込んでくる。 私は何度も理解する。七草朱音という存在が消滅したことを。  この世に輪廻などというものは無い。失われた魂は戻ってこない。只の残滓だ。残された者たちの記憶に過ぎない。記憶もなくなるとそれは消滅する。 母が死んだ時、彼女は一人ではなかった。中に器が出来かけていた。妊婦が事故にあって命を落とすと、その子供の魂は(記憶が消えるまで)彷徨い続ける。無意識で魂を穢す行為を恐れ、人間のままでいることを選択する。私もそうなる筈だった。 何事にも例外はある。 あの瞬間。母が死んだ、意識が芽生えた。鼓動が男達と共鳴していた。不協和音が鳴り響いていた。選ぶしかなかった。人間であることを意識的に放棄し、魂を傷つけ、そして産まれ落ちた。産まれた私は人間ではなかった。 …何事にも例外はある。 器は母の血と細胞で作られていて、私は安心感を覚えた。  私は人の死を見守る。数多の死を。そうすることが、目的を果たすために必要だった。器は、私の最も居心地の良い状態を保っている。自由自在に姿を変えられるが、初期状態は男だった。この器の性が母の記憶にインプットされていたのかもしれない。私は燕尾服を好んだ、いつの時代でも正装と捉えられる。死者に敬意を表し、弔う。それが必要だった。  母を失った男は哀れだった。手を貸したのは同情したからではない。契約が必要だった。彼は契約する。契約をして、あの機械を作り出すことが必要だった。  母の記憶が私から損なわれれば、母の欠片が私の中から消えてしまえば、器が消滅し、それに伴って私も消滅するだろう。そう考えていた。しかし、母の欠片を入れた機械を作り出しても、私は消滅することなく、心臓の音も変わらず聴こえていた。機械を託した彼が寿命を全うし、思い出の中を彷徨い続けるのを見た。そういう契約だった、何の感情も湧かなかった。 何度もそれを繰り返した。只々、白い機械に母の欠片を移し続けた。 その結果母は、七草朱音は、様々な世界で存在するようになった。あの男に似た魂がいる限り、彼女は存在することになった。オリジナルのあの男に魂の波長が似ているものが契約する人間に成り得た。そんな人間はごまんといた。それに対応して、彼女も外側を変えた。ある彼女は看護師になり、ある彼女は花屋になり、ある彼女は教授になった。外側が変わったところで本質は何も変わらなかった。私の知っている母のままだった。何度も何度も繰り返した。何度も何度も母が死ぬのを見た。私に感情というものがあれば気が狂っていただろうが、幸いなことに私にそんなものは無い。音を消す為に、あらゆる人生パターンを試した。私という存在が産まれないが為に。母の中の細胞が正しく魂を吹き込まれる為に。母が死なない為に。しかし成功するはずはなかった。愚かだと思うが、その事に気づいたのは何百回と繰り返した後だった。今の私が産まれなければ母は死なない筈だった。そして母が死ななければ、私は存在しない。それだというのに私は母の記憶をただ消滅させればいいと浅はかに考えていた。機械を作り出してしまっては母の記憶が多くの人間に植えつけられる。母が死んだという記憶だ。それは私の存在を強固にしてしまう。私は只、何もしなければ良かったのだ。そうすれば、母の存在は風化し、私もとっくのとうに消滅していた筈だ。器の存在を知っていたのは母とあの暗い目の男だけだったのだから。 そうして私はそれを試してみた。過去に戻り、何もしなかった。白い機械は消え、暗い目をした男は母の元を去り、男女はすれ違い、そして別れた。それ故に母は母に成らなかった。その結果、七草朱音は変わってしまった。彼女の本質は崩れ、子供も産まなかった。私は私として産まれなかったが、人間に成ることもできなかった。最悪の結末だった。  不幸中の幸い、白い機械を色々な世界に置いてきたことで私という存在は完全に消滅することはなかった。愚かな人間と同じように私は愚かになっている。自分の存在に執着しているという事を自覚した。もういっそのこと、人間のフリをしてみようと考えた。母の欠片はまだ私の中に在る。記憶の中の母は囁く。 『あなたの好きな花は?』 今の私は答える。 「教えるわけないでしょう。」 母を拒絶する。私が仮に消滅する事があれば咲く花は決まっている。紫色の秋に咲く花。私の誕生花だ。過去、私にとっての最良の日々なんてあっただろうか。