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耳
「華、何してるんだよ!」男は華の腕を掴む。
「死のうとしてるの。止めないで」華はそれを振り払い、大量の錠剤をエナジードリンクで喉に流し込もうとする。
「やめろって」男は華の口をこじ開けて錠剤を取り出す。
華は抵抗するのを諦め一呼吸置いてから「健二、仕事じゃないの?」と急に冷静になる。
「お前がLINEで死にたいなんて寄越すから」
「ふーん。でもこのあと奥さんと子供が待ってる家に帰るんでしょ?」
華は目に涙を潤ませながら男を見つめる。
「仕方ないじゃないか。お前だってそれでもいいからこの関係を続けてるんだろ」
「もちろんそう。わかってるわよ。でもあなたは私に会いたいとき、ここに来れば会える。でも私はあなたに会いたくても会えないときがある。だからこうして呼び出すしかないじゃない」
「そんなこと言ったって」彼は華を強く抱きしめて、さっきまで錠剤で埋め尽くされていた口を激しく覆う。
唇と唇がゆっくりと離れた。そして華は微笑を浮かべて言った。
「気が向いたらいつでも私を抱いてね」
澄み渡る空を見ていると、私の心も体も浄化され澄み渡っていくようだ。
朝結んだ契約は本当に締結されたようだ。この後、やっぱり10個年上のおばさんとは付き合えませんなんて言われたらどうしよう、そんな不安に苛まれながら彼が用意してくれた朝食を食べた。不安のためか、食事が喉を通らない。それでもせっかくロンが作ってくれた食事なのでなんとか食べきった。食べ終わると、腹ごなしに外を散歩することになった。
「どこ行くの?」私は歩きながら尋ねた。
「どうしようかな」
「どこでもいいよ。この辺は景色が綺麗だから、どこに行っても楽しいと思う」
「じゃあちょっと遠いですけどちょっとした洞窟みたいなところがあるのでそこに行きますか?」
「そこ、トイレはある?」
「え?観光地じゃないからトイレは無いなぁ」
「じゃあ却下」
「どこでもいいって言ったのに」
私たちはクスッと笑いながらゆっくりと歩いた。
「でもトイレがないと本当に困るわ。屋外のイベントなんて最悪。夏祭りとかね」
「そうなんですか?夏祭りって浴衣着たりして女子は楽しいのかと思ってました」
「夏祭り、浴衣、最悪のコンビ。常設のトイレはものすごく並ぶし、簡易トイレなんて汚くて行きたくないし、浴衣が汚れないように用を足さなきゃならないし。楽しいのは目的地に行くまでよ、って私の友達の恋愛マスターが言ってたわ」
私は過去の体験を思い出し感情を込めて言ったが、架空の恋愛マスターから聞いた体を装った。
「女性って大変なんですね」
「そうね。私も聞いた話だけど確かに恋愛マスターの言う通り。デートにおけるトイレ問題の占める割合は大きいわ」
「勉強不足でした」
「これから私が手取り足取り教えていくわ。おばちゃんの知恵袋ね」
彼は冗談ぽく「華さんに言われると何だか心強いですね」と笑った。
「というわけでトイレがありそうな場所ならどんな所でもいいんだけど、無さそうね。どこまで歩いても見えるのは田んぼと畑と澄み渡る空だもんね」
私は遠くを見渡して言う。
「学校は?」
「学校?いいじゃない。田舎の学校ってなんか素敵」
「学校といっても廃校になってて、村の行事の時に使用される施設みたいな感じなんです」
「楽しそう。行ってみよう」私の歩みは軽やかになった。
それから10分ほど歩いて目的地の学校に着いた。校舎はところどころ改築されているようで真新しい外観を呈している。廃校というよりは公共施設のような雰囲気で、私のイメージとは全く違っていた。
「校舎という感じは無いわね」
「そうなんですよ。外観は施設でしょ?」
