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隣のマンションで工事が始まってから、二週間が経とうとしていた。
フリーランスの仕事に就いてから、ほぼ昼夜逆転の生活を送っていた伊沢だったが、時折聞こえてくる騒音に起こされることが多くなり、最近は昼間に眠るのを諦めていた。
けれども、すぐに規則正しい生活が送れるわけでもない。伊沢は、今日何度目になるかわからないあくびを噛み殺した。
一服しようと思い窓を開けてベランダに出ると、乾いた冷たい風が頬を撫でる。晴れているものの、日陰では随分と肌寒い。
タバコに火をつけた途端、上から聞き慣れた声が降って来た。
「景虎さん!」
顔を上げると数メートル先の足場に黄色いヘルメットをかぶった人間が立っていた。細長く重そうなパイプを何本も肩に担いだ三鷹は、親指でヘルメットを押し上げる。
「そんなカッコで寒くないすか?」
急に沸き起こった喫煙欲のせいで、何も考えずベランダへ降りてしまった。部屋のクロスにヤニが付くのが嫌で、タバコを吸う際は極力外に出るようにしている。
伊沢が今着ているのは薄手のカットソー一枚だった。風が吹くたびに空いた首元から冷気が侵入してくる。
「わりと寒い……」
本音を零すと、一つ笑った男は片手でポケットを探った後、白い何かを投げてよこした。慌ててキャッチしたそれは、じんわりと温かい。
手のひらに収まるくらいの小さなサイズのカイロだ。
「まだしばらくはあったかいと思うんで」
礼を言い手の中のカイロに視線を落とすと、マジックで何かのキャラクターが描かれていることに気がつく。猫のように見える。あまり上手くはない。
「何コレ?」
「日曜の朝八時から、アニメやってるの知りません? そのキャラクターっす。今ここの現場で、カイロに絵描くの流行ってるんすよ。蒲生さん家の娘さんが始めたんですって。今日はわりと上手く描けたと思うんすけど、可愛くないすか?」
ということは、これは三鷹が描いたのか。いかつい男の集団が揃って、カイロに絵を描いているところを想像したら、呆れるような微笑ましいような気分がない交ぜになって、思わず苦笑が漏れた。
よく見れば、線がところどころいびつに曲がっているのも、愛嬌かもしれない。
「あー、かわいい、か? かわいくない、こともない。気がする」
「どっちすか?」
曖昧な伊沢の言葉に、三鷹が笑いながら突っ込みを入れた。
口を開きかけたところで、ひゅうっと木枯らしが吹き、タバコの灰がはらはらと舞った。思わず伊沢が身体をすくめると、それを見た三鷹が眉をひそめる。
「景虎さん。早く中入った方がいいっすよ。それか何か羽織ってください。風邪引きます」
ふいに真面目な顔つきになるから、驚いて一瞬反応が遅れてしまう。
「……あ、うん。コレ吸い終わったら入るよ」
「そーしてください。あ、それから。今日五時過ぎに伺うんで。チャイム聞こえたら、ちゃんと出てくださいよ」
ぼんやりとした答えでも一応満足したらしく、三鷹が笑顔を見せた。 「それじゃあ」と言うと、くるりと反転した三鷹は重そうなパイプを軽々と担いだまま、するすると足場を駆けて上がっていく。
とても怖いと言っていた人間とは思えない軽い足取りに、伊沢はぼんやりとその姿を目で追った。
コーヒーをぶちまけてしまったあの日、酷く動揺して失態続きだった。呆れられても仕方がないと思っていたが、三鷹は終始楽しそうにしていて内心安堵した。最終的に、腹が減ったという三鷹に誘われて二人でラーメンを食べに行き、おすすめだという塩ラーメンを食べた。あっさりとしていながらコクがあり、岩ノリが美味かった。
それから時々こうして、姿を見かける度に、立ち話をするようになった。外食にも三度誘われ、一度だけ行った。とは言え、誘うのはいつも三鷹の方からで、伊沢から声をかけたことはない。
随分と懐かれたものだと思う。
こんな面白味のない人間のどこを気に入ったのかは分からないが、悪い気はしない。先ほどのように、不意打ちで紳士的な優しさを見せられたり、きれいなものや可愛らしいものが好きだったりと、三鷹の見た目と言動のギャップには驚かされることばかりだ。どちらかと言うと、楽しい、と思う。
伊沢は基本的に人間関係が希薄だ。仕事で関わった人間以外、ほとんど知り合いなどいないに等しく、友人の数は片手で足りる。
