伝承の虎

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「尊運(そんうん)。おせーぞ!」  荒れくれ者の中で一人だけ毛色の違う者がいた。  彼は無理やり森に連れて来られた青年だった。両親を早くに亡くした彼は、従兄弟でもあり村の長老の息子である瑞強(ずいきょう)に連れ出されて、この場所に至る。  瑞強(ずいきょう)は彼と同じ歳、昔から彼を奴隷のように扱っていて、時たま殴ることもあった。  けれども身寄りのない尊運(そんうん)には従うしか道がなく、今回も仕方なく彼についてある森へ向かっていた。  瑞強(ずいきょう)は、森の入り口で同じような荒れくれ者たちに合流した。彼があらかじめ伝えていたのか、誰も彼もが尊運(そんうん)を小間使いのように使う。労ってくれるような者はおらず、彼はヘトヘトに疲れていた。だがそんな旅の中、一つだけよいことがあった。  森に入ってから、彼はとても懐かしい夢を見たのだ。  幼い頃の、両親が生きていたころの夢。そして一緒に遊んだ金色に黒のまだら模様の猫。  両親が亡くなり、親戚に当たる東村の長老に預けられた。そこで、彼は部屋を与えられたが、瑞強(ずいきょう)にはまるで奴隷ように扱われていた。  村で時折両親の夢は見ることはあったが、猫のことは今のいままですっかり忘れていた。   「雷梨(らいり)……」  その名前すら忘れていたことを彼は驚き、そのふわふわした毛の感触を思い出して一時(ひととき)ながら幸せな気持ちに浸る。  目を覚ませば、再び森の中だ。  そして朝食の準備、片付け、それらは全て尊運(そんうん)の仕事だった。  荒れくれ者たちの目標は森に棲むと言われる虎だった。  その額に王の文字を宿し、制したものは王になれるといわれている虎だ。  けれども誰も見たことがなく、伝承だと本気にされたことなかった。  しかし、そんな言葉を間に受けた裕福な商人が虎を捕らえた者には多額の報償金を出すと酒場で告げた。  酔った勢いだと相手にしていなかった荒れくれ者たちも、翌日の張り紙を見て目の色を変える。  瑞強(ずいきょう)の友人がその一人で、彼はその話にのった。  尊運(そんうん)はそんな彼に巻き込まれる形で、この儲け話に乗ることになってしまった。  森に入って3日後、彼らは金色に黒の模様の動物に遭遇した。  商人の張り紙に描かれた絵によく似た生き物だった。  尊運(そんうん)は、その金色の瞳に囚われただ呆然としていた。  微動もできずに佇む彼を、他の男たちは罵しりながら、虎を捕らえようと試みる。 「おい、やばいんじゃないか。死ぬんじゃないか?」 「殺したら金にならないじゃないか!」  しかし抵抗する虎に男たちは加減できるはずもなく、虎は傷ついていく。ついには地面に体を伏せ、目をぎらつかせながらも荒い息を繰り返し、血がその身から滴る。  ーー虎を制するもの。  その言葉の正確な意味は男たちにはわからなかった。  所詮、言葉の意味など男たちには問題なく、ただ生きたまま虎を捕獲して、報酬金を手に入れるつもりだった。  そう、今ここで殺してしまっては、報酬にならないのだ。  だが、虎から流れる血は止まることを知らない。  息はかろうじてしているようだった。 「しかたねぇ。虎の皮は貴重なはずだ。肉も何かに使えるかもしれねぇ。一気にとどめを刺すぞ!」  頭(かしら)の声で男たちは一斉にそれぞれの得物を構えた。 「尊運(そんうん)!」  瑞強(ずいきょう)の殺気だった声で、彼は我に返った。  そうして彼は自分が何をしているのか、気がつく。  彼は虎をまるで庇うように、その前に立っていた。 「どけ!死にてぇのか!」  尊運(そんうん) の耳には男たちの怒声がまるで遠くの出来事のように聞こえた。   