只の細胞であった、母の鼓動を最も近くで聞いていただろう頃しか思い浮かばない。想像でしかない、私が人間であった頃。  流れ込んでくる他者の音は私を常に追い立てる。今日も人が死ぬ。今日も人が産まれる。誰かの命日は誰かの誕生日でもある、当たり前の事だ。何回目かの世界に来ている。比較的オリジナルに近い世界だ。母が死ぬ数週間前。私は花屋店員に成りすます。もうすぐここに暗い目をした男がやって来る。私は彼と会話をする。といっても、毎回私が言葉を重ねているだけのように思える。私の器よりずっと屈強な体を持っているのにどこか怯えたようなその目線。今回は母を殺さないでくれるだろうかと淡い期待を抱く。 その三週間後に母は死んだ。期待は泡となって消えた。今度の凶器は刃物だったが結末は同じだ。恋人をかばって母は死んだ。いつだって母は己の命より彼の命を尊ぶ。 恋人もいつだって私と契約を結ぶ。母がまた造られる。私はやめられない。終わりなど見えない。私の作った仮物の母達は今日もどこかで花言葉を紡いでいる。音はやまない。私はいつまででも何度でも、その行為をやめられない。今日もまた幻を追う恋人を路地に引っ張り込み、説得する。いつも彼は呆けた顔をしている。母はこんな男のどこが良かったのか。母がいつだってこの男を守るのにこの男はいつだって母を守ろうとはしない。私は契約の事を口にする。口にせずにはいられない。澱みなく話せる。男はいつだって同じ反応だ。どの世界でも彼は狼狽し、嘆き、絶望し、失ったものを取り戻そうと躍起になる。失う前にそうしてくれれば、母は生きていたかもしれないのに。私だって人間として貴方達の間に居られただろうに。 過去、あの暗い目の男と母が出会う前に遡ろうとしたこともあった。学生時代の母は美しかった。しかしそれを眺めていられた時間はとても短かった。人間の時間で言うと、一時間にも満たなかっただろう。その時代に居ると急速に器が欠けていった。それで仕組みが分かった。タイムリープは何も好き勝手にできるわけではなく、過去は母が死ぬ一年前までしか遡れないこと、未来に対しては制限がないようだった(とはいえそんな先の未来に飛ぶ必要性は感じないが)。 過去を変えられていないのに、器が無くなることは何としても避けたかった。これが無くなれば、私の存在自体が危うくなる、器を手に入れる前は曖昧な存在だったが、それは母の中に私の欠片がすでにあったからではないか?この仮定が正しければ私は存在ごと消滅してしまうことになる。 そう考えた私はすぐに馴染みの時代に戻った。しかし既に器は満身創痍の状態になっていて、修繕をするのに何人もの人間を看取らなければならなかった。 直接手を下すわけではないが器の修繕は少々面倒くさい。人間の魂は繊細で下手に扱うと千切れて霧散してしまう、細心の注意を払わなければならない。彼らの欠片をほんの少しずつ頂いて私の糧とした。そうしたことで、私の内側から聞こえる鼓動は更に増えた。彼らは決して混じりあうことはない。天涯孤独で30年しか生きられなかった男、視力を失った女、聴力を失った男、共感力に欠陥のある医者、人間を育てる事に内心怯えている教師、義足のダイバー…、男、女、男女男…。皆、人間は脆い。皆、死んでいく。せいぜい長生きしても百年だ。あっという間に過ぎてゆく時間だ。私は瞬きするだけでその時間を飛び越えることが出来る。しかしそんなことは些末な事だった、なんの慰めにもなりはしなかった。私は只、人間として生まれたかった。彼らと同じ様に感じ、同じ様に行動し、他者を愛し、慈しみ、死にたかった。 けれど、それは叶わない事のように思えた。どれほど手を尽くしても幾度器を修繕しても、同じことの繰り返しだった。最初に母が死んだ日から、何度繰り返したかわからない、何十年、何百年経ったのかも数えてはいられなかった。母の欠片は費える事がなかった。作った白い機械は数にして200を超えようとしていた。オリジナルを元としたどの平行世界でもそれは唯一であり続けた。いつからか、一つを造るごとに、どこかの一つはひっそりと動きを止めるようになった。機械の存在がその世界で忘れられたという証だった。現実はいくらでも分岐した。それなのに母は必ず死んだ、恋人をかばって死んだオリジナルに沿っていた。私を人間として産み落とす前に必ず母は命を落とした。 