沼地の英雄

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沼地の英雄

気が遠くなるほど離れている場所に程なくたどり着く。子どもたちの姿は見えなくなり、花びらの大地は途切れ、飛ばされたわずかな吹き溜まりが点々とする。  黒土の地面を踏み締めるのは久しぶりのこと。湿った感覚は一粒一粒まとわりついて、足の花びらを剥がしていく。空気の匂いの違いがわかった。  べちょり、と音がする。あの子はいた。  べちゃ、べちゃっと泥だまりを踏んでいる。 「この、この。どうだ、こうだ、こうだ」  声をつけて、一生懸命踏んでいる。もしかすると、踊っているのかもしれない。跳ねた泥を誇らしげに受けて、彼は踏む。小さな小さな泥溜まりの、ごくごく近い岸辺まで近づいた。  なるほど、彼は花弁を踏んでいた。吹きこぼされた花弁が泥に浮かんでいたのをあえて沼の底まで踏み沈めていた。そして意地悪な拍子をつけている。 「ほうら、どうだ、この、この」 「楽しそうだねぇ」  微笑ましいまま声をかけると、彼はびくりと振り向いた。あと一歩で抱きしめられそうなくらいの岸辺にいるが、気がつかないくらい夢中だったのだ。  慌てて、けれど穏やかにしゃがみこみ頷く。 「花びらを沈めているんだね」  すると、彼はべしょっと音を立てて飛び退いた。乾いた場所でずりずりと足を擦り、泥と花びらを一緒くたに黒土になする。柔らかい土は擦られるたびに小さな足を包み込んだ。 「やめるのかい?」  目を見開いて、何も言わずに彼は真っ黒な踵を返した。足についた土くれを蹴飛ばしながら、小さな背中は遠のいていった。  その姿を見送っていると、足元からぷくぷくと笑う声がした。  泥の底からはじけた気泡に、軽やかなさざめきが入っていて、弾けるたびに空気を揺らしているのだ。さっきまで小さな足が差し込まれていた所へ手を差し入れると、まだ温もりが残る泥の底で指先をくすぐるものがあってつられて笑ってしまう。 「こらこら、遊んじゃいけないよ」  掬い上げると、はっきりとした歓声が上がった。  もたりとした黒い泥がさわさわ蠢き、やがて淡さを失わない花びらたちが浮いてきて、たちまち手のひらにあふれかえる。くすぐったくて手を揺らすともっとそわそわ笑って動くので、すぐに我慢した。 「ずいぶん沈められたものだね」 「一緒に遊んであげたんだよー!」 「暗くて涼しかったのにー!」 「面白かったのにー!」  たった一声にみんなが一言返してくれる。言葉と裏腹に柔らかく手のひらが踊る。くすぐったくてたまらないけれど、こぼしてしまうのももったいなかった。 「怖がらせてしまうつもりはなかったんだけどね。悪いことをしてしまったよ」 「あの子もそうだよー!」 「何がだい」 「嫌い、嫌いなんだよー!」 「違うんだよー!」 「すごいんだよー!」 「そう、そうなのかい」  花びらたちは思い思いの言葉を繰り返して、その度お互いに笑い笑わされている。さっきまで一緒に目の当たりにしていたから、それだけで十分なようだった。 「楽しかったんだねえ」 「楽しい!」 「面白い!」 「おかしい!」 「涼しい!」  踊る花弁たちはわらわらと断言した。  よかったね、と撒き直してやると、きゃぁぁっと嬉しそうに泥へと帰っていく。  立ち上がり見回して探してみたが、彼はどこにも見えなくなっていた。花弁はのびあがった影を見て歓声を上げていた。  穏やかなこの場所で、時間はあまり意味がない。  次の日彼は、同じ場所であっさり見つかった。そして同じようにぬかるみを踏み荒らしていた。正しくは、荒らそうとしているのは花びらたちの心のようだけれど、相変わらずひらひら笑う彼らにどんどん業を煮やしている。心なし小さい声だけが、わずかに警戒が残っていることを教えていた。  そんな警戒も虚しく、私たちは同じ配置につき、今度は彼が気がつくのを待つ形になった。少しの日陰で冷やされた空気が暖かく立ち止まる空気に流れている。ふっと黙った彼が振り向いたとき、危うく欠伸をしかけていた。 「やあ、こんにちは」  なんとか微笑みとあいさつに変える。 「今日も楽しそうだ。君も、彼らも」  引き結ばれた唇がぱっと開き、閉じ、そしてややあって、彼は体ごと私を向いて息を吸った。 「おれは、楽しくないよ」  ポケットに手を突っ込んで、上目遣いに私を睨み、心外だとありありと表しながら、彼は大人びたような口調で言った。