本編

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   ベルはゆっくりと目を開いた。  ぼんやりとした視界は次第にクリアとなり、白い天井がはっきりと映った。自分がベッドの上で横になっていることに気付くのに、時間はそうかからなかった。    自分は一体何をしていたのか……。 今何時なのか……。  記憶が曖昧なベルはゆっくりと体を起こした。少しの動作だけでズキリと頭に痛みが走る。反射的に思わず手で額を抑えた。その額の感触から、頭は包帯で巻かれていることに気付く。自分の腕はガーゼや絆創膏だらけで、体中に消毒の匂いが染みついていた。  我に返ったベルは布団を剥いで慌てて自分の体を確認した。白い病衣を身に着けており、左腕は点滴に繋がれている。  辺りを見渡せば、身に覚えのない白い部屋にいた。窓は少しだけ空いており、風にあてられたカーテンが僅かに揺れている。ベッドの横には小さな机が置いてあり、その上の花瓶にはオレンジ色のガーベラの花が咲いていた。  今ある光景、自分の状況が飲み込めずベルの瞳に不安が滲む。 「ここはどこ……?」  喉から出た声は掠れていた。冷や汗が頬を伝い、胸の鼓動が早くなる。必死に今までの記憶を思い出そうとしても、何も浮かぶことはなかった。不安と恐怖、焦りの中混乱していると、ガチャリとドアが開いた。  ベルの体がビクリと跳ねる。  部屋に入ってきたのは、白い軍服を着た男だった。ベルと視線が合った瞬間、男は目を見開き、持っていた花束を床に落とした。 「ベル!」  男はベルの名前を呼ぶと、足早に近づいてその細い体を強く抱きしめた。突然の行為に声を出すのも忘れて体が強張るベル。男はひたすらベルを強く包みこんだ。 我に返ったベルは小さく悲鳴を上げて、男から離れようともがいた。 「は、離してください!」  その反応に驚いた男はゆっくりとベルを離した。ベルは腕が緩んだ隙を見て慌ててベッドの端へと逃げて距離を取る。男はその様子を見て、唖然とした。 「ベル? どうしたんだ?」  怯えて体を震わせるベルを見て、男の瞳は揺れた。しかしベルもそれどころではない。震える唇から必死に声を絞り出した。 「あなたは……誰ですか?」 *  その後、男は電話で医療者を呼び、ベルは状況がわからないままその場で診断を受けた。ここにいる人間達が敵ではないことを把握し、僅かながらベルの警戒は解ける。 「君の名前を教えて」  白衣を着た医師らしき男が、ベルに問いかける。ベルは不安に思いながらも正直に答えた。 「リリーザ・ベル、と言います」 「出身はどこかな」 「出身は東区域の、マリアタウンです」 「年齢は?」 「19歳です」 「職業は?」 「えっと、ベーカリーで働いていました。もうすぐ回復師の試験を控えていて……」  そこまで聞くと、男はカルテに何かを書き込み、ベルを真っ直ぐに見つめて口を開いた。 「リリーザさん。落ち着いて聞いてください。あなたはどうやら記憶を一部失くしてしまったらしい」  それを聞いてベルは思考が止まった。 「……え?」  すぐに男の意味を理解することができず、聞き返した。 「あなたは今22歳だ。今日は953年の4月15日。ここはロゼにある中央軍事施設。君は3年前に回復師の試験に合格し、軍で立派な回復師として働いていた。つい最近までね」  そう説明され、ベルはポカンと口を開いた。ベルの中では今は950年の3月だ。19歳の誕生日を迎えてから、憧れていた回復師の資格を取るために勉強をしていたはず。  あの日からすでに3年が経過している?ベルの頭の中は完全に混乱していた。そんなベルを気にかけながら男は説明を続けた。 「一週間前に、君は仕事中に行方不明になってね。その3日後にサラサの森の入口で倒れているのを発見されたんだ。身体に外傷はあるが、命に別状はない。脳にも異常は見られなかったよ。だが……」  白衣を着た男はその後の言葉を濁す。しかし何を続けたかったのかは自然と理解できた。ベルは記憶喪失となっていたのだ。3年分だけ、タイムスリップしたかのように。 「……私…何も覚えてない。何も……わかりません」  それしか言うことはなかった。