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第一章 始まりは呼びかける声
……私からの呼びかけに、今日もまたあなたは応えてくれない。
読んでいる途中の本にあった一節を、綴喜透が不意に思い出したのは、なんてことのない理由で、担任の浅尾の話がとても退屈だったからである。
生来の性格故か、教育者としての使命感に駆られてのことなのか知らないが、クラス発表で初めて知った新担任は、事あるごとに生徒の進路や将来に関する話を披露していた。たまにであればそれも傾聴しようと思うが、ほぼ毎度となれば逃避が条件反射になってしまう。
高校二年となれば進学か就職かは別にしても、社会に出る現実がより身近に迫ってきている、はずなのであるが、進級したばかりとあっては切実になれと言われても難しい相談だった。少なくとも透にとってはそうで、中学の二年とどれほどの差があるのか。
とりとめなく考えているうちに、ようやく解散が告げられた。
担任がいなくなると、同じ想いだったのか解放感がどっと教室内に広まって、部活やバイトなどがある生徒たちは慌ただしく出ていく。
透はと言えば、これといった用事はないのであるが、かといって残るべき理由もなく、帰ろうと席を立った。進級に伴って行われたクラス替えは、良くも悪くも劇的な作用をもたらさず、これまでに積み重なった高校の日常生活に早くも溶け込もうとしていた。
扉口に差し掛かったところで、名を呼ばれたので、透は振り返る。
今年もクラスが一緒になった与野光明が、自分の席に座ったまま腕を振っている。掲げられた手には文庫本が握られていた。
そうだった。机の上に置いてあったのを与野が手にした丁度その時、担任が来てしまって、持っていかれたままだったのだ。きっとお色気場面目当てだったのだろうが、生憎、表紙や見開きのイラストはそれっぽくても、今まで読んだ頁にサービスシーンはなく、残りにも期待できそうな展開ではない。
だから、というわけでもないだろうが、与野は本を放り投げてきたではないか。
掛け声はかけてきたし、動作はゆっくり下手投げ、速度も軌道も緩やか、野球部でもないのに狙いも上出来、ではあったが、本を投げるという行為に透は虚を突かれてしまった。
受け止め損ね、透がお手玉した本は廊下へ飛び出るや通りがかった女生徒に当たってしまう。
へたくそ、と与野が呆れ混じりの声に、今後、あいつには絶対に本を貸すどころか触らせもするものか、と透は誓う。
「悪い」
バツの悪さもあってぶっきら棒になってしまった透の詫びに、いいえ、と短く答えた女生徒は、自分の足元に落ちていた本を拾い上げると、ブックカバーが外れていた表紙に目を落とす。
「懐かしい」
彼女はそう呟いてから、透を見てきた。
「この作家さん、今でも、人気なんですか?」
「えっ、どうなんだろう? 初めて買ったから。本屋で偶々目に付いて」
「私、この人の本、どれも好きで、眠る前は全て読んでいたんです」
「ああ、そうなんだ……」
反応に困った透の返事に、一転して、女生徒が気まずそうな顔になると、カバーを直して、見た目ではついてもいない埃を丁寧に祓い、本を差し出してきた。
「どうぞ」
「どうも」
受け取った本を透が制服のポケットにしまうと、女生徒はくすりと笑った。
「ごめんなさい、知っている人も同じ癖があったから」
「癖ってほどじゃないと思うけど……」
「そうですよね、本を上着のポケットに入れる人、普通にいますよね。でも、なんだか、懐かしくて、つい……」
同意されたものの、透自身あまりお目にかかったことがない。スマホやら電子書籍の普及度を考えたら、今や本を持ち歩くことすら珍しくなっている。
微苦笑を浮かべていた女生徒の視線が透の肩越しに移る。透が振り返れば、すぐ後ろで、狩野理子が唖然とした面持ちで佇んでいた。
「すみません、それでは」
「ああ、またな」
透の返事は、友人たちにそうするように惰性で出たもので特別な意図はなかったのだが、女生徒は柔らかく頷いて去っていく。
「綴喜って、藤間さんと仲良かったの?」
食いつくような調子で理子が話しかけてきた。
「いや、話したのは多分、初めてだと思うんだけど……」
答えながら透が見やれば、女生徒の姿はとっくになかった。最近、来た転校生でもないなら、これまでに何かの折に声をかけたりかけられたりはあったかもしれないが、そうと相手を認識して、多少でも会話をしたのは、これが初めてのはずだ。そのはずである。
「そっちこそ、知り合いなのか?」
「去年、隣の組だったから、体育とか合同授業が一緒だったんだけど……」
「なんだ? あいつと話していたら、なんかおかしいのか?」
「あの子、いつも一人でいて、同じクラスでも友達がいなかったみたいでさ……虐められていたとかではなくて、絶対そうじゃないとは言い切れないけど」
理子は、たとえあっても、認知もしてないと言いたげな弁解をして続ける。
「ともかく、すっごい無口で愛想もなくて、何考えているか分かんない子でさ……それで、あんたとあんなふうに話していたから、もうびっくりで」
理子の表情にはまだ驚きがあった。大人しそう、というのが透の抱いた第一印象なのに、それですらこの反応なのは、随分と大袈裟な気がする。
「二年になってから急に雰囲気変わったって、あの子と同じクラスになった子から聞いてはいたんだけどね。彼氏でもできたのかなってさ……」
言うと理子は意味ありげな目付きになる。
「俺は違うぞ」
「そんなの、分かってるって」
変な誤解が生じないのはいいが、当然といった反応を返されると、透としては意外に悔しいものがあったりする。
「通らせてもらっていい?」
背後からの声に、透と理子が揃って振り向けば、鞄を手にした皆瀬彩佳が佇んでいた。
「あ、ごめん」
透は慌てて道を空ける。
「今日はこれからデート?」
理子の不躾な問いに、透の胸は少なからずざわつく。
