6 花のような君に

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6 花のような君に

 雪の日の夜から、私と笹本は入院することになった。  笹本は熱のある体で無理をしすぎて、風邪をこじらせてしまった。幸い、三日ほどで退院したそうだ。  けど私は一ヶ月ほど入院していた。風邪が治ってもずっと点滴をしていた。  悪夢が止まらなくて、うまく食べ物が飲みこめなかった。私の体の中でバランスが崩れてしまったように、食べて寝るという簡単なことが満足にできなかった。  叔母さんのことも心配だったけど、それ以上に私の心を占めていたのは葉月のことだ。  葉月に怪我をさせてしまった。傷が残ったらどうしよう。私のせいだ。  葉月に笹本への感情を知られてしまったら、葉月はきっと……と考え始めると、私は目の前が暗くなって動けなくなってしまう。 「れいちゃん。家に帰ろうか」  ある時、毎日お見舞いに来てくれた葉月が言いだした。 「先生も、住み慣れたところでゆっくり過ごした方がいいって」 「でも……」 「私、雅人さんに家事を教わったの。簡単なものだけど、料理もできるようになったのよ」  私は驚いて、すぐに顔をかげらせる。 「させられない。だって葉月、怪我してる」  葉月は微笑んで私を見た。 「もう治ったわ。傷はあるけど、それもれいちゃんが不安なら整形でも何でもして消すわ」  私の心を包むようにして葉月は言う。 「私はれいちゃんが望むなら、いくらでも綺麗になってみせる。小さい頃からずっとそうしてきたように」  少し黙って、葉月はぽつりと呟く。 「それから、私は優希と別れたわ」  それは今、私が一番聞きたくない言葉だった。  私のせいで葉月が笹本と別れてしまったらと、私はずっと怖かったのだから。  戦慄が走って、私は震える。 「そんな、それは」 「ごめんね。私が優希と付き合ってたから、れいちゃんは苦しんでたのね」  葉月はじっと私の目を見て告げる。 「れいちゃんが好きなのは、優希なんでしょ?」 「違う!」  私は首を横に振ったけど、葉月は動じなかった。 「隠さないで。誰かを好きになるって気持ちは、悪いものじゃないの。私も、隠すことはもうやめた」  葉月は私のベッドの横にひざをついた。  それから私の手を取って、葉月は告げる。 「私が一番好きなのは、れいちゃんよ。家族より友達より……恋人より、誰よりあなたが好き」  大きな澄んだ瞳で、葉月は私をみつめた。 「れいちゃんが私を想ってくれる、その気持ちとはきっと違う。そう言ったら、私を嫌いになる?」 「そんなことはならない。絶対」  私は葉月の手を握り返して言う。 「私だって葉月が好きだよ」 「そう言ってくれるのは嬉しい。でもね、今は待ってみたいの」  薄暗い病室の中で、葉月だけが輝いているように見えた。 「私しかいないから私が好きなんじゃなくて、いろんな人を見て、その中で私が一番好きだって言える日まで」 「いろんな人を……?」  葉月は頷いて言う。 「ねえ、心を自由にさせてあげて。れいちゃんは初めて誰かを好きになったんでしょう? せっかく抱いたその感情を、成長させるだけ成長させてあげなさいな」 「でも……それじゃ、葉月に悪いよ」  私が俯くと、葉月は私の頬に手を置いた。 「れいちゃんは、私がれいちゃんを好きなことを止める?」 「そんなことしないよ」 「それなら」  葉月はどこにも汚れのない、美しい微笑みを浮かべた。 「一番好きな人を好きでいられる、私は誰より幸せよ」  だかられいちゃんも、自分の好きなようにすればいいのよ。  葉月はそう言って、そっと私の頭を抱いた。  