5 氷の華が割れるとき

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5 氷の華が割れるとき

 笹本と話さなくなって二月ほど経った。  サークルは休んでいるし、構内で笹本を見かけても目を合わせないようにしている。  こういう時、大学はいい。広くて逃げる場所がいくらでもある。人がたくさんいて混じってしまえる。意外と直接会うことは少ない。  唯一、クラスで教室が一緒になることはあるけど、開始時間ぎりぎりに来て終わったらすぐに出ていけばよかった。  ふと窓の外を見ると、木々はすっかり葉が落ちて枝が露わになっていた。飾り気のない無機質な姿だ。  ああ、これが元の平穏だと思う。  笹本の一挙一動に心が浮いたり沈んだりすることはない。葉月を傷つけるかもしれないとびくびくせずに済む。伊吹には大学内では一人にしておいてほしいと言っているから、授業以外は絵を描いていればそれでいい。  花はない季節だけど、その華やかさに毎日が乱されることはもうないのだ。  いつものように、授業が終わってすぐに席を立った時だった。 「和泉」  ぎくっとした。笹本の声だった。  逃げられるだろうかと思いながら、私は急いで顔を背けて扉の外に出る。 「待って」  笹本の声が後ろで聞こえたけど、私は教室から流れ出てくる人波に混じってしまうことに成功した。  校舎の裏まで来て一人になると、私は一息つく。  例の事件の後、笹本から一回だけ携帯に着信があった。もちろん私は通話に出なかったけど、どうしたらいいのか困った。けれど笹本がらみのことは伯父にも葉月にも相談できなかった。  そうしたら伊吹が携帯のメールアドレスを変えて、着信拒否というものを設定してくれた。それで、笹本との連絡手段はあっけなく消えた。  白い雲が空を覆っていた。私は草むらに座り込んで足を投げ出す。  次第に手がかじかんできたけど、しばらくそこでぼんやりと空を仰いでいた。 「和泉ちゃん、みっけ」  ふいに声をかけられて、私はいつの間にか目の前に立っていた人たちに気づいた。  一番近くにいたのは華やかな美人の藤原さんだった。その後ろに、「ヘイズ」からのお手伝い要員だった九瀬君と輪島さんもいる。 「昼ごはんでも一緒に食べない?」 「悪いけど、あんまり食欲ないんだ」  気さくな藤原さんは嫌いじゃないけど、サークルのメンバーとはしばらく顔を合わせたくなかった。  私が腰を上げようとすると、藤原さんはそんな私の前に屈みこんできて大きな目で覗き込んでくる。 「ねえ、和泉ちゃん。伊吹君が寂しがってるわよ。あんまり冷たくすると誰かに盗られちゃうけど、いいのかしら?」 「伊吹がよければそれでいいよ」  構わず私が立ちあがると、藤原さんは微笑みながら続ける。 「じゃあ、優希は? 私が盗っちゃおうかしら」 「それはない」  私は迷わず答える。 「笹本は葉月のものだから。誰も葉月には敵わない」  藤原さんは一瞬表情を消して、ふっと笑う。 「さすが和泉ちゃん。この程度の安っぽい文句には引っかからないか」  綺麗にネイルされた指を頬に当てて、藤原さんは頷いた。 「でも、笹本君かわいそうだよ」  輪島さんがためらいながらも口を挟む。 「みんなの前であんなこと言われて。謝らなきゃ」 「謝ることないんじゃないか」  顔をしかめた輪島さんの横で、九瀬君が遮る。 「和泉さんが言ったことは本当だろ。笹本の無節操に愛想振りまく癖は、俺だってどうかと思う」 「だって……」 「私は笹本が嫌いだから仕方ない」  私は無表情で輪島さんを見返す。 「あなたとは違うから」  輪島さんのように、純粋に笹本を想える時期は過ぎてしまったから。  彼女はびくりとして、うろたえながら踵を返す。 「九瀬君、フォローしといて」  その輪島さんを見送りながら、藤原さんが九瀬君に声をかける。 「わかった」  短く返して、九瀬君は輪島さんの後を追った。 