ひと呼吸、彼を見る。 「そうだったのか。ごめんよ、てっきり一緒に遊んでいるように見えたものだから」 「遊んでるんじゃない。こいつらに思い知らせてやってるんだ」  ぶら下げるような物言いだった。首を傾げ、宙を見て、数秒そうしておく。 「わからないな、どういうことか、聞いてもいいかい」  ふわっと下唇が押し上がる。すぐに口の中に丸め込まれて咳払いで打ち消されたが、肩の浮き上がりまでは隠せなかった。 「つまり、俺はこいつらに、自分たちが地べたに這いつくばるものだって見せてやってるんだ」 「ほう、地べたに」 「だってほら、こいつらこうしてやれば二度と風にあたることなんてできないんだよ」  べちゃ、とひと踏みでまたいくらかがぬかるみに沈む。きゃぷっ、ひゃあぁ、などと呑気な悲鳴が埋もれる。 「なるほど、確かにそうなると、また舞い上がることはないだろうね。しかし、やがてわかることだ。どうしてそれを思い知らせてやろうと思ったんだい?」 「決まってるよ。こいつらが僕らより偉いっていう勘違いをしてるからさ」 「ふむ、偉い?」 「僕がこうやって歩くと、こいつら散々笑ったんだ。地べたで生きてるくせにねって。風に乗るほど早くもないのにねって」 「おやおや。そうなのかい?」 「言ってないよー」 「遊ぼうって言ったよー」 「こんにちはって言ったよー」 「言ったよー」  てんてんはらはら返事がくる。すぐにべちゃっと黙らされた。 「いい子ぶるなよこの、見下ろして馬鹿にしてたんだよっ、お前たちは、そうなんだよっ」 「それで、地面に落ちたところを沈めてみたわけだね。はれて同じように土の上で生きるものになった証として」 「そうっ」  彼はすぐに顔を綻ばせた。赤くなった頬に、汗と瞳がきらきら光る。 「まだ木の上から見てるみたいに笑うからさっ。もう笑えなくしてやるんだ、泥に沈んだばっちい花びらにしてやってさ」  衣の裾に跳ねた染みをちらりと見て、私はこっくり頷いた。 「ようくわかったよ。君は、色々と見えているから、考えが回っていくんだね」 「そうだよ、お見通しだよ。だから、こいつらなるべくたっくさん沈めてやるんだ」  話し始めて1番無邪気に彼は言った。柔らかな害意は再び彼の意識も泥に沈めようとしたが、少し引き留めたいと思った。 「それでも、君はいつか花になるんだろう」  ひたりと笑顔が消え、大きな瞳が私を見据えた。 「その足。まだなりかけだが、昨日よりも色づいてきている。今の君は、彼らになりかけの小さな芽だ。先に生まれたからと言って偉いわけではないけれど、先輩たちに無闇な扱いをするものでもないだろう。いつかはおんなじ場所へ行くんだから、そういがみあうのはどうだい」  沈黙。彼の目に、ありありと失望した色が見えた。気持ちよく正直に話していた相手が手のひらを返したように思っているらしかった。  再び引き結ばれた唇と共に下を向く目は、泥が及んでいない膝小僧も見つめている。ほんのりと花びらたちに近いような、反対に真っ白く生気をなくしているようにも見えるような。不思議な色だが、これはすぐに腹へと上がる。そして色の通り過ぎた部分は根や幹になる。  そして頭の方は、幾重にも別れて枝になり花になり、花びらまで分かれてから風に舞うのだ。  ここにいるものは、多くがそれを待ち望む。だが、彼は受け入れがたいらしかった。膝を見つめながら、小さな拳がズボンを握り込んでいる。 「君は」  言葉をかけようとした時、泥がぽこりと音を立てた。ぷかりと花びらが浮かんできたのだ。 ふう、と息をしたその姿は彼もみとめたようだった。 「あ」  花弁は、呑気に彼を見た。 「おそろいの色だー」  真っ直ぐ彼の膝に向けて放たれた言葉は、おおいに逆撫でとなった。  途端に、ばしゃんと足が踏み下ろされた。 「黙れ、笑ってるんじゃねぇ」  これまでで1番毒を持った声だった。きっと上げられた目に思わず私は射抜かれた。 「偉そうにするな笑うなぼくを下に見るな、思い知らせてやるからな」  吐き捨てて、また彼はばしゃりと沼を出て走っていった。  ぷくぷくと小さな空気の音だけが、私と共に取り残される。  最後に声をかけそびれてしまった。謝りにきたつもりで、なんだか余計に怒らせて終わりになってしまった。花弁にも自分にも悪気がなかったのだが。  それにしても。 「ほんとうはぼくというのか」  大概、ゆっくりかもしれなかった。