皆瀬彩佳は、容姿端麗、成績優秀、性格も良しと三拍子揃った少女であった。それだけに彼女に恋焦がれる男子生徒は少なくなく、かくいう透もその一人である。入学して同じクラスになったことに感謝し、二年に進級しても一緒になれたことをこれまた感謝した。しかも、一年の間で、男子の中ではといった相対的にしろ、彩佳との距離を縮めることに成功していた。
今年はその仲をより進展させたい、と透は切に願っていたのだが、つい先日、彩佳に彼氏が出来たと女子たちが騒いでいるのを耳にしてしまった。相手は三年のイケメンで有名な先輩とのことである。実にあっけない失恋だった。
「いいなあ、私も彼氏、欲しいなあ。ただし、イケメンに限る」
ぼやいた理子に、彩佳は何か言いかけたものの、微苦笑だけ残して帰っていく。
未練がましくなりたくなくて、透は彩佳から早々に視線を外したら理子とばっちり目が合ってしまった。
「な、なんだよ」
「何も言ってないじゃない」
口はそうだが、眼は十分に何か言いたげだ。彩佳への心情を透は上手く隠してきたつもりであるが、図らずも一年を通して彩佳とよりも仲良くなってしまった理子には、どうも見透かされているのではないかと感じること度々である。
「俺も帰るわ」
余計なことを言われる前にさっさと帰ろうとした透を、理子が呼び止めてきた。
「あのさー、今日って暇?」
「特に用事はないけど……」
「なら、カラオケ行かない?」
「なんだよ、いきなり?」
「特に理由はないけど。そんな気になった時にあんたが目の前にいたから」
登山家の名言みたいな理由を持ちだしてくる。
「今度は笑わないからさ」
唐突な誘いに困惑する透に、理子が慰め混じりに言ってくる。透はカラオケが苦手で、一年の時に何人かと店に行ったが、緊張もあって音を外しまくり、理子に盛大に笑われた苦い経験があった。対する理子はかなり上手い。
「まあ、いいけど、さ、他に誰か来るんだ?」
透にとって微妙にトラウマになっているが、開き直って認めたくもない。
「誰か誘いたいの?」
理子の不貞腐れたような反応に、透は面食らう。つまりは二人で行くということか。
「別にそれでもいいんだけどさ、あ、部活はいいのか?」
ええ、と表情を消して頷く理子が鞄しか持ってないことに、透は遅蒔きながら気付く。
理子はテニス部員だった。それもかなり熱心な。日常の会話でもよく関連の話題をしていて、将来はプロになりたいとの意思も周囲に明らかにしていた。熱意に相応しいだけの才能もあったらしく、昨年は一年ながら大会に出場して好成績を残していたらしい。冗談めかして、「テニス部期待のエースよ」なんてことも言っていたりした。
ただ、三学期の後半の部活中に理子は怪我をしたらしい。本人が休んでいたのとすぐに春休みに入ったので、この辺りの事情について、透は又聞きで知ったのみだったし、新学期となってから、理子は普通に登校していたので、今の今まで気にしていなかった。
それが関係があるのかは不明だが、透も察するものはあった。
「とにかく、行くとするか」
人気のない校内の一隅で、双川密はキャンバスに向かっていた。
巧みな筆遣いによって描かれているのは、校舎を中心とした風景である。
美大卒業後に旧師に声をかけられたのがきっかけで始めた、中園高校の美術の非常勤講師は今年になって三年目であった。画家というよりはデザイナーとしてではあったものの、幸運にもコンペで受賞したり作品がメディアに注目されたりして順調に実績を重ねられ、経済的にこの仕事が必要だったのは実は一年目だけである。
以後も続いているのは、第一に雇っている側が強く望んだからだった。人員的な事情もあったが、密がこの学校の卒業生であるのも見過ごせない点であった。当人からすればどれほどの効果があるのか甚だ疑問なのだが、学校側はささやかでも名が売れている若き芸術家が卒業生にして講師でいるのは、宣伝になると思っているらしい。
客寄せパンダのような扱いには閉口したくもなるが、密にとって悪いことばかりではなく、本業には配慮もしてくれるし、授業のない時間でのこうした形の自由も許されている。
密は筆をとめて、キャンバスを見詰めた。
絵はほとんど完成していて、技術力の高さを証明するように精緻だったが、それだけだった。現実では教室から出てきた大勢の生徒があちこちにいるが、絵にあるのは建物と風景のみで活気や情熱は感じられない。
「お久しぶりです、双川先生」
密は冷ややかな視線を、声をかけてきた女生徒に向ける。
「君は……えっと」
「皆瀬、皆瀬彩佳です」
微笑みの表情で明朗に名乗ってから、彩佳は少し睨む目付きになる。
「先生は意地悪ですね。去年、クラスの授業を担当してくれて、何度も話だってしたのに」
「それは悪かった。なにせ生徒は大勢いるから、覚え切れなくてな。元々、人の名前と顔を覚えるのは苦手なんだ。これで授業の時はかなり苦労している」
「ええ、よく知ってます。初めて話をした時にも、そう仰られていました」
その時のことを思い出しているのか、彩佳は微笑に戻る。
「なら、絵を描いている時に話しかけられるのは好きじゃないのは、伝えていなかったか?」
「だから、一段落つくのを、こうして待っていたんです」
穏やかながらもはっきりとした口調で、彩佳は返してくる。
「美術講師のお仕事、今年度も引き受けてくださったんですね」
「本業が忙しくなってきていたから、断ろうとも考えてはいたんだけどな」
三月の授業終わりの時点では密はほとんどそのつもりで、契約の更新に応じたのは四月の間際になってからだった。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いじゃない。そうしたのはこっちの事情だ」
「でも、またこうして先生に御指導いただけるのが、私はとても嬉しいんです」
彩佳は真剣な眼差しと穏やかな笑みを調和させた表情をしてから、絵を覗き込んできた。
「やっぱり、描かれているのは風景だけで、人は描かれないんですね」
「どうも苦手でな」
「他の作品では人を描かれているのに、変なの」
くすくす笑っていた彩佳がふっと見上げてきた。
「それなら、私をモデルにしてみるのは、どうですか?」
その仕草とどことなく悪戯っ気のある物言いに、一瞬、密は反応できなくなる。
「モデルと言っても、脱ぎませんからね」