「なかなか不器用な人ね、和泉ちゃん」  二人の姿が見えなくなったところで、藤原さんは苦笑した。 「そう偽悪的にならなくていいのに。輪島さんは悪意があって言ったんじゃないのよ」 「私は人にどう見られても構わないから」  私も去ろうと思って立った時、藤原さんの顔が目の前にあった。  鼻が触れ合うくらいの距離に驚いて私が身を引こうとすると、私の首の後ろでパチンと音がする。 「何?」  視線を少し落とすと、私の首に小さなロケットのペンダントがかかっていた。 「優希から」 「返すよ」  私が首に手をやって取ろうとすると、藤原さんはその手を掴んだ。思いのほか強い力だった。 「それ、ずっと優希が持ってたものよ。大事なもの」 「私には関係ない」 「聞いて」  穏やかだけど強引さもある話し方は、笹本に少し似ている気がした。 「そのロケットは、優希の育ての親の冴さんが優希に持たせたものなの。優希は何度か危ない目に遭ったから、心配してね」 「……危ない目?」  思わず訊き返すと、藤原さんは頷く。 「誘拐とか、売られそうになったりとか。冴さんが手に入らないから代わりに優希をっていう、おかしい連中がけっこういたのよ」  母には熱狂的なファンがいるということを聞いていたから、そういうこともあるかもしれないと私は顔をしかめる。 「ロケットの中にボタンがついてる。押すと冴さんに居場所を教えてくれるようになってるの。だけど大学に入ってからはもう大丈夫だろうって、優希は持たないようになったんだけどね」 「それをどうして私に持たせるの?」  ロケットを手に取って見下ろす私に、藤原さんはそっと言う。 「あなたが心配だからだそうよ。「芽衣子叔母さんに気をつけて」って言ってたわ。対を自分が持ってるから、何かあったらすぐ伝えてって」  私は少し黙ってぽつりと言う。 「叔母さんはもう、悪いことしないよ。私にはこれ、必要ない」 「持っていて」  藤原さんは私の手ごとロケットを握り締めた。 「優希は危険に敏感なの。彼が他人には絶対触らせなかったそれを渡すほどだから、手放しちゃ駄目」 「どうして藤原さんはそんなに笹本を庇うの?」  私の言葉に、藤原さんは苦笑した。 「優希は嫌気がさすくらいに小さい頃から知ってるの。あの無駄な愛想の良さも、女の子に媚びているって思われても仕方ない態度も、時々どうしようもなく子どもっぽいところも」 「じゃあなんで?」 「和泉ちゃんは、私ほど優希の嫌なところを知らないでしょう」  藤原さんは長い睫毛の下からじっと私をみつめてくる。 「優希を好きになる女の子は多い。けど嫌いになる子も同じくらいいる。だけど彼のことを本当に理解してから好きになったり嫌いになったりする子は、実はほとんどいないの」 「それは幼馴染の藤原さんや……葉月がいれば十分だよ。私は要らない」 「そう思ってないから、優希はこれを渡したんじゃない?」 「私は迷惑なの。笹本とかかわりたくないの」 「じゃああなたから返して」  藤原さんはおっとりと言い切る。 「私は優希に借りがあるから、頼まれたからにはあなたに渡さないといけないだけよ。私の顔を立てて、とりあえず受け取ってちょうだい」  そう言われてしまっては、これ以上抵抗することはできなかった。 「さ、ランチでも行きましょ」 「……それは遠慮するよ」 「残念。じゃあまた今度」  藤原さんは愛想よく笑って、手を振って去っていった。  窓の外を掠めていく白い結晶を、私はじっとみつめていた。 「こら、れいちゃん。寝てないと駄目」  肩を叩いて、葉月が私の額に自分の額を合わせる。 「まだだいぶ熱いわ。ベッドに戻りましょ」  葉月に促されて、私は部屋のベッドで横になる。  寒さが厳しくなるこの季節、たいてい私は風邪をひいて、一週間くらい寝込むことになる。元々体は丈夫な方じゃないから、一度ひくとなかなか治らない。 「葉月にうつっちゃうよ」 「うつして。れいちゃんが治るなら」  葉月は私の肩まで布団を引き上げて言う。 