急ぐ理由も見当たらなかったし、最後と言葉にそこまでの意味があるとも思っていなかったのだ。  それでも気になって、小さなぬかるみを訪ねてみると、そこはめちゃくちゃになっていた。  ぬかるみにたくさんの木の皮が放り込まれている。黒い皮の下、白くさばけた木の肉も荒く剥がされてそこらじゅうに撒き散らされ、沈んでゆく。日陰を作っていた花の木は、どれもこれも真っ白な傷跡を晒していた。散った花びらがその傷のあちこちに貼り付いては声を上げている。 「うわあ」 「剥がれてる」 「痛い?」 「剥けてるよー」 「かわいそうー」  どちゃっと、濡れた音がした。  奥まったところ、1番暗いところの木に、まさに傷をつけている。泥だらけの手を叩きつけて、引っ剥がした皮の最後を断ち切ろうと、手を振り上げている。暗がりに光るのは、大きく握った石ころだ。ちょうど平べったくて物を切れそうなそんなもの。 「どうだ、どうだっ、痛いだろ、怖いだろっ」  どちゃっ、がしゅっ、と耳慣れない音がする。その木の花弁が、さわさわとどよめく。  仕方なしに、その暗がりに踏み出した。冷たい土が足を受ける。重みにかけて染み出してくる物は努めて無視して、また彼の背後へと寄った。 「来たのかよ、止めるのかよ」  気づいていたらしい彼は笑った。私はぴたりと足を止める。 「あんたもこうしてやるぜ、またお説教を垂れるつもりだろ」  説教をしたことになっている。一歩下がった。 「君は、それがしたかったのかい」 「ああ」  見下すように、切り捨てるように、彼は言う。 「こうしてやりたかったんだ。思い知らせてやった、やってやったさ」 「これで君は、引き返せなくなった。本当にそれが望みだったのかい」  高められた笑い声が答える。嘆息した。これでもう、決まりのようだった。 「それならば、そうなるがいいさ」  告げた瞬間、彼はこちらに走ってきた。飛びかかられるまま、青い空を仰いで押し倒される。  影を差した彼の顔が目の前真上で薄白く光る。手にした石は大きく振りかぶり、光の中、移された木の湿りを焦がしていた。  その石が、落ちる。彼の手の中におさまったまま、まっすぐに地面へと吸い込まれ、振りかぶった彼の背後、私の腹の上へと落ち軽く跳ねた。半月に笑っていた目が見開かれ、彼は落ちた手首を見失って、肩の向こうへ悲鳴を上げた。  ぼろぼろぼろ、と彼の肘までが崩れていく。崩れた肉は真っ黒く湿った土になり、私の腹へと降り注ぐ。ずしゃりと冷たい感覚が広がっていくが、払いのけることも止めることもできない。  彼が決めたことだ。 既に利き手は肩まで崩れて、更に体を侵蝕して行く崩壊に彼は無い腕を振り回す。 「どうして」 愚問だ。彼が望んだはずのことが起きているだけ。しかし、彼の理解は追いつかない。 「土に還るんだよ。ほかのみんなとは違う。君は君のまま、花弁にも木にもならずに土になる」  花として上から見下ろす存在を拒んだ彼は、正反対の存在になる事が受け入れ難いらしい。  身を捩りながら立ち上がった彼は体を振って、体が崩れる事実そのものを遠ざけるかのように必死にもがく。その拍子に、落とした石を踏みつけてぐらりとよろける。大きく目を見開いたまま、立ち上がったばかりで顔から地面に突っ込んで、割れるような悲鳴が上がった。  倒れたままで彼を見ると、土に受け止められた部分も崩れ始めて足が動かなくなっていた。どうにか立てた肘の向こう、真っ黒になった口元が最後の口を利く。 「僕は、僕はみんなと同じになると思ってたのに」  首が落ちて残りの言葉は地中へ響いた。着ていた服まで真っ黒に崩れていく。  風が吹き抜けた。 「他のものに、なれたじゃないか」  もう届かない言葉。さざめくような笑い声が上がった。 「もう聞こえないよー」 「土になったよー」 「あーびっくりした」 「みんないるよー」  はらはらと笑い声が響く。  日差しがゆっくりと土を焼く。木の傷は樹液が暖かく乾かしていく。  もう一度、横たわったまま仰いだ空は、隙間なく明るく高い。いつも通りだった。  戻ってきた原っぱで、子供達を見回すと、何人かはもう花びらの山となって風に運ばれるるのを待っていた。  何箇所か、覚えのある場所が空いている。  しばらくは、後を追う気にはなれそうもない。
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