「あぁ、確かにそうね。それにしてもこれは完全に公共施設だよね。何でこんな建物にしたんだろう。この校舎をリノベーションするにあたって、学校っぽさを残すっていう案は出なかったのかなぁ。これじゃあ東京の区の施設と何も変わらないよ。楽しみにしてたのに。もう帰ろう」
私は、少しがっかりしてわがままを言ってみた。ロンは少し慌てていた。
「華さんごめん。でもちょっと待って」
私は言葉を遮るように続けた。
「私はトイレがあってロン君が好きな所なら本当にどこでもいいの。わがままで言っているわけではないの。本当よ。ロン君の好きを一緒に共有したいし。でもこんな公共施設、ロン君は好きなの?」
「中に入ればわかりますから。建物内は昔ながらの教室そのままだし懐かしさを感じると思いますよ。僕はその教室が好きなんです」
「そこには入れるの?」
「公共施設だから誰でも入れます」
私たちは校舎とは名ばかりの近代的な公共施設の中に入った。玄関を通り廊下を歩くと左側に、この外観とはまるっきり違う、本当に昔の教室そのままの部屋があった。教室内の前方には黒板があり、粉受けにはチョークや黒板消しが置かれている。黒板には「次回の銀杏倶楽部は9/28(月)です」と書かれており、普段は何かの憩いの場として使用されているのがわかる。ぐるっと見渡すと、ランドセルを入れる木製のロッカーやちょっとした図書コーナーまでそのまま残されている。
「懐かしいな。昔を思い出すわ。ロン君、ちょっと着席して」
ロンは、懐かしいでしょといわんばかりに得意げな顔をして椅子に座った。
「懐かしいだけじゃなくてものすごく良い雰囲気ですよね。古い教室が誰にも見つかることなくずっとこの建物に取り残されていたような。森に隠れて誰にも見つからなかったカンボジアのアンコールワットみたい」
私は周りを見渡し人がいないか確認した。誰もいないことを確認してから、座っているロンの背後に立ち、椅子の背もたれに両手をつきロンの左耳を噛んだ。噛み方が強すぎたのかロンはうっという声をあげた。私はふふと笑みを浮かべながらロンの耳を軽くしゃぶった。
5年2組のクラスメイトたちは、教科書に沿って話す先生の授業を真剣に聞く子、授業が終わるのを心待ちにしている子、ぼーっとしている子などバラエティーに富んでいる。
チャイムが鳴り響く。クラスメイトたちは一斉に立ち上が理、廊下に出たり校庭に出て遊び回る。先生は職員室に帰って行く。
教室には華と、華の前の席に座っている男の子だけになった。男の子は特に目立つタイプではなく運動も勉強も普通だったのでクラスで彼のことが気になるという女子は誰もいなかった。
それでも華は、色白で儚い目をしている彼のことが気になっていた。
彼は授業が終わってもどこかに行くことはなく、ぼんやりと黒板を見ていた。
華はそんな彼の耳を見つめる。彼の耳の造形の美しさに心を奪われた。そして周りを見渡し、誰にも見られていないことを確認してから、彼の耳を軽く噛んだ。甘噛みほど軽くはなく、しっかり噛んだわけでもない。
か弱い声で痛いと言って私の方をふり向いた彼の顔は、痛いという言葉に反して嬉しそうだった。華は周りを見渡しもう一度彼の耳を噛んであげた。
彼は抵抗することなく呆然としていた。
「ごめん。嫌?」
「え?嫌とかじゃなくていくら付き合っているとはいっても、いきなり耳を噛まれたりするのはちょっと。公共の場ですし。家ならいいんですけど」
「家だとスリルがないじゃない?こういう場所だからいいの。付き合ったら一度やってみたかったんだ」
「そういうものなんですか?」
ロンは何とも言えない表情をしていたが私の笑顔を見て、彼はいつもの優しい表情に戻った。
「次は右耳を噛んでもいい?」私は強請った。
ロンは少し困惑して言った。
「痛くしないでください。あと周りに人がいないか確認してください」
「人はいなそうだから大丈夫」
「何だか変な感じです」ロンはもう観念した様子で大人しくしていた。