しばらく休みたいと願い出て、ベルは再び部屋の中に一人となった。  ベッドではなく、窓際にあった椅子に腰をかけて窓の外を見つめるベル。  ここは中央(セントラル)にある軍事施設の医務室。  ベルが生まれ育ったこのカンファーレ王国は、東西南北、中央の5つの区域に分かれている大きな国だ。この国の最高権力は国軍であり、軍事政権で成り立っている。また膨大なエネルギーを持つ『ファレオ』という石が発掘されることが有名で、その資源のため長年に渡る他国との戦争が続いていた。  そんなカンファーレ王国にはなくてはならない職業が軍人である。国民の中でも選ばれたエリートの集まりであり、身体能力はもちろん、学業においても厳しい試験に合格しなければ決して働くことはできない。命をかける仕事のため、精神力の強さも問われていた。  そして次いでこの国に必要な職業が、『回復師』と呼ばれる仕事である。回復師は軍人の身体・精神面をサポートする医療のスペシャリストであった。病気を治す医者とは異なり、軍人の体調管理から、戦争の際の治療等を支援する特殊な職業である。仕事場は軍事施設と決まっており、これもまた厳しい試験に合格しなければ資格を得ることはできない。  ベルは東にあるマリアタウンという田舎街の出身だった。19歳になってからは街にある小さなベーカリー店で働きながら回復師になるために勉強をしていた。  しかし目を覚ましてみればすでに3年の月日が経ち、自分はすでに資格を取って回復師として働いていたという。これをすぐに受け入れろというほうが難しい。  ベルは窓から見える街を見渡した。中央(セントラル)にある軍施設はカンファーレ王国の都市、ロゼに位置する。広い敷地の中には『サラサの森』と呼ばれる森があり自然も溢れていた。しかし軍施設から一歩外を出れば人通りの多い街となり、列車も走っているため交通も便利だ。    回復師を目指したのは、最愛の父の影響が大きかった。ベルの父親は医者であり、小さな診療所を開いていた。優秀な医学と老若男女問わず誰にも優しかった父は街の人気者であった。しかし戦争による医師不足が続いている時代。父親の噂を聞いた軍はベルが10歳の頃に父を軍へと強制勧誘した。父親が家を離れると聞いた時、泣いて出発を留めるベルに対して、父親は優しく言った。 ――― 『ベル。お父さんは国のために戦っている軍人さんを一人でも多く助けるために行くんだ。これはとても名誉なことだよ。泣かないで……笑ってお父さんを送ってほしいな』  最後に切なく笑った父親の顔が最後だった。あれ以来ベルは一度も父親と再会したことはない。  それから3年後、軍からの通達で父親が戦場で死んだことをベルは知った。  戦火に巻き込まれた……と。  しかし遺体は行方不明らしく亡骸を拝めることはできなかった。だからか。ベルは父親が死んだとはどうしても信じることができなかったのだ。何人もの人々の命を助けた英雄。  あんな人が死ぬわけない……とベルはどこかで希望があった。  回復師になればもしかしたら父親に会えるかもしれないと。どこかで生きているかもしれないと。そんな期待を込めて回復師になることを決意したベル。  しかし3年間経ち回復師になってもどうやら父親はまだ見つけられていないらしい。白衣を着た男達に父親の名前を出したが、首を横に振られて終わってしまった。  病室にある鏡を見ると、確かに19歳よりも多少大人びた自分の姿があった。ショートだった髪の毛はすっかり胸まで伸びている。背も少し伸びていた。まじまじと自分の姿を見つめていると、首に見覚えのないチョーカーがあることに気付く。『Recovery』と英語で綴られていた。  不思議に思ってチョーカーに触れるとガチャリと再びドアが開いた。 「……よう。さっきは悪かったな」  低い声へ顔を向けると、さっきの白い軍服を着た男が入ってきた。ベルは反射的に体が緊張する。その反応を察した男はその場で足を止めて頭をがりがりと掻いた。 「あ~…そんな警戒すんなって。もういきなり抱きつかねえよ」 「……はあ」  男は両手を振って自分が無害であることをアピールした。ベルは少しだけ警戒を解く。