愛すべき地獄

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 高校生になったときから、ずっと好きな人がいた。彼がいれば、それだけで生きていくことができると、本気で思っている。彼という存在がこの世界にある、その事実だけで、私は生かされていた。  彼は私の方なんて一度も見ない。私とは住む世界が違うのだから、仕方ない。いつの日かこちらを向いてくれたなら、どれくらい幸せになれるだろう。そう考えることはあっても、何かアピールをしたり視界に入ろうと工夫をしたりすることはなかった。そうした努力が報われないことも知っていたから、当然と言えば当然なのかもしれない。  一度だけ、目が合ったことがあった。彼は少し、表情を歪ませたのを覚えている。私の顔を見て、醜い、とでも思ったのだろうか。嘲笑のようでも、苦笑のようでもなかった。ただ、私とは接点を持ちたくない、関わりたくない、という避けようとする意思だけが見えていた。  その日からだろうか、私は彼のそういう表情を見たいと思うようになった。私を思いきり嫌ってくれればいい、憎いと思ってくれたならいい。その表情が私を満たすのだから。嫌悪をあらわにして、私を蔑んでくれ。私の心を支配するのは、そんな歪んだ愛情になっていった。  だから、彼の恋人を羨ましいと思うことは一度だってなかった。むしろ彼女を見つめるその美しい笑みを、綺麗な愛を表すその顔を、私への憎悪で崩してしまいたいと、より強く思うばかりだった。彼に恋人がいようがどうだっていい。私が嫌われれば、それで。  しかし、私は彼に嫌われるどころか、彼の視界に入ることもできない。どうしてなのかはわからない。けれど、現実というものは私の想いに比例しない、という事実だけは理解した。どうしても彼に見つけてもらうことができない。だったら、何をしたらいいのだろう。私は、考えた。  そして思いついた。  だから彼に一通の手紙を書いた。私たちが三年生に上がる前、春休み、誰も校舎内に入れない、入ってはいけないあの時期。計画を実行するのは、そのタイミングが一番だ。  屋上、風はない。私はその高い位置から町を見下ろしていた。決して大きくはない町、私の世界はこんなにも狭かったのだと思わされる。  背後で音が鳴って、彼の恋人が来たのを知らせる。私はそちらを向いた。「ああ、早かったね」  彼女は何も言わない。驚いた様子もない。強い瞳で私を見つめている。殺さんばかりの眼力で。しかし私が欲しいのは彼女からの嫌悪ではない。こんなものは不快でしかない。早くしないと。 「今日は良い天気だね。こんな日に私は夢を叶えるんだから、恵まれてる」  ゆっくり彼女に近付く。開け放ったままの扉の奥から、バタバタと急いで昇ってくる足音が、かすかに聞こえる。きっと彼だ。早くしないと彼に見つかってしまう。早く、早く。 「ありがとう、私のために」  そう言いながら彼女につかみかかる。抵抗はしないらしい。何をされるか全部知っていて、私の目の前に姿を現したのだろうか。ポケットから折りたたみナイフを取り出したにも関わらず、彼女は動じなかった。だから、思い描いた通りにできた。 「どうして、こんな……」  彼はこの惨状を見て、苦しそうに呟いた。血塗れで倒れている彼女と、その目の前で醜い笑みを浮かべているだろう私。どちらに先に向かうのだろう。彼女をこんな目に遭わせた私を殺そうと向かってくるだろうか、まだ助かるはずだと彼女に駆け寄るだろうか。どちらでも良かった、最後に私に憎悪を向けてくれるなら。あわよくばその手で私を、殺してくれたなら。 「何が、起きた……?」  彼はゆっくり彼女の元へと歩いて行く。私を通り越して、彼女の元へ、歩いて行く。しゃがみ込んで、彼女を抱きかかえて、静かに涙を流す。パラパラと雨が降り始める。その間、一度も私を見なかった。私が彼女を殺したと、一目でわかるはずなのに、どうして。絶望の底に突き落とされた気分だった。  足を引きずりながら、この現実から逃げようとした。こんな罪を犯しても嫌ってくれないなら、私は、どうして人殺しなんて。信じられなくて、彼の悲しそうな背中に寄りかかった。それでも彼はこちらを気にしない。  できる限り彼女の身体をズタズタにしたつもりだった。何度も何度も突き刺して、身体からは血がとめどなく流れていた。そうすれば彼は犯人である私を、強く強く憎んでくれるだろうと思ったから。顔には何もしていない。それが彼女だとわかるように残しておかないと、彼が気付いてくれないかもしれないと思ったから。  それなのに。  ふと、自分の腹から逃げるようにどろりとしたものが流れ出ているのに気付いた。全てに失敗したのだから、私も死んで然るべきだ。そう思っていたし、ちょうど良い。このまま死んでしまおう。見上げた先には、涙を流す彼――。  ハッと我に返る。背中から離れて、立ち上がる。彼を、彼女を見て、私は崩れ落ちた。降りしきる雨の中、彼が愛おしそうに、辛そうに見つめている彼女の顔は、私にそっくりだった。
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