「私はここにいるから。ゆっくり休みなさい」  体は辛いけれど、私は風邪をひくこと自体はそんなに嫌じゃない。  風邪をひいてる間は、忙しい葉月を独占していられるから。  くすっと笑った私に、葉月は首を傾げる。 「うん?」 「なんでもない。ごめん」  自分勝手な考えに、私は首を横に振る。  葉月は私のベッドの横で本を読むのを再開する。私はふわふわする意識の中で目を閉じていた。 「さっき、雪を見てたらね」  私がぽつりと零した言葉に、葉月が振り向く気配がした。 「綺麗な花の形をしてた。均等で、バランスの取れた形」 「この季節の華だものね」 「うん。すぐ溶けちゃうし、崩れちゃうけど、いいよね……」  結晶が手に取ったらすぐに消えてしまうのは、きっと整い過ぎた姿だからなのだろう。一瞬しか、絶世の美は保てないのだと思う。 「そうね。でも、れいちゃん」  そんな話をしたら、葉月は窓の外を見やりながら言った。 「雪はその形が崩れたとしても、また固まって別の花を作れるわ。固まることができなくても、春が来れば無数の花が咲く」 「けど、それは元の雪じゃない」  崩れてしまったら、たぶん元の形には二度と戻せない。  そう思って顔をしかめた私に、葉月が微笑んだ。 「大丈夫よ。私がもっと綺麗なものを作るわ」  ふっと私も笑う。 「そうだね。葉月ならできるね」  葉月は家事とか生活に必要なことは苦手だけど、いろんな細工物を作ることが得意だった。葉月の中にある美的感性は、誰にも真似できないくらい研ぎ澄まされている。  ふいに葉月の携帯が鳴った。葉月は携帯を見て、少し眉を寄せる。 「どうしたの?」 「やっぱり今年もか」  葉月は小さくため息をつく。 「私の彼氏も、毎年この季節になると風邪ひくのよね。熱出してるみたい」 「それ、大変じゃない」  私はばっと起き上がって葉月に言う。 「葉月、看病しに行ってあげなよ。私は、ほら……」  少し考えて私は言う。 「たぶん今日も、伊吹が様子見に来てくれるから」  毎年私が風邪をひくと、伯父が来て家事をやってくれる。けれど今年は伊吹が時間をみつけて来てくれるようになっていた。 「私が行っても料理も何もできないし」 「買い物をしてきてくれるだけでもだいぶありがたいはずだよ。あ、私に買って来てくれたゼリーとか冷却シートとか、持っていってあげなよ」  渋った葉月に、私は言葉を重ねる。 「それに一人暮らしなんでしょ? 一人で寝込んでるのって、寂しいよ」  葉月は迷っていたけど、やがて言った。 「じゃあ少しだけ行ってくるわ」 「うん。それがいいよ」  私が頷くと、葉月は支度を始める。 「ちゃんと寝てるのよ」  指を立てて私に言い聞かせてから、葉月は出かけて行った。  私は葉月に言われた通り布団で大人しく寝ていた。  うつらうつらとし始めた頃、私の携帯に着信があって目を覚ます。私は伊吹が前もってかけてくる電話かと思って、何気なく携帯を開いた。  着信は芽衣子叔母さんからだった。 「もしもし、叔母さん?」  壁掛け時計は、そろそろ夜の八時を指そうとしていた。 「……れいちゃん。助けて」  通話に出た私の耳に聞こえたのは、押し殺したような叔母さんの声。 「どうしたの?」 「お願い。あと一回だけ食事に付き合って」 「叔母さん、そういうのはもう駄目だよ。それに私、今……」 「じゃないと私、殺される……!」  切羽詰まった声に、私ははっとする。 「やばいところにお金借りちゃって、今日返さなきゃ……私もう本当にお金なくて……どうしよう」 「落ち着いて、叔母さん」 「落ち着けるわけないじゃない。駄目なの、待ってって何度も頼んだのに……」  自分でも何を言っているのかわからないように、叔母さんは言葉を並べたてる。 「とにかく、伯父さんに相談を……」 「雅人に? やめて、絶対! あいつが私を助けるわけないわ」  金融関係なら伯父が強いからと思って言ったけど、叔母さんは焦って止めてきた。 