葉月が一生懸命作ってくれる料理を食べる内に、少しずつ私の体調は快方に向かった。  葉月が隣の部屋にいてくれると思うと、悪夢に目覚める回数も減った。  まだ時々熱は出るけど、何とか外に出ることもできそうだった。葉月に暖かくするようにと言いつけられて、いつも以上にぐるぐる巻きで学校に向かった。  久しぶりに掲示板の前を通りかかったら、そこに見慣れないいくつかの封筒と用紙が貼ってあった。 『キャンパスプロジェクト。あなたの「大学の風景」を演劇にします』  私は何気なくそのポスターを眺めて、下の方に書かれていた名前に気づく。 「あ」  企画責任者、笹本優希。 「和泉」  ひょいと後ろから覗き込んできたのが笹本その人だったから、私はびっくりして身を引く。 「体大丈夫?」 「あ、うん……」  何回かお見舞いには来てくれたけど、退院してから会うのはこれが初めてだった。 「笹本、これ」  私がとっさにポスターを指さすと、笹本は頷いて切り出す。 「四月の新歓シーズンに向けて、有志で大学を舞台にしたオムニバスの演劇をやることにしたんだ。うちの大学生にアンケートをとってシーンを選ぶ」 「宣伝文句に、「俳優、伊吹竜也出演」って書いてあるけど」 「うん。客寄せパンダならぬ客寄せ伊吹」  冗談めかして笹本は言う。 「いや、でも本当に伊吹が出演することになってるから。そのおかげでアンケートの回収率が絶好調」  笹本はふいに真面目な顔になって私を見る。 「和泉も、一緒にこの劇を作らない?」 「……私?」 「きっと楽しいよ。俺も、和泉が絵を描いてくれると嬉しい」  それはサークルに誘った時と同じ言葉のようで、何か違う気がした。  私は笹本をじっと見てふと問う。 「どうして笹本はこの劇を企画したの?」 「それ聞くと、一気に俺が情けなくなるんだけど」  笹本は苦笑して、掲示板に背中をもたれさせた。 「葉月に振られた悲しさをまぎらわすために、打ち込むものが欲しかったからっていうのが、正直なところ」  黙った私に、笹本は続ける。 「俺、子役やってたんだ。それなりに評判も良かった。けど俺、容姿が地味で背も伸びなかったから、ある時主役から外されてさ。それでいっぺんに役者から遠ざかってた」  情けないだろと笹本は口の端を歪める。 「それでも、何かあった時に俺の頭に真っ先に浮かぶのは演劇なんだ。嬉しい時もへこんだ時も、無性に演劇がしたくなる。だからおもいきって、俺が企画してみた」  笹本は少し首を傾けて私を見た。 「ただ、動機は不純だけど演目自体は真剣。俺、この企画のためにサークルを抜けたから」 「え、どうして?」 「一年じゃ企画からすべてはやらせてくれないだろ。サークルにいたままじゃできない」  手を合わせて、笹本は言う。 「崖っぷちスタートの俺を助けるためと思って、和泉も手伝ってくれない?」  お願いしますと笹本は頭を下げる。  そこまで言われてしまっては、私は断るすべを持たなかった。 「私は絵を描くことしかできないけど、それでよかったら」 「ありがと」  笹本はほっとしたように笑って、小さく付け加えた。 「……元気になるよ、きっと」 「え?」  訊き返した私に、笹本はメモを渡す。 「これ、第一回の会合の日時と場所。終わったら親睦会の予定だから。じゃ」  慌ただしく笹本が去っていくのを、私は見送った。  私がメモを読んでいると、ぽんと肩が叩かれる。 「藤原さん」 「調子、戻って来たみたいでよかったわ」  藤原さんはにっこりと笑いかけて、それから私のメモに目を細める。 「優希もようやく渡せたみたいだし」 「ようやく……?」 「彼、二週間くらい前から暇があればこの掲示板前にいたのよ。ここ、学部生ならだいたいみんな通るじゃない。