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ホーリーの一件以来、特殊情報捜査執行局の仕事はちょっぴり楽になった。
その最たる要因は、アーモンドアイの勢力がまっぷたつに分派……これまでどおりの過激派と、ホーリーを支持する穏健派に別れたことに端を発する。また、人類の裏切り者である諸悪の根源……スコーピオンが逮捕された影響も大きい。身を挺して有言実行を果たした少女の存在を、世間はあまり知らなかった。
つまりホーリーは、立派に約束を守ったのだ。
西暦二〇七一年、六月十二日。
午前九時二十一分……
中華街。
その真新しい中華料理店の屋号は〝双龍居〟という。すこし前にマフィアの抗争に巻き込まれて潰れた店に代わり、場所を移して新装開店したのだ。
ただ、肝心のコックにはいまいち元気がない。開店時間も近いというのに、ひとり店内の席に腰掛け、ハンは力なくテーブルに突っ伏している。
差し込む朝日から、ハンは逃げているようだった。そこだけ動いた手が、卓上の拳銃をなでる。そして、おもむろに撃鉄をあげるや、ああ。自分のこめかみへ、ハンは銃口を押し当てたではないか。
ここ数日、ハンのこの衝動はひどくなるばかりだった。ホーリーという重要な保護対象をみすみす取り逃がした失態で、死ぬほど組織の審問に突かれたせいもある。
うつろな眼差しで、ハンは独りごちた。
「なにが〝約束〟だ。なにが〝守る〟だ。あたしなんてただ、適当に暴れて大口を叩いてるだけじゃないか……ごめんね、本当に。ごめんね、ホーリー」
ハンのうわごとには、嗚咽さえ混じっていた。
「あたしには、なにひとつ守れない。ただ壊して引き裂くだけだ」
銃爪にかかったハンの指に、音をたてて力はこもった。
今日こそうまくいきそうだ。
レストランの扉が、強く叩かれたのはそのときだった。
乱暴なノックからは、品性のかけらも感じられない。プレートに書いた〝準備中〟の文字も読めないとは、どこの森の猿だろう。とうぜん居留守を決め込む気だったが、いつまで経っても乱打がやまないものだから、ハンはついに席を蹴った。
「馬鹿が……いい夢を見れそうだったのに」
腰に拳銃を差して隠すと、ハンは思いきり険悪な顔で入口を開け放った。降り注いだ陽光のまぶしさに、反射的に瞳を細める。
予想どおり、外に立っていたのは変質者だった。
とんでもない寝癖頭を押さえつける中折れ帽にあわせ、男がまとうのは喪服のようなスーツだ。特に、顔を隠す怪しげなサングラスと、真紅のネクタイに重なって揺れる十字架のネックレスは、社会に対して後ろめたいことがある証拠に他ならない。
気の抜けた顔で、ハンはつぶやいた。
「あら」
「よう」
片手をあげて挨拶した男は、組織の特別捜査官だった。
ため息とともに、彼の名を呼んだのはハンだ。
「ロック・フォーリング……あたしを狙撃するなら、もっと遠くからにしたら?」
「いや、な。意外と乙なもんだぜ。ぴったり体と体をくっつけて、安い銃をぶっぱなすってのも?」
ずかずか入店するなり、ロックは遠慮なくファミリー席を陣取った。くわえたタバコに火をつけ、えらそうに注文する。
「ツバメの巣をひとつだ。あとキムチな。ビールは先に持ってこい」
「あんたねぇ……」
額を押さえ、ハンは首を振った。
「ここは禁煙だ。それに仕事はどうした、仕事は。ちょっとばかしUFOの数が減ったからって、スナイパーが朝っぱらから飲んだくれてんじゃないよ」
「これは礼拝だぜ」
無精髭をさすりつつ、ロックは紫煙混じりに語った。
「澄んだ心で主と対話するためにゃ、朝、昼、晩、明け方、ずっと脳をアルコールで消毒し続けなきゃなんねえ。視界がぼやけるぐらい酔っ払ったら、はい一丁上がり。祈りを捧げるべき十字架が、ありがたいことに何重にも増えて見える」
「イカれてるんだね、完璧に……」
冷たいアラーム音が、店内に響き渡るのは唐突だった。
ハンの腕時計からそれが鳴るということは、抑制剤の投与の時間だ。顔をしかめ、ロックは蝿でも払うように手を振った。
「うるせえ。二日酔いの頭が割れる。止めろ」
「なんだい、フォーリング。あんたも青虫を届けに来たんじゃ?」
「俺が? なんでそんな、めんどくさいこと。ま、代金によっちゃ用立てしてやってもいいけどな。アッパーからダウナー、避妊薬から不妊治療薬まで」
銀時計のアラームを止めると、ハンはロックを上目遣いにした。
「知ってて言ってるのかい? 血清を打たないと、あたしがどうなるか?」
「人間の部分が食われちまうんだろ? ねえちゃんの半分のダリオンに?」
無造作に、ロックは懐へ手を入れた。
やはりテーブルの上に転がされたのは、拳銃型の注射器だ。中にはたっぷりと液状の青虫が満たされている。
ハンは皮肉な笑みを浮かべた。
「だろうと思ったよ。ちなみに聞くが〝打ちたくない〟ってあたしが言ったとしよう。あんたならどうする?」
「どうもしねえよ。そいつの引き金を引くのはねえちゃん自身だ。俺はただ、黙ってビールを待つだけさ。いつだったっけ……あのポンコツタクシーの客席で言ってた〝ほんとは打ちたくない〟ってのは本音だったんだな」
外した中折れ帽とサングラスをテーブルへ置くと、ロックは髪を掻き回した。イスにふんぞり返りながら、続ける。
「俺がねえちゃんの立場だったら、迷わず打つね」
「ほう。そりゃまた、どうして?」
「世の中にゃ、薬そのものが足りなかったり、薬で治そうとしたって死んでく人間も大勢いる。じゃあどうするよ。打って生きれるんなら、とっとと打つべきだ」
沈黙するハンをよそに、ロックはジト目で注射器を眺めていた。
「悪いけど、ねえちゃんの細かい事情までは知らねえ。だが少なくとも、自分の半分ごときに負けてる場合じゃねえだろ。俺たち捜査官にはまだ、失くしちまった大事なものを探す仕事が山ほど残ってるはずだ。な?」
「大事な、もの……」
まるで初耳にする単語のように、ハンはそれを反芻した。
「そうか……そうだったね」
不意にハンの横顔をかすめたのは、あきらめに似た笑みだった。そこにはなぜか、さっきまでの絶望の色はない。それとなく腰の拳銃に安全装置をかけ、ハンはささやいた。
「ほんと、あんたの行くとこ全部が懺悔室だ」
「あん? なんか言ったか?」
「なにも。神父様」
放りっぱなしだったエプロンを腰に巻くと、ハンは厨房へ向かった。血清は手もとを狂わせるので、打つのはちょっと後でもいいだろう。
腕まくりして手を洗いながら、ハンはロックにたずねた。
「ツバメの巣、でいいね?」
「やっぱ、ビールは駄目?」
西暦二〇七一年、六月十二日。
午前九時三十四分……
シェルター都市は、いつもどおりの喧騒に包まれていた。
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https://estar.jp/users/479808250
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