この仕事に就いて以来、厳格な父がいる実家からは足が遠のいた。最後に顔を見たのはいつだったろうか。そんなことを考えてしまうくらいには、家族ともここ数年、ろくろく顔をあわせていなかった。家族だけではない。最近は他人との距離のとり方がよくわからなくなってしまっていた。
フリーランスでは、誰かからの紹介で仕事をすることがほとんどだ。その為、コミュニケーションをとることが苦手ではあったが、仕事上ではなんとか次につながるよう丁寧な付き合いを心がけていた。
その反面プライベートは全くで、割く時間も余裕もなかった。一応は物書きとして生計を立てているくせに、パソコンに向かわなければ気の利いたこと一つも言えない。余計な気を遣って疲れてしまうので、自分から進んで交流を深めようとも思わない。
誘われても忙しさを理由に何回か断っているうちに、相手側が愛想をつかしてしまう。伊沢も面倒が先に立って連絡をしない。結果、ますます疎遠になっていく、というのが常だった。
その点、三鷹は少し変わっている。こちらが断っても、嫌な顔一つせず、次の日にはけろっとした顔で話しかけてくる。押しつけがましいようでいて、その実気遣われていることが多い。よく笑い、よく喋る。押しが強そうな見かけからは想像できないくらい、酷く柔らかい。
他人と接するときにはどうしても戸惑いのほうが先に立つ伊沢も、三鷹の前では構えることなく自然に振舞えることが不思議だった。
タバコを吸いながら左手でカイロをそっと握ると、手のひらの中の猫がくしゃりと笑った。
すっかり冷えた身体を擦りながら、部屋に戻り作業を始める。集中してしばらく経った頃、電話が鳴った。
『本当にごめんなさい』
電話口から聞こえてきた声に、優しい目元をした顔が、伊沢の頭に浮かんだ。
伊沢に電話をかけてきたのは、この間契約を破棄された雑誌の元編集長・関川美香だった。物腰が穏やかで、いつものんびりとした口調で話をする。新聞社に勤めていた頃に知り合った仲だが、若い伊沢のことを見下すこともせず、初めから対等に接してくれた女性だ。
『引継ぎとかでここのところずっとバタバタしてて。伊沢君が来てくれたことも知らなかったし、まさかこんなことになってるなんて。本当に何て言ったらいいのか……』
以前から冗談めかした口調で、ときおり「いつ辞めようかしら」なんて言っていた。しかし、まさか実際に自分が辞めることで雑誌の方向性まで変わるとは思っておらず、伊沢が契約を切られたことも、今日まで何も知らなかったと彼女は言った。
「関川さんが悪いわけじゃないんですから、気にしないでください」
先ほどから何度も謝罪を述べる関川に対し、伊沢は思わず苦笑が漏れそうになる。
『他の雑誌の知り合いに声をかけてみるね』そう言ってくれた関川に感謝を述べて通話を切った。
たかだか一介のフリーランスである伊沢にわざわざ電話をくれたのは、気遣ってくれている証拠だろう。ありがたいと思うと同時に、自分のふがいなさが情けなくなる。
契約が取れず仕事がないなどよくあることだった。自分の営業が下手なのは百も承知している。それでも、すぐにどうにかできるものでもない。気構え一つで変わってくれるほど、現実は甘くない。
以前仕事で世話になったつてを頼って、なんとか単発の仕事を紹介してもらえることにはなったものの、先の不安は否めなかった。今月は大丈夫でも、来月はどうなるか。再来月は。そう考えるときりがない。
伊沢は楽観主義者ではない。現実を嘆く前にやることがあるだろうと、自分に言い聞かせるのももう慣れきってしまった。
来年はもう三十路で、転職を考えるなら今しかない、とも思えた。けれども、今更普通の会社員に戻れるのかと言えば、否と言うしかない。具体的なビジョンが何も描けないまま、日々だけが過ぎていく。
少しは節約しなければいけないという考えが脳裏をかすめるけれど、タバコに伸びる手はなかなか止まらず、むしろここ最近はストレスで量は増す一方だった。いっそのことこの機会にタバコを止めてみようかとも思ったが、更なるストレスが起こることは目に見えていて、一瞬で無理だと悟った。
重いため息をつきそうになったところで、ドアチャイムの音が聞こえてきた。時計を見ると十七時を回っている。
一回、二回、三回。最初に訪れた日から必ず、三鷹はいつもゆっくりと三回鳴らす。
玄関のドアを開けると、案の定長身の男が立っていた。まだ黄色いヘルメットを被ったままで、伊沢がそれを不思議に思うより先に、三鷹は心配するような声を出した。ヘルメットの下の顔が曇る。
