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桜の花と恋心
「お持たせ、あかり。……あ」
青柳家の屋敷の一室で結月はあかりに咒言を教えていたが、当主である父に呼ばれてしばらく席を外していた。戻ってみるとあかりは半紙と筆を避けて文机に腕を枕にしてうたたねをしていた。
部屋から眺められる中庭の満開の桜の木は、柔らかな陽射しを受け止めている。薄紅色の花びらがまるで雪のように舞い、降り積もって地面を優しい春色に染め上げていた。
(あかりが眠たくなるのも、仕方ない)
横を向いて眠っているあかりの顔は安穏としていて、一二歳という実年齢よりずっと幼く、あどけない。
(……好きだな)
あかりの寝顔を盗み見た結月は小さく微笑んだ。
幼なじみとしてももちろん大事に思っているが、結月は女の子としてもあかりのことが好きだった。
いつからだったのか、何がきっかけだったのかはわからないし、そんなことは結月にとって些末事だった。いつの間にか自然と惹かれて、あかりの全てが好きなのだ。特にころころ変わるあかりの表情は見ていて飽きることがない。
今の安らかな寝顔も、機嫌を損ねたときのむくれた顔も、悔しげに泣き出しそうな顔も、戦いのときの凛とした顔も、他にもたくさんの表情を結月は知っている。
(だけど、一番好きなのは、笑った顔)
あかりのきらきらとした眩しい笑顔は何にも代えがたいと思う。
一度そう思えば、結月はすぐにあかりの笑顔が見たくなった。
(起きて、くれないかな……?)
そして「おはよう」と大輪の花が咲くように笑って欲しい。
結月は物思いに耽りながらあかりの顔を見つめていたが、あかりがまつげを震わせるのを目に留めるとはっと我に返った。
あかりは上半身を起こし、数度目を瞬かせて文机と結月を交互に見た。
眠気眼をこするあかりに結月は微笑みかける。
「おはよう、あかり」
あかりはしばらくの間ぼうっとしていたが、やがて覚醒すると「おはよう、結月」と花がほころぶようにふんわり笑った。瞬間、結月の胸がどきりと高鳴る。
あかりは露ほども気づかずに、うんと伸びをした。
「私、寝ちゃってたんだね」
「……」
「結月?」
「……あ、うん。稽古に疲れてて、こんなに天気もいいなら、仕方ない」
先ほどのあかりの笑顔が忘れられない。いまなお降り積もる想いは、眼前に広がる桜吹雪に似ている。あかりの笑顔ひとつでこんなにも心をかき乱され、同時に優しい春色が胸に広がっていく。
春風に舞い上がったひとひらの桜の花びらが和室に入り込んでくる。ひらりひらりと宙で踊る花びらは、腕を伸ばしたあかりの掌の上に着地した。
「とれた! きれいだねぇ、桜の花」
あかりは手の中と中庭を順に見て、目を細めた。その顔は限りなく優しく、幸せそうなもので。
結月はあかりの横顔を見つめて、「そうだね。……きれい」と囁いた。
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