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風が吹くたびに、花びらが春風に舞う。
どの家に植えられている桜よりも、美しかった。
「私がみた頃は……まだ、若木だった。ソメイヨシノは、育つのが早いものですが、それでもあれほど立派になるとは」
「先生も、見知った木か」
「……妻の、亡き妻のかつての実家です、ここは……まだ、残っていたとは」
先生は赤錆びた門柱を握りしめ、桜を見上げている。
かつては花の咲き乱れる庭だったのだろう。
そこに、若木が植えられた。美しい洋館と、桜と若い女と若い小説家。
先生は生まれたときから年寄りなのではない。先生にも若い頃があったのだ……私に若い頃があったように。
思えば、私たちはあまりにもお互いの過去を知らない。
私は先生の顔からかつて若者だった顔を探ろうとしたが、それは難しい仕事であった。
「桜をテーマに小説を書こうと、そう考えていたことがありました」
先生はポケットから小さなメモ帳とペンを取り出すと、ペンの先を一度舐めた。そのあとは、一心不乱に何事かを書き綴りはじめる。
「まだ私の小説が売れていなかった頃に、ここで考え……きっといつか書こうと思った話がありました」
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