夢を走り抜ける電車に乗って

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夢を走り抜ける電車に乗って

 それは、別れのための夜。たった数時間の(はかな)い夢のような出来事。  とても冷たく、悲しく、切なく、けれど幕間(まくあい)にしては十分過ぎるほどのお話。 「知ってる? タイムマシンって、もう現実にあるんだって」  ずっと背中を向け、手を引っ張りながら前を歩いていた彼女が、こうして隣に座り、下手くそな微笑みを浮かべながらはにかむ表情を見ると、どうしてか胸がざわついた。  昔は男勝(おとこまさ)りな性格で、笑う時なんかは大きく口を開けながら笑っていたと言うのに。 「今乗ってるこの電車、ずっと乗ってたら未来に行けちゃうらしいよ」  中学に上がるまで僕達はいつも一緒にいた。だからこそ、抱いた気持ちと道を別れた時の喪失感は後にならなければ気付かなかった。その感情の名さえ知ったのはどれくらい時間が経ってからだったのだろう。  そして再び()ったのは、すっかり大人になってしまった後で、何もかもが遅すぎた。 「どこまで行けるかな?」  お酒でほんのり赤く染まった頬を隠しもせず、ぼんやりと呟き、二人の間に置いた彼女の手はすっかり冷たくなっていた。 「……どこまでなら、一緒に行けるのかな?」  そして、その左手の薬指には淡い青色の宝石が輝く指輪が付けられている。なんとも僕の知っている彼女らしくなく、けれど今の彼女には相応(ふさわ)しいものだ。  今はそれを見て見ぬフリをするように、右手を重ねた。  自分の左手に付けられた銀に輝く指輪をも忘れたフリをして。 「どこまでって、もうあと二駅だよ。そこでお別れ」  もっと洒落(しゃれ)た文句でも思いついたのなら、身体に残るお酒の勢いで言えたのかもしれない。けれど、残念ながら文学は(たしな)んでいない。  ただ、少ない文学の知識でこの時間を語るのであれば、これは魔法にかけられた一晩の舞踏会なのだろう。その時間だけはどんな誰もがお姫様で、誰もが王子様になれる。例え、それがロミオとジュリエットであったとしても。  王子様が手を差し出し、お姫様が手をとって、共に過ごせる素敵な時間。  (ある)いは、人魚姫と王子様の恋物語なのかもしれない。  けれど、それらは全て終わりのある、とても儚い時間でもある。  今まさにその終わりを告げる鐘の音が鳴ろうとしている。夢から現実に戻されそうになっていた。 「……意地悪。そこは嘘でも『どこまででも』とかロマンチックなことくらい言ってくれたっていいじゃん」  口を尖らせ、「女心ってものを分かってないわね」なんて小さな溜め息を吐きながら言う。不器用な笑顔を浮かべたまま。 『この電車は◯◯線、◯◯◯◯行きです。次は◯◯◯駅です』  多くの人が電車から下り、もうこの車両にいるのは二人だけ。無機質なアナウンスが流れ、時計の針は緩やかに十二へと向かい、再び動き出した。  すると、彼女は(てのひら)を合わせるように上向きに返し、僕の指の間に指を入れ、ぎゅっと握る。 「乗るんならさ、過去に戻れるタイムマシンならよかったのに」  本当に彼女らしくない。いや、それとも変わってしまったのだろうか。どちらにせよ、軽く浮いた呂律(ろれつ)をしていて、相当酔っていることに変わらなさそうだ。 「……戻ってどうするんだよ」  そんな彼女を見て、ほんの少し意地悪になっていた。 「うーん、やり直す。やり直して……」  だが、そこまで言ったところで、彼女は口を閉じてしまった。そして、僕も気がついてしまったのだ。  これ以上言ってしまうと、これ以上聞いてしまうと、本当に一線を超えてしまいそうになってしまう。それ以上を求めてしまう気がしてならなかった。  途端、他人(ひと)のいない電車の中は蛍光灯の光と沈黙で飽和する。お互いの温度を確かめ合うように、ずっと手を握ったまま。 『間もなく◯◯◯駅、◯◯◯駅。お出口は右側です。電車とホームの間が空いている場所がありますのでご注意下さい』  ついに時計の針は終わりの一つ手前を指し示した。  溢れそうな想いを必死に抑え込む。掌から伝う温度で妥協しようと、これで満足であると欺く。  