男は長身で、体格もいい割にはスラリとバランスが取れていた。また顔立ちも整っている。金髪と透き通るような碧い瞳が特徴だった。  ベルはまじまじとその男を見つめた。恐らくこの男性は自分の知り合いなのだろう。だが名前も覚えていない。どんな関係なのかもわからない。 「ごめんなさい。あなたのこと……私よく覚えていなくて……」  申し訳ないと思いつつ、ベルは男に向かって話しかけた。すると、男は笑いながら言った。 「ああ。悪い悪い。この場合は……初めましてって…言うべきなのか。初めてじゃねえけど、忘れちまったんなら仕方ねえ。俺の名前はシランだ。ブルース・レ・ホワイト・シラン。長い名前だから、シランでいいよ」  シランと名乗った男はベッドの横にあった椅子に腰を下ろした。ベルはベッド越しに彼に尋ねる。 「シランさんは軍人なんですか?」 「そうだ。これでも特別隊の隊長を務めてるんだぜ?すごいだろ」 「特別隊!?」  ベルは声を上げた。特別隊とは、軍人の中で選ばれたエリートを集めた小隊のことだ。暗躍から企画まで戦に携わるありとあらゆる国の業務に参加する。世間ではかなり有名で英雄の中の英雄扱いである。誰もが憧れているという部隊であった。そんな隊長を務めるというシランにベルは目を丸くする。年は20代後半に見える。その若さで隊長を務める男に驚愕した。しかし胸についているいくつものバッジがそれを証明している。 「シラン……さん。あの……私とシランさんは一体どういう関係で……」  首を傾げながらベルは問いかける。そんな雲の上のような存在のシランがわざわざ自分に見舞いに来てくれたのだ。不思議に思って聞くと、一瞬シランの表情が固くなった気がした。しかしシランは真面目な表情に戻り、そっと口を開いた。 「……本当に、覚えてないのか?」  あまりにも真剣に問いかけるものだからベルは怯んだ。困惑するベルにシランはふっと微笑む。 「いいよ。覚えてないのは……仕方ないさ。お前はうちの隊専属の回復師だったんだ。俺とお前は上司と部下ってわけ。いわゆる仲間って奴だな」 「ええ! 特別隊の回復師を……私が!?」  ベルは驚いて大きな声を上げた。あわあわと混乱する中手を大きく降る。 「何かの間違いではありませんか? 私なんかがそんな……特別隊になんて!」  特別隊専属の回復師だなんて素直に信じることができなかった。そんなベルの思いを読み取ったようにシランは笑う。 「疑うのも当然だな。でもお前はとても優秀だったんだ。誰よりも強くて優しくて賢い回復師だった。人望も厚くてさ。俺を含めた上層部がお前を推薦したんだよ」  シランの瞳が嘘をついているようには思えなかった。真っ直ぐな瞳に呑まれてベルはグッと体を強張らせる。 「シランさん……でも私やっぱり覚えてません。何もわからない」  視線を外に向けるベル。するとシランが立ち上がってベルの目の前にしゃがんだ。 「記憶を忘れちまって…怖かったよな。不安だったよな。……ごめんな。俺がお前を守ってやれば良かったのに……」 「シランさん……?」  するとシランはベルの両手をそっと握った。ベルの手を自分の額へと導いてシランはそっと声を殺すように呟いた。 「本当に……お前が無事で良かった……。本当に……本当に……」  シランの手が僅かに震えていた。あまりにも悲痛な声にベルは戸惑う。心の底からこの男が自分を心配していたのだと痛いほど伝わってきた。 「あの……」  ベルが不安げに声を出すとシランは我に返ったように顔を上げた。 「悪い。それよりさ、お前3日も寝てたんだぞ。腹減っただろ? 医者にも許可貰ったんだ。アイス買ってきたんだけど食べるか?」  シランは袋からアイスのカップケースを取り出した。黄色のパッケージには『バニラ』と書かれている。ベルはそのアイスを見て目を輝かせた。ベルが好物としているバニラアイスだったのだ。シランはニヤリと口元を緩めるとスプーンを出してアイスをすくった。 「お前これ好きだろ? 食わせてやる」  スプーンを口元に持っていくシランにベルは顔を赤くする。 「いいですよ! 自分で食べられますから!」 「遠慮すんなよ。ほら、口開けろ」 「本当に一人で食べられますから!」  