待ってたのね」 「待ってたって、まさか」  私は信じられないことを聞いた気がして、迷いながら口にする。 「……私を?」  微笑んで頷く藤原さんに、私はメモをまじまじと見る。 「どうして?」  藤原さんはその問いには答えず、メモをつと指さす。 「この親睦会の場所、私の彼氏が店長をやってる店なの。おすすめよ。ぜひ楽しんでいってね」  それから藤原さんは笹本とは対照的に、優雅にゆったりと去っていった。  私は久しぶりの大学の講義を受けて、早めにマンションに帰る。葉月はまだ帰っていなかったから、私はとりあえず洗濯物を取り込み始めた。  夕暮れの光が差し込んできていて、その眩しさに目を細めていた時だった。  インターホンの音が鳴って、私はモニターの前に立って来客を確認する。  そこに映っていた人の姿に、私は息を呑んだ。慌てて玄関に向かう。 「上がってもいいかしら? 少し、話があるの」 「あ、ええと、はい」  母だった。私はひとまずリビングに通してテーブルに案内する。 「ダージリンでいいですか?」 「ええ」  二人ではほとんど話したこともないので、私はどんな風に相手をすればいいのか困りながらも紅茶を用意する。  母は店で見るような着物ではなく、デニムに灰色のコートという地味な格好だった。ただ、そのシンプルさがかえって母の透明な美しさを際立たせているような気がした。 「突然来て悪かったわね」 「いえ、私も一度お話したいと思っていたので」  紅茶を置いて私も席につくと、母はゆっくりと切り出した。 「芽衣子のことね?」 「……はい」  例の事件の後、私は伯父に芽衣子叔母さんがどうなったのか訊いた。 ――芽衣子って誰のこと?  けれど伯父は微笑んでそう言っただけだった。 「伯父さんは、まるで芽衣子叔母さんが最初からいなかったみたいに言ってました」 「世間的にはそうなってるんでしょうね。家も引き払われてたし仕事もやめたことになってるわ。行方を調べて助けてあげたいけれど……」  母は苦しそうに眉を寄せながらはっきりと告げる。 「あなたはもう詮索するのをやめなさい。優希にもそう言っておいたわ」 「でも」 「いざとなったら、兄さんは優希やあなたにさえ容赦しない。笑いながら残酷なことをする。そういう人よ」 「……それでも」  私はずいぶん前から気付いていたことを、そっと口にする。 「あなたは伯父を庇うんですね」  母は目を伏せた。 「私の罪ね。私が兄さんに無関心を貫いていれば、芽衣子が暴走することはなかったのに……私には、それができなかった」  母たちは、敵意と好意と無関心で、ある意味均衡が取れていた三兄妹だと思っていた。けれどその均衡は、実際はもうだいぶ前に破られていたのだろう。 「訊きたかったことがあるんです」  私は意を決して母を見る。 「私の父親って、もしかして」 「わからないわ」  母は自嘲的に笑う。 「私は体を売って稼いでた女だもの」 「それはあなたが、私の父親が誰か隠すためだったんじゃないですか?」  私は一瞬ためらいながらも言う。 「笹本の母親も……」 「それを知ってるのも、誰もいないわ。優希にも言ってあるけれど」  母は席を立って、窓に手をつく。 「受け入れなさい。あなたの母親は誰とも知れない相手と子を作った女よ。もしかしたら、とても罪深いかもしれない」  今の季節は花をつけないベランダの植物たちを眺めながら、母は静かに告げる。 「けど、そんなことを気にするのはよしなさい。あなたには何の罪もない。どんな土から生まれたとしても、あなた自身は綺麗な花よ」  振り返って、母は黒曜石のような瞳で私を見る。 「零。自分の想いを咲かせて、あなたの一番大切な人と生きなさい。それがどんな罪深いことでも、誰かを傷つけることになっても」 「……母さん」  私が思わずそう呼ぶと、母は微かに目を細めた。 