咲きたての笑顔の花

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咲きたての笑顔の花

 三番地の夏の花祭の当日。  ウタセは学び家の正門脇の花壇を眺めて、慈乃がやってくるのを待っていた。 「お待たせしました……!」  待ちわびていた慈乃の声にウタセは振り返った。  慈乃は祭礼服の衣装を身にまとっていた。白地の袂に純白の花刺繍が躍る上衣と、銀糸の花が舞う淡藤色の下衣で、日の光を受けて、上下の刺繍と髪飾りのガラス玉でできたカモミールがきらりときらめく。慈乃のハーフアップにした白銀色の髪が風にそよぐと装飾以上の輝きを放った。落ち着いた色の組み合わせだが、慈乃が着ることでその佇まいは地味ではなく上品と形容するにふさわしいものに昇華していた。  ちなみにウタセもまた祭礼用の衣装で、襟合わせに花の刺繡が施された白の上衣と、緑色から黄色のグラデーションとなるよう刺繡が入った萌黄色の下衣を身に着けている。腰の紐にはセイヨウタンポポのコサージュが付けられていた。柔らかで明るい色の取り合わせは、まさに春の野に咲くタンポポを思わせて、ウタセはこの祭礼用の衣装を気に入っていた。  ウタセは慈乃の姿を目に映すなり、一瞬言葉をなくして立ち尽くしていたが、すぐにぱっと顔を輝かせた。 「今日のシノ、特にきれいだね」  直截的な称賛に、慈乃はたじろいだようだった。目を左右に泳がせながら、言葉を絞り出す。 「あの、えっと……。ニアさんと、クルルちゃん、あとライネさんが選ぶのを手伝ってくださって……」 「ニア姉はともかく、そのふたりはさすがだね。あんまりきれいだから見惚れちゃったよ」 「い、言いすぎです」  慈乃が恥ずかしさから顔を上げられずに抗議してきたが、ウタセは至極当たり前の顔をして言い切った。 「伝えたい思いは言葉にしないと伝わらないじゃない」  ウタセのその信条は揺らぎないものだ。彼の言葉はいつもまっすぐで慈乃の胸を打つことも多いのだが、今回ばかりは彼女も恥ずかしく、いたたまれないようだった。 「……そう、なのです、が……」  何か言おうとして勇気をもって顔を上げた慈乃は、続く言葉をすっかり忘れてしまったように口をつぐんでしまった。  ウタセが滅多に見せない照れ笑いを浮かべていたからだ。 「僕だって羞恥がないわけじゃないんだよ? ただ、美しいものを美しいと思える心を忘れたくないから、素直に言葉にするんだ」  ウタセは「行こうか」と言って、足を踏み出した。慈乃もその隣に並ぶ。 「それに、言霊っていうでしょう? 想いをのせた言葉には力が宿るって。僕はそれを信じてるから、やっぱり言葉に変えて留めおきたいと思うんだ」  美しい景色を美しい思い出として憶えていたい。ウタセがそう要約すると慈乃が難しい顔になっていたので、ウタセは小さく笑ってしまった。 「ちょっと概念的かな。じゃあ、ここにひとつ宣言します」  含み笑いを浮かべてウタセが改まった口調で切り出すと、慈乃は小首を傾げた。 「今日の花祭で、僕はシノの笑顔を見られるよ、きっとね」 「……それも、言霊ですか?」 「うん、そうだよ」  ウタセは一点の曇りもない晴れやかな笑顔で慈乃に答えた。それは、自ら口にした言霊の力や願いの成就を心から信じている笑みだった。  慈乃にとって初めての花祭は、新発見ばかりのようだった。景観も服装も屋台も、何をとっても新鮮で、興味が尽きず、珍しく落ち着きなくきょろきょろしていた。ウタセは慈乃の様子をにこにこ眺めて、夏の花祭を一緒に楽しんでいた。  気づけば夕暮れが迫っていた。  慈乃は自分ばかりが楽しんでいたのではないかと不安そうにウタセに訊いてきた。 「ウタセさ……、ウタくんは、見たいところはなかったのですか?」  昼間の屋台での勝負で勝ったウタセは慈乃に『呼び方を親しくしてほしい』とお願いしていた。