空の上から三鷹さん

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空の上から三鷹さん

1  白っぽい何かが目の前をすぅっと横切った気がする。  流石に飲み過ぎただろうかと、伊沢景虎は何度か瞬きを繰り返した。  時刻は午後七時過ぎ。日は完全に落ち、辺りは闇に沈んでいる。  タバコが吸いたくなって、ベランダへ出たところだった。そこから見えるものといえば、隣のマンションの外壁くらいしかない。  部屋の中には、ビールの空き缶が三本転がっている。酒を口にするのはずいぶんと久しぶりで、加減なんてものは頭になかった。  おまけに普段付けているコンタクトも外していた。近視気味の視力はあまりよくはない。裸眼では二、三メートル先にあるものもぼやけてしまう。きっと何かと見間違えたのだろう。伊沢はそう結論付けた。  タバコに火をつけ、息を深く吸い込む。煙が肺中を満たすと、少し気分が落ち着いた気がした。  酔いのまわった身体に、ベランダの手すりがひんやりとして気持ちいい。  ヘビースモーカーの伊沢にとって、最優先されるのは酒ではなくタバコだ。年々吊り上がるタバコ代を捻出するだけで精一杯だ。晩酌をするような金銭的な余裕などないと分かっていたはずなのに、帰りに立ち寄ったコンビニで、衝動のままにビールの六缶ケースを買った。腹が立って仕方なくて、飲まずにはいられない気分だった。  今更考えてもどうにもならないことだと分かっている。分かってはいるが、それでも納得できることと、そうでないことがある。自然と顔が下を向いた。  苛立ちを酒で紛らわそうだなんて、若造の考える事だ。実家の頑固な父ならそう言うに違いない。ここ数年まともに顔をあわせていない父の姿を思い出し、苦笑が漏れる。三十歳近くになった今も、伊沢はまだむしゃくしゃして酒を買いこむ程には若造だった。  ふぅ、と息を吐いたところで、すぐ近くから男の声が聞こえてきた。 「ちょっ! そこの人! そこのお兄さん!」  なんだろうと、ぼんやりと顔を上げたところで、向かいのマンションの壁の前に立つ、長身の男の姿が目に入った。  一瞬思考が停止した。ここは、二階のはずだ。空中に人が浮かんでいるわけがない。一体どういうことだ、立ったまま夢でも見ているのだろうかと伊沢は自分の目を疑った。  何度も瞬きを繰り返し、目を凝らして漸く、外壁に沿って足場が組まれていることに気がついた。伊沢がこの部屋に帰って来るのは三日ぶりだった。不規則な生活を送っている伊沢は、日中寝ていることが多く、普段はカーテンも閉めきっている。   そういえば、少し前に工事の案内のチラシが入っていたような気がする。上手く働かない頭で、おぼろげな記憶を手繰り寄せた。  白い何かは男のズボンの色だったらしい。顔の造作までは分からないが、間違いなく人間だ。幽霊でなくてよかったなどと平時ならば呆れかえりそうな思考で、伊沢がほっとため息をつくと、またしても男が声を上げた。 「アンタだよ! そこでタバコ吸ってる!」 「え?」  何故自分を呼ぶのかと訝しむより先に、切羽詰まったような鋭い声で男は叫んだ。 「救急車! 呼んで! 早く! 隣の部屋でばーさん倒れてるから!」 「……は?」  男とは対照的な間の抜けた声とともに、タバコの灰がぽろりと落ちた。  一瞬、何を言われたのか理解できず、ぼんやりとタバコの煙を眺めてしまった。その後、我に返ると同時に、すぐさま救急車に電話をして、一階に住む管理人に知らせた。隣の部屋を開けてもらい、あとのことは全て駆けつけた隊員と管理人に任せる――そのつもりだった。  それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。