序章

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序章

 耳…聴覚および平衡感覚をつかさどる器官。私にとっては気持ちが昂る引き金。  目が覚めた。  いつも私は何のきっかけもなく目が覚める。陽の光が眩しくてとか、小鳥の囀りでとかそういうこと無く不意に目が覚める。  気がつけば眠り、気がつけば起きている。  起きてすぐ白のミルクパンでお湯を沸かし、コーヒーを飲む。テレビをつけてぼんやりニュースを見る。  毎日ほぼすっぴんで出社するので、のんびり支度をしてのんびり着替え、座椅子に座り、テーブルに置いてある食パンを焼かずにそのまま食べる。その際私は一手間加える。一口サイズに指で千切り、手のひらでこねて丸めてから口の中に放り込む。汚い食べ方かもしれないが、私としてはこの食べ方が一番美味しくいただける。30年の経験で培った。 「『わをんのん』のあの人ってどんな顔してるんだろう」  物思いに耽る。 「声、ものすごくタイプ。大人しそうな雰囲気、ものすごくタイプ。あとは顔よねぇ。顔を出さないところもいいわ。そういえばこの前あの人がどこかの川沿いを歩いてたとき、川のせせらぎに身を任せて空を飛びたいって言ってたな。意味はよくわかんないけど、絶対性格は合うわよね。絶対」  そろそろ会社に行く時間だ。 「もう行かなきゃ。早く動画更新されないかなぁ」  独り言を言いながら支度を済ませた。 「こんなやり方教えてないと思うんだけどどうだった?何でこんな風にしたのかな?」怒気の込もった声。  私は今上司にかなり怒られている。こちらをチラチラ気にする人、何事もないかのように黙々とパソコンと向き合っている人、嘲笑の目を向ける人、あるいは不安そうな目で見ている人、それらの視線を一手に引き受けながら怒られている。 「すみませんでした」私は頭を下げた。 「謝罪は求めてないの。何でこんなやり方をしたのかを聞いてるの。答えてみて」 「教わったことを忘れたので、独自でやってしまいました。申し訳ありませんでした」 「忘れたときは聞いてね。これ、もう一度やり直すから、二度手間だし時間かかるし。正式なやり方を確認しておいて」上司の声は冷たかった。 「すみませんでした」私はひたすら頭を下げ続けた。  お昼の休憩。 「華、大丈夫?」  職場の唯一の友達、ミキがフォローしに来てくれた。 「大丈夫って何が?」 「さっき怒られてたことだよ」 「あぁ、全然平気。そんなことよりミキ聞いてよ。今日が『わをんのん』の更新日なの。今晩が楽しみで楽しみで」  そう言いながらデスクのコーヒーを一口啜った。  私の職場はコールセンターで、様々な店舗にあるレジスターの故障やイレギュラーに作動したものの問い合わせを電話対応している。  ほとんどの事案はマニュアル通りでどうにかなるので問題ないが、たまにマニュアルにもない事案が起こったときは上司を呼び、起こった出来事を備考欄に入力するのだが、そのやり方が間違っていたので上司に怒られてしまった。 「それにしても吉田さん、あんなに怒ることないよね。皆華のこと見てたよ」 「今日の動画は多分、夜の散歩シリーズだと思うんだよね。彼の動画の中で私が一番好きなシリーズ。夜の散歩シリーズって、彼の声がはっきり聞こえるし、周りの虫の鳴き声とか風の音、全ての雑音が雑音じゃなくてBGMに聞こえるくらい不思議な世界観になるんだよね」  話が噛み合ってないことには触れず、ただ「ふうん」とだけ返事をするミキをよそに私は話を続ける。 「夜の散歩シリーズはもっと再生回数が増えていいと思うんだけど、全然増えないんだよね。私以外に観てる人はいないんじゃないかなってくらい」  ミキは小声で何か言ったように聞こえたが、私の耳には入ってこなかった。動画のことで頭がいっぱいだった。  夜帰宅してまず最初に、スーツを脱ぎジャージに着替える。そしてコーヒーを飲む。  あと30分。