ベーアウントイーゲル

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1 『不幸は立て続けにやって来る』  ドイツには、そんなことわざがあるらしい。  不愛想なホテルマンを目の前にして、かつて伯母から教えられたおぼろげな記憶がよみがえり、蜷川渉は深いため息をつきそうになった。  美しい曲線を描く眉が寄り、甘く整った顔が陰る。普段意識せずとも容易に浮かべられるはずの微笑が、その端正な顔から消えていた。笑えるような心の余裕など、今の蜷川は持ち合わせていない。  日本とドイツ・フランクフルトを結ぶ飛行機の直行便は約十二時間。朝日本を出発した蜷川は、本来ならば昼頃にはドイツの地を踏んでいる筈だった。  しかし、飛行機は天候の影響で大幅に遅れ、フランクフルトに着いた頃にはもう夕方と言っていい時間帯だった。  広い空港では迷いかけ、どうにか乗り込んだ目的地のマークブルク行きの列車ではスリに遭いかけた。閉まる寸前に飛び込んだ観光案内所では、地図を貰うだけだというのにとても嫌そうな顔をされた。  そして今、目の前にいるホテルマンは、予約したはずの部屋が取れていない、と言う。  本当についていない。最悪と言っていい。これまでの二十三年間の人生の中で、ここまで不運が重なった日があっただろうか。  そう思い巡らそうとして、つい最近日本で起こった出来事が脳内に浮かび上がり、さらに苦々しい気持ちになった。  同時に、冷たいホテルマンの声が耳に届く。 「私は知りません」  思わず睨みつけそうになった苛立ちは隠しきれず、声に乗った。 「だから、俺はちゃんと電話したって言ってるでしょう」  先ほどから何度となく同じことを言っているというのに、その度に真顔でしれっと「私は聞いていません」と返される。ホテルマンからは、少しも悪びれる様子が感じられない。  フライトが遅れ、ホテルの予約時間に間に合わないと判断した時点で、蜷川はきちんと連絡をしていた。  しかし、どうやらそれが伝わっていないらしい。それとも、その電話が予約のキャンセルだと勘違いされてしまったのか。どちらにせよ、蜷川の電話を受けたスタッフはもう帰ってしまったらしい。  それならばなんとかして確認を取ってくれればいいし、できないのならば新しい部屋を用意してくれればいい。どうしてそんな簡単なことができないのか。一旦そう思い、言葉にしようとしたものの、「すみません」の一言もないホテルマンの態度が癇に障った。  長い滞在になるからと、安ホテルにしたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。  埒が明かないやり取りにうんざりとした疲れが襲って来て、とてもこんなホテルに泊まる気にはなれそうになかった。泊まったところで、提供されるであろうサービスもたかが知れている。  せめて愛想笑いの一つくらい浮かべたらどうだ。そんな考えが浮かんだ自分の思考回路にも腹が立ち、蜷川はそっと拳を握った。  誰も彼もが張り付けた笑顔で、ずかずかとプライベートに踏み込んでくる。そんな日本にいるのが嫌で、ドイツに来た筈なのに。 「……もういいです」  こんなところで言い争うだけ時間の無駄だ。そう判断した蜷川は、ため息を押し殺し、言い捨てるようにホテルを出た。  途端、ひんやりとした空気が頬を撫でる。雨が降った後なのだろう。地面はほとんど乾いているが、ところどころに水たまりがある。肌寒さを感じ、ジャケット越しに二の腕を擦った。  見上げた空に雨雲はなく、まだほのかに明るさが残っている。けれども通りにある殆どの店は閉まっていて、腕時計を見ればもうじき二十時になろうとしていた。  身体は疲れを訴えている。一刻も早く休みたい。  とりあえず片っ端からホテルを当たってみようと、地図に視線を落としながら歩き出したのがいけなかった。  完全に前方不注意だった。坂道を登りながら、角を曲がろうとしたところで、広げていた地図の上に、ふっと影が差した。  あ、と思ったときにはもう遅かった。  何かにぶつかった反動と引いていたキャリーケースの重みで、ぐらりと後ろに倒れかける。  とっさに目を瞑ったが、予想された衝撃は襲ってこなかった。代わりに背中が少しあたたかい、気がする。  