私はそれに立ち会い、再度産まれの苦しみを味わなければならなかった。母が死ぬ時はいつの間にかその現場に吸い寄せられていた。そうして又その現実を綺麗に収めて、母がいなくなっても恋人が死なないようにしてから、彼の前から消えた。私は彼を放っておくことが出来なかった。抗えなかった。ただ、母が慈しんでいたものを損ないたくないだけかもしれなかった。私のやっていることは終わりがなかった。いつまで経っても私の中に居る人間は増えていくばかりで、消えようとはしなかった。 しかしそんな日々も終わりに近づいていた。いつだって終わりは来る。 葉の中心から花の蕾が見え始める季節。梅雨が終わり、夏が近づいてきていた。  その頃、右手の指が半透明になっているのに気づいた。終わりが近づいていた。以前失敗した時の感覚とは違い、何故だか足掻く気分にはならなかった。特にきっかけのようなものがなかったからかもしれない。それは極々自然的な事のように思えた。空に雲が流れているように、波が岸に打ち寄せられるように、風が吹いたら花が揺れるように。  器の小指は、爪の端から斜めに分断されて薄く透けていた。その透明感は私のホログラムたちとよく似ていた。太陽に透かすと、影を作ることもせず溶け込むこともなかった。光は只通過していった。 焦りはなかった。ほんの少し時間を遡りすぎただけだと楽観的に考えていた。私は指が透けているのを確認した時から、人間と同じ速度で生活を送った。不便だが何故だかそうするべきだと思った。  私はいつも通り仕事に向かった。数時間すぎた頃には小指は肌色を取り戻していて地面に影を落としていた。私の中にまた一つ音が増えた。  街の花屋には色とりどりの千日紅が咲いていた。赤色のものを手に取る。勝手に拝借することもできたが、左手で弄んでいた硬貨を青いトレーの上に置いていた。その硬貨はつい先程、人間から貰ったものだった。仕事の対象だった。その人間はコレクターという人種だったようで、(私からすれば)何の価値もない銅や銀や金の不純物の価値を信じていた。その男の母親もコレクターだった。彼女は死ぬ前にお気に入りの硬貨を息子に渡した。今や年老いたその男は、私の手のひらに無理やり硬貨を押し付けた。その硬貨を何故だかすぐに捨てられないでいた。『母の形見だ。』その声色が耳に残って、暫く私の中で反響していたからかもしれなかった。 青いトレーにのせられた硬貨を見て若い店員は暫く手を止めたが、その後出てきた別の店員によってそれは何事もなかったかのように釣銭機の引き出しに収められた。捨てるよりは再利用した方がいい。千日紅を片手に私は店を出た。次に向かう場所は決まっていた。  以前ある男と母が住んでいた家はとっくの昔に改装されて今はビル群を構成する一つになっている。この平行世界に来るのは随分と久しぶりだった。街並みはところどころ変わっている。在ったものが消え、無かったものが在る。 こうして街中で必要もないのに姿を晒していると自分が人間に成った気さえしてくる。燕尾服を着ていない私に誰も注意を払わない。誰も人間ではない存在がいるとは思わない。人間が持っているものを私は持っていない。本当に欲しいものは手に入らない。それは誰しも持っているのに、私には無い。空洞だけが在る。何も無いのに空洞だけが在ると感じられるのは矛盾か?他者の欠片が何かがあるように見せかけているだけだ。寒々とした空洞だ。欠片が通り抜けて音を鳴らしている、空洞が分かる、それだけだ。 手に持っていた千日紅を花瓶に移し替える。母の記憶を基に作った家に、私は帰ってきていた。此処は三個目の平行世界で、一桁の世界はオリジナルとそう変わらない。以前訪れた時に街の外れに作っておいた。家は多少劣化していたが、問題なく使えそうだった。植物の蔓がやや伸びていたが生活の質には関係が無い。周囲に住んでいる人間たちの記憶も修整済みだ。好きなだけ此処に居ることが出来る。  正直なところ私には食料も家具も必要なかった。けれど必要ないものも再現した。ところどころ傷のついた四角いテーブル、二人掛けのソファ。すぐ近くの台に置かれた小さな時代遅れのテレビ。洗面所には二人分の歯ブラシ。ガラス窓の先に続く庭には千日紅とミニトマトの鉢植え。彼らの家の再現は(家具に少々の埃が積もっていることを除けば)完璧だった。再現できなかったのは二人分の体温だけだ。けれど、それで良かった。 