動画更新の時間までが待ち遠しい。私は彼のファンだから更新されたらすぐ観たい。テーブルにスマホを置き、更新の時間になるのを待っている。餌を目の前にして、ずっと待てを指示されている犬のような気分だ。犬みたいに涎が出そうになる。  予定の19時になった。  スマートフォンの画面に更新された動画が映る。タッチする。始まった。 「えっと。現在夜の10時です。今日は家からちょっと離れた森に来ています」  私の好きな夜の散歩シリーズ。このシリーズは、彼が夜道をスマートフォンの灯りだけを頼りに歩きながらその日起こった出来事を話すだけのシンプルな動画だ。  私は口に運ぼうとしていたマグカップを一旦テーブルに置いて、彼の声に聞き入った。       「何でこんな時間に撮影しているかというと、この時間この付近ではときどき獣が出没するからです」彼はいつも淡々と話す。  動画に映し出されているのは、ただの暗闇。彼は映っていない。うっすらと森の中の木々が見える程度だ。さらに、BGMなどは一切なく、枯葉や枯れ木を踏み潰している音が聞こえるだけ。  それでも私にとって無くてはならないものだ。  今日の動画は静寂に包まれているせいか、彼から発せられる声がはっきりと鮮明に聞こえる。  私は動画に引き込まれていく。  すると彼の「あっ」という声のあと映像はゆっくりと上の方を映し出し、画面いっぱいに星空を浮かび上がらせた。 「空、見てください。宇部の夜はとても綺麗です」  ウベ?宇部?山口県の宇部市?そこに住んでるの?そこに行けばあなたに会えるの?  動画は淡々と進んでいく。  もう私の頭の中には、動画の画面いっぱいに広がっている満天の星空なんて全く目に入らないほど彼の住んでいる街への思いが、いっぱいに広がっていた。  結局どんな展開があったのか、ほぼ覚えていない。覚えているのは、獣は現れなかったということだけ。小さい頃この森で遊んだ思い出なんかも話していたようだがそれも覚えていない。それよりも彼の住む街がぼんやりわかったことが私のとってとても重要だ。  もう一度動画を見返して余韻に浸る。やっぱり好きな声。何だか踏みしめる枯葉や枯れ木を踏みしめる音までが心地よく耳に残る。冷めたコーヒーも美味しく感じる。 彼の住む街を見てみたい。行ってみたい。彼に会いたい。 「お疲れ様でした」  仕事を終え、会社を出てオフィス街を抜け新宿駅に着く。電車に乗る。東京駅に着く。お弁当とビールを買う。新幹線に乗り継ぐ。新幹線でお弁当を食べながら何度も『わをんのん』を見返す。時間を忘れるほど夢中になる。新山口駅到着。下車する。  駅を出て少し歩くと辺りは真っ暗だ。もう22時を過ぎている上に、街灯がところどころにしかない。一昨日の動画コメントにあったやり取りを頼りに、まずタクシーを捕まえて北上する。  あの日、動画を見終えたあと私はコメント欄に書き込んだ。 「ものすごく素敵な場所ですね。宇部のどこだろう?」  次の日コメント欄を確認すると、二つのコメントがあった。一つは 「うちのじいちゃんち、こんな感じ。同じような景色見たことある」  もう一つは 「ご視聴ありがとうございます。ここは、山口市と宇部市と美祢市の境目の山に囲まれた地域で、中国自動車道が近くにそびえ立っています。タクシーじゃないと難しいかもしれませんが、一度ぜひお越しください」  これは彼本人だった。  こんなに丁寧に教えてくださるなんて、よほど地元愛があるんだろう。    タクシーは、高くそびえ立っている中国自動車道の下の県道を走っている。  そろそろかもしれない。でも真っ暗だ。コンビニすらない。こんな場所で降りたところで彼を見つけられるはずがない。でもこの辺で降りないと、より知らない場所に行ってしまう。 「すみません。あの小さな商店の前で下ろしてください」 「え?あんたこんな所で降りるんか?ええんかね?」 「はい。この辺に友人が住んでて、迎えに来てくれることになってるんで」  そう言ってタクシーの運転手の心配をよそにタクシーを降りた。  