薄暗い病院のロビーで、伊沢は頭を抱えていた。  アパートの管理人は、折り悪く体調を崩して寝込んでいるところだった。具合の悪い五十代の女性に無理を言うのも忍びなく、代わりに鍵を預かり、駆けつけた救急隊員に事情を説明すると、付き添い人として車に乗り込むことになってしまった。  隣の部屋の住人は貧血で倒れただけで、大事には至らなかったものの、倒れた際にぶつけた腕を痛めてしまったとかで、しばらくは入院することになったらしい。  伊沢と足場にいた男は、老女の家族が来るまで、何故か付き添い人としてそのまま病院に残ることになってしまった。  もう少しの辛抱だ。すぐに帰れるはず。そう自身に言い聞かせたが、家族は県外に住んでいるという。高速道路を使っても二時間はかかると聞いて、伊沢は軽いめまいを覚えた。タバコで紛らわせようにも、院内は禁煙だ。  ロビーに設置された四人掛けのソファに腰を下ろすと、一気に疲れが襲ってくる。 「どーぞ」  落ちてきた声に顔を上げると、ペットボトルを手渡された。温かい。 「水分補給した方がいいっすよ。結構、飲んでたんでしょ?」  幾分か酔いも醒めてはいたが、喉の渇きを覚えているのは事実だった。  アルコール後のカフェイン入りの飲料はよくないと聞いたことがあったが、渡されたのはノンカフェインの茶だった。どうやらわざわざ選んでくれたらしい。男の気遣いをありがたく受け取ることにし、尻ポケットを探ろうとしたところで、財布を置いてきたことに気がつく。 「あー……」  伊沢の唸り声で、すぐに男は察したらしい。常夜灯の下で、苦く笑った気配がした。 「いいっすよ。つーか、なんか、巻き込んじまってすみません」 「……いや別に、……巻き込まれたのはそっちも一緒でしょ。……じゃあ、ありがたく。いただきます」  礼を言うと、男はまた笑ったようだ。  ペットボトルのキャップを外し、中身を煽ると、身体にしみこんでくる様な感覚がして、気分がいくらか落ち着いた。まだ立ったままの男を見上げる。随分と背が高い。  部屋を出る前に、机の上に放置してあった眼鏡をどうにか掛けてきたので、相手の顔も今はしっかりと見えていた。  まず目についたのは、髪型だった。少し長めのドレッドヘアで、くっきりとした二重に、通った鼻筋、薄めの口は大きい。精悍な顔立ちは日に焼けていて、野性味がある。男が身に着けているのは、紺色の作業着に、白いニッカボッカだ。 「あのマンションの工事の人?」  少額でも金は金だ。明日にでも返そうと心に決めて、そっと探りを入れる。すると、一つ頷いて男は言った。 「三鷹っす。三鷹龍之介。鳶職やってます」  そう名乗った男は、ニカッと笑った。上背があり胸板も厚い為か、少しばかり威圧的なオーラがあったが、その印象はどこか愛嬌のある笑顔によって霧散した。鷹に龍だなんて、随分と縁起のいい名前だ。  一人分の間を空けて、三鷹は伊沢の隣に腰掛ける。その姿をぼんやりと眺めながら、口を開いた。 「伊沢景虎、……フリーライター、です」 「へぇ、ライターさん? 名前くそかっこいいっすね」 「……よく言われる」 「いくつっすか? 俺と同じくらいに見えるんすけど。あ、俺二十四です」 「二十九」 「うそ、若っけぇ」 「……それもよく言われる」  伊沢はあまり自分の顔が好きではなかった。小作りでどちらかといえばきれい、と呼ばれる類の顔立ちであることは自覚している。名前から懐かれるイメージとそぐわない顔だということも承知していた。  童顔と言うわけでもないのに、どうにも若く見られるせいで、舐められることはしょっちゅうだった。大抵の場合は足元を見られ、原稿料を吹っ掛けられることもあった。この顔が、仕事をする上で役に立ったことなど一度もない。