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EP1 麻薬取締官の誇り
「二日に一度は僕に空メールを送ること。四日間連絡が来なかったら君に何かあったと判断する。集合場所は事前に伝えてある通りね」
「はい」
厚生労働省地方厚生局麻薬取締部、鑑定課に所属する秋月光夜は、捜査二課課長であり、元直属の上司――日中誠のデスクの前に立っていた。
秋月は明日から、日本を拠点に置く犯罪シンジゲート「クリエーション」への潜入捜査を開始する。クリエーションは主に麻薬の密造、密売をしている犯罪組織だ。
そんな組織に鑑定官である秋月がなぜ潜入捜査をすることになったのか。
理由は簡単だ。単純に人手不足。だが、いくら人手不足だからといっても、鑑定官が単独で潜入捜査をすることはない。秋月の場合は、かなり特殊なパターンだった。
秋月は、元々麻薬取締官として捜査二課に所属していた。しかし捜査中の足の大怪我により、急遽鑑定課に異動することになったのだ。鑑定官になれるのは、麻薬取締官として採用されたあと、技官という薬剤師の資格を持つ麻薬取締官が鑑定の専門研修を受けた者。普通は四十歳くらいまで麻薬取締官として働き、その後鑑定官になるパターンが多い。
ちょうど秋月が怪我を負った頃、数人しかいない鑑定官のうちの二人が退官したので、異動の声が掛かったのだ。
現在は完治しているので、捜査官経験のある秋月が今回の潜入捜査に呼ばれたというわけだ。
では、他のマトリは何をしているのかというと、別件に追われている。ここ半年で覚醒剤密輸事件がかなり大事になっているため、「麻薬取締部覚醒剤取締本部」が設置された。300人の職員のうち、260人が充当させられるほどの事件だ。
これから秋月が潜入するクリエーションは、約三年前にとある危険ドラッグをばら撒き、規模を拡大していた。その半年後、マトリは潜入捜査を開始。捜査は失敗に終わったが、クリエーションの規模は縮小していった。しかし、それと入れ替わるようにして今度は覚醒剤が蔓延したのだ。
「そうだ秋月。個別に話したいことがあるから、七時に中央公園に来てもらえる?」
「わかりました」
秋月は、日中に会釈をして捜査二課を後にした。
午後六時四十五分。秋月は日中に指定された中央公園入り口付近のベンチに座っていた。自販機で買った缶コーヒを弄びながら空を見上げる。綺麗な満月が雲間から不気味に顔を覗かせていた。
麻薬や危険ドラッグを扱う組織は数多く存在するが、クリエーションは他の組織と少し異なるところがある。三年前にばら撒かれた危険ドラッグLWNの存在だ。
LWNの正式名称はLunatic Wolf Nightmare
LWNを製造できるのは、現時点でクリエーションのみである。
このLWNは、本来は危険ドラッグではなかった。約十九年前、この国では
「Lunacy」(月による間欠性精神病)というものが世間を脅かしていた。満月の夜になると狂い出し、人を無差別に襲うLunacy患者は、その狂暴性からWolfと呼ばれた。
しばらくして、Lunacy患者に効く薬が開発された。そこまでは良かったのだが、一人の研究者が開発途中の薬を持ち出し、犯罪組織の手へと渡してしまったのだ。すぐに麻薬の構成類似物質と合成され、危険ドラッグと化した。
LWNの特徴は、依存性が従来のクスリよりケタ違いに高いこと、しかし副作用は少ないことだ。こんな都合の良い危険ドラッグは、言うまでもなくすぐに蔓延した。
だが最大の問題点はオーバードースを起こしたとき。Lunacy患者同然の症状になり、対処法がない。Wolfと化した中毒者は改正された法律により射殺して良いものとなっている。
秋月の今回の捜査は突き上げ捜査。下級の構成員を逮捕しても蜥蜴のしっぽ切り状態なので、組織に潜入し指示を出している上部の者に狙いを定める。完全な単独潜入だ。
秋月が不安要素で頭が埋め尽くされかけていると、目の前を赤い車がものすごいスピードで通り抜けていった。
「スピード違反なんじゃ…」
そんなことを呟いていると、目の覚めるような赤色の車はUターンして秋月の前に止まった。
4ドアのスポーツセダンから降りてきたのは日中だった。秋月は慌てて立ち上がる。
「やあ、遅くなってごめんね。ちょっと世話になってる知り合いを家まで乗せてったら遅くなっちゃって」
「い、いえ、大丈夫ですけど…」
知り合いに世話になる前に、交通警察の世話になりそうな運転だと秋月は思ったが、さすがに口に出すのはやめておいた。
「夕飯はもう食べた?」
「はい」
「じゃあ夜食にでも食べて」
日中は秋月に紙袋を差し出す。街灯に照らされた紙袋には有名なフルーツサンドの店名が書かれている。
「え、これなかなか買えないやつなのに…いいんですか?」
「景気付けってことだから、遠慮なくどうぞ」
秋月は礼を言ってフルーツサンドを受け取った。長時間並ぶか、予約しておかないと買えないものだ。いずれにしろ、男一人で行くような店ではない。秋月はスーツを着た日中が、甘い物好きの女子で溢れる店に入っていくのを想像して吹き出しそうになるのをなんとか堪える。自分のためにわざわざ買ってきてくれたのだ。ここで笑ったらさすがに失礼が過ぎるので、残りのコーヒーをぐいと飲み干し落ち着けた。