タクシーは暗闇に消えていった。  自分で降りると言っておきながらタクシーの背中に向かって「バカヤロー」と暴言を吐く。  スマートフォンで照らした商店は、周りに何鉢も植物が育っていた。手入れはされているようだけど、お店自体は何年も前にたたんでしまったのだろう。店内は商品らしいものも人気もなかった。   ここからはもう自力で探すしかない。  それにしても辺り一面暗黒の世界。周辺を見渡すと一本道と田畑が広がっているだけだ。    こんなに真っ暗で静かだと、ここには人が存在しないんじゃないかと錯覚する。静かすぎてシーンという音が言葉として聞こえているようだ。音の指標がないから、目を瞑るとどこに何があるかわからない。前後左右上下の感覚がおかしくなって、私は一体何者だろうと自分の存在を疑う。  こんな状況で彼に会えるのだろうか。  その時、どこからか草をかき分けるカサカサという音がした。この静けさの中で発される音は、私にとって爆発が起きたと錯覚するくらい大きな音に感じられた。  その音はすぐ止んだが、また音がして、その音は私に近づくに連れてより大きくなる。 「誰?」   その瞬間、目の前を何か動物が通り過ぎた。 「何?猪?野良猪なんて初めて見た」  私は自分を落ち着かせるために平静を装い、言葉を発し続けた。 「猪に野良ってつけるのはおかしいのかな。猪はそもそも野良?動物園以外で飼い猪っているの?」  冷静なつもりだったが、訳のわからないことを言い出し、脚が震えて今にもその場にしゃがみ込んでしまいそうになった。  そのとき、草をかき分ける音がまた聞こえた。今度はかなり遠くから聞こえるようだった。しかしこの状況のせいで、実際はどの方角から聞こえるのか、音の発信源は近いのか遠いのか判断できなくなっていた。  私はぐっと身を強張らせた。緊張で思うように声が出ない。 「そうだ。新幹線に乗るとき買っていたビールがあった。あれを飲んで気を紛らわそう」  私はバッグから温くなったビールを取り出して飲んだ。すると一気に眠気が襲ってきた。次第に周りのことが気にならなくなり、このまま道端で寝てしまおうと思った。仕事で疲れた後、見知らぬ土地に来てさらに疲れた。もう寝よう。幸い、9月の山口はどうやらまだ暖かいようだ。それにこんな辺境の地、誰も通らないから襲われる心配もないだろう。  私は商店の前で体育座りをした。  この真っ暗で静かな、睡眠に最適な環境でぐっすり眠った。   目が覚めた。布団にくるまっていた。何か違和感がある。パンツ一枚のほぼ裸だ。床には無造作に私の服が脱ぎ捨てられている。辺りを見回す。ここは簡素な家の一室のようだ。  私は犯されたのだ。記憶は全くないけど恐らくそうに違いない。  男臭い8畳くらいの部屋で私はほぼ裸。部屋の中は怪しく生ぬるい熱気に包まれている。これだけの条件が整っているなら犯されたのだ。軽々しくお酒を飲むべきではなかった。あんな所で寝るべきではなかった。  そもそも、彼に会いたいという叶わぬ夢を持つべきではなかった。  取り返しのつかない後悔が頭の中いっぱいに充満して泣きそうになりながら服を着た。  でも私はこうなるべくしてなった、だらしない女。いつもと同じだ。  酔ってそこら辺で知り合った男と寝てしまう。とりあえず付き合う。お互い真剣ではない。体だけの関係。相手には正式な彼女、もしくは妻がいる。駄目なこととわかっていても、優しい言葉をかけられると私は都合のいい女になってまた会いに行く。その繰り返し。  そして今回もきっと優しい言葉をかけられて都合のいい女になる。そう考えながら白のシャツを羽織り黒のタイトスカートを履いた。 「目、覚めました?」  男がトイレから出てきた。思っていた男性像より爽やかなで、顔から20代そこそと見て取れる。でも人は見かけによらない。二十歳そこそこの男でも30歳をすぎた無抵抗の私を前にすると襲ってしまうものなのか。  