「私もそうやって生きてきた。……けど、何一つ後悔してないわ」  私はしばらく母を見つめたまま動けなかった。  一月の終わりに、私は笹本の企画した「キャンパスプロジェクト」の会合に出かけて、夕方に親睦会にも参加することにした。 「いらっしゃい。楽しんでいってね」  その店は大学生御用達の店だから、私もサークルで来たことがある。藤原さんの彼氏であるマスターの蝉谷さんは、三十くらいのハンサムな人だ。  お店はいっぱいだった。他の大学生たちもいるけど、今回のプロジェクトのメンバーだけでも結構人が集まっていたからとってもにぎやかだ。  紹介された限りでは、確か十人くらいだったと思う。その中には一緒に大道具作りをした九瀬君や輪島さん、藤原さんもいる。 「和泉ちゃん、これおいしーよ」  ぼんやり座っていたら、輪島さんのお姉さんである千春先輩が料理を勧めてくれた。 「こら、千春。病み上がりの子に油ものはきついだろうが」  気を遣ってくれたのは今回監督をつとめる菊田先輩だった。二人は、会合の時でも隅っこにいる私にも気安く声をかけてくれた人たちだった。 「いえ。ありがとうございます」  お礼を言って少し話してから、私はその場を離れた。  私がお皿を持って壁際を歩いていると、九瀬君と輪島さんが二人で黙々と飲んでいるのが目に入った。藤原さんはマスターの蝉谷さんと一緒にお皿を配ったり酌をしたりしていた。  思い思いにみんな過ごしていた。私も、自分から会話に加わったり盛り上げたりはできないけど、それを許してくれるメンバーだったから気が楽だった。 「体調大丈夫?」  笹本がそっと問いかけてきて、私はうん、と頷く。 「そういえばね」 「笹本」  そのまま隣に腰を下ろそうとする笹本を、私は軽く制する。 「私は気にしなくていいから。主役が隅にいちゃ駄目だよ」  当然みたいに気を遣ってくれる笹本に、いつまでも甘えているわけにはいかない。  何か言いかけた笹本の横を通り過ぎて、私は自分の落ち着く場所を探して歩く。  ふと壁にかかる水彩画の前に来て、私は足を止める。  この店で一番私が好きな絵だった。淡い色合いのそれをじっとみつめて、その前に腰を下ろすことに決める。  大学に入ってからサークルの飲み会に参加するたび、笹本が話しかけてくれた。私は笹本の聞き心地のいい声に耳を傾けて、笹本が穏やかに頷いてくれるのを見るのがただ楽しかった。 ――れいちゃんも、自分の好きなようにすればいいのよ。  葉月は笹本と別れてまで、私の自由を作ろうとしてくれた。 ――自分の想いを咲かせて、あなたの一番大切な人と生きなさい。  ずっと私への関心すら見せなかった母が、初めて私に教えてくれたことも自由だった。  それだったら、私が私のままでいられる頃に戻ってはいけないだろうか。  元々私は一人が好きだった。静かに絵を描き続けるのが大切な時間だった。  ……今回の演劇を最後にして、また一人で絵を描く日々に戻ろうと思う。  観客は葉月で、時々伯父が見てくれれば、それで私には満たされた幸せな日々だ。  水彩絵を見上げる。  この絵は花を描いていることはわかるのだけど、何の花なのかははっきりさせていない。様々な色が混じり合っているし、形もあいまいだ。絵を見る人によって連想するものが違うようにできている。  けど、私はこの絵を見るたびに同じ花を連想する。たった一つの色を目で追って、一つの形を頭に思い描く。  どうしてだろうな、と考えに沈んでいた時だった。 「和泉」  すぐにその低い声は伊吹のものと気づいた。  そういえば、笹本とあれだけ仲が悪いのに伊吹がこの劇に参加したことが不思議だった。