縁側に座って花瓶の千日紅と庭に咲いている千日紅を見比べる。 風が強く吹いた。香りが鼻腔を擽る。鼻に手をやって、しかしそれが叶わない事に気付く。いつの間にか中指の付け根辺りまでが消えていた。小指は跡形もなかった。 …予期していた事だった。 私は、干渉し過ぎた。 数十年…いや数年…、この速度を鑑みると半年も持たないかもしれない。それでも随分と、繰り返せたものだ。いつかはこの家で、時を待つことになると分かっていた、だから戻ってきたのだろう。死を看取る仕事ももう意味がない。朽ちかけたこの器を表面だけ取り繕っても仕方がない。仕事の幕引きがあのコレクターの男になるとは思わなかったが、それもまた一興だろう。  重力に導かれて物が落ちるような速度で私は自由というものを理解した。初めての感覚だった。母の欠片をもう作り出さなくても良いという事実が何故だか私を安心させた。  数日、母や多くの人間たちの音に耳を澄ました。母の音は小鳥の様に軽やかで一般的な音よりも少し速くリズムを刻む。忙しないが聴いていて安らぐ。 とくとくとくとく…目を閉じても景色は変わらない、目を閉じていても、視える。器が持っている眼球が私にとって目の役割を果たしているわけではない。器は所詮ただの器。しかしその器が消えかかっているという事は私の存在が誰の記憶からも消えかかっていることを意味していた。  人は死ぬ。死ぬ時に立ち会う私の存在は死に近しい人間ならば見える。又はその人間と血の繋がりを持っていて、死に対して受け入れている人間ならば。 彼らに姿を晒すことで私は人々の記憶に残ってきた。しかしこの世界のこの時代は人が滅多に死なない、死ななくなってしまった。人類は死なない為に工夫を凝らした。医療を進歩させ、科学を発展させた。この世界は精巧にプログラミングされた機械が移動を助ける。事故なんて起こらないし、戦争なんてものは人類の意識には残っていない、辞書にすら載っていない。殺人も起こらない、死が徹底的に除去されている、彼らの意識の中にもう存在しない概念だ。産まれてくる子供の数も美しく調整されている。  しかし何事にも例外はある。この調整された世界を拒む変人達がいた。彼らは順当に死を迎えた。それも許されている。だからコレクターの男は死んだ。病気だったが、彼の母親は自殺だったらしい。しかしそんな事例は稀な事だった。この世界では死は忌避すべきものではなくなった。肉体が朽ちても、手続きさえ踏んでいれば人工知能と腐らない肉体を携えて故人は戻ってきた。その手続きは何も難しいものではない、彼らにとってそれは小旅行に出かける準備程度の煩わしさしか与えなかった。死ぬことを意識し、認識する人間は減っていかざるを得なかった。  死というものは大多数の彼らにとって単なる通過点でしかなくなった。彼らは感情を持ち、行動し考えるという点においては以前の人類と同じだったが、生死に対する興味や畏怖をなくした。そうなってしまったことが私の仕事に影響がない筈はなかった。必然的に私は無職同然になった。それは不愉快な事ではなかった、気に入らなければ他の世界に飛べば問題は無かった。休みたい時にこの世界を訪れていた。  だから…予期していた事だった。今となれば、此処が終の棲家になるように、以前の私は彼らの家の模造品を作ったとも思える。 この世界を立ち去る力は今の私には残されてはいない。  光が指を通過していく。器は消えかけていくが、それもまた人間らしくもある。私にも終わりはきちんとやって来るらしい。その事実は私に深い安堵をもたらす。産まれてから初めて感じる安らぎだった。生と死に苛まれている存在にとっては贅沢な事だろうが、贅沢だと思えたことがなかった。長い間…、義務感と焦燥感だけが私を動かしていた。それを感情だと認識したことはない、どちらかというと本能に近いと考えていた。感情というものを持ち合わせていたら、自分が消えかけている現実は悲しむべき事だろう。彼らの様に泣き叫んだり、混乱したり…そういう事が私にとってはひどく遠いものだった。 私は所詮只の一つの歯車に過ぎない。消えたところで問題が無い(もしくは無くなった)から消えるのだ。悲しむ事でもないように思えた。 ―――『悲しい。』 欠片が騒いだ。それは人間の囁きの様にも聞こえた。人間だった頃は無口な娘だった。 『ぼくも。』