私の目は観念したロンの右耳に集中していた。
教室の周りには人気がない。きっと施設の人間以外は誰もこの建物内にいないのだろう。私は周囲を気にしながらロンの右耳を優しく噛んだ。
そのとき、靴に何かが落ちた音がした。一瞬我に返ると、私の口からよだれが滴り落ちているのがわかった。下品だ。ロンにバレないようによだれは啜らず服の裾で拭き、よだれのついた靴を彼の視界から外れるように後ろに下げた。
「もういいですか?人が来たら困るので」とロンは心配そうに呟いた。
私はロンの耳に唇を当てながら「もう少しこのまま」と言った。
このとき僕はニヤリとした。この女性は使える。
時間はどれほど過ぎただろうか。私は気の赴くままに耳を噛み、舐め尽くした。彼は少し我慢していたようだけれど次第にその感覚に慣れて、途中から息が荒くなっていた。
「そろそろいいですか?」痛みからか快感からか、ロンの声は力なく発せられた。
私は「そうね」と言い、名残惜しそうにロンの耳からゆっくりと唇を離し、バッグからハンカチを取り出して彼の耳を優しく拭った。
そのあと一緒に校舎の中を一通り歩き回り、念のため用を足し施設をあとにした。
田舎道を歩いている間、ロンはこの辺で起きた過去のエピソードを語ってくれていたようだが、私は先程からの興奮を抑えるのに必死で会話が入っていかなかった。
会話をしようとすればするほど、相槌を打とうとすればするほど頭が耳のことで一杯になる。
「華さん、せっかくだからもう少し散歩しませんか?良いところがあるんです」
ロンは屈託のない笑顔を見せた。でも私はこの興奮を抑えるためになるべく早く帰宅したかった。
「でもまたトイレに行きたくなったら嫌だし」
「大丈夫です。ここから近いのでいざとなれば学校に戻れますよ」
私はわかったと言って渋々ロンについて行くことにした。この興奮も、田舎道を歩いていればそのうち収まるだろうと思った。
しかしその思惑に反してロンはこのタイミングで私を刺激するような質問をしてきた。
「華さんは過去に男性の耳に関して何かあったんですか?思い出なのかもしくはトラウマなのか。華さんの過去を知りたくなりました」
「そのうち話すよ」
「実は僕さっきの教室でちょっと興奮しちゃいました。何だか、大胆なキスをしているみたいで」
ロンは空を見ているのかもしくはさっきのことを思い出しているのか、虚空を見つめていた。
「興奮したの?」その様子を見て私の中の邪心が強大さを増していった。
抑えきれない欲情。しかしこんな田舎道で欲求を解放させるのはムードに欠ける。
「ねぇ、やっぱり帰らない?明日もあるんだし、今日だけでいろんなところを回る必要はないよ。もっとのんびりここを満喫したい」
私は自分の欲求を抑えられるか不安で、帰る方向に会話を進めた。でもロンの返事は私の意にそぐわないものだった。
「華さん、もう一度いいですか?」
「何が?」
「もう一度耳を噛んでくれませんか?今ここで」
「何を言ってるの?ムードも何も無い所で。それにさっきのは私がちょっとやってみたかっただけのことだから」
興奮、欲望、激情、不安、私の中にいろんな感情が渦巻き、気が付くと脚に力が入らなくなっていた。
「ごめん、昨日の疲れがまだ残ってるみたい」そう言いながら私はしゃがみ込む。
「仕方ないですね。今のは気にしないでください。帰りましょう。おんぶします」
ロンは私の前で背中を向けてしゃがみ、おもむろに私を背負った。
おぶられた私の目の前にはロンの左耳がある。それを見つめると鼓動が高くなって目眩がしそうだ。綺麗で若々しい耳。まるで私のモノであるかのように目の前にある。
彼はさっきの教室での出来事を興奮したと言った。そして、もう一度噛んでくれとも言った。お互いの思惑が一致しているのなら私の欲望の赴くままに、耳を噛んでしまおう。