恐る恐る目を開けて、何が起こったのか確認しようと思った瞬間、随分と低い声が鼓膜を揺さぶった。 「――大丈夫か?」  上から降って来た声に、そろりと視線を上げると、レンズ越しに静かなグリーンの瞳とぶつかった。まるで湖畔を映したような瞳の色に、一瞬見惚れてしまう。  近くにあった男の顔が離れていくのと同時に、背に感じていたぬくもりが消えて、抱き留められていたことを知った。 「……っ、すみません」  ぼんやりと見上げたままだった蜷川が、なんとか謝罪の言葉を口にすると、男は不思議そうに首を傾げた。その拍子に、ウェーブがかったくすんだ色の金髪が揺れる。  重たそうな長い前髪の後ろに、シルバーフレームの眼鏡が光っている。背が高く、それほど長身ではない蜷川と比べると、二十センチ近く差があるかもしれない。眼鏡越しにも分かる鋭い眼光のせいか、一見して怖い印象がある。口周りの髭と落ち着いた態度から、随分と年上に見えた。  片手には大き目の膨らんだバッグを下げている。  ふと、実家にあった大きなクマのぬいぐるみを思い出した。髪の毛の色が似ているせいかもしれない。  訝し気な男の様子に、我に返った。  不躾と言ってもいいくらいの強い視線に、一瞬、まさかという思いが頭を過ぎる。  もしかしたら、この男は自分のことを知っているのではないか。そんな思いに身構えた瞬間、男がゆっくりと口を開いた。 「…………日本人か?」  どうやら先ほど蜷川の口から出たのは、日本語だったらしい。  内心で胸を撫で下ろしながら、「ヤー」と頷く。すぐさまドイツ語で謝罪を言い直すと、男は意外そうに目を瞠った。  学生時代ドイツに留学していたという伯母から、「なんでも知っていて損はないから」と、幼い頃から英語だけでなくドイツ語もみっちりと叩き込まれた。英語はともかく、ドイツ語など一生使うことはないだろうと思っていたが、おかげで言葉には不自由しなさそうだ。 「どこに行きたいんだ?」  そう言った男の視線は、蜷川の持っている地図に落とされている。地図は男にぶつかったせいか、よれて少し皺になっていた。 「……宿を、探していて……」  反射で答えた後、何も馬鹿正直に言う必要はなかったと後悔した。今は誰も信用できない。しようとは思えない。 「道案内は必要か?」 「いいえ、結構です。すみません、急いでいるので失礼します」  言いつつ、早足で男の傍らをすり抜けようとした途端、男の低い声が聞こえてきた。 「この時間からでは、どこも門前払いをくらう可能性が高いぞ。アテはあるのか?」  その言葉に、つい足を止めてしまった。そんな蜷川を見て、男が静かに口を開く。 「何かトラブルがあったんだろう?」 「……どうして、それを」 「すぐ傍にホテルがあるのに、君が向かっているのは逆方向だ。その上大荷物を抱えている。少し考えればわかることだ。そこのホテルは、あまり良い評判は聞いたことがない……災難だったな」 「…………」 「私の知り合いが経営しているホテルがこの近くにある。家族経営の小さなところだが、おそらく空室もあるだろう。そこでよければ、案内するが」  先ほどから散々な目にあってばかりいるせいか、男の親切そうな態度が逆に胡散臭いものに映った。不信感はそうたやすく消えない。  知らず、キャリーケースのハンドルを握る手に力が入る。 「……近くって、どのくらいですか?」  この態度はあまりにも失礼過ぎると自身でも思ったが、男は気にした様子も見せずあっさりとしたものだ。 「ここからなら五分もかからないが」  どうする、と目線を投げてよこした。  断るのも面倒だ。それに男の言う通りならば、これから新しいホテルを探すのも骨が折れる。流石に、これ以上の不運は重ならないだろう。  しばし逡巡した後、教えてもらうことにした。 「よろしくお願いします」  男はじっと蜷川を見つめた後、不思議そうに首を捻った。 「君は、学生か?」 「いいえ」 「ここへは、何をしに?」  その問いかけに、自然と口が重くなった。仕方なく当たり障りのない返事を探す。疲れていて思考力が低下している為か、うまい言葉も見つけられない。 「……観光、です」  そう言った途端、男から向けられた胡乱な視線に気まずさを覚えた。  男の疑問は尤もだった。  