気恥ずかしさに耐えられずベルは結局シランから無理矢理スプーンを奪って一人で食べることになった。上司だろうが仲間だろうが年上の男性から食べさせてもらうなどベルにとっては体から火が出るほど恥ずかしいものだ。しかしアイスを口に含むとその甘みが体に浸透していきシランとのやり取りももう気にすることはなかった。エンジンがかかったのか、ベルは黙々とアイスを食べ始める。 「美味いか?」 「……はい」  シランに見つめられながらもベルは頬を染めて頷いた。それを見たシランも満足気に微笑んだ。 * 「ベル。もうしばらくは安静にしてろよ。とりあえず必要なもんは俺が持ってきてやるから。あれか。着替えとかいるよな?」 「いえそんな! シランさんにそこまでやっていただくなんて申し訳ないです! 私お金持っていないですし……」 「何遠慮してんだよ。歯磨きとか大した金じゃねえだろ。買ってきてやるからお前は大人しく寝てろ」  シランに無理矢理ベッドに寝かされたベルは慌てて上半身を起こした。しかしシランは構わずメモを書いて必要なものを書き出す。上司だからと言ってここまで親切に労ってくれるものだろうか。面倒見が良すぎるシランにベルは困惑する。 「うぐう~……。本当に……あとでお金返しますから……」 「金はいらねえって。あっ。体で返してくれるなら大歓迎だけどな」 「体!?」  ボンッと顔を赤くするベルにシランは手を振る。 「はいはい。本気にすんな。それぐらいリアクションできるなら大丈夫そうだな」  シランは笑うとベルの頭を優しく撫でた。 「じゃあ俺仕事に戻るけど……。また明日来るから」  温かい声掛けにベルはどう反応していいかわからず、コクリと小さく頷いた。シランはそれを確認して惜しそうに手を離すのだった。  部屋から出ようとドアノブに手をかけるシラン。そこで彼は何かを思い出したようにベルに振り返った。 「ベル。絶対にこの部屋から出るなよ。外に出るのは危険だからな」 「はい」  最後にそう言ってシランは部屋から出て行った。広い背中がドアに消えていくのを見送りベルは再び窓の外を見つめる。夕方になり、辺りはオレンジ色に染まっていた。 *  夜になると窓からは街の光が幻想的に輝いてた。都市なだけありロゼは人が多い。ベルはその光景を見ながらぼーっと今後についてを再び考えていた。  ベルはまだ頭の整理ができなかった。  自分は回復師の試験に合格して軍で3年間働いていた。そして…ある日仕事中に行方不明になってサラサの森で倒れていたらしい。体が傷だらけで目を覚ませば記憶がなくなっている。  自分は3年間をどのように過ごしてきたのか気になった。回復師の具体的な業務内容・軍事施設での生活・交友関係など……。  一体自分はどんな風に生きていたのだろうか。  まだ心は19歳のベルには職を持つということがイマイチ把握できていなかった。  自分はまだ子供だ。回復師としての知識や技術はもう忘れてしまった。軍に身を置いたところで何も役には立てない。シランにお願いしてマリアタウンに帰らせてもらうことが一番いい選択であろう。そう考えたベルは手をギュッと握って決心する。  その時、廊下から女性の声が微かに聞こえてきた。施設の人間だろうか。夜間になったため見回りをしているのだろう。ベルは慌てて窓を閉めてベッドに潜り込んで息を潜めた。 「ねえねえ聞いた?最近また戦がひどくなったらしいよ。何でも東の半分が他国に占領されちゃったとか」 「だってもう3年前からひどかったでしょ? ……半分異常の人口が死んじゃったもんね」  その会話を聞いたベルは息を止めた。ヒソヒソ声はどんどん遠ざかっていく。 「今は軍人も回復師も人員不足だから……。守る地域も限られてくるでしょ? 東なんて元々資源が少ない田舎だったし…。今後はどうなっていくのかしらね」  完全に声と足音が聞こえなくなりベルはゆっくりと体を起こした。胸の鼓動が速くなり、頬を汗が伝った。 「……東区域が……占領?」  そう呟くとベルは辺りを見渡した。新聞も本もラジオも置いていない部屋。3年分の情報を得ていないベルに焦りが出てきた。  ベルは急いでベッドから降りてドアノブに手をかけた。部屋の外を覗けば長い廊下が広がっており、ランプで照らされている。