私は大量に分泌される唾液を飲み込み浅く息を吸った。唾液を飲み込んだ時にゴクリと喉が鳴ってはいないか。彼にそれを聞かれてはいないか。それでも唾液は分泌され続ける。唾液はまだ口内に残っていたが、開き直って左耳を噛もうと私の歯がロンの耳に触れた瞬間、「やっぱり駄目です」と激しく私を拒んだ。
左腕で私の顔を払い除けたため、ロンが担いでいた私の左脚は地面に着きバランスを崩して、尻餅をついて転倒した。
ロンは慌てて「ごめんなさい」と申し訳なさそうに私の体を心配した。
田舎道とは言ってもアスファルトなので結構痛かったが、我慢できる程度だったのでひとまずそこに体育座りのようにして座って呼吸を整えた。
「怪我していないですか?本当にごめんなさい」
ロンはアスファルトに膝をつけて謝り続けていた。
私はそれを意に介さずロンを責めた。
「どうして駄目なの?良いって言ったじゃない。ねぇ、どうして?」私は必死に理由を聞いた。
欲望を満たせると思っていたのに寸前でお預けを食い、宙に浮いた欲望が暴発しないように私は必死に堪えている。そのため首筋にはびっしょり汗をかいていた。アスファルトに尻餅をついた痛みよりも、我慢を強いられている筋肉の緊張状態の方が体を痛めつける。
「華さん」
「何?」
「ごめんなさい。やっぱり僕は普通の恋愛がしたい」
「普通?」私の恋愛は異常と言われているようなものだ。私は蔑まれた。自分の欲望に正直になり過ぎた。蔑まれてしまってはもう手遅れだ。この契約恋愛はお終い。いつも私は行き過ぎる。衝動を抑えることができないで失敗する。
「華さん、もうおしまいにしましょう」
予想通りである。こんな三十路と付き合う寛大な二十歳そこそこの男はそういない。私は「そうね」と言い腰を上げた。
若い男の子に対して自分の色に染めたいという身勝手な欲望がこうした結果を招いてしまった。でも彼の将来のことを考えるといち早くこの関係に終止符を打てて良かったのかもしれないと思った。すると彼は予期せぬことを言ってきた。
「もうこういう行為は止めて、普通の愛情表現をしませんか?」
「この関係をおしまいにするんじゃないの?」
「そういうことじゃなくて、華さんのその癖を直すというか、癖をおしまいにして、普通の男女がするような愛情表現をこれからしていきませんか?」
「え?じゃあこの契約恋愛はまだ続けるってこと?」
「もちろんです。もう少し僕と付き合ってくれませんか?」彼はそう懇願してきた。
しかし私の気は晴れなかった。彼が続けたいのは普通の愛情表現を以って契約恋愛をすることだ。私はそれを求められていることにストレスを感じた。
彼との恋愛は続けたいけど、普通の愛情表現を求められて私は幸せを感じることができるのだろうか。
「ここでもう少しゆっくりしていきましょうか」誰も通らない田舎道でロンは申し訳なさそうに私の背中をさすってくれていた。
うんと言って私はその場に座った。
空を見上げると、歩いているときとは違う景色が見えて私にとっては新鮮だった。これから続けていくであろう普通の愛情表現も、新鮮に感じられたら良いのにと思った。
あのあとロンの家に帰り、シャワーを浴びてぼんやりした後もう一度寝ることにした。今度は着替えるのも煩わしいと言って服を着たままで寝た。ロンは昼からアルバイトがあるということで私が寝る前に家を後にした。
きっとロンはアルバイトに行く準備があるはずなのに時間を惜しんで、この辺りのことや彼自身のことを私に教えてくれようとした。それなのに私が台無しにしてしまった。ロンがアルバイトから帰ってきたら、彼のことをもっと聞いていこう。そして普通の愛情表現をしよう。そう思いながら私は眠りについた。
窓から私の顔に直接照射されているような夕日を浴びて目が覚めた。秋らしからぬ燦々とした夕日だ。
彼は18時過ぎに帰宅すると言っていたけど、今何時だろう?私は体を起こした。
