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スポットライトがまぶしく照らすステージから足早に舞台袖を通って扉を一つくぐり、バックステージへと捌ける。後ろ手に扉を閉めると、途端に、壁の向こう側で未だに鳴り止まない笑いと拍手の音が一気に遠のいた。
「旭、お前、今日のあれ、どういうつもり?」
ほっと一息つく間もなく、ほかに人気のないバックステージに怒りのこもった声が静かに響く。
「何……って、いつも通りのアドリブでしょ? 幹也ぁ、そんなに熱くなるなって。お客さんウケてたんだからよくない?」
閉めたばかりの扉にトンと背を預けてにやりと笑う旭に、先を歩いていた幹也が振り返って詰め寄る。一歩もない距離まで近づいたところで、ドンっと、旭の顔の横で拳を扉に打ち付けた。ステージと裏手とをつなぐ扉には防音のためのクッションがあてがわれており、何かがぶつかったとてさして大きな音が立つことはない。しかし、それでもなお低い音を響かせた幹也の拳には、それだけ怒りの強さがこもっていた。
「俺の書いた台本通りにボケて、突っ込んで、ネタを進める。なんでそれだけのことが、毎回できないわけ?」
幹也と旭は養成所出身の同期お笑いコンビだ。しかし同郷、同期だったといってもコンビを組むまで面識などなく、当時たまたま同じ講師の指導を受けていたことをきっかけに一緒に活動をする流れになってしまったのだった。
最初はなんとかうまくやろうと互いに歩み寄っていたものの、幸か不幸か、旭と幹也は全く正反対の性格だった。
巧言令色な旭と、質実剛健な幹也。
この世界では観客やスタッフからの好感度がものを言う。それがわかっていたから、幹也も旭も対外的には仲良く見えるように取り繕っていた。
しかし次第に衝突することが増えていき、もう解散も近いかと互いが思い始めていた頃。モノは試しとエントリーしていた年末特番のオーワングランプリが二人の運命を力尽くでも引き裂くまいとするかのように大きく変えてしまった。
《初出場にして初優勝。彗星のごとく現れた仲睦まじい同期コンビ》
それが、幹也と旭につけられた世間からのラベルだった。
そこからは坂道を勢いよく転がるように、あれよあれよと担ぎ上げられ、若手お笑い界のホープとして今や様々な番組やステージに引っ張りだこだった。
「ねぇ幹也。いま、自分がどんな顔してるか、わかってる?」
「――……っ! うるさっ――」
反論の言葉のすべてを言い終わる前に、幹也の唇は旭によって塞がれていた。それと同時に、旭は幹也の腕をとるとぐっと力をかけ、器用にその位置を逆転させてしまう。
旭のことを追い詰めていたはずの幹也は、あっという間に追い詰められる側になっていた。
「うるさいのはどっちだよ。わかってないなら、教えてやろうか?」
鼻先が触れそうな距離で旭が笑う。
「もっと欲しそうな顔、してるけど。俺のアドリブ、そんなに興奮した?」
「――っだまっ……」
台本通りのセリフ。狙ったタイミングで入るボケとツッコミ。幹也によって理路整然と組み立てられた中にぶち込まれる旭のアドリブは、まるで狂気の劇薬だ。
一歩間違えれば一切の笑いさえも失われるであろうその瞬間を乗り切るために一瞬にして幹也の脳内にあふれるアドレナリン。
初めてその感覚と出会ったのも、オーワングランプリでだった。そして、こんな関係になったのも。
それ以来、幹也は旭という薬に溺れていた。
「俺たち、性格正反対の欠けた者同士だもんね? ぜんっぜん仲良くないし、何なら最悪だけどさ?」
もうほんの少ししかない距離が、さらに詰められていく。
また、熱に犯される。幹也はきゅっと目をつぶった。
「……もう、離れらんないよね」
しかし、幹也が密かに求めていたような接吻が落とされることはなく、代わりにくすぐるような旭の声が鼓膜を揺らす。
ぱっと目を開ければ、トンと幹也の寄りかかる扉を腕で押した反動で距離をとった旭がクスクスと笑っていた。
まるで幹也だけが求めているように思えてくる旭の余裕さが、ひどく悔しかった。
「くっ――……ふざっ、けるな!」
一歩、二歩。仕返しというにはあまりにもお粗末で衝動的な嫉妬心のままに、幹也は一度離れていった旭へ再び近づくと、胸元をぐっとつかんで引き寄せた。
普段の幹也ならこんなことはしない。けれどこの時は、ステージでの旭のアドリブにいつも以上の快感を覚えたせいか、それともひときわ大きくなった今日の拍手にまだ酔っているのか。幹也は勢いのままに油断して笑っていた旭へと顔を近づけた。
二人の距離が、ゼロになる。
一秒、二秒……。重なった唇の熱が同じ温度になった頃、幹也がそっと顔を離した。
「旭だって……お前だって、人のこと言えねーだろ」
驚き目を見張っていた旭が徐々に余裕を取り戻し始める。
「……やってくれるじゃん。そう来なくっちゃ」
顔を赤くする幹也に、旭はにやりと笑いかけた。
「うっせぇ。次はちゃんと台本通りにやれよ」
恥ずかしさをごまかすように、幹也がぶっきらぼうに告げる。
「はっ。みてろ。次はもっと気持ちいいヤツ、ぶち込んでやっから」
「やめろ。お前のアドリブを回収するこっちの身にもなれ」
「本当は欲しいくせに、素直じゃねーな」
「ほざけ」
互いに悪態をつく後ろで扉の向こうから再び拍手が鳴り響いた。後座が終わったのか、それまで人影もなく静かだったバックステージが徐々に騒がしさを帯び始める。
幹也と旭の顔には、いつも通りの営業スマイルが浮かんでいた。
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