追従したのは無口な娘と似通った青年。 「器が消えれば、あなた達も解放されるでしょう?」私は囁き返す。意思疎通ができるとは思っていなかったが、なんだからしくないことをしてみる気になった。 『いいえ。私たちは消え去るだけ。』娘は当たり前のように答えた。じんわりと氷が溶けていくような感覚だった。音の氷が幻の海に溶けていく。海と一体化するにつれて声が明瞭に聴こえる。もしかしたら彼らはずっと私に語り掛けていたのかもしれない。今聴こえている他の音も他の、声なのかもしれない。 『現実の僕らは僕らではなくなってしまったけれど、貴方の中では昔の僕らのままで居られた。』『悲しいよ。』 青年はもう一度感情を吐き出した。彼はよく喋る。彼の感情に私は何も感じない、感じられない。 「変わらないものなどありません。」そう告げた時にはもう右手が殆ど消えかけていた。 彼らは私の右手に住んでいたらしい。彼らの声はもう二度と聴こえなかった、音が二つ消えた。悲しくはなかった。  その次の日には左手が消えていた。起き上がるのが難儀だった。聴こえる音も減っていた。絵を愛していた女子高生の魂が消えたようだった。彼女の記憶を思い出そうとしても上手くいかなかった。暫くするとその事も気に掛けなくなった。  ミニトマトは変わらず風に揺られていた。太陽も変わらず眩かった。暑さは感じなかった。 そこで気づく、暑いという感覚はどのようなものだったか思い出せなくなっていた。器が感じる事をやめたようだった。曖昧な存在に戻っていく感覚でもなく、ストンと何かが抜け落ちていったような感覚だった。それが積み重なることが消えるという事なのか考えたが、おそらくそれは不正解だった。ただ、消えるのだ、それが私にとっての死、というものらしかった。未だ悲しくはない。  数日ミニトマトを眺めていた。地面に落ちた何個かのミニトマトは虫に食われていた。斑点模様のある毛虫。まだ枝に残っている何個かのミニトマトも日に晒され続けてなんだか疲れているように見えた。残っているものだけでも手入れをしようとしたが、失敗した。右足の膝から爪先までが消えていた。誰が消えたのかもう思い出せない。想定よりも終わりへの進みが速いが、どうしようもない事だった。ここ数日で何十もの音が消えた。だが、母の音は変わらず私の中に在った。母を覚えていられれば、それだけで良い様な気がした。母は私に語り掛けてはこなかった。音は聴こえているが焦点は合わない。何か話してほしい様な気もしたし、このまま何も話さないでいた方が良い様な気もした。 『死神くんは、』 『本当にお母さんの事が好きなんだね。』 綿あめが口の中で溶ける様に一つの音が、声に変わった。幼い声だった。少年。齢七歳で命を落とすことになった彼の声量は弱々しいが声の輪郭はしっかりとしていた。その差異が印象的で欠片を迎え入れた事を思い出した。私は彼の言葉を否定したくはなかったが、そうせざるを得ない。 「いいえ。母だからです。」 『僕には好いているようにしか見えないけれど。』 「いいえ。そうではありません。」 『じゃあ、嫌いなの?』 「いいえ。」 幼子は物事を極端に捉えがちだ。そして率直に疑問を呈する。疑問を解決することを貪欲に欲する。その行為は純粋さによって支えられていて、それ故に疎ましさはない。 『好きでも嫌いでもないの?』 「ええ。」 ほんの数秒彼は沈黙し、何かを考えているようだった。私の返答はそんなにも複雑だっただろうか。 『分かった!そういうのって無関心って言うんでしょ!』 得意げな声だった。テストに花丸をつけてもらった時のような華やかさを持っていた。無関心なんて彼にとっては難しい言葉だろうに一体どこで覚えたのだろう。しかし私は彼に花丸をつけてはあげられない。 「…いいえ。」 私の返答にさらに混乱したのか幼子は静かになる。否、そうではなかった。彼はもう消えていた。彼に永遠に花丸をあげられなくなってしまった。私は右足を失った。 …悲しくはなかった。只、寒々しさだけが残った。  私はまた母の事を考えていた。私はこれまで母の事をどう考えてどう躍起になっていたのだろう。母の何が、そうさせたのだろう。分からなくなってきていた。左足はまだあったが、ほんの僅か爪の先が欠けてきたように見える。  いつの間にか眠っていたらしい。私に睡眠という行為は必要なかった筈だが、この変化も消えかけているからかもしれない。