「当たり前だ」
生じた戸惑いは、変な期待を抱いたからではなく、既視感めいたもののせいだ。学校に講師として来て、しかも、彼女と話をするようになってから、一度ならず起こっていた。それがために密は自覚する程度には彼女にはつい甘い対応をしそうになる。
「それで、わざわざ何の用だ?」
「そんな言い方をしないでください。これでも、悩み相談なんです」
「悪かったな。だが、早速で何だが、役に立つことなんてあまり言ってやれないぞ」
本業に関連することで生徒の相談に幾度か応じていたら、いつの頃からか全く関係のない事柄についても請け負う羽目になっていた。しかも、密が精神医学や心理学を学んでいた過去を、どうしてだが知られてしまって、今や学校側からは教育者として実に有用な技能を持っているとの認識さえ抱かれてしまっている。
「おまけにこの後に生徒の進路相談に同席しないといけないことになっている」
「あの、ですね、男の子の気持ちというか、考えについて教えて欲しいんですけど……」
「彼氏でも出来たのか?」
「そんなんじゃありません!」
「なら、なんだ?」
なおも抗議をした気な彩佳を制して密は本題を話すよう促す。
「全く違う話ではないんですけど……」
前置きをしてから、紡ぐように彩佳は話し出した。
仲の良い女子生徒が、とある男子生徒に好意を抱いているようなのだが、どうもその男子生徒は自分に好意を寄せているようなのだ。勿論、と彩佳は強調すると、自分は男子の気持ちに応じるつもりは全然なく、もし叶うなら、いらぬ波風を立てないでその女子生徒と男子生徒の仲を取り持ちたい、という。
「男性の心理について先生の意見を伺いたいんです。こんなこと相談できる男の人なんて他にいないし、今まで相談相手になってくれていたのはその子だけだったから、その男子のことは話せなくて……」
勘弁してくれ、と密はぼやきたくなる。と同時にやや違和感があった。彩佳がそうした面倒に巻き込まれるのは意外ではないのだけれど。
「授業とは関係ないことでご迷惑なのは分かってるんです。だけど……」
疑念めいたものが伝わったのか、彩佳は弁解するように言ってくる。
密は無言で、腕時計を見た。数分の立ち話をするぐらいの余裕はあった。彼女の魂胆はどうであれ、それぐらいの時間、話に付き合ってやるのは問題ないように思えた。
「あくまで参考意見だからな」
密の言葉に、彩佳は安堵と喜びを滲ませて頷いてきた。
カラオケ店に行くことにしたのは、透にとってはそれなりの決意を経た上だったのけれども、いざ行ってみれば、肩透かしを食らった。満室なのである。どうも店舗の改装工事が遅れて部屋の一部が使えないままのところで、本日は特定割引日で、これを目当ての客が押しかけた結果らしい。しかも、間が悪く、透たちが到着前にまとまって客が来たために、小一時間待つ必要があるという。
「カラオケ店なんて幾らでもあるのに。なんで集まってくるのよ」
理子は文句を述べるが、他の客からすればどの口がだろう。
「別の店にでも行くか?」
「うーん、今月散在しちゃってて、ここの割引当てにしてたんだよね」
そうか、と透が呟くと、理子は意地の悪い笑みを浮かべてきた。
「今、ちょっとほっとしたでしょ?」
「そんなわけないだろ」
透は即座に返したが、図星だったりする。
「ともあれ、どうせなんだから、もうちょっと付き合ってよ」
透が見習いたくなるような切り替えの早さで、理子が向かったのは、近くのCD店だった。雑談を交わしつつ品揃えを一通り眺めると次に隣接する大型書店に移る。
音楽やゲームは、透と理子の趣味は近いのだが、本は全く異なる。理子は一目散に雑誌の棚に向かったので、残された透は小説が並ぶ棚へと行く。もっとも、かなりの積み本があるところへきて、先週、なおも数冊を買ってしまっているので眺めるばかりである。文学青年を気取っているなどと時にからかわれたりするが、透に言わせればただ好みの違いだった。大体、世に文豪と言われる人の手による作品には国語の授業以外でろくに触れたことがなく、それで月四、五冊ほどの読書量では活字中毒ですらないだろう。
次の機会に買う候補とともに、今読んでいる作者の他作品も探したが見当たらなかった。前から作者の名前を知っていたわけではないので、あまり有名でないかもしれない。
しばらく目に付いた本を試し読みしていたら、思ったより時間が経っていた。
短気な理子のことだから、呆れているか怒っているのではないか。透は雑誌がある場所へ行ってみれば、肝心の理子はまだ熱心に雑誌を読み耽っていた。棚にスポーツと表示があり、各種様々な競技を扱った専門誌がある。最新の流行を求める女子がファッション雑誌を眺めるよりなお真剣に理子が読んでいたのは、その予想しかなかったが、テニスの専門誌だった。
透が声をかけようか迷っていたら、理子が先に気付いて慌てて棚に雑誌を戻す。
「買い物は済んだの?」
「元からなかったから」
「だったら、声かけてくれれば良かったじゃん」
「そうしようかと思ったんだけど、熱心に読んでたからさ」
「変な気遣わないでよ。本屋に来ても、ああいうのくらいしか読むものがないだけだから」
言ってから理子はちらと棚を振り返る。
「気になるなら、まだ読んでても」
「そうじゃないって。そっちの用が終わったんなら、行くよ!」
理子に腕を抱えられ、半ば引き摺られるように本屋を出て、連れていかれたのはファーストフードだった。
さして空腹を覚えていない透は、シンプルなセットメニューを頼んだのだが、後に続いた理子が倍の注文をしていたので驚いた。
「こんな時間にそんなに食べるなんて、夕飯ないのか?」
「家に帰ってもご飯食べるよ」
理子はあっけらかんと答える。運動部員、それもかなり熱心なおかげもあってか、彼女がよく食べるのを透は知っていたが、ちょっと食い過ぎではないか。
「太るぞ」
「しょうがないじゃない。だって……」
理子は言いかけて固まった。
「あ、歌ってカロリー消費してなかったよね……」
気まずそうに呟くと、理子は透と同じ注文に訂正する。