「ゆっくりできました?」ロンの声がキッチンの方から聞こえてきた。
私ははっとしてロンの方を見た。ロンはさっきのことなんて全く気にしていないようで、お茶を飲んでいた。
「ロン君帰ってたの?」
「はい。ついさっきですけど」
「帰ってきて早々に申し訳ないんだけど、動画の中でロン君が行っていた川にこれから行かない?」
「え?今からですか?」
「遠い?」
「そんなに遠くはないですけど華さん体調は大丈夫ですか?」
「もう大丈夫。寝過ぎて体を動かしたくなってきちゃった」
「それなら行きましょう」そう言ってロンは出かける準備をした。
「ロン君、アルバイトは歩いて行ってるの?」
「こんな田舎で徒歩はないですよ」彼はクスッと笑って「バイクです。バイクと言っても原付バイクですけど。ただ、原付バイクも大事な交通手段で、無くてはならない物なんですよ」
「やっぱりいい所ではあるけど不便なこともあるのね」
「そうなんです。アルバイトの往復と買い物に行くだけなのにバイクの維持費はかかるし」ロンは冗談ぽく言った。「それじゃあ出かけましょうか」
二人は並んで歩いていた。ロンによると川までは徒歩で30分くらいということだった。
もうさっきのようなことはしない。ロンは私のことを信用して契約恋愛してくれているのだから。でもこうして若い男の子と一緒に歩いていると自然と脳内の高揚が全身に伝播していく。
変なことを考えないように私は質問をした。
「この辺りってロン君が子供の頃から変わらないの?」
「そうですね。子供の頃から年に何回か来てますけどあまり変わらないですね。3キロほど南下すると父方の実家なんですけど、そっちの方が都会です。都会といっても周りに家が立ち並んでいるだけですけど」
「そっちよりこっちの田舎の方が好きなの?」
「人付き合いが嫌で東京からやってきたので、人間関係がより少ないこっちの方がよかったんです。住んでみると良い方ばかりだし景色も良いし」
「今住んでる家は綺麗だけどロン君が住むために建てたの?」
「いいえ。あの場所は元々公民館だったんですけど、かなりボロかったので5年ほど前に改築したんです。でもその後、例の廃校を公共施設にすることになり、公民館は必要ないということで空き家になったんです。僕が東京の生活が嫌で引きこもり状態になっているのをおじいちゃんは知っていたから、こっちで生活してみないかということになり僕は二つ返事で承諾しておじいちゃんが借りてくれたんです」
人に歴史あり。そして土地にも歴史ありだ。あの校舎が公共施設になったからロンは今ここにいる。
校舎のことを考えると、教室での出来事が鮮明に思い出される。また我慢できなくなる。別の質問をすることにした。
「おじいちゃんちには行くの?」
「ときどきですね。70歳過ぎてるんですけどすごく元気で、いまだに20代の女の子とかと話したがるんですよ。アルバイトの女の子を紹介しろとか。孫としては、おじいちゃんが元気なのは良いけどいい加減落ちついて欲しいという気持ちもあります」ロンは楽しそうに話す。
しかし祖父への何気ないロンの「いい加減落ちついて欲しい」という言葉が私の心に刺さる。
お前は落ち着きがない。何事でも熟慮せずすぐ行動に移すから危ない。欲望に正直すぎる。
過去の男たちが私に浴びせた言葉を思い出す。ロンにそのつもりは無いのだろうけど、記憶とリンクして私の心を深く切り裂く。でも、心を切り裂かれるより欲情することを我慢させられる方が辛い。私は欲求を満たせないと精神を保っていけない人間だ。
「私はおじいちゃんが羨ましいな。自分の感情に正直に生きてる。人生を謳歌してるって感じがするでしょ」
「そうだといいですね。川、着きましたよ」彼は川の方を指さして言った。動画で観た通りの浅くて緩やかだ。まだ夕日が出ていたので、川底まで見えた。緩やかな流れを保ち続けているいるその川は、私の火照った脳を冷ましてくれる。