眠っている間に腰の辺りまで消えかかっていた。音ももう両手で収まるくらいの数しか聴こえない。 あれだけずっと沢山聴こえていたものが急速に減っていくのは幾分おかしな感覚だった。一体最期に何が残るのだろう。私のどこに母は居るのだろう。 『寂しいか?』 しわがれた男の声だった。これまでの音とは違い、刃物が落下するのと同等の速度で声に変わった。聞き覚えがある。彼も、居たのか。母を殺した男だった。元凶。 「いいえ。貴方よりは。」 『ははっ、手厳しいな。』男の声は(理解しがたい事に)楽しそうに聴こえた。 「当たり前でしょう。」「どうして今まで何も話さなかったのですか。」 『…知っていると思っていた。』 「知っていたら受けいれるはずありません。」 『…どうかな。』 選別はしたはずだ、なのにいつの間にか潜り込んでいた。彼が死んだ時に立ち会ってはいたが、入り込む隙は無かったはず。何度も繰り返した報いだろうか。 「どうして。…今になって。」 この男を何度止めても無駄だった、私の言葉は彼の何も変えることはできなかった。 『怒っているのか?』 「いいえ。」 私に感情は存在しない。喜怒哀楽など持ち合わせていない。 『だが、怒っているように見える。』 男は笑っている様だった。それを感じて私はふと胸の辺りに違和感を覚えた。 …熱い、何かが胸の奥から。熱はじわじわと広がり喉元までせり上がってきていた。何かを言ってしまいたかった、でも何も言葉が見当たらなかった。 言葉を探すうちに、熱が失われていくのを感じた。風船から空気が抜ける様に急速にその熱は損なわれていった。 …失って消えていく筈なのに、これ以上何を望むというのだろう。 …この男も、私自身も。 『オレは寂しかった。ずっと。 彼女がオレの全てだった。今から考えるとそんな人生は無意味だった。只、お前が名前を与えてくれた。最期、それで意味があるように思えた。』 「私の責任だと?」 『いいや。馬鹿げていたけれど、舞台の幕引きとしては最高だった。』 『…きっと何度人生を繰り返しても、オレは彼女を殺すよ。名前を呼べないままでいい。』 私は黙っていた。彼の感情に名前を与えたつもりはなかった、只彼の暴走を止めるのに、一番効果的だったのが黒百合を与える事だっただけだ、それは僅かに母の命日を遅らせた。結局は損なわれてしまったけれど。 『ありがとう。』男は唐突に呟いた。まだ消えていなかったらしい。この男は最期にもそう言っていたような気がする。感謝されても苛立ちが募るだけだ。 …苛立ち?そうか。 私は初めて、他者に対して苛立っている。 男は静かになっていた、否またもや私の大切を奪い取っていったらしい。上半身が損なわれた。苛立ちが募っていくばかりだ。 等々残ったのは首だけになってしまった。何とも滑稽な有様だ。首だけになって辺りを見回すが、景色に変わりはない。千日紅が風に揺れている。ミニトマトも佇んでいる。聴こえる音は随分と減って、二つしか聴こえない。私の存在はもう、二人分の記憶にしか残っていないらしい。一方は母。 …母の恋人は私の中に居るのだろうか。音は共鳴し合っている、いつまでも寄り添っている。ずっとそうだった、残りの一方を聴こえないようなフリをしていた、ずっと。 彼の音は聴きたくなかった。それよりも早く母と話したかった。もう残された時間は少ない。 『僕が邪魔なんだ。』 「…ええ。」 彼の声は甲高く、耳障りだった。 『僕が、父親だとしても?』 彼は噛みしめる様にゆっくりと言葉を発した。 「私に父は居ない。」 私はまたもや苛立ちを感じた。私の感情と裏腹に、彼の声は水分を含んだものになっていった。 『怒りの根源は哀しみだ。』『躍起になっていた僕を理解できなかった癖に。』 『君が、今更藻掻いたところで、』 「私はずっと、藻掻いている!」 許せない、と思った。苛立ちとは比べ物にならないほどの激情が何処かから湧きあがった、それらは一瞬にして弾け飛び、唇からほとばしった、彼を傷つける為の言葉として。 「お前が、母を守っていれば、全てが変わった筈なのに。」 彼は何も応えなかった。只一瞬、彼の音は妙な速度で刻まれた。それが答えだった。 暫く静かだった。誰も何も言えなかった。風が柔らかく吹いていた。千日紅の香りだけが優しく、そこに在った。激情がゆっくりと凪いでゆくのを感じた。 