それにしてもその男から発せらる声は聞き覚えがあった。 「びっくりしましたよ。あんな所に人がしゃがんでるんだもん」その男はあくまで私を介抱しているような優しい口ぶりだった。 「どうやって寝てる私をここまで運んだんですか?」 「運んだ?声をかけたらあなたが自ら起き上がって歩いたんですよ」 「そうですか」お酒のせいで意識がない。それにしても聞き覚えのある声は何だろう。 「コーヒーでも飲みます?」その男はこちらを見て微笑んでいる。  私はそれには答えず聞き覚えのある声について少し考えて、逆に質問した。「もしかして、『わをんのん』の?」  その男はコーヒーを淹れようとした手を止めて「もしかして僕の動画を見てここに来たんですか?」と聞いてきた。  私はまた質問に答えず質問した。 「あの、私、目が覚めたときほぼ裸だったんですけど、やっぱりそういう行為をしたんですよね?別に怒るつもりも訴えるつもりもないので正直に言ってください」 「え?あなたがこの部屋に入ったとき暑いって言って急に脱いだんです。いきなりでびっくりしましたよ」 「私が?自分で?じゃああなたに悪戯されたわけじゃないんですか?」 「悪戯?あ、そうか。そんな状態で目が覚めたら、驚きますよね。ごめんなさい。でも僕、家族以外の女性の体に触れたことがないから服を着させるなんてできなくて。それでそのままあなたに布団をかけたんです」その男は苦笑して少し顔を赤らめた。 「いいえ。私こそごめんなさい。せっかく助けて頂いたのに人の善意を勘違いしちゃって。ありがとうございます」  気にしないでくださいと言いながら彼はテーブルの上にコーヒーを置いて、テーブルを挟むようにして私たちは座った。コーヒーの香りが部屋中に広がりる。二人の会話は一旦リセットされた。 「自己紹介してなかったですね。僕、ロンって言います。論語の論と書いてロン」 「あ、私は華です。中華の華ではな」  中華の華、という説明が面白かったようで、ロンはクスッと笑った。 「私を助けてくれた人が優しい人でよかった。他の男の人だったら何されているかわからないものね」 「そうかもしれませんね。幸いなことに僕には女性に対しての免疫があまりないので」また恥ずかしそうにロンは笑った。 「ロン君さっきから女性に触れたことがないとか免疫がないとか、女性に縁がないアピールしてるけど、本当?」 「本当です。女性にはどうしても馴染めなくて」 「そうなの?」 「女性どころか人に馴染めないんです。生まれてからずっと東京で暮らしていたんですけど気が付いたら人に馴染めなくなってて。それで父方の実家近くで一人暮らしすることにしたんです」 「東京にいたの?だから標準語なんだ。でもこんな何もない所、不便じゃない?」 「不便だから楽しいんです」  ロンの表情が生き生きしてきて身振り手振りでこの辺りのことを話し始めた。 「この町の面白さをいろんな人に見て欲しくて動画を配信し始めたんです」  そうなんだと頷きながら私はロンの表情に目を奪われていた。こんな人が素敵な声であの動画を配信していて、私は今その中の人と一緒にお話ししている。  しかも、想像以上に若くてイケメン、おまけに奥手。  もう私の人生は詰んだと思っていたところに田舎の王子様がやってきた。やってきたというより王子様のお城に偶然忍び込んでしまった。 「華さん?大丈夫ですか?」 「ん?あ、ごめん。聞いてなかった。ちょっと疲れてるのかも」私は、仕事終わりに東京からここまで新幹線でやって来たからという言い訳をした。 「大丈夫ですか?それは相当疲れると思いますよ」 「でも二日間休み取ったから大丈夫」私のことを心配するロンに迷惑をかけまいと、疲れている体に鞭打って表情筋に力を入れ作り笑いを浮かべた。口角をこれでもかというほど持ち上げ、眼球が飛び出るほど目を見開いた。 「華さん、顔がおかしいですよ」  ロンはクスッと笑った。でもどこか心配そうだった。 「やっぱり?