「いくらいるの?」 「二百万」  それは、私のお小遣いではどうにかできそうにないと唇を噛む。 「けど今日いくらかでも払えば、知り合いの弁護士に相談するから……」  冷静に考えれば、食事をするくらいでそう大したお金がもらえるはずはないと私だって気付いただろう。 「……今回だけだよ」  けど私も熱に浮かされた頭では、何とか叔母さんを助けようという結論しか弾きだすことができなかった。  葉月と伊吹に「叔母さんが大変だからちょっと出かけてくる」とだけメールして、私は急いで外に飛び出す。  暖かい部屋の中なら美しい雪が、針のように痛かった。  叔母さんとは繁華街の入り口で合流した。 「こっち」  私の手を掴んで叔母さんは足早に歩き出す。  曲がって、また曲がって、路地に入って、奥へと奥へと向かっていく。  すぐに道がわからなくなった。熱が上がってきたのも感じた。叔母さんの足が速すぎて私は足をもつれさせていた。 「どこまで行くの?」  ネオンすら消えていく繁華街の奥は、まるで迷宮のようだった。私は二度と家に戻れないような錯覚を覚えて、体を震わせる。  やっとどこかの店の裏口に辿り着いた時、私は目が回っていた。  薄暗い部屋に連れ込まれた時も、私は自分が座らされたものが何かよくわからなかった。 「その子が冴の娘か」 「そう」  叔母さんが男の人と話していた。 「裏では人気なんでしょ。プレミアがつくってやつよ」 「そうだな。冴の娘ってだけでいくらでも金を出す奴は何人か当たりがある。しかしここの客は派手だぞ。こんなチビっこい子がもつかね」 「もたなくてもいいじゃない。どうせあんた、足がつかない内に売るんだから」  私は頭痛がする頭を押さえて、叔母さんに問いかける。 「叔母さん……何の話をしてるの?」 「頭の悪い子ね」  芽衣子叔母さんは耳触りな笑い声をたてた。  男の人が、私の手首を掴んで柱みたいなものに縛りつける。 「でもあんたみたいな子でも、体一つあれば金になるのよ」  私は自分の座っているものがステンレスのベッドであることに気付く。 「じゃあ客を呼んでくるか」  ……そして私が体を売らせられようとしていることも理解する。 「叔母さん、待って!」  男の人と部屋を出て行く叔母さんに叫んだけど、扉は硬く閉じられる。 「助けて!」  縛られた手首を引っ張ってもびくともしない。力いっぱい叫んでも、誰も来ない。 「誰か……葉月、伯父さん……助けて」  嫌だ。こんなのは嫌だ。  目が回って吐き気がする。息が苦しくて、意識を失いそうになる。  目の前が暗くなりかけた時、微かに光が視界の隅に映った。 「あ……」  私の首に下がったロケットのペンダントに気づく。  もしかしたら、気づいてくれるかもしれない。そう思って体を折り曲げて、手に首のロケットを近付ける。何とか指先にロケットが触れた。  私はペンダントを震える指先でこじあける。  一縷の望みをかけて、私はそれをみつめた。 「笹本……」  カチリとボタンを押した。  何とか手首の拘束を解こうともがいていたけど、手首から血が流れ出るだけで頑丈な縄は解けそうもなかった。  誰か来て助けてほしい。でも「客」は嫌。それだったら誰も来ないで。  一瞬が何時間にも感じられるような時の中、ざっと、誰かが扉の外に立つ気配がした。 「ん、んー……!」  私はぎくりと体を震わせて、力いっぱい手首を引く。  扉が開く。私は思わず目を閉じて庇うように体を小さくする。  縄が切れる音がした。私の手を誰かが取る。薄暗くて、見上げても顔が見えない。  促されるまま部屋の外に出る。  そこに立っていたのは、息を切らして顔を上気させた男の子。 「……笹本」  街灯の光に照らし出された姿に息を呑む。 「ついてきて。大丈夫、逃げられる」  私の手を取って、笹本は走りだした。  複雑な路地を、笹本は猫のように駆けた。