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:第一話「獣の本屋と少女の閉店時間」
実った恋は熟しても鳥には食べられない。
[There are many fruits on the tree,
but the ones you find are most Adorable.]
:第一話「獣の本屋と少女の閉店時間」
────暮春、夏に向かう深い森の石畳。
古都に続く深い森の旧街道の脇に睡蓮が浮かぶ美しい池があって、その畔に一軒の本屋さんがある。白いペンキで塗られた木造の古い家屋を何十年か前に改装し、一部を店舗としたらしい。その本屋さんは『Enfent』という名で、フランス語で『子ども』という意味だと友人の華子が教えてくれた。小さな頃、大人に「あそこには行くな」と口酸っぱく言われた本屋さんまでの石畳の道が好きだ。石畳の踏まれていない所を覆う苔が好き、深い緑の葉で覆う頭上の空が好き、葉音が好き、葉の間から射し揺れる陽の光が好き。道の脇、注意していないと見落とすくらいに、申し訳なく立てられた小さな看板から樹々の間を抜けると、睡蓮の池と白い家屋のために開けられたような陽だまりがある。その本屋さんの主人は店に入るなり、必ず、こう言う。
「いらっしゃい。声はかけない、ゆっくり見ていってくれ」
ぶっきらぼうで愛想がない言葉。一度、わたしを確認するとすぐに大きな手に収まる本に目を落とす。優しい声がそうさせるのは貴方の生い立ちが関係しているのだろうか。貴方は………、
────彼岸の獣。
つまり、本来、この世の生き物ではない。
大昔の事、彼の岸との扉が開かれた。そこから現れたモノノケたちは“彼岸の獣”と呼ばれ、人間は様々な手段を使って殺そうとしたらしい。だけど、彼ら彼岸の獣たちもまた扉が開かれ、こちらの世界に迷い込み戸惑っていただけなのだ。当時、互いの意思疎通がどのように行われたのかは知らないけれど、人間と彼岸の獣は“人間社会のルール”を守る事で共生の道を選ぶ。しかし、今日までふたつの関係が決して平坦な道を歩んでこなかったと、親や大人から聞き、学校でも習った。扉が開かれ、四百余年も経っているというのに、未だに彼岸の獣に対する偏見と差別は無くならないらしい。
「……何か探している本が?」
声はかけない、と言った彼が、わたしに声をかけた。それは、わたしが本棚に向かうフリをして、貴方を見つめていたからだ。
わたしは、貴方に恋をしている。
毎日、学校が終わると貴方の本屋さんに通うこと半年が過ぎた。四ヶ月前に「……何か探している本が?」と聞かれたのだが、わたしが探しているのは“貴方の攻略本”である。貴方は、わたしの勇気の結晶である「信じられないかもしれませんが、一目惚れをしました。わたしと付き合ってください」という言霊に対して、全く表情を変えず「申し訳ないが、そのような本は無い」とジョークなのか、揶揄っているのか分からない返事をし、レジカウンターの向こう側で再び本に目を落としたのだ。その後、再び声をかけられる事はなく、わたしも声をかける勇気はない。また、追い出さられる事もなかったので、少しの期待を残して閉店まで居座り続ける事にした。それを今日まで毎日続けているのである。
「いらっしゃい。とくに声はかけない、ゆっくり見ていってくれ」
わたしが告白をした次の日から貴方の挨拶が『声はかけない』から『“とくに”声はかけない』に変更されたのは、微妙に距離を取ろうとしているのか。
「あ、あのっ!『彼岸の小さな恋』っていう昔の小説を探していてっ!」
毎日、貴方を見る為だけに、お店に居座るのは忍びないので本は買う。実に、わたしが“本の虫”で良かったと思う。この『Enfent』には、昔の小説や昔の哲学書、昔の研究書、とにかく、昔の本ばかりが並べられていて、それを求める常連客や噂を聞きつけた古書ファンの来店も少なくないみたいだ。