私疲れてるね。もうそろそろ帰るよ」 「帰るって、もう24時回ってますよ。ホテル予約してるんですか?」 「これから探す」  私は、起きてから髪を梳かしていないことに気づいたが、やはりここでも迷惑をかけまいとグシャグシャのままで家を出ようとした。するとロンが優しく言った。 「もし迷惑じゃなければ泊まっていってください」 「いいの?ロン君、人に馴染めないんじゃないの?」  ロンはコーヒーを見つめていた。 「なぜかわからないけど、華さんなら大丈夫です」 「でも、後になってやっぱり無理って言われたら困るわ」 「本当に大丈夫です。華さんとは会話のテンポが合うというか。だから本当に大丈夫です」 「じゃあお言葉に甘えて泊まらせてもらおうかな」 「はい。こんな所でよければ」 「ありがとう」  私は思いがけず『わをんのん』の動画配信者ロンの家に泊まることになった。  相当疲れていたはずの私だったが、ロンの家に泊まることになり少しずつ昂っていった。  彼は動画の話をしてくれていたが、昂りが邪魔をしてほとんど耳に入らなかった。私は本能の赴くままに企てることにした。 「ロン君、私寝るね」そう言って私はおもむろにシャツとタイトスカートをまた脱ぐ。全裸になる。床に正座する。服を畳む。ロンと目を合わせて、おやすみと言う。  呆気に取られていたロンに私は説明した。 「うちでは寝るとき全裸になるの。だから気にしないで」 「そ、そうなんですか。家では裸で生活しているっていう人の話をたまに聞くけど、目の当たりにしたのははじめてだったのでびっくりしました。華さんの寝やすい状態で寝てください」  ロンは複雑そうな笑みを浮かべた。迷惑なのか緊張なのか欲情なのかそれとも全く違う感情なのか、強張っているように見えた。 「気にしないでって言っても気になるよね。でも私アラサーおばさんだからさ。近所のおばちゃんだと思って。あ、ここに、おばちゃんのオブジェが置いてあると思って」 「わかりました。オブジェですね」  そう言いつつロンは落ち着かないようで、リビングと小さな台所の間を右往左往している。  私も落ち着かない。  なぜならこの企ては、どうにかしてロンと一夜限りの関係になりたい一心で咄嗟についた嘘をだからである。自分の画策なのにあまりに急すぎて、全裸の肌にじんわり汗をかいている。しかしこれが私なりの精一杯の誘惑だ。もう後には引けない。  私は敷き布団の上に寝転がり、掛け布団を掛けずに横になった。 「華さん、風邪ひきますよ」 「大丈夫。慣れてるから」  クシュン。朝の8時すぎ。目が覚めた。慣れないことをしたために風邪をひいてしまった。  風邪ひきますよと昨晩忠告してくれた彼は、今ソファーでぐっすり寝ている。  私の誘惑も虚しく、何事も無かった。彼にとって全裸の私は本当にただの部屋のオブジェだったのだろう。「全裸アラサーの虚しい誘惑」という作品名なんてぴったりだ。  そんな惨めな私だけを朝日が照らす。部屋は暗いので、悲劇のヒロインにスポットライトが当たっているようだ。  窓外には田園風景が一面広がっている。天気は快晴だ。気分の良い朝。  部屋の中の二人の関係は昨夜同様何も変わっていないのに時間だけは過ぎていく無常さ。  裸の私は畳んでいたシャツとスカートを着、バッグの中に入れていたカーディガンを羽織って外に出てみた。朝の田舎道は動物たちの鳴き声がときどき聞こえてくる。 「ここにはいろんな動物たちが住んでるのね。皆おはよう」童話の主人公のように、動物たちに語りかけるように独り言をする。 「あなたたちは早起きね。こんなに早く起きて何をするの?」  私は田舎道を少し散歩してみることにした。目の前には大自然が一望できる。昨夜歩いた印象とは全く違って物凄く雄大な景色で、まるでCGで作られた世界だ。  車が通れるギリギリの道幅の道路や道路沿いにある側溝までもがCGで作られたもののように見えるし、想像上の生物、ユニコーンやフェニックスなんかが現れても不思議に思わない。  