マークブルクは所謂『大学都市』だ。城や教会はあるものの、特別ドイツを代表するような観光名所と呼べるところではなく、ガイドブックでページを割かれることもめったにない。  蜷川がマークブルクに来た理由など、実のところ観光でも何でもない。  ただ、「日本から離れたい」と思った。それだけだった。日本から離れられるのならば、場所はどこでもよかった。  しかし、海外であっても日本人の観光客がうようよといるような場所では意味がない。誰も自分のことを知らないところに行きたい。半ば投げやりな思いで目的地を決めようとした際に、かつて伯母が教えてくれたこのマークブルクという土地が浮かんだ。 「昔、伯母が住んでいたことがあって。……いいところだと、言っていたので」  付け加えた言葉に、男はさして興味もなさそうに「そうか」と言ったが、髭に隠れた口元が少しだけほころんだように見えた。  その様子に蜷川は安堵を覚えたが、すぐさま余計な一言を口にしたと後悔した。  もう会うこともないだろう人間の機嫌を取って、どうするのか。昔からの癖で、必要以上に周囲に気を遣ってしまう。良い子のふりをする必要性など微塵もないというのに。じんわりと苦い気持ちになった。 「こちらだ」  蜷川の逡巡には気がつかなかったのか、男はゆっくりと歩き出した。重いキャリーを引っ張り、一定の距離を保ったまま男の背を追いかける。  これでやっと休めそうだと、そう思ったら気が抜けたらしい。今まであまり目につかなかった街並みが自然と写り込んでくる。  足元の石畳や、ドイツ語の看板、アンティーク感のある窓や屋根。美しくどこか幻想的な街並みに、遠い異国に来たことを漸く実感した。  きょろきょろと辺りを見回していると、子どもの頃に読んだ絵本のような風景の中に、見慣れた花を見つけた。白っぽい薄いピンク色の小さな花弁をつけた木が植わっている。  ――桜?  ドイツにも桜があったとは知らなかった。けれどよくよく目を凝らして見れば、桜とはどこか違うように思える。  一体何が違うのだろうと、花に気を取られた瞬間だった。  前を向いていた男が急に振り返る。 「足元に気をつ」 「え?」  自身の発した声と同時に、ボチャリ、と下の方で嫌な音がして、蜷川は一際大きな水たまりに左足を突っ込んでいた。  すぐさま足を引き上げたものの既に遅く、布地のスニーカーはあっけなく水を吸い込んで、靴下までもがびしょ濡れの状態になっていた。  冷たさと不快さと情けなさに、蜷川の眉が寄る。  視線を感じ顔を上げると、呆れたような男と目が合った。どうやら一部始終目撃されてしまったらしい。  この間抜けな状況を笑うでもなく、男は口を開いた。 「気持ち悪いんだろう? 私がその荷物を持っているから、とりあえず靴の中の水を捨てたらどうだ」 「え、いや、でも……」  先ほど列車の中でスリに遭いかけた記憶は新しい。荷物を預けることに抵抗があった。  蜷川の警戒心に気がついたのか、おもむろにバッグを漁った男は財布を取り出した。そして財布を開くと、中から一枚のカードのような紙を蜷川に見せてくる。  免許証だった。顔写真は確かにこの男のものだ。 「私は、ベルント・リンデマンと言う。これから君に紹介するホテルの真向いの靴屋で働いている。……これで少しは信用できるか?」  男――ベルントの真摯な口調と態度に、蜷川は疑ったことを恥じた。  何も言えないまま小さく頷くと、ベルントは免許証をしまい、長い腕を伸ばしてきた。大人しくキャリーを渡す。  じっと見つめてくるベルントの強い視線に、居心地の悪さと妙な焦りを覚えた。  もたつきながら靴を脱ぎ、ぐっしょりと濡れて肌に張り付いた靴下をどうにか脱いだところで、ぐらりとバランスが崩れた。 「う、わっ」  疲れと焦りのせいか、普段ならば何ということもない石畳のちょっとした段差に靴先が引っかかり、前につんのめる。  ぎゅっと目を瞑る寸前、ちらりと長い腕が見えた。どん、という軽い衝撃の後、ため息混じりの声が降って来た。 「…………全く君は、随分とそそっかしいな……」  ベルントが抱き留めてくれたらしいことは、辺りを見回さなくてもすぐに理解できた。完全に呆れられている。  初対面とは思えないような口ぶりだが、確かにベルントの言う通りだ。こうも失態続きでは、何も言い返せない。 