商品を受け取った透たちは客席がある店舗の二階へと上がった。空いていた奥の席へ透たちが行こうとしたら、幼児が通路に飛び出してきて理子とぶつかりそうになった。
理子は避けようと大きく身を捩る。激しい反応は本人が意図したわけでもなかったのもあるのか、体勢を崩しかけた。
「おっと、危ない」
透が空いていた手でたたらを踏んだ理子の肩を支える。彼女の持つトレイにあったポテトが容器から飛び出した。
すみません、と遅れて席から出てきた母親が詫びて、びっくりしていた娘の手を取る。透と理子は親子のために道を開けて通してから、目当ての席に向かい合って座った。
「ありがと。突然だから、びっくりしちゃってさ」
「それはいいんだけどさ……」
さすがに透も理子の様子のおかしさに気付いていた。今日の唐突な誘いも関係があるのだろうか。尋ねた方がいいのか迷っていたら、離れた席から無遠慮な甲高い声が割り込んでくる。
「それって、ほんとなの?」
「マジマジ、先輩が見たんだって」
「で、マジコ、どんな感じだったって?」
「マミコだっての。見た目は普通の女子だったらしいよ」
周囲のことも気にせず夢中で話に興じているのは、他校の女子生徒だった。どうやら、透が知るところのマミコさんの目撃談らしい。
マミコさんとは、何時の頃からかこの街で語られるようになった一種の都市伝説だった。悩み多き多感な年頃の少年少女の前にどこからともなく現れて、相談に乗ったり、癒してくれたり、救いの手を差し伸べてくれる、と一般的には言われている。ところによっては、恨みを晴らしてくれるとか、その姿を目撃した者に不幸をもたらすとも言われている。年代や出身校が違う人との間で、どんな形で伝説に触れてきたか確認し合うのが話の種になったりしている。
当たり前だが、透は彼女に会ったことも見たこともない。バチが当たるのでもないのなら、一度くらいは見てみたかったりする。噂によれば、かなりの美少女らしいのだ。
「なんで、見た目普通なのに、それがマジコだって分かったのよ?」
「違う学校の女子と一緒にいたらしいんだけどさ、マミコ、半分透けてたんだって!」
「なにそれ、幽霊じゃん」
「だから、幽霊なんだって」
「ヤバイじゃん。でさ、先輩はマジコに悩みとか解決してもらったの?」
「だから、マミコだって。見かけただけで、話はしてないんだって……」
「ちょ、それ、どこまで信じていいわけ? あんた、からかわれただけじゃないの?」
「え、でもさ……」
相手の呆れ切った反応に、人伝の目撃談というのもあってか、語っていた方は自信を失ったようだ。やがて、話題は変わり、それに伴って音量も小さくなっていく。
「マミコか……本当にいたらいいのにね」
らしくない理子の呟きだった。
思わず透が見詰めると、理子は誤魔化しの笑いを浮かべようとして失敗して、ポテトを摘まみ、食べるでもなく弄りだした。
「ちょっと前にさ、部活で怪我しちゃってさ、右肘をね……」
元々、痛めやすくて、気を付けていたのだが、原因は部活中の事故だった。診察した医者の見解では、日常生活を送るのは問題ないが、それ以上となると今後は難しいとのことであった。
「専門の医者に診てもらった方がいいんじゃないか?」
「そうそう近くにいないんだよね。第一、親がそこまでしなくてもって、さ」
専門医にかかるとなれば費用負担も大きい。そこへきて、日常生活に支障がないとなれば、子供の夢に余程、熱心に応援してくれる親でもなければ、治療に理解が足りなくなるのも、しょうがないのかもしれない。
「それは大変だよな……」
「うん、大変なんだよね」
理子はいつになく素直に弱気を吐露してきた。
「じゃあ、部活は?」
「さぼっている、ことになるのかな、籍はあるってことになってるみたい……。皆もいつでも顔出してって言ってくれるんだけど」
虚ろに言う理子を前にして、透は今更ながらに思い出す。新学期に入ってから、理子は時折、今のような横顔を見せていた。
空気が陰鬱なものになりかける。透なりに励ますことができれば良かったのだが、何を言おうが、安っぽい同情になる気がして、躊躇わせてしまう。
出し抜けに、理子はポテトを鷲掴みにして口に放り込むや、流れ作業のように、容器を逆さまにして残りも流し込んだ。
「お、おい……」
「……あへふひ」
唖然とする透に、リスみたいな顔で理子はそう言ってから、ジュースを飲む。
「自棄食い」
「繰り返さなくても通じたけどさ……」
透が言う間に、理子は左手を伸ばしてきて、透の手付かずのハンバーガーを持っていく。
「それ俺の……」
抗議する間もなく、包装を解いた理子は、これまた盛大に噛り付く。
せめてポテトは、と死守を試みるが、結局、こちらも、ほとんど食べられてしまった。
「ご馳走様」
「何がご馳走様だ。ご馳走してやったつもりなんてないぞ」
「いいじゃないの、これくらい。将来、大物になれないよ」
悪びれもせずに言い放つと、理子はもはや用済みとばかりにトレイを手に立ち上がった。
「今日はありがと。付き合ってくれてさ。綴喜の美声が聞けなかったのは、心残りだけど」
店を出たところで、理子は言った。
「その代わり俺のハンバーガーとポテトの大半を食ったじゃないか」
「なんか、こだわるねぇ」
「よく言うだろ。食い物の恨みは深いんだ」
透は幽霊の仕草をすると、理子は呆れた顔をしながらも、形だけの謝罪とばかりに手を合わせてきた。
「今度、埋め合わせするから、それで免じていいよ。いいでしょ」
「まあ、文句はないけど」
「じゃ、その時はちゃんとカラオケもね」
「ええ……」
「やっぱり、嫌なの?」
「嫌じゃないけど、まーともあれ、少しでも気晴らしになるなら、付き合うよ」
逡巡しながらの尋斗の言葉に、理子は噴き出した。
「綴喜って、思ったよりもいい奴だよね」
「思ったよりって。今の今まで、俺をどんな人間と思ってたんだ」
「そこは、女子の秘密、みたいな」
理子はやたらと乙女チックに返してから、不意に俯き加減になる。
「あのさ、もしだけどさ、こういうのが嫌じゃないならだけど、いっそのことなんだけどさ……私たち、付き合ってみない?」
数舜、ぽかんとした透は、言葉の意味を理解して驚く。