5分ほど歩いても景色はそれほど変わらず、不思議な世界に誘われているような気持ちになる。  そう思いながらふと空を見上げると、突然キーッというけたたましい声が聞こえてきた。でも音の発信源は空ではなく田んぼの方からだった。  何事かと立ち止まって見ていると、田んぼの奥の土手の方から10匹くらいの猿の群れが走ってきた。まさか人間がいるとは思いもよらなかったのだろう。  彼らが土手を滑り降りているとき私はおーいと手を振ったが、猿の群れはびっくりしてキャッキャ言いながら土手に戻っていってしまった。中には子供を抱えた猿もいて、必死に土手を登っていった。  猿の群れをきっかけに、CGの世界から現実に戻された私はロンの家に戻ることにした。  家に着き部屋の中に入るとロンは起きていた。 「ロン君おはよう。起きてたの?」 「あ、お帰りなさい。さっき起きました。散歩ですか?」 「そう。昨夜の暗闇とは大違いの雄大な景色ね」 「そうなんですよ。わかってもらえて嬉しいな」 「昨日のこと、覚えてる?」 「昨日のこと?華さんが寝た後のこと?」 「ロン君が寝た後のこと」 「寝た後は覚えてないなぁ」 「そうよね。私もびっくりしたんだけど」そう言って私は淡々と語りはじめた。 「夜中私がトイレに行くとき電気の場所がわからなくて、寝てるロン君に聞いたんだけど、そのときロン君はいきなり私を抱きしめてキスをしたの」  彼は表情を変えない。そんなことは全く記憶にないと言いた気に見える。 「ごめん。私が突き放せば良かったのかもしれないけど、私もびっくりして何もできなかった」 「本当ですか?」ロンは無表情を崩さない。 「本当。ロン君がそういうことをするタイプだとは思ってなかったから」 「いいえ。僕がそんなことをしたんですね。すみません。何とお詫びをすればいいのか」 「お詫びなんていいの。私も一回りほど年下の男の子に求められる日が来るとは思ってもみなかったから、むしろラッキーって思ってるくらい」  続けて私は躊躇いながら、「実はこの齢になって、初めてキスしたの」と告白した。  私はロンを見つめてる。時計の針が進む音が、けたたましい音のように部屋に響き渡る。 「ロン君とは世代が違うから私の価値観はわからないかもしれないけど、初めてのキスって結構大切なものというか。ごめんね、考え方が古臭くて。でも私ももうおばさんだし、そんなことどうでも良くなってきちゃって。だから本当に気にしないで」  私は少し被害者ぶってみた。ロンはようやく心苦しそうな表情をした。あと一押し。  昨日の夜は仕事や新幹線移動などの疲れから、ロンを誘惑しておきながら熟睡してしまって、途中でトイレにいってもない。また私の策略。嘘の既成事実を作れば彼が責任感で私を愛してくれるようになるのではないか。そんな欲が出て、嘘をついた。しかもファーストキスを奪われて青ざめているような顔を作って。  部屋は静寂に包まれた。  いたずらに時間だけが過ぎていく。 「もしロン君が良ければ私たち、期間を決めて付き合わない?」 「え?」 「ロン君が申し訳なさそうにしてるのは私も辛いの。別に私は責任とってほしいなんて思ってないのに。だから、それならお遊びで偽装恋愛というか、試しに付き合ってみるの。もちろんお遊びだから、期間を過ぎれば契約終了ということでこの関係はおしまい。期間の途中でもどちらかがおしまいって言えばおしまい。どう?」 「華さんが良ければ。そんなことで罪を償うのは申し訳ないような気がしますけど」 「じゃあ決まりね」 「あの、期間は?」 「一年はどう?」 「はい」  あっさり決まってしまった。  しかし、私の策略のせいであんな目に遭うとはこのときは思いもよらなかった。 「ロン君。これからは」 「何ですか?」 「気が向いたらいつでも私を抱いてね」
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