誰もいないのを確認してベルは一度ドアを閉めた。  そしてベルは腕に留置されていた点滴の針を無理矢理抜いた。血が溢れてきたが構うことなく、今度はクローゼットを開ける。中には茶色のコートがあった。ベルは病衣の上からコートに袖を通す。再びドアを開けて物音をたてることなく部屋を出て行った。  こっそりと建物から飛び出したベル。軍の敷地内には何人もの軍人が警備をしていたがうまいこと避けて裏口から街へと出られる通路を見つけた。  誰にも見られることなく軍事施設から抜けたベルが街灯が並ぶ夜の街へと出た。  ガヤガヤと多くの人とすれ違う中、ベルはとある酒場を見つけた。  ゆっくりとその中へ足を踏み入れると、賑やかな店内の中で店主と思われる男がベルに声をかける。 「へいらっしゃーい! お姉さんお一人様で?」 「あっ……ごめんなさい。実はお尋ねしたいことがありまして。マリアタウン……いえ、東区域が今どんな状況なのか詳しく教えてください」  ベルの問いかけに店主は首をかしげた。 「東区域? ああ~……俺も正直その辺は詳しくなくてさ。あ、丁度いいや。そこのお客さん確か新聞屋だったよね?」  店主がカウンターで飲んでいた眼鏡の優男に声をかけた。ビールを飲んでいた男は赤い顔でキョトンと口を開いた。 「そうだけど何だい?」 「東区域って今どうなってんの? 戦争に巻き込まれてるんだよな?」 「ああ。そうそう。もう半分はリンドウっていう他国の軍に占領されてるよ。国民は皆犠牲にされちまったんだ」  ベルは目を見開いて新聞屋に詰め寄った。 「マリアタウン! ……マリアタウンという街はご存じですか!? あそこも占領されて…」  新聞屋は思い出したように呟いた。 「マリアタウン? ああ。あの有名な……」 「有名?」    店主が問いかけると新聞記者は顎を擦りながら言った。 「マリアタウンはね……3年前に戦火に巻き込まれて消えたしまったんだよ。町の人は皆焼け死んだと聞いている。本当に…残酷な事件だったな」 「え……?」  新聞屋の言葉にベルは固まった。 「マリアタウンが……消えた……?」 「気の毒な話だよ。あんな田舎を狙う他国もどうかしてると思ったけど……。詳細は不明でね。いきなり爆弾を落とされてただの焼野原のなっているそうだよ」  それを聞いてベルはその場に茫然と立ち尽くした。ガヤガヤと酒場の客達の声が遠くのように感じた。  生まれ育った故郷はもうない。  働いていたベーカリーのオーナーの顔が浮かんだ。まるで本当の母親のように接してくれたマーガレットおばさん。小さい頃から一緒に遊んでくれた友人達。そして……父親と二人で暮らした小さな家。思い出溢れる場所が消えた事実はベルを絶望へと突き落とした。 「お嬢さん? お嬢さん?」  店主がベルに声をかけるが、ベルは顔を上げずに酒場から出て行った。街灯溢れる街の賑やかさも今のベルには何一つ聞こえない。  ぽっかりと胸に穴が空いたような感覚にとらわれたベルは行くあてもなてひたすら街の奥に向かって歩いた。 「私……どこに行けばいいんだろう……」  ぽつり呟いた声は誰にも聞こえることなく消えて行った。 *  何時間くらい経っただろうか。すっかり夜も遅くなり街灯が消えた。人通りもなくなり、街は水を打ったように静かになる。  ぼんやりと路地の横にあったベンチに蹲っているベル。何を考えるわけでもなく肌寒い中一人座っていた。 「あれ? あんなとこに女がいるぜ」  太い声が聞こえてベルはゆっくりと顔を上げた。するとガッシリと体格のいい男とひょろりと線が細い男の二人組が目の前に立っていた。 「おいおい。こんなところで女一人どうしたんだ?」 「寒いだろ~? 俺達があっためてやろうか?」  酒臭く、かなり酔っているようだった。ベルは僅かに顔をしかめる。 「すみません。今体調が悪いので……放って置いてください」 「ええ~具合悪いの? 確かにそんな肌寒い恰好は風邪引くぜ~?」  男達はゲラゲラと品なく笑い飛ばした。ベルはため息をついてベンチから腰を上げた。 「もういいです。私違う場所に行きますので……」  そう言ってその場から逃げようとするとガシッと腕を掴まれた。 「おいおい。