「つ、付き合うって、それ……」
「ほら、私たちって、なんだかんだで、一年から一緒で、結構、気が合ったりしているじゃない? あんだって、付き合っている人いないんでしょ? それだったら、丁度いいっていうか、どうせなら、付き合ってみるのも、悪くないんじゃないかなって……」
あせあせとした様子で説明した理子は、緊張した面持ちで眼差しを向けてくる。
「だからさ、ほら……どう……?」
どうって……。理子は、外見も中身も彩佳とはまるで異なるが、だからといって、異性としての魅力がないとは透も思わない。むしろ気の置けない関係を築けるのでは、とすら思う。けれども、あまりに唐突な申し出は、あるいはだからこそ、そのような行動に至った理子の心情を、透は何となくにしろ察してしまっていた。
透が返事に迷っていたら、理子がまたもや唐突に、物凄い勢いで頭を下げてきた。
「ごめん、今のなし」
「へっ!?」
「だからね、付き合いたいなみたいなことを言ったのは、なかったことにして。撤回。無効。クーリングオフでキャンセル」
「……え、え? あ、そ、そうか」
「そういうことだから。今日は、気晴らしに付き合ってくれて、ありがと!」
「ああ、お構いなく……」
「とにかく、そういうことで。じゃ!」
「じゃあ……」
戦隊もののヒーローみたいな敬礼をした理子は、くるりと身を翻すや、競歩の選手にでも転向するのか、と聞きたくなりそうな速さで透の前からいなくなった。
嵐が過ぎ去ったみたいだった。心境的にはほぼそれであったがために茫然としていた透であったが、視線を感じて、そちら見る。
藤間とかいうあの女生徒がいた。
彼女はふっと笑みを浮かべると、下校の時と同じくすぐに人混みに消えてしまった。
「おはようございます」
昨日のことを引き摺ってか何時にもまして寝起きの悪い朝を迎えて、透がとぼとぼと登校していたら、藤間が挨拶をしてきた。
「偶然ですよ」
昨日の今日のことで、透が思わず立ち止まったら、藤間はただちに釈明してくる。
「家を出る時間はいつも決まっているとのことですから」
「それじゃあ、昨日、見掛けたのは?」
「はい、それも偶然ですよ」
即答であったが、こちらは取ってつけたように聞こえるのは透の気のせいだろうか。
藤間は透の困惑を他所に、いつもそうしているかのように隣に並んでくる。
「えっと……」
「綴喜だけど?」
表情から、彼女が言いかけようとしたことを察して透は名乗った。
「名前も聞いていいですか?」
「透」
「綴喜……透君ですね。私は、藤間沙良って言います」
「苗字は聞いてる」
「そうでしたか。狩野さんから?」
「そう」
「綴喜君は、狩野さんと仲が良いんですよね?」
昨日のあれを見て、わざわざ尋ねてくるか。渋面になった透は答えずに問いを向ける。
「そっちこそどうなんだ?」
「狩野さんとですか? そうですね、取り立てては」
身も蓋もない答え方だが、悪意は感じられない。
「でも、よく気を遣ってくれたみたいで、良い人なんだなって思ってはいました」
理子らしいと思うが、先程から沙良の物言いに、引っかかるものがある。
「それで、俺に何か用なのか?」
「少し、綴喜君とお話をしてみたいと思ったんです。駄目でしたか?」
「いや、駄目じゃないけどさ」
気怠い朝に、可愛い女の子が自らお近づきになってくれている状況を、透は拒絶する気にはなれないけれど、幾らかの困惑と警戒は覚える。
「具体的に、何を話したいんだ?」
「そうですね……」
沙良は顎に人差し指を当てて考える。
「本についてなんて、どうでしょうか? 私たちの共通の話題なので」
「共通ね……」
透は皮肉っぽく呟いた。昨日、今、読んでいる本について二言三言、話しただけで、なんと大仰な。ひょっとして、藤間はあの作者の熱烈なファンで、周囲に同好の士がおらず、透は目をつけられてしまったのだろうか。
「はい、私たち二人とも、本を読むのが好きですから」
この妙な食い付きと距離の詰め方は、オタク特有のあれか、あるいは電波系とか、不思議ちゃんとかなのか。透は意図を分かりかねて、つい彼女をまじまじと見てしまう。
少し癖がある感じの髪は肩よりも長め、背丈は女子の平均よりやや低いぐらい。大きな目はくりっとしていて、よく見ると瞳の色ははっきり分かるほどの薄茶色だった。高くもなければ低くもない形の良い鼻、小振りな口はどちらかといえば幼い顔立ちである。それなのに、物腰や浮かべる微笑には、妙に大人びた余裕があったりする。
「どうしました?」
「いや、何でも」
透は慌ててあてもなく視線を逸らす。
しかしながら、本の話題ねえ。いざ考えるも思いついてくれない。話題が小説で、相手が馴染みの薄い女子では、与野たちとゲームや漫画の話をするのとは勝手が違い過ぎる。
「その本、読んでどうですか?」
沈黙を埋めるような問いかけをした沙良の視線は、透の上着ポケットに向けられていた。
「ああ、これ? まだ途中だけど、中々面白い」
透は制服越しに触れながら答える。
「どんな話なんですか?」
「えっと……題材は学園物で、主人公が二重人格っていうのかな、そんな話」
「二重人格、ですか」
「そう。お互いがお互いを分かってて、一つの体を巡ってあれこれあるんだけども、二つの人格は決して仲が悪いわけではなくて、だけど、最終的には、どっちしか残れないらしくって、どうなるかみたいな流れなんだが、どうした?」
透の説明に、沙良は感慨深げな表情になっていた。
「私、その作者さんの本とは不思議な縁があるんです」
「縁?」
「はい。自分には不思議な力があるのに気付いて、人助けを始める女の子の話とか、未来を見える少年と知り合った話とか、色々と書いているんですけど、そういった本と出会った時とその時の自分の境遇が、ぴったり当てはまるみたいな」
「へ、へえ」
透は少し引き気味に応じる。その本の内容で、どうしたら、自分の境遇に当てはまることがあるのか。そういう人物設定をしているのか。
「だから、余計にだと思うんですけど、その人の本は読んでいて他のより心に入ってくるというか……お話を聞いて、今度のも期待できそうです」