笹本は客寄せのために伊吹を使ったのだろうけど、伊吹の方に参加するメリットがあるとは思えないのに。 「こっち向けって言ってるだろ」  私がぼんやりしていたからか、伊吹が苦笑したような声で言ったのが聞こえた。私はくわえていたストローから口を離す。 「ああ、なにか……」  用か、と続けるつもりだった。  次の瞬間、伊吹の顔が目の前にあった。  そして唇に何か触れた。柔らかくて、微かな体温を感じる何かに。  ……え?  顔を離して伊吹がふっと笑う。得意げな、悪戯っ子のような顔だった。  まさかとは思うが、そのまさかなのか。  ……キスされた? 私が、伊吹に? 「何する伊吹!」  私が椅子を蹴飛ばすようにして立ちあがると、伊吹は笑う。 「殴れば? 俺は謝らないが」 「く……」  殴りたいが、やったことがないのでどうやって殴ればいいのかわからない。 「えと」  罵りたいけど、やはり人を罵ったことがほとんどないので言葉も出てこない。 「やってみろよ」  そもそも反省しない相手を殴って何かいいことあったっけ?  ああ、駄目だ。混乱して自分でも何を考えているのかわからない。 「オッケー」  ふいに、伊吹の肩を叩く手があった。 「それじゃあ、お言葉に甘えて」  ドンと鈍い音がした。  伊吹は腹の辺りを押さえて咳き込むと、目を上げて低く言う。 「お前に殴られる理由はないぞ、笹本」 「俺がむかついたから」  笹本がにこやかに拳を握りしめていた。 「顔を狙わなかっただけありがたいと思えよ」  口の端を引きつらせる笹本に、伊吹は悪びれずに言う。 「で? 誰かわかったんだろうな」 「ったく、教えるのをやめてやろうか」  笹本は一歩伊吹に近付いて、小声で何かを伝える。 「ああ、あの女か」 「……何の話?」  それに伊吹が頷いているのを見て、私は怒りを忘れて首を傾げる。 「とりあえず、外に出るか」  見ると、サークルの皆の目が私たちに集中していた。私は伊吹に引っ張られて裏口から出ることになった。  伊吹に掴まれたまま、私は店の外に出た。 「はい。ちゃんと着なさいね」  外気の冷たさに私が気づく前に、後から出てきた笹本が私のコートを渡してくれた。 「ありがとう。それで、何がどういうこと?」  最初の衝撃が通り過ぎて、私は少し落ち着きを取り戻す。  私が伊吹と笹本を交互に見ると、笹本が話しだす。 「伊吹がお兄さんの彼女を探すために、みんなの注意を引きつけようとしたんだよ。こんな方法だと知ってたら計画に乗らなかったんだけど」 「彼女を探してどうするの?」 「お兄さんを弄んでるかもしれないから、伊吹は一言物申したいんだってさ」 「なるほど」  私はこく、と頷く。 「なんだかわからないが、伊吹のブラコンからの行動なんだな」 「おい」 「気にしなくていい。私もファザコンだし、笹本もマザコンだ。何も恥ずかしいことはない」  伊吹と笹本が微妙な顔をしたけど、私は納得がいったことを口にする。 「でも私で遊ぶな。伊吹と違って、私はああいうことは普通にすることじゃないんだ」 「俺と違ってって何だ。俺だって普通はしない」 「嘘だ。この間のドラマだけで五人以上としてるだろう。節操なしに」  私が指を立てて言うと、笹本がくすっと笑った。 「伊吹、ざまあみろ」 「前から思ってたんだが、笹本。お前性格悪いだろ」 「伊吹にそういわれるなんて光栄だね」  嫌みたっぷりに言い合う二人を見て、私はふと思う。 「なんか……仲良くなったんだな、笹本と伊吹」  考えたことが言葉に出ていた私に、二人が嫌そうに顔をしかめる。 「どこが?」 「そもそも一緒に演劇作ろうとするなんて、前はなかった」 「あー、それは……」  笹本が少し困ったように言葉を濁した時だった。 