つれねえじゃなねえか。俺達と遊ぼうぜ」 「痛い! 離してください!」 「あれ、めちゃくちゃ怪我してんじゃん。どうしたんだよコレ」 「私にもわかりません! いいから離して!」 「おいちょっと待てよ。この女首に何かつけてるぜ?」  線の細い男がベルの顎を掴んで顔を無理矢理向けさせた。ベルの首にあるチョーカーをじっと見る男。すると目を見開いて男は声を上げた。 「お嬢ちゃん……もしかして回復師なのか!?」 「回復師…? マジかよ!」 「間違いねえよこのチョーカーは本物だ! 回復師の証。おい、この女すげえ価値があるぜ」 「ああ。そうだな。そうとわかりゃ……今すぐこいつを……」  そう言うと大男は後ろからベルの口を手で塞いだ。いきなり拘束されたベルは目を見開き驚愕する。 「!?」 「へっへっへっ。悪く思うなよお姫さん。戦のせいで荒れた世の中なんだ。どの国も回復師を必要としている。他国のお偉いさんに売り飛ばせばそれ相当の金になるはずだ」  耳元で囁かれてベルの全身の血の気が引いた。「売り飛ばす」という言葉が冗談ではないことは嫌でも感じる。ベルは必死に男の中でもがいた。 「ふぐ! むぐ! ふぐぐ!」 「おいおい。そんなに暴れたら…少し痛い目にあってもらうぞ?」 「おい。あんまり体に傷をつけるなよ。これ以上傷つけたら商品としての価値が下がるだろ」 「わかってるよ。おら、大人しくしねえと……こうするぜ?」  細い男は強引にベルの服を破いた。病衣の胸元が破けて下着が露わになる。ベルの体が硬直した。拘束されているため腕で隠すこともできない。 「ひゅー。すげえいい眺めだな。結構いい体してんじゃん。次暴れたら今度は下を破くぞ」 「どうせ裸で売られるんだ。今のうちに着ぐるみ全部剥がしても問題はねえだろ」  舐めるように体を眺められてベルの体は震えが止まらない。何もできない自分が惨めになり目に涙が滲む。  自分が一体何をしたというのだ。目覚めれば記憶を失くして世の中は3年も時が経っていた。体だけが成長し、故郷は消えて知人はいなくなってしまった。帰る場所もない。頼れる人もいない。  世界でたった一人になったような感覚は絶望しかない。  二人の醜い男達に笑われてギュッと目を瞑った。細い男の手が足に伸びてきた瞬間、男の背後に影が映った。  影は男の肩を掴んだ。 「おい」 「あん?」  男が振り返ったと同時に影が男の顔面を殴った。拳が顔にめり込んで何十メートルも先の地面に飛ばされる。  あまりにも一瞬のことでベルは唖然と目を見張った。  そのまま男はピクリとも動かない。驚いた大男が叫んだ。 「誰だ!?」  雲から月が顔を出して影の姿が露わになった。闇の中に浮かび上がるのは白い軍服。金色の髪の毛。見たことのあるシルエット。軍の特別部隊隊長のシランであった。ベルはシランを見て驚愕する。  昼間のような優しい彼はどこへ行ったのか。びりびりと伝わってくるほどの殺気を放ち、男達を睨む彼の姿にビクリと体が震えた。  ベルを捉えていた男はポケットから銃を出してシランに向ける。 「てめえよくも俺の相方を! これが目に見えねえのか!? 次動いたら心臓ぶち抜くぞ!」  男がそう怒鳴るがシランは銃に怯みもせず男に向かって足を進めた。ギラリと光る碧い瞳とすさまじい殺気から男の瞳が揺れる。 「聞こえなかったのか!? 動くなっつってんだろ!!」  パンッパンッ!と銃声が響きベルはもがいた。男がシランに向かって発砲したのだ。「やめて!!」という叫びは男の手のせいで抑えられる。思わず目を瞑ったベル。しかし辺りは静まり返り、何も聞こえなかった。  恐る恐る目を開き……その光景に息を飲んだ。  シランは拳を握って前方に突き出したまま立っている。その拳をゆっくりと開くと…手から銃弾が地面に落ちた。ベルも男も一瞬何が起こったのか状況が把握できなかった。我に返った男はもう一度銃を構えて引き金を引いた。 「し……死ねええええ!!」  するとシランは緩やかな動きで片手だけを動かして中の弾を掴んでいく。銃弾はシランの体を突き破ることなく手の中に納まっていった。  ありえない光景に男は驚愕する。 「ば……化け物!! 貴様何者だ!?」 「黙れ。