光すら僅かな空間を、彼はするすると抜けて行く。  破れた金網をくぐりぬけ、ゴミ袋をかきわけながら、けれど私の手をしっかりとつかんで笹本は進む。  笹本の手は、私の手と同じ温度だった。その体温に、私は恐怖に強張った心が少しずつほぐれていくのを感じた。  私の知っている雰囲気の街が見えてきた頃、笹本は一つの店の裏口から飛び込む。 「ここ……」  母がホステスをしているクラブだった。私たちが控室のようなところに入ると、何人かのお姉さんがいた。 「優希ちゃん」 「どうしたの、その格好」  汚れて雪にまみれた私たちに驚いて、お姉さんたちが取り囲む。  その中から、母が進み出てきた。 「ここに隠れていなさい。いいわね?」  母はすぐに救急箱とタオルを持って来てくれた。 「みんな、隣の部屋に出て」  母はお姉さんたちを連れて部屋の外に出て、扉を閉める。  ここはあの部屋と違って明るくて、暖かかった。そのことに、私はようやくほっと息を吐く。  笹本は無言で私の手首を消毒して、包帯を巻き始める。 「……和泉」  いつも柔らかな表情をしているはずの笹本は、強張った顔でぎこちなく言った。 「大丈夫?」  私はこくっと頷いて言葉を発しようとする。 「うん、ありがと……」  言葉が終わる前に、笹本の手が震えて包帯が落ちた。  ……どっと笹本の両目から涙があふれ出す。 「よかった……!」  笹本は私を引き寄せて抱きしめる。 「無事で……。和泉、怖い思い、いっぱいしただろうけど……!」  子どものように力いっぱい笹本は泣く。 「辛かっただろ、ごめ……うう」  後は言葉にならなかった。嗚咽の声だけが響いた。  どれだけ笹本に心配をかけたか、私は訊かなくてもわかる気がした。 「……大丈夫だよ、笹本」  私は笹本の背中に手を回して、宥めるように言葉を重ねた。 「私は、大丈夫。もう心配要らない」  そっと頭を叩いて、体を離す。笹本は涙を拭うことすらせず、目を見開いたままぽろぽろと雫を零していた。  こんなに人のために真剣に泣いてくれる人に、私はどうして冷たくできたんだろうと思った。  しゃくりあげて泣く笹本の顔を、私はずいぶん長い間タオルで拭っていた。 「ごめん。泣きたいのは和泉の方なのに」 「ううん」  少し落ち着いてきた頃、笹本はまだ涙に濡れた目で私を見た。 「来てくれてありがとう。笹本がいなかったら、どうなってたか」 「それも、ごめん。芽衣子さんが危ないのは気づいてたんだから、もっと強く忠告しとかなきゃいけなかったのに」  笹本は息をついて俯く。 「冴さんに金を借りに来てたから、嫌な予感がしてた。以前もそういうことの後、俺も体を売らされそうになったことがある」 「笹本……」 「冴さんが助けてくれたし、まだ小さくて意味もわからなかったけど、すごく怖かったのは覚えてるんだ」  私は笹本の忠告をしっかりと受け取らなかったことに後悔が押し寄せるのを感じた。 「ごめん、笹本」 「無事だったからいいよ」 「それもだけど、酷いこと言ってごめん」  笹本は目を上げて少し首を傾げる。 「酷いこと?」 「サークルのみんなの前で、愛想がどうとか……」 「ああ、そのこと」  笹本は苦笑して口元を歪めた。 「みのるに……藤原に言われたことがあることばっかりだよ。愛想の振りまき過ぎ、女の子に媚び過ぎ。ああ、キスのことはさすがに言われたのは初めてだけど」  少し目を逸らして、笹本は難しい顔をする。 「藤原には、俺は優しさの使い方を間違えてるって言われてきた」 「笹本が?」 「自分では愛想振りまいてるつもりも、媚びてるつもりもないんだ。俺はただ……雅人さんみたいになろうとしてきただけなんだけど、雅人さんほどうまくはできなくて」  私も何となく理解する。  伯父も笹本も社交的で気さくなところが似ている。けど、伯父は言われなければ気付かないほどさりげなくみんなに優しくて、しかも嫌われない。  けど、そんなことができる人間になるには、それこそ四十年かかっても難しいのだ。  