第四話「雪半」

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 ホーリーの一件以来、特殊情報捜査執行局の仕事はちょっぴり楽になった。  その最たる要因は、アーモンドアイの勢力がまっぷたつに分派……これまでどおりの過激派と、ホーリーを支持する穏健派に別れたことに端を発する。また、人類の裏切り者である諸悪の根源……スコーピオンが逮捕された影響も大きい。身を挺して有言実行を果たした少女の存在を、世間はあまり知らなかった。  つまりホーリーは、立派に約束を守ったのだ。  西暦二〇七一年、六月十二日。  午前九時二十一分……  中華街。  その真新しい中華料理店の屋号は〝双龍居(そうりゅうい)〟という。すこし前にマフィアの抗争に巻き込まれて潰れた店に代わり、場所を移して新装開店したのだ。  ただ、肝心のコックにはいまいち元気がない。開店時間も近いというのに、ひとり店内の席に腰掛け、ハンは力なくテーブルに突っ伏している。  差し込む朝日から、ハンは逃げているようだった。そこだけ動いた手が、卓上の拳銃をなでる。そして、おもむろに撃鉄をあげるや、ああ。自分のこめかみへ、ハンは銃口を押し当てたではないか。  ここ数日、ハンのこの衝動はひどくなるばかりだった。ホーリーという重要な保護対象をみすみす取り逃がした失態で、死ぬほど組織の審問に突かれたせいもある。  うつろな眼差しで、ハンは独りごちた。 「なにが〝約束〟だ。なにが〝守る〟だ。あたしなんてただ、適当に暴れて大口を叩いてるだけじゃないか……ごめんね、本当に。ごめんね、ホーリー」  ハンのうわごとには、嗚咽さえ混じっていた。 「あたしには、なにひとつ守れない。ただ壊して引き裂くだけだ」  銃爪にかかったハンの指に、音をたてて力はこもった。  今日こそうまくいきそうだ。  レストランの扉が、強く叩かれたのはそのときだった。  乱暴なノックからは、品性のかけらも感じられない。プレートに書いた〝準備中〟の文字も読めないとは、どこの森の猿だろう。とうぜん居留守を決め込む気だったが、いつまで経っても乱打がやまないものだから、ハンはついに席を蹴った。 「馬鹿が……いい夢を見れそうだったのに」  腰に拳銃を差して隠すと、ハンは思いきり険悪な顔で入口を開け放った。降り注いだ陽光のまぶしさに、反射的に瞳を細める。  予想どおり、外に立っていたのは変質者だった。  とんでもない寝癖頭を押さえつける中折れ帽にあわせ、男がまとうのは喪服のようなスーツだ。特に、顔を隠す怪しげなサングラスと、真紅のネクタイに重なって揺れる十字架のネックレスは、社会に対して後ろめたいことがある証拠に他ならない。  気の抜けた顔で、ハンはつぶやいた。 「あら」 「よう」  片手をあげて挨拶した男は、組織(ファイア)特別捜査官(エージェント)だった。  ため息とともに、彼の名を呼んだのはハンだ。 「ロック・フォーリング……あたしを狙撃するなら、もっと遠くからにしたら?」 「いや、な。意外と乙なもんだぜ。ぴったり体と体をくっつけて、安い銃をぶっぱなすってのも?」  ずかずか入店するなり、ロックは遠慮なくファミリー席を陣取った。くわえたタバコに火をつけ、えらそうに注文する。 「ツバメの巣をひとつだ。あとキムチな。ビールは先に持ってこい」 「あんたねぇ……」  額を押さえ、ハンは首を振った。 「ここは禁煙だ。それに仕事はどうした、仕事は。ちょっとばかしUFOの数が減ったからって、スナイパーが朝っぱらから飲んだくれてんじゃないよ」 「これは礼拝だぜ」  無精髭をさすりつつ、ロックは紫煙混じりに語った。 「澄んだ心で主と対話するためにゃ、朝、昼、晩、明け方、ずっと脳をアルコールで消毒し続けなきゃなんねえ。視界がぼやけるぐらい酔っ払ったら、はい一丁上がり。祈りを捧げるべき十字架が、ありがたいことに何重にも増えて見える」 「イカれてるんだね、完璧に……」  冷たいアラーム音が、店内に響き渡るのは唐突だった。  ハンの腕時計からそれが鳴るということは、抑制剤の投与の時間だ。顔をしかめ、ロックは蝿でも払うように手を振った。 「うるせえ。二日酔いの頭が割れる。止めろ」 「なんだい、フォーリング。あんたも青虫(ケルタプラ)を届けに来たんじゃ?」 「俺が? なんでそんな、めんどくさいこと。ま、代金によっちゃ用立てしてやってもいいけどな。アッパーからダウナー、避妊薬から不妊治療薬まで」  銀時計のアラームを止めると、ハンはロックを上目遣いにした。 「知ってて言ってるのかい? 血清を打たないと、あたしがどうなるか?」 「人間の部分が食われちまうんだろ? ねえちゃんの半分のダリオンに?」  無造作に、ロックは懐へ手を入れた。  やはりテーブルの上に転がされたのは、拳銃型の注射器だ。中にはたっぷりと液状の青虫(ケルタプラ)が満たされている。  ハンは皮肉な笑みを浮かべた。 「だろうと思ったよ。ちなみに聞くが〝打ちたくない〟ってあたしが言ったとしよう。あんたならどうする?」 「どうもしねえよ。そいつの引き金を引くのはねえちゃん自身だ。俺はただ、黙ってビールを待つだけさ。いつだったっけ……あのポンコツタクシーの客席で言ってた〝ほんとは打ちたくない〟ってのは本音だったんだな」  外した中折れ帽とサングラスをテーブルへ置くと、ロックは髪を掻き回した。イスにふんぞり返りながら、続ける。 「俺がねえちゃんの立場だったら、迷わず打つね」 「ほう。そりゃまた、どうして?」 「世の中にゃ、薬そのものが足りなかったり、薬で治そうとしたって死んでく人間も大勢いる。じゃあどうするよ。打って生きれるんなら、とっとと打つべきだ」  沈黙するハンをよそに、ロックはジト目で注射器を眺めていた。 「悪いけど、ねえちゃんの細かい事情までは知らねえ。だが少なくとも、自分の半分ごときに負けてる場合じゃねえだろ。俺たち捜査官(エージェント)にはまだ、失くしちまった大事なものを探す仕事が山ほど残ってるはずだ。な?」 「大事な、もの……」  まるで初耳にする単語のように、ハンはそれを反芻した。 「そうか……そうだったね」  不意にハンの横顔をかすめたのは、あきらめに似た笑みだった。そこにはなぜか、さっきまでの絶望の色はない。それとなく腰の拳銃に安全装置をかけ、ハンはささやいた。 「ほんと、あんたの行くとこ全部が懺悔室だ」 「あん? なんか言ったか?」 「なにも。神父様」  放りっぱなしだったエプロンを腰に巻くと、ハンは厨房へ向かった。血清は手もとを狂わせるので、打つのはちょっと後でもいいだろう。  腕まくりして手を洗いながら、ハンはロックにたずねた。 「ツバメの巣、でいいね?」 「やっぱ、ビールは駄目?」  西暦二〇七一年、六月十二日。  午前九時三十四分……  シェルター都市は、いつもどおりの喧騒に包まれていた。 【スウィートカース・シリーズ続編はこちら】 https://estar.jp/users/479808250
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