髭でも生やしてみるかと試したこともあったが、あまりにも似合わなかったのでやめた。  笑うのが苦手で、黙っていると冷たいと思われることもしばしばだ。愛想笑いさえまともにできない自分が、時々酷く嫌になる。  そもそも、今日も――。 「景虎さん?」 「え? あ、何?」  いつの間にか自分の思考にどっぷりと浸かっていたようだ。三鷹の声に我に返った。 「景虎さん、って呼んでもいいすか?」 「……別に、構わないけど」  そう言うと、三鷹はまた笑った。一見すると強面だが、笑うと目元がなごんで柔らかくなることに気づく。 「あー、三鷹サンは、その、工事現場は? 戻んなくて平気なんです?」 「ああ、タメ語でいっすよ。景虎さん年上じゃないすか。現場は平気っす。基本的には日が暮れたら仕事終わりなんで。今日はもう皆、とっくに上がってたんすよ」  そう言った三鷹に対し、伊沢は疑問を浮かべた。 「え、じゃあ、何してたの?」  三鷹が足場にいた時間帯、とうに日は沈んでいた。あんなに暗いところで一体何をと問うと、思いがけない答えが返ってきた。 「夜景見てたんすよ。高いとこから見る景色、綺麗で好きなんすよ」  三鷹の外見からは予想できない言葉に、伊沢は面食らった。そういった情緒を大切にするようなタイプには、見えなかったからだ。  伊沢の反応を予期していたのか、三鷹は面白そうに笑う。 「意外でした?」 「……少し」  失礼かなと思いつつも正直に頷くと、三鷹はまた目を細めて笑った。よく笑う男だ。特に気分を害した様子は見られない。 「そういえば、景虎さんは仕事大丈夫なんすか?」  三鷹に問われて、昼間の記憶がよみがえり、伊沢は顔をしかめそうになった。どうにか顔には出さずに言葉を返す。 「ああ、うん……」  伊沢がフリーライターに転職したのは三年前のことだ。  勤めていた新聞社の人間関係に嫌気がさして辞めた後、再就職はせず、何となく選んだ道だった。会社員だった頃よりも収入は減り、生活は不安定になったが、組織に属さず自分のペースで仕事ができる自由度があり、精神的には楽になった。  取材をすることも、文章を書くことも好きで、割合気に入っている働き方だった。今日までは。  フリーになった頃から懇意にしていた雑誌の編集長が辞めることになったとか、それに伴って雑誌の方向性が変わることになったとか、そんな内容の電話があったのは昼過ぎのことだ。その電話で一方的に年間契約を解除する旨を告げられ、切られてしまった。  どうにも納得できずに出版社に直接出向いたが、対応したたいして話したことも無い男に、気の毒とも思っていないニヤケ面であからさまな嫌味を言われ、すげなく追い返されてしまった。  眼鏡をかけた太った男の薄ら笑いが頭に浮かぶ。 『伊沢さんの文章ちょっと読んでみたんですけど。なんていうか、もうちょっと、明るい文章が書ければいいと思うんですよね』  言われるまでもなく伊沢自身が一番よくわかっていた。文章が硬いとか、真面目だとか言われることは多かったが、どんな急な仕事でも締め切りは毎回確実に守っていたし、要望があれば最大限意向に沿うよう努力もしてきた。 『それに、愛想笑いの一つもできないんじゃ、この先きっと苦労しますよ? ま、頑張ってください』  喉元まで出かかった罵倒をなんとか飲み込んだ。一方的に契約を破棄されて、それでも笑えと言うのは土台無理な話で、怒りに引きつる口元を抑え込むだけで精一杯だった。  どうにも腹の虫が収まらず、やけ酒をしてしまったが、少し冷静になった今となっては落ち込みの方が強い。  生活が不安定な伊沢にとっては、定期的に確実な収入を得られる年間契約はとても貴重だ。しばらくは単発の仕事を少しでも多くこなして、やり繰りするしかないだろう。  けれど、このまま、フリーを続けていていいのか。