「落ち着きますね、川は」ロンはぼんやりと川を見つめている。
「『わをんのん』でロン君が、川のせせらぎに身を任せて飛びたいって言ってたのは、何か関係あるの?」
「昔この川で一人で遊んでいたら足がつかない深い場所に行ってしまって溺れかけたんです。そのとき僕は死を覚悟しました。僕のような世の中に溶け込めない人間はこうやって死ぬんだなと」
ロンは淡々と思い出を語る。
「小学校でもクラスに溶け込めなくて僕は居ないものとされていたので、世の中ってそういうものなんだなと。必要のないものは消されていくんだなと思いました」
ロンは一呼吸置いた。
「溺れまいとずっとジタバタ抵抗していたんですけど、死を覚悟した瞬間から無駄な抵抗を止めて全身の力を抜き生きることを諦めたんです。そしたらいつの間にか川岸に着いていた。それで、これからは川の流れに従って肩肘はらずに生きていこうって決めたんです。そんな気持ちから、川のせせらぎに身を任せて飛びたいって言ったんですけど、全く深い意味はないです」
ロンはあははと笑った。
「そんなことがあったのね」
「だから動画の中は自分なりに力を抜いてやっているんです」
するとロンは私の方を向き深刻そうに聞いてきた。
「華さんは男性の耳に何か思い入れがあるんですか?」
急に耳のことを言われ、覚めていた私の脳が熱くなる。
「単純に耳が好きなんですか?」
「そうなの。耳が好き。きっと、小学生の時好きだった男の子の耳が綺麗で特徴的だったからかな。あまり覚えていないんだけど」
「それで僕の耳を?」
「そう。ごめんね」
私は俯き、溢れ出てくる欲望を口の中で爆発させた。自分の舌をロンの耳に見立てて、何度も前歯や奥歯で舌を甘噛みしたり吸ったりする。妄想の中で彼の耳を弄んだ。
しかしロンは「華さん、しっかりと僕の耳噛んでましたよね?」と少し笑みを浮かべて冗談ぽく言った。
こっちは本気なのに、そんなに冗談ぽくしかもはっきりと言葉に出さないで欲しい。もう少し気を遣って欲しいと思いつつ私は自分の歯で自分の舌を弄び続けている。
夕日は予告することなくいつの間にか落ちていて辺りはもう暗くなっていたので私たちは帰宅した。
「ロン君って普段家にいるときは何してるの?」
私たちはテーブルの前に座っている。
「動画編集とか、本を読みますね」
「読書家なんだね」
「読書家といえるほどは読めないですね。活字を読む速度が遅いので」
「私なんて動画とかSNSばかりだよ」
「そっちの方が今どきっぽくて羨ましいです」
「ロン君は動画をアップしてるのに他人の動画は観ないの?」
「あまり観ないですね。観てみたいものはあるんですけど、それよりも読みたい本がたくさんあって、そっちの欲の方が強いかな」
私はふうんと相槌を打った。
そのあと「トイレ借りるね」と鞄からポーチを取り出して立ち上がり、トイレに入った。しかし私の本当の目的は用を足すことではなくポーチの中に入れてある盗聴器を密かにこのトイレに設置することだった。ロンは女性と付き合ったことがないと言っているけど、実際はどうかわからないし、今後どうなるかもわからない。それに明日私は東京に帰らなければならない。そのためこの盗聴器で24時間監視しておく必要がある。
まず最初にトイレ内の音をかき消すためレバーを回して水を流す。水流の音が出ている間にタンクの下に盗聴器をくっつける。安易だが何もしないよりはマシだ。それから用を足すためスカートを脱いだ。すると、下腹部に赤のマジックらしきもので文字が書かれていた。いつの間にこんなことを?それに何でこんな文字を書く必要があるの?
ロン以外にこんなことができる人間はいない。
下腹部には殴り書きで「メスブタ」と書かれていた。
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