誰も何も言わなかった。 雲だけが只流れていった。 小鳥が鳴いた。 猫が鳴いた。妙な鳴き声だった。赤ん坊が泣いているようにも聴こえた。 私は口を開いた、今度は彼を傷つける為としてではなく。 「私は貴方が思うよりずっと前から、藻掻いていた。」 『…僕を許せないか。』 「ええ。」 母を殺したのは、あの暗い目をした男だったが、守れなかったのは彼だ。守らなかったのは彼だ。いつでも、どのような状況でも彼は動かなかった、逃げた。何も、しなかった。只、感情の言いなりになっていただけだ。愚かな人間の定型の様な男。彼は人間の愚かさを私に教えた、産まれ落ちたその瞬間から。 『…。』 暫くすると音も消えていた。彼が何も言えなかったのか、言わなかったのか私には分からない。彼は色々なものを奪っていったらしい。残ったのは嗅覚と…、鼓動を感じる感覚だけ。音も視覚も奪われていた。思考が出来るという事は、脳の一部は未だ奪われず残っているのだろう。 精神は肉体の奴隷、か。仮初の器だった筈が、私を構成する全てになっていたらしい。肉体が朽ちる毎に私も損なわれていく。  鼓動が、母の鼓動が私を揺らした。語り掛けている様だった。私には聴こえない。不意に近くから千日紅の香りがした。先程まで私の肩が在ったところから。母が近くに居るようだった。否、母はずっと傍に居た。私が見ないフリをしていただけだ。音が、私の身体を微弱に揺らしているのが分かる。 どうして。 どうして、母の声が聴こえない。 どうして、ずっと求めているのに。 どうして、傍に居るのにこんなにも遠い。 彼をずっと、彼らを許せない。 彼らが嘆き、狼狽える度、私は…。 …彼らとは、彼とは、誰だ。誰の事を考えていた。誰か…、何か、大切な事だった筈だ。輪郭だけが残っている。存在していた筈の事実が触れようとすると消えていく、離れていく。脆い砂城の様に崩れていく。 これが死というものなのか。私が今まで人間に与えてきたものは、視てきたものは、これと同等のものか。こんな、深いものを、畏れるべきものを私は今まで、彼らに彼女らに与えてきたのか。 …底知れない恐怖。 酷く落ち着かない。 私は千日紅の香りを嗅ごうとした。そこに嗅ぎなれないものが混じっているのに気づく。薄い香りだった。暫く考えて、その香りの正体を把握する。毒を持つ薄紫。 『コルチカム…。』 いつの間に咲いていたのだろう。千日紅と、この花が寄り添うことはあり得ない筈だった。 でも何故だか安易に想像できた。私も母と寄り添えているのだから。私はもう消えてしまうけれど。もう出会うこともないけれど。 『私は只、貴女と家族になりたかった。 貴女の死を見たくなんてなかった。 私を、見てほしかった。人間としての、私を見てほしかった。』 母の音が僅かに震える。リズムが速くなって、私の言葉に応えてくれている様だった。香りが散る。花びらを降らせている。 いつか、私も誰かに同じことをしたような気がした。あの時誰かは何と言った、私はあの時何と言った。…思い出せない。 『私を、愛してなんかいなかった。』 時が近づいてきていた。もうほんの数分しか残されてはいなかった。 『自分勝手です、貴女も、』 言葉に詰まる。私は誰と比較して母を批判したのだろう。私は人間の何を見て知ったつもりになっていたのだろう。もう母の事しか残っていなかった。母と、空洞しか残っていなかった。母がいなくなってしまっては、空洞に吞み込まれてしまうのは明白だった。本来心臓が在るべきはずの其処には何もなかった。私は人間ではないから、当たり前の事だった。  母が母でなく、曖昧な存在だった頃の事は、はっきりと思い出せた。何者でもなかった、只宙に浮かんでいた。 他の存在も感じ取れなかった。鼻も耳も口も腕も足も何も、無かった。只、そこに在ることを知っていた。いつもふわふわと漂っていた。漂うという感覚はその時は分かっていなかったが、今から考えるとそうとしか表現しようがない。只、分岐点が在った。 分岐点のその日、明るいと思った。明るいものを初めて見た。それに惹き寄せられた。七草朱音を見つけた日の事だ。彼女の事を知覚できるようになってからその周りも明瞭になっていった。焦点が合っていった。彼女の周りを漂いながら願ったのだ。 何故か、人間というものに酷く興味がわいていた。彼女が×××を選んだのではなく、×××が母に選んだのだ。