「そんなに好きな作家だったのに、新作が発売してたのを知らなかったのか?」
かくいう透自身、新作と思って買ったが、奥付で、一年前に出版されていたものだと知ったなんてよくあるのだけれど。
「はい、事情があってずっと難しかったのと、最近もどたばたしてましたから」
歯切れが悪い答え方が気にはなったが、徒に突っ込んで、彼女の世界観に引きずり込まれるのは、透としては勘弁であった。
距離感を探るような差しさわりのない会話をしているうちに、学校に到着する。
「狩野さんですね」
校門を通ってすぐ、沙良が先に気付いた。
彼女の視線を辿れば、樹木の影に隠れるようにして佇んだ理子がいて、朝練をしているテニス部を眺めている。
「気になります?」
「そりゃあ……と言ってもだな、別にそういった意味ではなくてだけど……」
「分かってます。仲の良い人が純粋に心配なんですよね?」
誤解がないのは透としてもありがたいが、率直に指摘されると、どうにもむず痒い。
話している合間に、理子がこちらに気付いたのか、逃げるように校舎へと行ってしまう。
透は罪悪感を覚えるも、追いかけたところで何ができるわけでもない。
「綴喜君は、やっぱり良い人なのかもしれませんね」
「いきなりなんだよ」
「すみません、そういうところも、知っている人とよく似ていたので」
その知っている人は、現実にいる人間ですか。ふとした疑問であるが、口にして下手な答えが返ってきたら怖いので、透は沈黙を選ぶ。
透の心中を知ってか知らずか、沙良は何事か決心したように小さく頷いてから見てきた。
「今日のお昼休みって、時間ありますか?」
「まあ普通に」
「それなら、北棟の屋上に来てくれませんか? 是非、紹介したい人がいるんです」
「誰?」
「まだ内緒です」
沙良は人差し指を唇の前に立てて、えらく可愛げのある反応を返してくるが、話題に出る謎の人物だろうか。行く義理もなければ、面戸でもあるが、多少の興味はあったりする。
「分かった」
「ありがとうございます。必ず来てくださいね、約束ですよ」
安堵が入り混じった印象的な笑顔を残して沙良も、校舎へ一人先に向かってしまう。
「お、やっぱ綴喜だったか。今、一緒にいた女、誰よ?」
入れ替わるように尋ねてきたのは与野だった。
別に、と素っ気なく透は答えたが、面倒ごとに首を突っ込んだのではないか、との考えが、今になってちらついてきた。
昼休みになり、透は手早く弁当を片づけると席を立った。
「慌ててどうした? 朝、一緒にいた女子にでも会いに行くのか?」
与野の問いに、透はぎくりとする。あの後すぐに他の話題に逸らしていたので、てっきり忘れていると思いきや。普段、抜けているのに時々妙に鋭い奴である。
「いや、俺がって言うより、向こうがどうしてもって言うからで……」
咄嗟の弁解は墓穴だった。与野はぬぼっとしたままパンを頬張ってるだけだが、やりとりが聞こえたのか、別々の方向から二つの視線が向けられるのを感じる。
一人は理子だった。朝、先に校舎に向かったのにチャイムが鳴る間際に教室にやってきた理子はいつになく陰鬱そうであった。他者、特に透を拒絶するような雰囲気があったので、今日は一言も会話してない。そんな理子が驚きとも戸惑いともつかぬ表情をしていた。
もう一人が、寄りにも寄って彩佳である。こちらは訝しんでいるといった様子で、しかも、昨日のことを知っているのか、理子を気にしている感じさえある。
二人の反応は気になるものであったが、かといって、こちらからわざわざ釈明しにいくわけにもいかない。透はそそくさと教室を出ることにする。
最初に、透が向かったのは北棟ではなく、職員室等がある南棟だった。
建物に入り、階段を昇っている途中で、美術講師の双川に遭遇した。この学校のOBで、本職はデザイナーらしいが、その経歴と外見から女子には結構な人気があった。やっかみの分だけ、男子からの好感度は下に引っ張られやすいが、モテ具合を鼻にかけるわけでも、男子を差別するわけでもないので、殊更に嫌われてもいなかった。透の認識も、基本的にもてない野郎どもと連帯するものではあったが、毛嫌いまでは至ってない。一年の時に彼の特別授業が何度かあったが、不快な経験もなかった。
目が合ったので、透が何となく会釈をすると、向こうも軽くではあるが返してくれた。見た目の印象ほど生徒に対して横柄ではないようである。
最上階までやってきた透は向かいの北棟の屋上を眺めやる。北棟は南棟より低い土地に建てられているので、階層は同じでも、ここからだと北棟の屋上のほとんどを見渡せた。
やはり、おちょくられただけなのか。誰もないので、そう透が納得しかけていたら、屋上に通じる扉が開いた。姿を見せたのは藤間沙良で、辺りを見回し、立ち去ろうとしない。
「本当に来た」
驚き呟いた透は、ただちに北棟へ走り出す。厄介なことに、北棟は建て直しや改築から取り残された古い建物で、階の途中に他の棟との連絡通路がない孤島だった。従って、南棟の最上階から北棟の屋上へ向かうには、一度降りきって北棟に入り、また階段を上らないといけない。
南棟を出た直後に透は人とぶつかりそうになってしまった。
「すみませんって、狩野!?」
「綴喜!?」
「悪い。急いでいるんだ」
思わぬ遭遇をした理子に、形ばかりの詫びをしつつ透は急ぐ。北棟に入るや階段を一気に駆け上がり、屋上への扉を開けた。
藤間沙良は先程と同じ場所にいた。おんぼろ校舎に置きっぱなしにされて、存在を忘れ去られたオブジェのようにぽつんと立っていた。
「悪い、待たせたか?」
乱れた息を無理に整えながら、透は声をかける。
「いえ。細かい時間まで決めてなかったので、問題ないです」
そうは言うが、朝とは打って変わって声は平坦で表情はやたらと無機質である。
遅れたのは悪いが、そこまで機嫌を損ねることか。内心で思いつつ、透は屋上を見回す。
「一人なのか? 他は? 誰か紹介したかったんじゃないのか?」
透の問いかけに答えが来るまで、少し間があった。
「……私です」
「はっ?」
「朝、紹介すると言われていたのは、私のことです」
意味を分かりかねたが、透なりに真に受けて考えてみる。
