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やがて先生は駆けるように家へ戻った。商店街の女店主に声をかけられてもなあなあに答え、階段を一気に駆け上がる。
まるで恋に浮かれた私と同じだ。声を掛けてもつついても、先生は気づかない。ただペンを握りしめ、机に向かう。日が落ちて、茜の色が紺に変わり、冷たい風が吹く。
酔っ払いの声とクラクションが響いた瞬間、先生はようやく気づいたように顔をあげた。
「ああ……すっかり、灰汁が抜けてしまいました」
先生が水にさらした青い草は見た目こそ同じだが、引き上げると青臭さが少し薄れている。そんな気がする。
「お恥ずかしい、まるで若い頃のように夢中になってしまいました」
「年なのだから無茶をするな」
私といえば、暇にかまけて体を舐める。
「先生、ところで一体何を思いついたんだ」
「……それは、いつか」
先生は何かを言いかけ、口を閉じた。
「とても長い話になりますので」
閉じられた言葉の奥に先生の秘密なり過去があるのだろう。
それを語ってもらえないのは、私が猫であるからか、付き合いが短すぎるせいなのか。
体の奥底にじわりと広がったのは、春の香りに似たほろ苦さ。
私はまだ、その名前を知らなかった。
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