そんな考えが頭をよぎる。  ため息を押し殺して、ほんの少しぬるくなった茶を口に含むと、こちらをじっと見つめる視線に気がつく。  流石に初対面の人間に、仕事の愚痴を零す気にはなれなかった。そこまで伊沢は神経が図太くもなければ、自己愛に満ちてもいない。プライドがないわけでもない。あえて自分の無能さをさらけ出すような真似はしたくなかった。  何か話題はないか、とそらした視線の先に、三鷹のニッカボッカが映る。ふと思いついて伊沢は口を開いた。 「えー、と。そのズボンって、危なくない? 引っかかったりしないの?」 「七分のことっすか? 全然。超動きやすいっすよ。どっちかっつーと、これが引っかかるからヤバイってわかるっていうか、センサーみたいな感覚っすね。風の向きだとか大きさもわかるし」 「へぇ……七分っていうんだ」 「ちなみに鳶の作業着のことは、皆『ゴト着』って呼んでますね」  快活に笑う三鷹の表情がまぶしく思えて、伊沢は目を細めた。 「……ねぇ、三鷹サン。仕事、楽しい?」  伊沢自身にもどうしてそんな質問をしてしまったのか分からなかった。単純な好奇心だけとは言い切れない。  けれど、三鷹はさして不思議にも思わなかったのか、飄々と答える。 「楽しいっすよ。夏はクソ暑いし、冬はクソ寒いし、しんどいっちゃしんどいし、あとはまぁ、高いとこも怖いっすけど」 「怖い? 好きなんじゃないの?」  先ほどとは相反するような言葉に、伊沢は首を傾げた。 「そりゃ怖いっすよ。まぁ、多少は慣れましたけどね。好きなのと、怖いのは別っつーか。落ちたらどうしようとか、フツーに思いますもん。あとは、なんつーか腹立つことも多いですけどね。おっさん達からは舐められてばっかですし」 「三鷹サンでも、舐められたりすんの?」 「めちゃくちゃしますよ、もちろん。こんなツラしてても、おっさん達からしたら、俺なんかまだまだひよっこですし。当然っちゃ当然なんですけど。こなくそって踏ん張って、なんとか舐められないように、毎日必死っすよ」 「あー、もしかして……?」  その髪型もそのためなのだろうか。  目線をやると、察したらしい三鷹は、自分の頭を指してきっぱりと言った。 「ああ、これは完全に俺のシュミっすね」  その言葉に、思わず口元がほんの少し緩んだ。  三鷹は一瞬目を瞠り、さらに笑みを深くして言った。 「……俺なんか怖いもんだらけっすよ。高いとこも、おっさんも、夏の暑さも冬の寒さも。正直向いてないかなって思う時ありますけど、でもうちのオヤジ、あー、親方に、『怖いって思ってるやつの方が慎重になるし丁寧な仕事するもんだ』って言われたんで。なんとかやれてるっつーか。まぁ、あんまりちんたら仕事してっと、後ろ頭はたかれますけどね」  口では怖いと言いつつも、三鷹の顔は笑っている。一見、荒々しく横柄な感があるのに、その言動は驚くほど柔らかく、不思議な人間だと思う。  でも、と一度言葉を切ってから三鷹は続けた。 「なんだかんだ言いつつも、好きだから続けてるんすけどね。ちゃんと仕事してれば、見てくれる人は見てくれるし。結局、仕事への姿勢で示すしかないんすよね」  分かってはいるがなかなか難しいと、そう言って笑う三鷹に、伊沢は自然と頭を垂れる気持ちになった。五つも下の青年の方が、自分よりも余程しっかりと仕事と向き合っている。  「好きだから続けている」その言葉が伊沢の中で重く響く。  それから、隣の住人の家族が来るまでの間、三鷹の言葉に耳を傾け続けた。からりと笑う三鷹の声が、心地よかった。  ささくれだっていた心が、ほんの少しだけ浮上した、ような気がした。
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