「もしかして、藤間沙良の双子の姉妹か何かか?」
「違います。私には姉は二人いましたが、双子の姉妹はいません」
「ん? なら、どういう意味なんだ? というか、朝、会った本人なんだろ?」
透は戸惑いながら確認する。
「厳密には、違います」
「どういうことだ?」
透は重ねて尋ねるが、沙良は答えてくれない。謎かけのつもりなのか。分かりかねる態度だったが、透は付き合う気にはなれなかった。
「何でもいいけどさ、なら、用事はもう終わったってことでいいんだよな?」
「待ってください。まだ用事は終わっていません。こっちが本題です」
扉口に向かいかけた透は、無言のまま肩越しに振り返る。
「狩野さんのことです。あの人の力になってほしい、だそうです」
「力って、何をすればいいんだ?」
沙良はまたも無言である。
「誰からそれを伝えてくれと頼まれたんだ?」
「用事は伝えました」
こちらの問いにはろくに答えもせずに、一方的に告げた沙良はすたすた去ろうとする。
「ちょっと待て、待てってば」
呼びかけるも無視された透は、思わず手を伸ばして沙良の細い腕を掴んだ。
高校を卒業して随分と経ち、教える側になっても数年経つのに、双川密にとって、職員室は居心地の悪い場所だった。在学中に成績や素行で問題視される存在ではなかったので、苦い思い出があるわけではない。単純にあの空間とあの人たちが好きになれないのだろう。
だから、学校のどこかで絵を描いてない時でも、密はよく職員室の外で過ごしていた。ただ教える側の立場であれ大人が徒に校内をうろちょろすれば、生徒から不審がられもすれば疎まれもするので、大抵は人気の少ない場所で、大人しく過ごしている。
今も、密は外れにあるベンチで独り本を読んでいたのだが、人の気配がして顔を上げると、十歩ほど先に女子生徒がいて、小動物のようにびくりとした。
「何か用かな?」
「……すみません、今、時間いいでしょうか?」
「ああ。時給は発生しないがな」
思い詰めた顔をした生徒相手にもこういう反応をしてしまうのだから、やはり自分には教師の適性などないのだろう。密は自嘲しながらも、手にしていた本を上着のポケットにしまった。
「狩野と言います。二年です」
密は頷いたが、顔と名前に覚えがあった。昨年度、皆瀬彩佳と同じクラスだったはずだ。
「先生の本業は、デザイナーなんですよね」
「一般にそう呼ばれているし、幸いそれで食べていけている」
画家と呼ばれるようになりたいのが密の本望であるが、この場で言い張ることでもない。
「ずっと昔からの夢だったり、目標だったのが、叶った結果なんですか?」
「そうとは言えるかな。いつぞやの授業で話したかもしれないが、絵を描くのは子供の頃から好きで、高校時代に自分は会社勤めよりこういうのが向いているんじゃないかと考えるようになった。幸い美大を目指せるぐらいには上達していて、運良く仕事にすることが出来た。この先もそうかは分からないけどな」
淡々と答えてから、密は理子を見詰める。
「君は? どんな目標を持っているんだ?」
「私、テニスのプロになりたかったんです。小学生からの夢でした。だけど、先月、部活中に怪我をしてしまって……」
診断の結果、プロとして活躍するには支障があること、治療を受けたいが元から親の理解が乏しい上に、費用などの面からも現実的に困難があることを、理子は語る。
「そういった悩みは、他に誰かと話したりはしてないのか?」
顧問は、と密は尋ねかけてやめた。テニス部を受け持っているのが誰なのか心当たりがなかったが、十分なケアが出来ているなら、自分に相談など来ないだろう。
「同じクラスの男子には、と言っても、彼氏とかじゃなくて、昨日、話の流れで少し……」
何かを思い出したのか、理子は虚ろな苦笑を浮かべる。
いい傾向ではないな、と密は感じた。狩野理子は自分の弱さを曝け出すのが、とにかく苦手なようだ。それまでと変わることなく振る舞って、周囲だけでなく自分自身も騙そうとしているが、却って彼女の心理を徒に追い詰めてしまっている。
「テニスから少し離れてみたりはしているのか?」
「部活はずっと休んでて、その間、買い物行ったり、カラオケや映画に行ったりもしたんですが、でも、どうしても、頭からなくなってくれなくて、夢にもよく見てて昨日も……今まで、プロになることしか考えてなくてやってきたからしょうがないですけど、簡単に忘れられないのって、残酷ですよね」
「実際に忘れられたら、楽になるかと言えばそうでもないさ」
理子がびっくりしたように見詰めてきた。
「いや、気にしないでくれ」
密は冷静に流そうとするが、つい出てきた自分の発言に戸惑いが生じる。
「でも、この気持ちがずっと続くかと思うと、ちょっとしんどいかなって」
「何かのきっかけで、今まで大事だったものが、急にそうではなくなることだってある」
「親からは、受験もあるんだから、見切りをつけろと言われたりしてるんですけど」
苦悩を滲ませる理子を前にして、不意に密の視界が一変した。
駅のホームであった。理子らしき後姿をした女子高生が悄然と佇んでいる。電車がやってきた。ホームに入ってくるのを見計らって彼女は線路へと飛び込み……。
「せ、せんせいっ!?」
息を呑んだ少女の声に、密は我に返る。
先程までと変わらない校内の一角だった。間近に理子がいて、驚きの感情を顔に張り付かせている。どうしたことか、密は彼女の腕をがっしりと掴んでいた。
「すまない」
密は慌てて理子から離れる。
今のは何だ。密は混乱していたが、原因を探るより、釈明が先決だった。
だが、理子はひどく気まずい表情になっていた。何事かと密が視線を辿れば、やや離れた場所に彩佳が立ち尽くしている。
「す、すみません。話を聞いてくれてありがとうございます」
「お、おい」
早口で言うや理子は身を翻してしまう。さすが休部中とはいえスポーツ少女と言うべきか、あっという間に遠くなってく。
「先生、分かってますから」
事情を察してくれたようで、彩佳は告げてくると、理子の後を追いかけていってくれた。
歩幅も大きく、歩調も速い理子に追いつくのに、彩佳は小走りせねばならなかった。