「君、超がつくほどの甘党なのにコーヒーはブラックで飲むよね」
日中は、秋月の持っている缶コーヒーをちらりと見て、同じ缶コーヒーを買うと、ベンチに座るように促した。
「高校時代の親友がコーヒー好きで、美味しいコーヒーを出す店に連れて行かれたのがきっかけで飲むようになったんです」
「やっぱり友達の影響かな」
「なぜわかったんです?」
「マトリの勘だよ」
「そうでしたね」
秋月は思わず苦笑した。
日中は事あるごとに「マトリの勘だ」と言う。もちろん勘だけで仕事をしている訳がないと秋月も承知しているが、捜査二課にいた時から本人はなぜか勘だと言い張るのだ。
しかし日中の実力は誰もが認めている。クリエーションの規模が小さいうちに潜入捜査を開始するというのも、鑑定官である秋月を単独潜入に推薦したのも日中であり、事実その推薦は通ったのだ。
「早速本題に入りたいんだけど、僕が言いたいのは、その友達のことだ」
日中の目が静かに光る。普段の飄々とした態度からは想像がつかないような雰囲気に、秋月は背中に汗がつたうのを感じた。日中が誰のことについて話そうとしているのかは簡単に想像がつく。
その友達とは、間違いなく鏑木旭陽のことを指している。鏑木は秋月の高校の時からの友達で、同期だった。
二年前のクリエーション潜入捜査を行っていたのは、捜査一課の鏑木とその先輩の御影樹というマトリ。御影はクリエーションに弱みを握られ、内通者として動いていたため、潜入は失敗に終わった。
そしてそのわずか一ヶ月後、鏑木は失踪した。
「君は、鏑木くんがクリエーションにいると思っているんでしょ?」
図星を突かれた秋月は、息を止めたままゆっくりと頷いた。日中に嘘が通用しないのはとっくに分かりきっている。
今までに見たことないくらい思いつめていた失踪直前の鏑木に、秋月は会っている。秋月は力になると言ったが、鏑木は結局何も話さなかった。
クリエーションの内部情報を知る鏑木は、クリエーションに拘束され、最悪殺されているという可能性もある。
でも秋月は、そうは思えなかった。それこそ勘と言うのかもしれない。生きていてほしいという願望が、己の思考を鈍らせているという自覚もあった。
「僕もいろいろ考えたけど、鏑木くんは生きいていると思う。理由は二つ。一つは、単純に死体が見つかっていない。クリエーションが隠したという可能性も捨てきれないけど、潜入されているんだから見せしめに殺した方が、言い方は悪いいけど活用できる。彼らはそれくらい簡単にやる連中だからね」
日中は缶コーヒーの中身を軽く喉に注ぎ、地面を見つめる。
「二つ目は、マトリであった鏑木くんの最大の活用方法はマトリ(こっち)のやり方を吐かせてからクリエーションの組織としての活動に活かすこと。けど、前回の潜入捜査から二年も経っているのに未だに規模が小さい。そこに彼が関わっているとしたら、時期的にも辻褄が合う。潜入された経験から慎重になっているとも考えられるけど、LWNというアドバンテージを持っていながらこの規模に留まっているのは、事情か、あるいは狙いがあると思うんだ」
「…そういえば、御影を刑務所に移動させようとした時に襲撃があったと聞きましたが…」
「そう。おそらくあれはクリエーションの人間だった。多少強引な手を使ってでも内部の情報を知る人間を生かしておきたくないと考える物騒な連中だ。だから鏑木くんはただただ失踪したとは考えにくい。君だって、鏑木くんが自分の身の安全のためだけに黙って消えるとは思ってないでしょ?」
「それは、もちろんそうです」
鏑木は、クリエーション及びLWNに恐ろしいほどの憎しみを持っている。もしクリエーションを壊滅させるために潜入したのなら、殺されないように、自分を生かしておくことが有益であると認識させねばならない。そして同時に、クリエーションの規模を拡大することを防ごうとするはず、と秋月は考えていた。
「やはり日中課長も、鏑木がクリエーションに故意に接触したとお考えですか?」
「まだ断言はできないかな。そこも含めて、君に潜入捜査をお願いしいたつもり」
「俺が裏切ると言う可能性は?」
「それはない」
日中ははっきりとそう言った。
「君と鏑木くんの仲が良いということは、デメリットだという意見も多かったよ。でももし鏑木くんが生きているとしたら、彼には君の存在が大きな助けになると思う」
秋月は、日中が想像以上に自分を信頼していることに驚いた。同時に、それともマトリの勘だろうかとも考える。
「…最善を尽くします」
「マトリである以上、君には必ず味方がいる。それを忘れちゃダメだよ」
日中は、立ち上がって路上駐車していたセダンの方へ歩き出す。ドアに手をかけると、唐突に秋月の方を振り返った。
「僕はちゃんと君の席を空けておくから。秋月、必ず戻ってこい」
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