ちゃんと名前を言い直してくれたことに喜びが込み上げる。 (最初は名前すら呼んでくれなかったもんね。すごい進歩だよね)  ウタセは先ほどの屋台で購入したおにぎりを食べた。愛称で呼んでくれた喜びに祭特有の高揚感も相まって、いつもより食事が美味しく感じられた。ウタセはおにぎりを飲み込むと慈乃の問いに答えた。 「屋台のこと? 強いて言えば毎回やってるガラス玉釣りだけど今日も行けたし、他にはないかな」  釣ったガラス玉が大量に入った袋を軽く持ち上げる。ガラス玉が夕陽をうけて、きらりと橙色に反射した。  ウタセは最後の一口を口に放り込む。咀嚼する間、僅かな時間考え込み、嚥下すると同時に慈乃を見た。 「シノの言いたいことはなんとなくわかるよ。だけど僕にとって重要なのは、どこに行ったかじゃなくて、誰とどうやって過ごしたかだから、杞憂だよ」  ウタセは、安心させるように慈乃に笑いかける。作ったような笑みではなく、素直な心のままの笑みだった。 「大好きな家族と過ごせる時間を、僕は退屈だなんて絶対思わないよ。それに、シノといて飽きることなんてないしね」  本心から伝えれば、慈乃がほっと胸を撫でおろしたのがわかった。しかしそこで、「あ、でも……」とウタセははっと思い出して付け足した。 「まだ達成できてないことがあるや」 「? このあと行きましょうか?」  勘違いをした慈乃はそう提案してきたが、ウタセは首を振って否定した。 「屋台じゃないよ。言ったでしょ、シノの笑顔を見たいって」  ウタセは何かにつけて慈乃に語り聞かせてきたが、この夏の花祭にあたっては俄然気合いを入れていた。なかなか達成できない目標にやや悔しさをにじませたが、すぐに頭を振った。 「ううん、まだ花祭は終わってないんだし」  最後まで諦めてやるものかとウタセは自分に喝を入れた。しかし慈乃が困ったような顔をしていたためにあえて明るい声を出してその話題を打ち切った。 (シノの笑顔は見てみたいけど……。困らせるのは本意じゃないしね) 「まあ、それはそれとしても。花祭は暗くなってからが本番なんだよ。ということで、はい」  立ち上がったウタセが、地面に座ったままの慈乃に右手を差し伸べる。躊躇いつつも、慈乃はその手をとってくれて、腰を上げた。 「お昼よりひとが多いから手を離さないようにね」  日が落ちかけて、空の端から群青色が迫る。  屋台が連なる大通りに戻ると、昼間とは雰囲気が一変していた。  花びらでできた張子に灯りがともされて、頭上には光球が浮かんでいるかのようだった。灯り自体は優しい黄色をした暖色だが、それを覆う花びらの色によって橙色、朱色、桃色、藤色、水色、黄緑色とひとつひとつ異なる色の球を作り出している。  また、鉢植えにも小さな照明が取り付けられており、下からのほのかな照明光と上から降り注ぐ柔らかな張子の光により、花そのものが淡く発光しているように見えた。街のいたるところにある鉢植え全てがそのようになっていたので、その光景といったら圧巻だ。  ウタセが予想したように、通りは昼間以上のひとで溢れかえっていた。普段であれば鬱陶しいだけのひとごみも、花祭の今日だけは特別で、ひともまた花祭を飾り立てる一要素だと思えた。  華やかで、賑やかで、幻想的な風景に、慈乃の目は縫い留められていた。 (楽しんでくれてるみたい。良かった) ウタセは慈乃の横顔に小さな笑みを落とすと彼女の手を引いて、まだ見ていない屋台を覗いていった。  祭の夜恒例で、子ども達の門限に合わせて、職員も帰ることにしている。行きはともかく、帰りはひと通りもまばらな暗い小丘を子ども達だけで歩かせるのは心配だからだ。街の出入り口付近で全員集合し、帰りは一緒に学び家に戻る手筈になっている。  ウタセと慈乃が集合場所に到着したとき、あたりにはまだ誰もいなかったが、ふたりで他愛ない話をしているうちに皆が戻ってきた。  慈乃が子ども達に囲まれて会話をしているのをちらりと見た。