僕達は、良い意味でも、悪い意味でも大人になってしまっているのだ。もっとお互いの温度を確かめ合う術も、もっと一緒に居るための方法も、知ってしまっていた。  そのせいだ。この胸の奥を突き刺すこの痛みは、落ち着かせてくれないこの騒めきは、晴れることのないこの靄は。  何もかも、この運命さえも、ただただ残酷だった。 「じゃあ、次だから」  そう言うと、またぎゅっと、今度は力強く握られた。  だが、それが引き留めたいからなんかではないことは彼女の顔を見ればすぐに分かる。 「……次はいつ会えるかな?」  柔らかな声が鼓膜を震わせる。  だが、その問いは心を突き刺した。 「さぁな。また同窓会でもあれば会えるんじゃない?」  「そうだね」なんて、また微笑みを浮かべながら答える彼女の顔を見ると、不思議な気分になる。  視界に入った窓の外はもう見覚えのある風景で、車内アナウンスも丁度聞こえてきた。 「次会った時にはもうハゲてたりして」 「えー、おっさんは嫌だな」 「誰だっておっさんになるもんだよ」  そして、間も無く減速し、大きな揺れと共に電車が止まる。 「大丈夫か? 気をつけて帰るんだぞ」  手を離し、立ち上がる。 「分かってるって。そんな酔ってないし」  最後に一度、彼女の方を振り向いた。  顔色も問題はなさそうで、心配の必要もあまりないようだ。いや、そもそも心配など一つもしていない。 「そか」  だが、未だに揺らぐ心は違った。きっと、この感情は容易く消え失せるものではないのだろうし、何をしたからといって晴れるものでもなさそうだ。  だから、もう振り返らないことにした。 「じゃあな」  開いたドアへと歩みを進める。 「じゃあね」  そんな呟きに背中を向け、手を一つ振った。それだけして、止まったホームへと下りる。  直後、別れの音がホーム中に鳴り響いた。  そして、残響も聞こえなくなった途端、ドアが閉まる。 「お別れ、かな」  つい、口から独り言が溢れてしまった。  もう彼女と会うことはない。  今日は奇跡的に予定が空いただけ。しかし、今度はそうはいかないだろう。  本当であれば、この時期はあまりの書類の多さにデスクが歪むほど多忙な時期だ。それに、もう三十路を迎えた後で、昇進も間近に迫っている。  例え、また運良く仕事の合間を縫えたとしても、育児に時間を割かれる。どっちにせよ、もう行くことはない。 『最終電車、発車します』  駅員さんのそんな声と同時に、エンジン音が聞こえ始め、ゆっくりと動き始める。  速度を上げ出し、線路を震わせながら、ついにはこの駅を去っていった。  今頃、彼女は景色を置き去りにしたタイムマシンに揺られて、未来へと進んでいるのだろう。  けれど、彼女は僕より何倍も強い。二度目の別れということもあるのだし、もっと辛い別れもあったかもしれない。  だから、きっとすぐに思い出の一ページに閉じれる。  僕には出来るのだろうか。一歩も動けない僕には、思い出に変えられるのだろうか。  そんな時、ふと昔の記憶が頭を過った。 『男の子だったら泣かない。そんなので泣いてたら、女の子と結婚できないわよ』  強い口調。本当に男勝り、という言葉が似合う女子。  学校の行事で山登りをした際、運悪く二人だけ取り残されてしまったことがあった。  彼女だって怖かったはずだ。しかし、一切泣きもせず、メソメソしている僕の背中を引っ叩いたのだ。  その時は言葉の棘と背中の痺れるような痛みのせいで、余計に泣いてしまったのだっけ。  目の端に溜まった一雫の涙を払い、頬を一度叩く。その意味なんて、もう知ることはないだろう。  そして、南十字座なんて何処にも見えないホームを歩き、長いようで短い階段を下りると、ポケットのスマホをかざし、改札を抜ける。  動くことのない駅を後にして、冷たさが降り(しき)る帰り道を歩いていった。  この夜は、この出来事は、このお話は、どんな他のものでも埋めることのできない大切な一欠片なはず。けれども、次の幕開けを迎えてしまった瞬間、ただの甘酸っぱい思い出に昇華されてしまう。  それでいい。それがいい。 「ただいま」  そして、いつも通りの日常へと戻っていった。
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