その女を離さねえと……殺すぞ」  唸るように言葉を放ち殺気だつシランの声に男は一歩後ずさった。しかし負けじとベルの頭部に銃を突きつけて男は叫ぶ。 「こ……こっちに来るな! この女の命が惜しかったらさっさと……」  男が言い終わる前にシランは動いた。その動きがあまりにも俊敏で姿を捉えることができない。気がつけばシランは男のすぐ下にしゃがみこみ、顎に向けて思いっきり足を蹴り上げた。  その勢いでバキボキと下顎骨が折れる音が響く。男の口から歯が飛び出て血が噴き出た。 「ギャアアアアアア!! 顎ガ……!顎ガアアア!!」  勢いで地面に倒れた男は痛みのあまりもがき苦しんでいる。男から解放されたベルはその場に崩れた。  シランは地面に落ちていた銃を拾うと大男に近づく。すると背後から気絶していたはずのもう一人の男が目を覚ましシランに銃を向けた。 「この野郎……!!」  男は引き金を引いた。しかし銃声と同時にシランは銃弾を交わして男に向けて発砲した。シランが打った銃弾が男の両耳を体から引き裂いた。地面にボトボトと左右の耳が落ちて男から大量の血が噴き出す。この世のものとは思えない激痛が走り男が絶叫した。 「ウワアアアアア!! イダイ……! イダイヨオオ!!」    シランは地面に這いつくばる男達を見つめて口を開いた。 「お前等みたいな下種…すぐにでも殺してやりてえぐらいだ。だが死ぬよりも……痛みを味わうほうが苦しいだろ?それぐらいお前等が犯した罪はでかいと自覚することだな」  吐き捨てるようにそう言うとシランはクルリとベルに向かって歩き出した。ガタガタと震えるベルにしゃがみ込み、シランは上着をかけた。すると脇と膝の下に腕を入れてベルの体を持ち上げると、シランは歩き出す。  ベルはシランを見上げるがその表情は髪に隠れて見えなかった。ベルはまだ震える体を自分でギュッと抱きしめて目を瞑った。 *  満月が浮かぶ上がる夜。人気のない静かな路地裏。使用されていない樽の上にベルは降ろされた。  少しだけ震えが収まってもベルはシランの顔をまともに見ることができない。ただ地面に視線を向けて沈黙に耐えた。 「ベル」  名前を呼ばれてベルの体がビクリと跳ねる。 「なぜ軍から抜け出した? 今の男達のように……回復師は人売りとして狙われることが多い。今のお前は外ではもう安全に生活できる保証はできない」  シランの声は静かに響いた。僅かに憤怒を感じてベルは怯える。 「ごめんなさい……。でも私……あそこにはいられないと思って……。記憶をなくして……回復師の知識だって……力だってもう持っていない。また働くことなんて……できません」  そこまで言うと今までため込んでいた思いが一気に込みあげてきた。  目覚めた時から感じた恐怖。  見知らぬ場所で見知らぬ人に囲まれて……。時だけが過ぎて……。自分のことでさえもわからない。 「目が覚めたらもう世の中は3年も経っていて……。私の故郷は……もう消えてしまって……。大好きな人達も皆いなくなっちゃった。私にはもう頼れる人がいないんです」  ベルの瞳から一筋の雫が流れる。ポタリと自分の手の甲に涙が落ちた。加瀬が外れたようにボロボロと涙があふれ出る。 「ひっく……もうわからない。わかんないよ。私……また一人ぼっちになっちゃった……。助けてくれる人も……守ってくれる人も……もう誰もいない。どうしていいのかわからない……」  情けないとわかっていても、もういい大人だとわかっていても、ベルの涙は止まらなかった。記憶を失ったことも荒れた世の中の現状もすべてがベルにとって衝撃だったのだ。存在自体の意味を失ったベルは孤独を抱えていた。何もかもを失った彼女にとって……残っているのは不安と恐怖だけだった。  怖い。世の中も。人間も。自分でさえも。生きていることが怖い。 「一人は嫌です……。一人は……怖い……」  絶望で目の前が見えなくなったその時、フワリと温もりがベルの体を包み込んだ。顔の前に広い胸板があり、微かにタバコの香りが鼻をくすぐる。シランがベルを力強く抱きしめた。 「……一人じゃない。一人にさせない。俺がいるよ。俺がずっと……お前のそばにいるから……」  シランがベルを強く抱きしめながらそっと耳に囁いた。 