「…………『彼岸の小さな恋』か。こっち側の二列目、八段目、左から七十センチくらいに無いかな?」
「ありがとうっございますっ」
目を吊り上げて不機嫌にお礼を言う。こんなにも毎日のように来ていて想いも伝えた。それなのに何もない、返事すらないなんて、どういう了見だろうか。話を聞くなら聞く、追い出すなら追い出す、断るなら断る………今の状態は、わたしの感情になんか価値が無い、無かった事にしたいなんて言われているみたいじゃないか。
「二列目……八段…………?」
小説『彼岸の小さな恋』は産業革命を迎え、経済的に社会が発展しながらも、差別や経済的格差が浮き彫りになり、加えて戦争という名の影が落ち始めた頃に書かれた古典文学の名著であり、恋愛小説の名著としても知られている。題名で触れられているように人間と彼岸の獣の恋物語の軸に、当時の人間と彼岸の獣との交流や社会の様子、差別や偏見、価値観なども緻密に描かれていると聞く。しかし………………、
「とっ、届かんっ」
わたしの低身長では届かない八段目。この本屋さんは、全くもって低身長組に優しくない棚が設置されているのだ。しかも、脚立どころか子ども用の踏み台すら無い。強く目をつむって、歯を食いしばり「んー……ぎぎぎぎぎっ!!」と手を伸ばしていた。すると、背後から「取れないなら声をかけてくれ」と、わたしの頭を軽々と越える腕と貴方の影が、わたしに覆い被さるように本を取ってくれた。だけれど、わたしの身体のどこにも触れてはおらず、圧迫感や不快感を感じないくらいに身体を離していてくれたのだ。それが相変わらずだとも、優しいだとも、紳士だなあ、とも思えるのだ。
「この本だね?」
目の前に出された『彼岸の小さな恋』を受け取り「あ、買います!」と即答した。貴方が、ため息を吐きながら背中を向けて「目を通してみて、本当に求めているものだったら買ってくれればいい」と、レジカウンターの向こうにある椅子に座り、伏せていた本を開く。わたしは本に目を伏せる、その顔が好きだ、眼鏡の奥にある不機嫌な目が好きだ、その声が好きだ、大きな手が好きだ、大好きなんだ。わたしに代わって本を取ってくれた時、その気配に気付かなかったから、また一目惚れをしてしまった。心臓の跳ね方が、ずっと収まる気配がしないから困っている。
「ずるい……」
貴方はわたしをときめかせる一方で、わたしは貴方の視界に入っているかも怪しい。一目惚れなんてするんじゃなかったとも思うけれど、ここで買う本の片隅に必ず貴方がいて、読み終わる頃には貴方に会いたい一心になっているから、素敵な事だとも思うのだ。
「これ買います」
その目つきの悪い視線が向けられ、やっぱり好きだなあと認識されられた。本に淡い茶色に染められた紙のカバーがかけられて、一枚一枚『Enfent』と印された判子の押された紙袋に入れる、その大きな手に似てつかない丁寧な所作が好きだ。
「あの………っ」
「なんだ?」
わたしは…………、わたしは、本当に貴方の事が、
「なんでもない……です」
「そうか」
貴方が選ぶ、その愛想のない言葉が好きだ。それら貴方の言葉がいる、ここに置かれた本たちが好きだ。この本たちは全て、貴方がこの世界のことを勉強する為に読まれた本だという事も、わたしは知っている。一体、貴方はどれだけの本を読み、人間との隔たりをどれくらい克服しようとしたのか。
「閉店時間だ」
今日も閉店時間が来て、わたしは貴方のもとを去らないといけないと告げられた。わたしと貴方の間にある隔たり、閉店時間め。許さん。いつか、お前の向こう側にいる貴方の時間へ存在してやるからね。
…………………………
実った恋は熟しても鳥には食べられない。
[There are many fruits on the tree,
but the ones you find are most Adorable.]
:第一話「獣の本屋と少女の閉店時間」おわり。
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