私は笹本のことを、勝手に何でもできる人間だと思ってしまっていた。  ……実際は、笹本だって私と同じ十八歳の大学生であることに変わりはないのだから。 「さすがに正面切って言われるとへこむけどね。そのうち俺のこういうところを嫌いって言われる気はしてた」  私はその言葉を撤回したかった。けど、葉月のことを考えるとできなかった。 「嫌われてもいいんだ。……よくはないけど、仕方ない。でも」  笹本は弱弱しく笑う。 「何かあった時に助けに行くくらいは、許して。俺たち……」  従兄妹だから?と私が口にしようとして、私ははっと気づく。 「そうだ。笹本、熱あるんだったよね」  風邪をひいて寝込んでいたはずだ。熱があるはずの私と手の温度が一緒だったことに今更になって気づく。 「寝てて。タオル濡らしてくる」 「大丈夫。治りかけだから」  そう言いながら、笹本の目に力がない。私は笹本を近くのソファーに寝かせて立ちあがる。  ドアノブに手をかけたら、外から扉が開いた。 「優希ちゃん。雅人に話したの?」  母が入って来て、口早に問う。 「ここに来るって」 「うん。もう芽衣子さんのこと話した」 「どうして。だから、私の言うことが……」 「聞けない」  焦った様子の母に、笹本はきっぱりと言い切る。 「冴さんはいくら芽衣子さんを庇ってもいい。俺は和泉を庇うだけ」  母は哀しそうな目をして、けれど何も言わずに部屋を出て行った。 「いいの?」  私がそっと問いかけると、笹本は頷く。うん、と短く答える。 「冴さんが守らなきゃいけないものと俺が守らなきゃいけないものは違うから」  幸い部屋の隅に蛇口があった。私はそこでタオルを濡らして笹本の額に置く。  やはり辛かったのか、笹本は目を閉じてしばらく横になっていた。 「あれ?」  ふいに笹本は携帯を取り出して電話に出る。 「うん。叔母さんの店。いるけど、なんで? あ」  短く会話をしたかと思うと、相手から通話を切られたらしく笹本は携帯を耳から外す。 「なんか、葉月が伊吹と一緒にここに来るって」 「……あ」  たぶん葉月は私を心配して伯父に電話したのだろう。そして伊吹は葉月に聞いたというところじゃないだろうか。  そこまで思い当ったところで、私ははっと気づく。 「私、帰る」 「駄目だよ。今はここを動いちゃ」 「だって」  私と笹本が一緒にいるところを葉月が見たら、何か気付くことがあるかもしれない。 「それに和泉も調子悪そうだよ。熱あるんじゃない?」  笹本は向かい側のソファーを示す。 「ここにいれば安全だから。休んでなよ」  私はどうすればいいのかわからなくて、その場で立ち竦んだ。  バタバタと足音が近づいてきたのは間もなくのことだった。 「れいちゃん!」  葉月が雪で髪を濡らしながら部屋に飛び込んでくる。 「この包帯! 何があったの!」  後から伊吹が入って来て、こちらは顔に怒りを張りつけて私を睨んだ。 「熱がある奴が何やってるんだ。人が看病してやってるのに」  高飛車だけど心配も滲む言葉に、私は一瞬申し訳なさに首をすくめた。 「優希、なんでれいちゃんと一緒にいるの?」  けどすぐに、葉月の声に意識を引き戻される。 「葉月こそ、どうしてここに?」  私と笹本のつながりは葉月にずっと黙ってきた。私と葉月のつながりも、笹本に秘密にしてきた。  葉月に私の笹本への好意を知られたら……何かが決定的に崩れてしまう気がしたから。 「それより、二人とも病人なんだろ。帰るぞ」  私がうろたえたことに気付いたのだろう。伊吹が話を逸らそうとする。 「そうね。れいちゃん、歩ける?」 「大丈夫」  葉月の気が逸れたようで、私はほっとしながら頷く。それを見てから、葉月は笹本に振り向いた。 「優希も……」 「待って。今は俺たち、外に出れない」  笹本がふいに厳しい声を出す。 「雅人さんが、自分が着くまで俺と和泉はここを動いちゃいけないって。