感じるのは背中を焼くような熱い虎の視線だ。  青い瞳は小さい時と同じ。  その血に濡れた体躯は、あの毛色と同じ。 「雷梨(ライリ)……」 「はあ?どけ!お前ごと殺すぞ!」  虎の抵抗により、怪我を負ったものもいる。また男たちの間で仲間意識は皆無に等しい。彼を虎ごと殺したとしても罪悪感などあるはずもなかった。  そして瑞強(ずいきょう)。彼にとっては従兄弟にあたるのだが、小さい時から尊運(そんうん)を奴隷のように思っており、庇う気持ちなど起きなかった。むしろ庇うことで自分に火の粉が飛ぶことを恐れていた。  動かない尊運(そんうん)に痺れを切らして、男たちが動き出す。  すると急に虎が体を起こして咆哮を上げた。  耳をつん裂叫びに男たちはそれぞれの得物を下げ、ある者は耳を押さえる。  瀕死だったはずの虎が急に体を起こし、驚愕する男たちの前で尊運(そんうん)がその背中に跨る。そうして彼らは森の奥へ姿を消してしまった。    荒れくれ者たちは一度街に戻ったが、再び森へ虎狩のために向かう。  その中に瑞強(ずいきょう)の姿もあった。    しかし、彼らが虎と尊運の姿を見ることは二度となかった。  ☆ 「雷梨(ライリ)、ごめん。大丈夫?」 「すっかり忘られていて、ごめんだけじゃな」 「雷梨(ライリ)、君は人の言葉が話せるの?」 「ああ」  森の奥の湖近くで、雷梨(ライリ)は尊運(そんうん)を降ろして、湖に体を浸す。すると傷がみるみる癒える。再び陸へ上がった時はすっかり元の姿に戻っていた。  立派な体躯の虎は彼を睨みながら、言葉を操る。  その言葉使いは男性的だが、その声質は女性のものに近かった。 「それは君が虎だから?」 「ああ。人は我らの存在を忘れていたと思ったのだがな」 「……ごめん。僕はただ黙って見てることしかできなかった」 「いいさ。わざとやられたしたな。お前の出方も見たかったし。で、お前は私を助けた者だ。人の王になるなら、力を貸すぞ。あいつらを殺してもいい」 「王なんて興味ないよ。瑞強(ずいきょう)たちを殺す必要もないよ。雷梨(ライリ)は殺したい?」 「どうでもいい。億劫だ。だが、お前はそれでいいのか?」 「いいよ。僕も面倒だ。もう彼らに会うのも」  小さい時から殴られてきた。  森に入ってからヘトヘトになるまで働かされた。  けれども、わざわざ殺したいという気持ちは起きなかった。  瑞強(ずいきょう)のことは好きではない。けれども、食事や衣服を与えてくれたのは彼の父である長老で、瑞強(ずいきょう)の行動を諌めることはなかったが、彼自身が尊運(そんうん)に危害を加えることはなかった。 「雷梨(ライリ)。そんなことより、僕は君と暮らしたい」 「……なんだ、それは」 「僕はずっと村で人と暮らしていた。だけどずっと孤独だった。今はこうして君と話しているととても幸せな気分になれるんだ。あの頃に戻ったような」 「……お前が望むならそばにいるといい。お前は私を助けた者だからな」 「それを言うなら、君も僕を助けた者だ。僕に何ができるかわからないけど、君の力になりたい」 「力とな。人がいうわ」 「そうだね。僕は何も持ってないし、何もできないだろうし」 「まあ、いい。こうしてお前と話すのは割と楽しい。退屈だったし、いい暇つぶしにもなる。私のそばにいるといい」 「ありがとう」  尊運(そんうん)は微笑むと、ぎゅっと雷梨(ライリ)の首筋に抱きついた。 「冷たい」 「当たり前だろう。水から上がったばかりだ」  こうして、東村の尊運(そんうん)は王になるという選択をとらず、虎の雷梨(ライリ)と共に森の奥で静かに暮らす。  時折、森の中に人が踏み込んだが、彼らが虎の姿を見ることはなかったという。  
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