「笹本君、ちょっと来て」  裏口からマスターの蝉谷さんが出て来て、笹本の肩を叩く。 「え、蝉谷さん、あの」 「ごめんねー。俺、伊吹君応援派だからね」  半ば無理やりに店内に引っ張っていく蝉谷さんを、私は首を傾げながら見送った。  私も何となく室内に戻ろうとしたら、伊吹に呼び止められた。 「和泉」  私が顔を上げると、伊吹は私より頭二個分くらい高い視点から見下ろしていた。 「思ったより元気そうで安心した」  私は口元を歪める。 「……本当は、こんな風じゃいけないんだ」  芽衣子叔母さんたちのことや、別れてしまった笹本と葉月のことを考えると、私が元気になってはいけないような気がする。 「そうだな、いつものお前の覇気がない。だから俺と笹本はこの劇を作るんだ」 「え?」 「今回の計画は、お前を元気づけるためのものだからな」  私は慌てて言葉を挟む。 「いや、笹本は葉月と別れたことにショックを受けて、それでサークルを抜けてまで……」 「うちのサークルは実力主義だ。所属しながらでも演劇の企画はできる。サークルを抜けたのは、お前が参加しやすいメンバーにするためだよ」  考えてもみろと伊吹は今回の企画のメンバーを挙げてみせる。  確かに、私が顔を合わせづらい「アース」からは、藤原さんと伊吹、笹本しか参加していない。後は姉妹サークルの「ヘイズ」のメンバーばかりだ。 「もし参加しなくても、お前に見せたかったんだよ。俺もそれには賛成だったから計画に乗ったんだ」 「私に見せる?」 「今回のテーマは、「大学の風景」だったな」  伊吹は腕組みをしながら灰色の目をじっと私に合わせる。 「お前は花を見るのが好きらしいが、大学は花だけの場所じゃない。一人でいたがるが、大学は一人でいる場所でもない」  私は目を伏せて言った。 「今回の劇が終わったら、私は一人で絵を描くことに戻ろうと思うんだ」 「させない」  はっとして目を上げると、すぐに伊吹と目が合った。 「劇が終わる頃には、お前は演劇がしたくなってる。一人が嫌になってる。俺がそうさせる」  強い口調で伊吹は言葉を落とす。 「和泉。俺はお前が学校内で声をかけるなと言ったらそうしたし、家に呼んでも別に何もしなかった。お前は和泉雅人みたいな、紳士的で無欲そうな男でないと抵抗があるとわかってたから」  伊吹はそこで声を低めた。 「けど、俺はお前の父親になりたいわけじゃないんだよ。俺がなりたいのは、お前にとって一番の男なんだ。紳士的で無欲でなんてやってられるか」 「お前は勝ちにこだわりすぎてるよ、伊吹。誰かに負けたくないから躍起になってるだけだ」 「そうだ。確かに俺は負けが嫌いだ。なんでだと思う?」  私は少し考えて答える。 「自信があるからか?」 「好きだからだ。他の誰よりも」  ためらいなく答えて、伊吹は続ける。 「お前の一番になりたいと思うのは、負けたくないからだ。どうして負けたくないかと訊かれたら、それは俺が一番お前のことを好きだからだ」  わかるかと言われて、私は言葉に詰まる。 「だから俺が一番得意な演劇で勝負するんだ。舞台に上がれば、俺は誰にも負けない」  伊吹は一歩歩み寄って私を覗き込んだ。 「俺は勝つまで勝負し続けるからな」  いつか見た、燃える氷のような目だった。 「見てろ。お前は絶対、俺のことを選ぶから」  その目の光に身動きが取れないでいる内に、口に何か触れた。 「……ん?」  口の中にも柔らかいものが触れた。  というより、なめられた?   ……何にだろう、と考えた途端、私はかっと顔が熱くなるのを感じた。  両手でおもいきり伊吹を突き飛ばすと、伊吹はしれっと答える。 「さっきのは俺的にキスに入らないからな。こっちをカウントしてくれ」  反射的に手を伸ばして伊吹の口を塞ぐ。