いつもより柔らかな慈乃の表情に、ウタセはひと知れず微笑んでいた。  そのとき、背後からガラスを打つ高らかな音がキーンとひとつ響いた。  音の発生源は街のほうだ。皆が一斉に立ちどまり、振り返る。  ウタセも皆と揃って後ろを振り向いた、その瞬間だった。  夜空を埋め尽くすように花が舞い上がり、無数のガラスの音色がリンリンと鳴り渡った。  まるで花火のようだが、風に乗ってウタセ達に降り注いだのは、本物の花である。種類も色も様々なそれは不思議と生命力に満ち溢れていた。音もみぞおちに轟くような爆発音ではなく、澄みきった風鈴の音のようだった。高い音には耳をつくような煩わしさはなく、優しい歌声のように感じられる。  今この瞬間は、三番地の誰もが空を見上げていることだろう。そして、花に感謝する。愛してくれてありがとう、愛されてくれてありがとう。それが、花祭が花祭たる所以なのだ。  降りしきる花を見つめながら、ウタセは慈乃の隣で呟いた。 「花祭、終わっちゃうね」 (シノと花祭をまわれて楽しかったな。時間があっという間に過ぎて、ちょっと惜しいくらい) ウタセの小さな声に、慈乃がそっと頷き返した。 「……私、この場に立てて良かったと、心から思います」  聞き逃してはいけないと思った。ウタセはとっさに慈乃を振り返る。 「花祭は花に感謝する日、でしたよね。でしたらやはり、ありがとうを捧げたいです。きっと、きっかけは花だったと思うから」 「きっかけ?」  ウタセの目をまっすぐに見つめ返して、慈乃は言葉を紡いだ。 「私が幸せになれた、そのきっかけです」  ほころぶように花開く。咲きたての微笑みはどこまでも透明で、淡く儚いものだった。  慈乃が見せた初めての笑み。こんなにきれいな笑みをウタセは知らなかった。 (やっと……やっと、笑ってくれた……!)  胸の内にじわりじわりと歓喜の感情が広がっていく。  あるときを境に、慈乃は笑うことができなくなってしまったらしい。慈乃は諦めかけているようだったが、ウタセは笑えないことの辛さを身をもって知っていたからなんとか救ってあげたいと思っていた。 (君は……こんな風に笑えたんだね)  泣きたくなるような感情を跳び越して、ウタセは満開の花を咲かせた。遍く照らす眩しさと春のひだまりのような柔らかな温度を詰め込んだ、慈乃とは対照的な笑顔を。 「僕の言霊が聞き届けられたように、シノの言霊も届いたよ。『ありがとう』って」  最後にひと際豪華な花が舞い上がり、いっそ荘厳ともいえるガラスの音とともに一帯を支配した。  皆の目が夜空の花に釘付けになる中、ウタセと慈乃は互いの顔に咲く花を見つめ合っていた。  全員で学び家までそぞろ歩く。はしゃぎつかれた子ども達が自室に帰っていく流れに乗って、職員も解散していく。最後に残ったのはウタセと慈乃だった。 「今日はありがとうね、シノ」  ウタセが声を掛けると、慈乃は足を止めて振り返った。 「いえ、私は何も……。ウタくんこそ、ありがとうございました。楽しかったです」 「本当? なら嬉しいな」  廊下で長話をするものでもないだろう。ふたりは短く言葉を交わすと、どちらともなく部屋に戻ろうとした。そこで「あっ」とウタセが小さく声をあげた。 「シノ、最後にひとつだけ」  慈乃は不思議そうに首を傾げた。  ウタセは小さく息を吸い込むと、優しく優しく微笑んだ。 「幸せだって、笑ってくれてありがとう」  慈乃は徐々に感情を取り戻し、成長している。そんな彼女を側で見守ることができることにウタセは幸せを感じていた。あたたかな気持ちをくれる彼女には感謝しかない。  彼女はこれからどのように変わっていくのだろう。  咲いたばかりの笑顔の花を思い返して、ウタセは希望を胸に笑いかけた。
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