「……すみません」  謝りつつ離れようと顔を上げると、ベルントの顔に先ほどまであった筈の眼鏡がない。今の衝撃で落としてしまったのだろうか。  どこに落ちたのだろう。そう思った瞬間、ミシリ、と音がして素足の裏に石の感触とは違う何かを感じた。嫌な予感がして、恐る恐る視線を落とす。  足をそっと退けると、フレームの曲がった眼鏡があった。  一気に血の気が引く。 「………………」  今日は厄日か何かか。日本を出発してから、ロクなことがない。まさか他人にまで迷惑をかけてしまうことになるなんて、思ってもいなかった。  疲労と混乱で、まともに頭が働かない。 「すみません……なんて、お詫びしたらいいのか……」  どうにか謝罪の言葉を述べると、ベルントが今度こそ盛大なため息をついた。 「……最近度が合わなくなっていたから、近いうちに新調する予定だった。店に行けば代わりの眼鏡もあるし、コンタクトもある。問題はない。それより、素足で踏んだだろう。見せてみろ。怪我はないか?」 「大丈、うわっ」  有無を言わさない口調で半ば強引に近くのガードレールに座らされ、しゃがみこんだベルントに、ぐい、と脚を持ち上げられた。  半日以上靴を履いていた上に、先ほど雨水にまみれたばかりだ。どう考えても清潔とは言えない状態の足に触られるのは、酷く恥ずかしい。 「大丈夫です。汚いから、手を放してください」  そう訴えかけるが、ベルントは聞いていないのか、その大きな手でくるぶしを掴んだ。さらりと乾いたあたたかい手が、確かめるように優しく触れてくる。 「ああ、どうやら怪我はしていな――……」  言いかけ、足裏を覗き込んだベルントは驚いたように目を瞠った。そして何か茫然としたようなつぶやきを零す。 「………………」  どさりと傍らに、無造作に置かれたバッグがバランスを崩して、中からジャガイモが飛び出した。ジャガイモは緩い坂道をころころと転がっていくが、ベルントは蜷川の足を掴み凝視したまま動こうとしない。 「ベルントさん? ジャガイモが転がって、というか手を放」 「そんなものはどうでもいい」 「は?」  蜷川の足を触りながら、ぶつぶつと何かを言っているのだが、あまりにも早口で聞き取れない。 「すみません、もう少しゆっくり」 「君の名前は?」  話してほしいと、そう告げる前に強めの口調で尋ねられた。 「蜷川、渉……」  そういえば名乗っていなかったと気がついたのは、ベルントが何度も蜷川の名を呼ぼうと口の中で呪文のように唱え出したからだ。  けれど「ワ」の音が言いにくいのか、「ヴァ」になってしまうらしい。何度も何度も言い直すものの、上手く発音できないようだ。ベルントはきつく眉を寄せた。  ため息を一つ落とし、首を振る。そして、地を這うような低音で言った。 「ニーナ」 「はい?」  目を見ながら言われたものだから、それは自分のことだろうかと疑問に思う前に、強い視線に気圧されるように返事をしてしまった。  それは女性の名前じゃないのかとか、そもそも名前を呼ぶ必要はあるのかとか、様々な疑問が脳裏をかすめるものの、一向に言葉にならない。  とにかく、早く手を放してほしい。まだ足を掴まれたままで、とてもではないが落ち着けない。けれども静かな迫力に気圧されてしまい、口には出せそうにない。  酷い混乱で、眩暈がしそうだ。誰かこの状況を説明してほしい。  そんな蜷川の胸中など意にも介さない様子で、ベルントは口を開いた。 「一つ、頼みがあるんだが。聞いてもらえるだろうか」 「……はい? ……ええと、何、でしょうか? 眼鏡なら、弁償しますけど」 「いや、弁償はしなくていい。その代わりといってはなんだが……」  じっと見つめてくる視線を逸らすことさえ叶わない。喉が酷く乾いている気がして、ごくりと生唾を飲み込んだ。  この男は、どうしてこんなにも真剣な表情を浮かべているのだろう。  どうにも恐ろしく、嫌な予感がして、蜷川は肌を震わせた。  この男は、もしかしたらなんだか少し――。 「私に、君の靴を作らせてくれないか?」 「は、……い?」  おかしいのかもしれない、という予感は、その一言で確信に変わった。
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