そして彼女は母になる前に死んだ。だから、私にとっては母だった。 『自分勝手です、人間ではないのに。』 千日紅の香りが又散らばった。否定されたような気がした。 これは願望に過ぎない。 『貴女の声が聴きたい。貴女の腕で眠りたかった。』 『それだけの為に繰り返してきた。』 今の私に祈る対象は居なかった、只人間が神という存在を信じる理由が漸く理解できた。縋る対象があるという事は幸せな事だった。私にとってそれは母だったのかもしれない。私の中で母は膨らんだ偶像だった。私は只、偶像を崇拝していただけに過ぎない。 …本来の七草朱音は、そんな綺麗な存在ではなかった。私はずっと見ていた。彼女の死を招いたのは彼女自身だ。彼女の偽善と自己犠牲を尊ぶ精神が、自身を殺める方向に男達を動かした。彼女はどこまでを意識的にやっていたのだろう、彼女はどこまでを知っていたのだろう。 本当は全てを、『分かっていたんでしょう?』 母は何も答えなかった。千日紅の香りは消えていた。コルチカムの香りだけがしていた。雨の匂いもした。夏が終わる。 …秋雨だ。 夏が終わる。夏の残骸を雨が流してゆく。 雨も、もうすぐ止む。紫の花だけが残る。  夢を見ている様だった。声が聴こえて、愛おしい人が見えた、手を伸ばしたら届きそうなくらい近くに居る。 ―――あれの花言葉を知っている? 『知っていますよ。』 私の最良の日々は過ぎ去った。 ―――素敵な演出ね。 記憶が実を結んで幻想を創り出した。愛おしい人は私の手を引く。永い眠りへといざなう。 雨音が聴こえる、ぬくもりを感じる。空洞を感じなくなっていた、喜びと呼べる感情がそこに在った。母の音が聴こえる。私は包まれている。私は母の中に居た。 母の声が聴こえた。 ❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁ 「雨が止んだわ。」 「正人を迎えに行かなくちゃ。」 無垢に目を閉じる。安心する。もう空洞は無い。 秋が始まる。 世界は回っていく。 時は流れる。 「そのあと三人で考えましょう、 あなたの名前を。」 「でも私の中ではもう決まっているんだけどね。」 「紫苑。」 「花言葉を知っている?」 世界は回っていく。 時は流れる。 世界は回っていく。時は流れる。 ❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁❁  お母さんによると、私が産まれた日は見事な秋晴れだったらしい。長かった雨が止んだ直後で、その空の青さが忘れられないってお父さんは言っていた。 私の家には小さいけれど、庭がある。そこには私の名前と同じ名前の花が咲いている。  私が一歳になった記念にお母さんの幼馴染さんが贈ってくれたらしい。二週間に一回くらい我が家に来て一緒にご飯を食べる。お父さんはその人があんまり好きじゃないみたいだけれど、私は嫌いじゃない。お母さんはその人の事、優しい人よと私に言ったし。私が成人してからは、偶に一緒に出掛けて夕飯をご馳走してくれたりする。物静かだけれど優しいし、父や母に言えないことを聞いてくれる。それにその人は最近結婚して幸せそうに奥さんの事を話してくれる。お父さんは先輩にあたるその人に遅すぎでしょって揶揄っていた。お父さんは若干その人に対しては器が小さくなるみたいだ。心にもない事を言ってお母さんによく叱られている。  お母さんは何よりも花が好きで、私は絵本の代わりに植物図鑑を与えられて育った。私は母の花言葉クイズが好きだ。  今日も庭を指さして聞く。 「あれの花言葉知ってる?」 お母さんは答えてくれる。どこか遠くを見つめている目をしている。お母さんは偶にそういう目をする時がある、私はよく見ているから分かる。お父さんはよく分からないみたい。お母さんの事、大好きなのに。  私はその目をしている母の事が、嫌いではない。なぜだか安心する。お気に入りの毛布を抱きしめた時のような気持ちになる。 只、母の言葉を待つ。 「花言葉は、」 「あなたを、忘れない。」 風が吹いて、花が揺れた。庭には無い乾いた香りがした。 「誕生日おめでとう。」 十月十六日。 私の二十三回目の誕生日。 見事な秋晴れだった。  
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