あいつらが追って来るかもしれないから、冴さんに匿ってもらうようにって」 「何があったの?」  笹本はちらっと私を見る。 「和泉が、客を取らされるところだったんだ。それも、かなり裏の方の店の連中に」 「何?」  伊吹が顔を険しくする。 「芽衣子さんがやったのね?」  けれどその前で、葉月が不気味なほど静かな声で問いかけた。  笹本が頷くと、葉月はくるりと踵を返す。 「葉月。どこ行くの?」 「あの女を探すわ。何をしても雅人さんに突きだす」  押し殺した声に葉月が本気であることを感じ取って、私は慌てて葉月の腰にしがみつく。 「だめだよ、葉月。危ないよ!」 「許さない」  笹本も立ちあがって葉月に歩み寄る。 「葉月、伊吹とすぐ帰って。ここにいたら葉月の役者としての顔に傷がつく」 「私?」  葉月は冷たく、けれど激しい目で笹本を睨んだ。 「そんなものとれいちゃんを秤にかけるの?」  葉月と笹本の視線がぶつかり合う。  笹本が何かに気づいたように瞳を揺らした。 「……おい。話し声が聞こえないか?」  一番扉に近かった伊吹が言葉を挟む。 「片方は和泉の声に似てるが」 「それ、たぶん冴さんだわ」  葉月が扉に耳を当てて、そしてすぐに顔をしかめて扉を開け放つ。 「零ちゃん」  隣の部屋にいたのは、母と……芽衣子叔母さんだった。  反射的に体をひきつらせた私を、笹本が庇うように背中に隠す。 「ごめんね。ちょっと脅かすだけのつもりだったのよ」  叔母さんは猫なで声で言葉をかけてくる。 「雅人を宥めてちょうだい。零ちゃんの言うことなら聞いてくれる」 「どれだけ腐ってるの、あんたは!」  葉月が掴みかかろうとしたので、私は慌てて葉月の腕を取って止めた。 「芽衣子。すぐにここを離れて、どこか遠い街に行きなさい。今なら逃がしてあげられるから」  母が苦い表情で告げたけど、叔母さんは薄く笑った。 「必要ないわよ。冴が一声かければ、雅人は言いなり。もちろんそうしてくれるわよね?」  まるで母が庇ってくれることなど当たり前のように言った叔母さんを、葉月が激しい目で睨んだ時だった。 「無理だよ、芽衣子さん。あなたが冴さんと雅人さんのどんな弱みを握ってたとしても、雅人さんは揺らがない」  笹本は静かに厳しく言い放つ。 「いい加減に気づいて。雅人さんは冴さんだけなんだ。……何をしても、あなたを見ることはないよ」 「何それ」  叔母さんは顔をひきつらせた。 「その言い方、私が雅人の気を引いてるみたいじゃない」 「認めなよ。あなたのしてることはただの嫉妬だ」 「やめてよ」  叔母さんの笑い方は明らかに奇妙だった。目が泳いでいた。 「ちょっと、零ちゃん、冴。なんで黙るのよ」  私も、なんとなく気づいていた。芽衣子叔母さんの伯父さんへの敵意の中には、子どもじみた不自然さがあった。  葉月が冷ややかに叔母さんを見る。 「だって事実じゃない。他人の私から見てもそう思えたわよ」  小さい子が構ってもらいたくてわざと悪さをするような、そんな感じだった。 「な、何よ。人のこと馬鹿にして。優希、あんた私に甘えてたくせに」 「そうしなきゃ冴さんの立場が悪くなるから仕方なかった。それに」  笹本は憐みをこめた声で告げる。 「冴さんに八つ当たりしかできないあなたが、あまりにかわいそうだったから」 「……あんた」  叔母さんは我を失ったように笹本に駆ける。 「自分の立場わかってるの。一生表に出れないあんたと零がかわいそうだったから、構ってあげてたのに」  叔母さんの手がポケットに伸びる。そこから鋭く光るものが見えた。 「生まれちゃいけない子だったくせに!」  叔母さんが笹本に向かってナイフを突き出す。  私は何も考えていなかった。ただ、体は勝手に動いていた。  笹本は、笹本だけは守らなきゃと、私の心が叫ぶ。  ……彼がいなくなったら、私は半分なくなってしまう気がした。  笹本と叔母さんの間に割り込む。抱きつくようにして笹本を突き飛ばす。  