その手を伊吹は易々と掴んだ。 「お前が知らない面白いことはたくさんあるんだよ。葉月や伯父じゃ一生体験できないことも、俺なら教えてやれる」  艶っぽく笑った伊吹に私はぎくりとして、ついで慌てて言い放つ。 「私はごめんだ」 「そう言うな。楽しいぞ」 「要らない! 殴るぞ、伊吹!」  怒って突き放す私に、伊吹はふっと目を細める。 「その意気だ」  私は思わず手を下ろす。 「お前……」  私を元気づけるために、わざと怒らせるようなことを言ったのだろうか。 「楽しめよ、和泉。大学も演劇も恋愛も。俺はいつでも相手になってやるから」  伊吹は笑って言う。  笑いながらも目だけは真剣で、私は息を止める。 「また泊まりにこいよ」 「……邪心を感じるから嫌だ」  私がそれだけやっと呟くと、伊吹は楽しそうに喉を鳴らして笑っていた。  「キャンパスプロジェクト」の間、時間は走るように過ぎていった。  シナリオはアンケートとチームのみんなの体験談を元に、六つのシーンに区切って考えられて、衣装や大道具は一から作られた。  朝早くから夜遅くまで、やることはいくらでもあった。  チームのみんなと劇を勧めているうちに、私は自分が楽しんでいることにも気づいた。  相変わらず調子を崩して寝込むことはあったけど、演劇に打ち込んでいれば気持ちは落ち着いた。  その慌ただしくも満たされた時間の中で、私はずっと考えていたことがある。  私はこの時間を手放せるだろうか。終わっていくことを受け入れられるだろうかと考えた。  三月の終わり、夕方の五時ごろ、私たちはリハーサルを終えた。  前評判が高かったので、まず学部生を対象に発表して、さらに新入生歓迎シーズンに二回、全部で三回の公演を行う。  けど、三ヶ月近く準備してたった三回の公演だ。それで終わってしまうのだと思うと、寂しくも感じた。 「え、葉月ちゃんが明日髪セットしてくれるの?」 「私にできるお手伝いってそれくらいだもの」 「葉月ちゃんに髪を触ってもらえるなら、私、丸坊主にしてもいいわ!」  手伝いに来てくれることになった葉月に、藤原さんが興奮しながら話しかけていた。  少し早目にリハーサルを終えたけど、仲のいいメンバーたちは芝生の上でいくつかの輪を作って話している。  私も帰る支度はできているけど、芝生に座ったまましばらくぼんやりとしていた。 「和泉」  ふと顔を上げると、そこに笹本がいた。 「どうしたの?」  隣に座ってそっと問いかける笹本に、私は苦笑する。 「いよいよ明日だから」 「不安? みんなそうだよ。だからなかなか帰らないんだ。俺もね」  笑って付け加えた笹本から、私は目を逸らす。 「不安……もある、けど。私はこれで終わっていくんだなと思うと、名残惜しくて」  黙った笹本に、私はぽつぽつと続ける。 「楽しかった。笹本が誘ってくれて嬉しかった。だけど、それももう……」 「終わらせなければいい」  穏やかだけど強引な口調で笹本が遮る。 「また公演をやろうよ、和泉。俺が企画するから」  その優しい提案に頷けたらどんなにいいだろうと思った。 「大学はあと三年もあるよ。いくらでも機会はあるんだよ」  言葉を重ねる笹本を、私はなかなか見られないまま聞いていた。 「公演が終わったら言おうと思ってたんだけど」  笹本はためらいながら言った。 「俺、和泉と一緒にいたいんだ」  心が跳ねあがって、同時に私の中で叩き落とされて、私はその苦しさに唇を噛んだ。 「笹本。それが、優しさの使い方を間違えてるってことだよ」  笹本の言葉をそのまま喜ぶことは、私にはできなかった。 「そういうことを言うから誤解される。私に対して言う言葉じゃない」  覚悟を決めて、私は言葉を放つ。 