「お前が記憶を失くした時はかなりショックだったけど……。でも、今わかった。記憶なんて関係ない。お前は俺の傍にいないとやっぱりダメだ」  シランがゆっくりとベルを離して視線を合わせた。シランからは先ほどの殺気は消えていた。優しい瞳はベルをまっすぐに見つめている。ベルの困惑したような表情を見てシランは続けた。 「黙ってて悪かったベル。俺達は……特別隊の上司と部下であると同時に恋人なんだ」  ベルは目を見開いた。 「え……?」  恋人同士……という言葉を聞いても正直ピンとこない。何回か瞬きをするベルにシランは切なく微笑む。 「3年前……回復師として新米だったお前と、特別隊の隊長になったばかりの俺は出会った。話すと長くなるけど、お前が戦場で俺の命を助けてくれたんだ。それがきっかけで……俺達は少しずつ距離が縮まった」 「私が……シランさんを?」 「ああ。誰よりも努力家で、おせっかいで、少しボケてるけど優しいお前に俺は惚れたんだ。好きになった。いや……今でも好きだよベル」  シランは優しくベルの頬を撫でた。愛おしそうに見つめる視線にベルは顔が熱くなるのを感じる。鼓動が高鳴り、胸が強く締め付けられた。  自分の好きな食べ物に詳しいことや、やたらと面倒見がいい理由がわかった。しかしそれと同時にベルの頭の中で最初に出会った時、彼に怯えた態度を取った時のシランの表情が蘇る。    恋人にあんな態度を取られて…彼はどんな気持ちだった? 記憶を失われて…どんな思いをした?  無意識にシランを傷つけていたことに気付くベル。それなのに彼は病院から抜け出した自分を探しに来てくれた。助けてくれた。  そこまで考えると胸が熱くなって再びベルの視界が滲んだ。 「ごめんなさい……ごめんなさい……。私何も思い出せないのに……。シランさんのことを……たくさん傷つけてしまって……。大切なあなたのことを……忘れてしまったのに……」  無意識に出た言葉だった。『大切な』という言葉を聞いてシランは一瞬目を見開く。ベルはグシグシと目を擦りながら涙を拭いた。目が赤くなっていくベルの姿を見てシランは彼女の両手を握る。 「ベル」  優しく名前を呼ぶとシランはベルの唇にそっと自分の唇を重ねた。優しい温もりと柔らかい感触。そしてグッと近づいたシランの顔に驚くベルは体を固くした。そしてゆっくりと離れていくシランの『男』の顔に胸が高鳴った。  シランはフッと口元を緩めると再びベルを抱きしめる。 「お前が俺を忘れても、俺はお前を忘れない」  自信満々にそう言い放ったシランの言葉にベルの胸の中でブワリと感情が溢れた。記憶はないけれど、体は覚えているような懐かしい感覚だった。シランの胸の中は安心を与えた。無意識にベルはシランの背中に腕をまわす。 「俺は……お前がいないと生きていけないくらいダメな人間なんだよ。離すもんか。俺の傍から離れるなんて許さない」 「……シランさん」  すると、フッと頭の隅である記憶が甦る。前にも同じようなことがあった気がした。傷だらけの軍服を着たシランがベルを抱きしめている記憶だ。 『お前は俺が守ってやるから…絶対傍から離れるな』  子供のような彼におかしそうに笑うベル。そんな記憶が一瞬掠った。ベルは恐る恐るシランに尋ねる。 「私は……ここにいてもいいんですか?」 「当たり前だ」 「……っ。傍にいて……くれますか……?」 「当たり前だ」 「……っう……。ひっく……。ありがとう……ございます……シランさん……」  ベルの頬から雫が零れた。こんなにも誰かから必要とされたことはなかった。すべてを包み込んでくれる目の前の男にベルは体を預ける。そして…ベルは再び意識を手放した。まだ体が完治していなかったことと疲労が蓄積していたのだろう。ゆっくりと寝息をたてるベルに気付いたシランはベルの体を背負った。背中での温もりを感じながらシランは軍施設へと足を向ける。  綺麗な月明かりに照らされながら二つの影は伸びた。     過去の二人と現在の二人。   記憶を取り巻く物語は  ――――まだ始まったばかりだった。
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