ざく、という嫌な音が遠くで聞こえた気がした。  痛みは来なかった。私は思わず閉じていた目を開いて振り向く。 「やったわね。これであんたは犯罪者よ」  葉月が笑みを浮かべてそこに立っていた。  片手で叔母さんの手首を握って……もう片方の手でナイフを掴んでいた。 「……葉月、血っ」  だらだらと血が流れていくのに、葉月は微動だにしない。 「もういい。離せ、葉月!」  伊吹が後ろから掴みかかって叔母さんを取り押さえる。笹本も叔母さんの腕を押さえて葉月から引きはがした。 「葉月に……傷が……」  私は呆然と呟いて立ち竦む。  誰より綺麗な、完璧な存在である葉月に傷がついた。 「どうしよう……葉月、ごめん、ごめん……!」 「私はいいのよ」  私は飛びつくように救急箱を開けて包帯をみつけると、葉月の手に巻こうとした。けど、手が震えて駄目だった。勝手に涙がぼろぼろ出て来て視界も定まらない。 「巻き込んで済まないね。葉月ちゃん、伊吹君」  いつの間にか部屋の中に伯父が入ってきたことにすら気付かなかった。 「構いません。けど」  葉月は伯父に低く言い放つ。 「その人を二度とれいちゃんに近付けないでください」 「そうするよ」  伯父は床に押さえつけられた叔母さんに歩み寄って、その前に屈みこむ。 「優希に聞いたよ。冴に何度も金を借りたそうだね。零に男と食事させて金を取っていた。それで、今回は零に体を売らせようとまでした」 「二人が勝手にしたことよ」  叔母さんは下から伯父を睨みつけながら、ふっと笑う。 「私を警察にでも突き出そうっての? いいわ、そうしたらあんたと冴のことをばらしてやる。あんたも冴も、優希も零も一生後ろ指さされるわ」 「芽衣子」  伯父は小さく息をついた。  彼は憐みをこめた目で叔母さんを見下ろす。 「お前は何て馬鹿なの。そんなことが私たちの弱みになると思ってた?」  伯父はあっさりと告げる。 「お前を放っておいたのは、冴がお前を庇っていたからだよ。それ以外に理由なんてない」 「嘘言わないで。じゃあ……」 「私にとって、お前は何の価値もないんだ」  叔母さんが息を呑んだ気配がした。 「私は冴がいればいい。お前がいてもいなくても変わらない。……でも」  伯父は叔母さんの首を片手で掴んだ。 「お前は害になってしまった。いたら邪魔なものに」  残酷なくらい綺麗に、伯父さんは微笑んだ。 「後のことなど気にしなくていいよ。……お前は二度と帰って来られないから」  伯父さんが扉を開け放つと、数人の男の人たちが踏み込んできた。 「私に何をする気!」  男の人たちに無理やり立たされる叔母さんが焦って叫ぶ。伯父は黙って首を横に振る。 「冴! 私、いろいろ助けてあげたじゃない!」  助けを求めた叔母さんに、母は口を開く。 「兄さん……」 「駄目だよ。お前の害になるものは置いておけない」  伯父は優しく母に返すだけだった。 「零! あなたの面倒見てあげたわよね」 「聞いちゃだめ」  葉月は私に厳しく言う。  鉄の匂いがした。私はそれが葉月の流した血だと思うと、体が痺れたように動かなかった。  叔母が男の人たちに連れられて行った後、笹本がうずくまる。  伯父が笹本の前に屈みこんでその額に手を当てる。 「熱がだいぶ高いね、優希。葉月ちゃんも手当てしなきゃ」  叔母さんのことを止めなければ。笹本を早く寝かせなきゃ。  ……どうしよう、葉月に傷をつけてしまった。  頭の中がいっぱいになって、私は目の前が真っ暗になる。 「病院へ……零?」  何もかも限界だった。  加熱しすぎて、体も頭も動かなくなる。  私は前に倒れ込みながら意識を失った。  いろんなものが壊れてしまった気がする。元には戻れない予感がする。 「大丈夫」  誰かがそう呟いて私を受け止めてくれたけど、それが誰かはわからなかった。
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