「景虎さん、顔色悪くないすか? ちゃんと飯食ってます? それともやっぱ、風邪引きました?」
「風邪じゃないと思う。けど、そういや今日昼食ってないな。忘れてた……」
ここのところ空腹をあまり感じず、自然と食事を抜いてしまうことが多かった。完全に原因はストレスだ。このままではいけないと思うが、外に買いに出るのも億劫で、ここ最近は本格的に引きこもってばかりいた。
今日は時折コーヒーを飲んだくらいで、まともな食事など取っていない。
「……なんか、ありました?」
気づかれるとは思っていなかった。一瞬鼓動が跳ねたが、顔に出さないように振る舞う。
「……いや、別に」
特に何かがあったわけでもない。単に漠然とした不安があるだけだ。だからこそ、愚痴を零すのには抵抗があった。
初日からだらしがない、情けない姿ばかり見せているのに、今更何を取り繕うつもりなのか。それでも――。
慕ってくれている彼に幻滅されることが嫌だと思った。
平静を装って首を振ると、三鷹は苦く笑った。
「……ちゃんと飯、食ってくださいね」
気遣うような視線を送って来るくせに、伊沢が一歩引くと、三鷹はそれ以上踏み込んでこない。その優しさに甘えている自覚はあった。
微かに頷いてみせると、三鷹は持っていた手提げ袋を押し付けてきた。
「つーわけで。はい、どーぞ」
「何?」
渡された手提げ袋を覗くと、大きめのタッパーと水筒が入っている。伊沢は首を傾げた。
「俺のお手製、筑前煮っす」
「三鷹サンの、手作り? ……食えるの?」
驚きのあまり胡乱な眼差しを向けてしまった。けれど、伊沢の失礼極まりない質問にも、三鷹はからりと笑う。
「そう思うでしょ? ところがどっこい、こう見えて俺料理は得意なんすよ。光子さん、ええっと、オヤジの奥さんのお墨付きなんで、味は保証します。昨日ちょっと作り過ぎちゃったんすよ。一晩おいたんで、超味染みてると思います。あ、あと水筒に黒豆茶も入ってるんで、飲んでくださいね」
最近ハマっているのだと言う。意外という言葉しか伊沢の頭の中には浮かばない。
三鷹が料理をしている姿を想像しようとしていると、「それじゃ」と言って踵を返すから、伊沢は慌てて声をあげた。
「え? 帰んの?」
つい手を伸ばして、上着の裾を引いてしまった。ピン、と張った作業着に三鷹が目を丸くする。微かに笑う気配がして、慌てて手を放したものの、子どもじみた真似をした気まずさに伊沢は目をそらした。
「あー、今日コーキングの処理がちょっとだけおしてて。戻んなきゃいけないんすよ。……ホントは景虎さんと一緒に食おうと思ったんすけど。タッパーは明日にでも取りに来るんで」
広い背中を見送りながら、玄関のドアを閉めた。
残念、という言葉が浮かんだ。何故か気落ちしていることに気がついて、伊沢は自分の思考に戸惑う。
手に持ったままだった筑前煮を見下ろしてしばし逡巡した後、キッチンのテーブルに置いた。
蓋を開けてみると、タッパー一杯に筑前煮が詰められている。いんげんの緑色が鮮やかで、具材の大きさも揃っていて美しかった。もっと男の料理というような見た目をイメージしていただけに、少し驚く。
見た目に惹かれて、蓮根を一つつまんで口に入れると、歯触りはいいのに中までしっかりと味が染みている。冷めきった筈のそれは、どうしてかあたたかく、優しい味がした。
「うま……」
先ほどまでは全く感じていなかった空腹を覚える。慌てて箸を用意して、いつ冷凍したのかわからない米を温めた。
筑前煮も、温めて食べたほうがよいだろうとわかってはいたが、つまむ箸が止まらなくなり、すぐに大半が胃の中に消えた。
ほとんど食べ終わった頃、黒豆茶の存在を思い出した。温かい湯気と共に、ほのかな黒豆の香りが漂う。すっきりとしてえぐみがなく、丁寧に煮出したのだろうなと思った。
「……あー……、何コレ……ずっる……」
誰かの手料理を食べるなんてことは、本当に久しぶりだった。
込みあがって来る何かを押さえるように、目を閉じる。内側に染み入る感覚に、伊沢は深く息をついた。
飲み終わって人心地つくと、テーブルの端に置いておいたカイロが伊沢の視界に入る。昼間貰ったそれは、もうすっかり冷えて固くなってしまっていたけれど、どうしてか捨てる気にはなれなかった。
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