上神物語 愛は地球を救わない ー圭太編

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6  みはるが法事に参加している頃、圭太は走っていた。そして走りながら前もこんな風に三宮の街を走ったなと思い出していた。あの時路地裏に雑巾みたいに倒れていた店長の姿は、今も時々脳裏をよぎる。酒を止められず青い顔をして血を吐いていた。圭太は、元気だった人間があんなふうに簡単に転落するなんて思っていなかった。退屈で平凡な日常は、ずっと無条件で地続きだと信じていた。病気やトラブルは生活のすぐそばにあることを自覚させられ、あの時善意でやっていたとはいえ、結果的に店長の病状を悪化させてしまったことは、圭太にとって苦い体験だった。社会人として林田にできることはしたい、そんな風に思いながら一度立ち止まり、JR三宮のベリカフェ前の交差点の信号が青に変わった瞬間にまた走り出し、圭太はけっこうな勢いで店に飛び込んだ。 「林田さん……、ご希望の条件で……物件見つかりました。まだ、そちらにサインをしないでもらえますか? 当社からはこれが最後の提示になります。この物件と比べてみてください! 」  林田と遠藤は二人掛けの席に向かい合いで座っていた。圭太は遠藤が提示する契約書らしき書類に、今まさにサインをしようとする林田にぜえぜえ息をしながら言った。林田が驚いて黙っていると、 「あのさ、ここカフェだし店の中で突っ立ってたら、迷惑。とりあえず注文してきたら? 四人掛けの席に移動するから」  遠藤は意外にも冷静だった。 「わかりました。林田さん、ぼくが注文する間にサインしないでほしいので、一緒にカウンターに並んでください」  息が整ってきた圭太は冷静になり、とりあえず林田に説明するチャンスを逃さないように、林田の腕をつかみ有無を言わさず注文カウンターに引っ張っていった。  そして圭太と林田はアイスティーを片手に、店の奥の四人掛けの席へ向かい、遠藤が奥側、遠藤の向いが林田、そしてその横に圭太という配置で座った。そして圭太は必死で見つけてきた物件の条件について、林田に説明した。その物件は、三宮から駅徒歩10分、1Kで築10年、家賃3.5万円と通常ならありえない安さなのだ。そして圭太はこの物件の裏をきちんと説明した。 「林田さん、この物件の条件は破格です。ですが一つお伝えしなくてはなりません。半年前に殺人事件の現場になっています。もちろん部屋のクリーニングは終わっており、原状回復されています。事故物件なので、どうしても借り手が見つけにくいんです。だから家賃も条件も破格なんです。ところで林田さん、霊感はございますか? 」 「去年ホストが風俗嬢に刺されて死んだとこだろ? 多分出るし、金縛りとかなるよ」  ここまで圭太の説明を黙って聞いていた遠藤が、口を挟んだ。さすが三宮で起こったことはよく知っている。このまま諦めてくれるのかと圭太は期待していたが、言葉少なにきっちり水を差してくる。 「えっと、特にお化けをみたことはないし、家族にもそういう人いいひんけど……」  林田は戸惑いながら答えた。ここまで林田はあまり話さず、圭太は林田の真意を図りかねていた。 「よかったです。それと林田さん、神戸にくるのなら、死んだ人間より生きてる人間のほうに注意をしてください。家族以外の他人に、何の裏もなく親切にする人間は残念ながらめったにいないんです」 「どういう意味だ。オレに何か言いたげだな? 言いたいことがあるならはっきり言ってくれないか 」  遠藤が圭太をにらみながら言った。 「あくまで一般論です。ぼくはあなたと初対面ですしあなたの真意など、ぼくみたいなひよっこに、わかるわけがないです。それとも何かやましいことがおありなんですか? 」  遠藤ににらまれて、圭太は内心恐怖を感じ、若干声も震えながら言い返した。 「威勢がいいな。オレはただ、神戸で商売をやっている経営者として、神戸に出てくる前途ある若者を応援したいんだ。林田くん、オレが紹介する物件に入ってくれれば、オレの会社のバイトとして雇うし仕事もセットで見つかる。それに、普通のフリーターで家賃払って一人で生活していくって大変だよ? オレも若い頃はそんな暮らししてたけど、金がなくてみじめな思いもたくさんした。だから困っている若者には力になってやりたいんだ。それに君は実家暮らし? 」  遠藤にいきなり聞かれて、圭太は思わずうなずいてしまった。それと遠藤が話していて気づいた。遠藤の声は、いつぞやの居酒屋バイトで店長が呼んでいるという謎の電話の声の主とよく似ている。似ているだけで確証はないが、もしかしてコイツはみはるの顧客の件で、自分のことも調べたのか、いったいどこまで知っているのかと、圭太は遠藤を不気味だと思った。 「このお兄ちゃんは親元でぬくぬく暮らしているし、君の苦労はわかってやれないよ」  痛い所を突いてきた。遠藤は自分の案件の優位性を語って、確実に圭太の話を潰しにかかってきている。自分が甘ちゃんなのは、圭太自身よくわかっていた。それは今どうしようもできない。圭太が林田にできるのは物件の紹介だけだ。それも条件の悪い物件である。どうあがいてもヒーローにはなれない。林田に対しても、もちろんみはるにとっても。 「林…」 「遠藤さん、いいですか」  林田が圭太の話を遮った。ここまで林田は話を聞いているだけだったが、ここに来て遠藤に話しかけるということは、もう遠藤の物件に心を決めたのかと圭太は落胆した。 「色々こんな何も持ってないオレに、ありがとうございます。……でも、この話オレにはもったいないです。今回は、下野さんの物件にしたいと思います。段取りしてくださったのに、すみません」 「え? 」  事態を飲み込めず、圭太は間抜けな声を出した。 「下野さん、行きましょう」  林田は立ち上がり、圭太にもそれをうながした。 「林田くん本当にそれでいいの? 貧乏生活にわざわざ飛び込むのか? 」 「まぁオレにはそれくらいが似合いっていうか。田舎者がムリしても続かないですよ。遠藤さん、今回は相談に乗って下さりありがとうございました」  林田のきっぱりした返事に、圭太は我に返り、 「林田さん、行きましょう!」  と、去ろうとしたところ、 「この件は、覚えておけよ」  と遠藤に言われ、振り返って言った。 「お言葉ですが、弊社、三宮フラワー不動産には、何一つやましいことはないです。弊社はお客様に合った物件の紹介をしているだけです。私の説明に何か不都合、ご不満な点がおありでしたら、私に業務指導をしている丸尾から改めて説明をさせていただきます。こちらにご連絡ください」  圭太は、「いざとなったら、これを出せ」と同僚の丸尾さんに言われていた名刺をテーブルに置いた。 「丸尾か……。あいつ元気? 」 「ええ、色々教えてもらっています」 「そうか。じゃああいつに、余計な事言うなって言っといて」  そう言って、遠藤は店を立ち去った。圭太は遠藤があっさり引き下がったことによって、今度は丸尾さんが何者なのか気になった。社長曰く、丸尾さんは15年前から三宮フラワー不動産で勤めているとのことだ。圭太は、その前の事は知らない。だが今は林田の契約の事が先だ。今圭太が知っている丸尾さんは、きちんとした人だ。それで充分だと思った。「林田さん、契約の手続きを事務所で行います。そして丸尾から重要事項説明をさせていただきますので、それが終われば契約できます」  そう言って、圭太と林田は事務所に向かった。
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