「……だって私たち、友達なんだよ」  沈黙が、一瞬あった。 「うん」  違和感を覚えて私は顔を上げる。 「そうだよね。友達だ」  すぐに笹本は顔を背けて立ちあがったから、見間違いかと思った。  ……笹本の右頬から一筋の涙が伝ったように見えたのだ。 「れいちゃん」  葉月が近寄って来て私の頬に手を伸ばす。葉月の手が濡れた。  気付かなかった。私の頬にも涙が伝っていた。  それを認識した途端、ぽたぽたと涙が落ちてくる。 「追いかけなさい、すぐに」  葉月は私の顔を覗き込んで言う。 「終わっていいの? 終わらせていいの? ……まだ、終わってないのよ?」  どっと、心の奥から感情が流れ出てくるのを感じた。  止めることのできない奔流は、私の体全体を押し流す。  立ちあがって走りだす私を伊吹が見ているのに気づいていた。  けどすれ違う時に微かに目を細めただけで、伊吹は私を見送った。  私はサークル棟を通り抜けて門の方に向かう。  今回の演劇で大学生たちに選ばれたのは、食堂や時計塔、講堂といった人の集まる場所だったけど、この辺りはそのどれからも離れている。  両脇に桜が立ち並ぶ一角だから、新歓シーズンならお花見でにぎわう場所だけど、花が咲かない今の季節は閑散としていて大学生の姿もほとんどない。 「笹本」  木々の隙間に、桜の木にもたれている笹本の後ろ姿があった。  私の呼びかけに笹本はぴくりと反応した。けれど振り向くことはなく、聞こえなかったようにそのまま足を進めようとする。 「待って」  私は走っていって笹本の前に回り込む。  笹本は少し後ずさった。だけど桜の木に背中がぶつかって、そこで止まる。  ぎこちなく笑った笹本の頬は濡れていた。 「と、これは……明日の練習、だよ」  私の視線が頬を走ったのを見て取ったのか、笹本は慌てて頬を拭う。 「ごめん、私嘘ついた」  私は笹本の前に立って、じっとその目を見返した。 「葉月に悪いから、こんなこと言われたら笹本だって困ると思って、言えなかった。けど」  揺れる茶色の目をみつめながら、私は言う。 「……私、笹本が好き」  私にとって、今でも葉月が一番綺麗だ。伯父が男の人の理想だ。私のことを一番好きでいてくれるのは伊吹かもしれない。  けど、それとは違う、命のかたまりみたいな感情を持っている。 「いつかはさよならの時が来る。でも今はいや」  初めて会った時から惹かれた。一緒にいて心が暖かくなった。ちょうど、心に春が訪れたように。  欠点に悲しんだときもある。彼は愛想が良すぎて使い方を間違えている。たまらなく子どもっぽい。そういうことを理由に、諦めようとしていた時もあった。  体の横で手を握り締めて、私は笹本を見上げる。 「一緒にいて。抱きしめさせて」  育ててきた感情をようやく外に出すことができた。その幸せは、初めて知った。  腕を回して抱きしめる。笹本もその上から腕を重ねて、しばらく私たちは動かなかった。 「うん。……いいよな。一緒でも」  笹本は腕を回したまま顔をのぞきこんで、私の好きな笑顔になって言った。 「覚えてないかな。和泉、小さい頃に一度だけ葉月と一緒に劇場に来てた」 「……あ」 「俺の初めてのキスは、和泉だった」  笹本は照れくさそうに打ち明けて言った。 「いつか、さよなら。それまで……」  笹本が投げかけた言葉の先、私の答えもまだ決まっていない。  昔の人は、花といえば桜と考えていたらしい。  ……私にとって、君は春がくるたびに心惹かれる花そのものだ。  私はもう一度笹本を抱きしめて、そうだよと彼のように相槌を打った。
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