階段の途中でやっと追いつく。
「狩野さん、待って、待って!」
追いかけられるとは思わなかったのか、理子が肩をびくっとさせて立ち止まる。
「邪魔しちゃったみたいで、ごめんなさい」
彩佳が謝ると、理子は取り乱した様子で首を横に振ってきた。
「気にしないで! ちょっと話をしただけだから」
「だけど、大事な、話だったんだよね?」
「そんなんじゃ、ないから!」
「うん、分かってる。狩野さんは何か悩み事があって、その相談をしていたんだよね」
彩佳が諭すように言うと、理子は沈黙した。肯定の意味なのは明らかだった。
「私は偶々見かけただけで、相談があったわけじゃないから……」
双川のところへ戻ったら、と言いかけた彩佳だが、ふと北棟の屋上に見知った男子がいるのに気付いた。同じクラスの綴喜だ。しかも、女生徒と一緒である。
「藤間さん……?」
思わず彼女の名前を呟いてしまった。去年、クラスは違えど合同授業で一緒だったので知っているが、大人しいというか、何を考えているか分からない子で、正直、彩佳は苦手だった。
そんな子とあの綴喜が屋上にいるとは。意外な組み合わせである。しかも、彼女の腕を掴んでいるようだ。密がそうであったよりもなお慌てた様子でただちに離れたけれど。なお話し込んでいるようだ。教室を出ていく間際の綴喜と与野のやりとりを彩佳は思い出す。どういう関係なのだろう。
そっと窺えば、理子も訝しんだ様子で屋上を見やっていた。
昨日の帰り、一緒にいた理子と綴喜が連れ立って下校したことを、彩佳は今日になって、その手の話題が好きな友人から聞いていた。嘘から出た真だ。と密と話すために造りだした話題のことを思いつつ驚いたのだが、それを脇においても好意的に受け止めていた。ところが、今日の理子はいつになく陰鬱で、綴喜もそんな彼女を避けて過ごしているきらいがあったから、気にはなっていた。
理子の双川への相談事と、綴喜が藤間と会っていることは関係があるのだろうか。
触れていいのか、流すべきなのか、彩佳が判断をつきかねていると、別棟へと通じる渡り廊下から女子たちの会話が聞こえてきた。
「でさ、狩野ってまだ部にいることになってるの?」
「らしいよ。本人から辞めると言ってないからそのままみたい」
「あいつ、春休みからずっと来てないじゃん。甘やかし過ぎじゃない?」
「本人もまだ未練があるみたいだよ。今朝も隠れて朝練、覗いてたしさ」
「え、それマジ?」
「私はまだ夢を忘れられないんですって感じでさ。どんだけプロになりたかったか知らないけど、こっちは気になるっていうの」
「プロになるとか、あいつ本気で言ってたの?」
「本人的にはそうだったみたいだよ。一年でレギュラーになって大会でちょっといいところまで行けたからって、調子乗り過ぎ。夢見すぎだっつーの」
「だよねー、どっちみちもう無理なんだろうけどさ」
耳障りな笑い声とともに彩佳たちの前に現れたのは、三年の女子だった。
空気が凍り付く。
陰口の対象との思わぬ遭遇に、彼女たちの足と表情が固まる。
数拍の硬直の後に、理子は彩佳を跳ねのけるように走り出しだした。
「狩野さん!」
彩佳は呼びかけるが、理子が応じることはなかった。
思わず腕を掴んでまで引き留めたものの、結局、沙良からはろくに答えを得られなかった。自分から言い出したことなのに、まるっきり他人事と言いたげな態度に、透が苛立ちを覚えていたら、扉が開いて、女生徒が現れた。沙良の言ったことはやはり冗談で、彼女と会わせたかったのかと思いきや、両者の反応を見るとどうも違って、意図した出会いというわけでもないようだった。
透と女子生徒が顔を見合わせている間に、沙良はそれすら自分とは無関係とばかりにさっさと屋上から出ていってしまった。透はすぐに追いかけようとしたが、いかにもな図式を他者の前で展開するのに気後れがあり、話はそのまま尻切れトンボで終わってしまう。
何だったのだ。沙良の言動に尋斗は困惑するばかりだった。それに理子のことだ。具体的にどうしろというのか。彼女から聞いた悩みや今朝の様子は、気がかりだけれど。
ぼやきたくなる気分になりながら、戻ってきた透は、教室に入ろうとした。
「綴喜君!」
鋭い呼びかけに、透が振り返ると、いつになく慌てた様子で彩佳が駆け寄ってきた。
「狩野さんいる!?」
「えっと、いない、ようだよ」
ちらと教室を見てから、透は答える。
「どこに行ったか知らない?」
「さっき、北棟へ行く途中で、中庭ですれ違ったけど」
「その後は?」
さあ、と透が首を傾げると、彩佳は厳しい目つきになった。
「どうして、狩野さん放って、藤間さんなんかと会ってたのっ!?」
「な、なんでそれ知ってるの? っていうか、狩野さんが何の関係があるの?」
いきなりの激しい弾劾と、何事かとざわつく教室内からの注目に、透は面食らう。
息が整わないまま彩佳が事情を説明した。
「それで、どこかへ行っちゃって、探しているんだけど……」
「ちょっと探してくる」
考えるより先に透の口から言葉が出ていた。
「どこに?」
「分かんない」
「だけど、もう授業始まるよ」
「適当に理由をお願い、しゃっくりが止まらなかったでも、世界の危機でも何でもいいから」
もう少しましな言いようはなかったかと思ったところで、午後の授業開始を告げるチャイムが重なった。
躊躇はあったが、これだけでもと透は下駄箱に行ってみる。
はっきりと覚えていなかったので、おおよその位置を順番に空けていくと、一つだけ上履きが入っていた。本日の我がクラスは欠席者なしだから、理子は外に出ていったのだ。
透はそこでやっと携帯の存在を思い出す。番号は登録してなかったが、アドレスはあったので取り急ぎメールしてみる。
少し待っても返信はなく、重ねて送ってみたが、望み薄な気がした。
一層焦れた透は靴を履き替えると、とりあえずテニスコートがある一角へ行ってみた。
理子の姿はなかった。
他に校内で理子が行きそうなところは思いつかない。
厄介な。連絡がつかず、校外へ出たとすれば探しようがない。
「何しているんだ? もう授業始まっているぞ」
悩んでいる透に、声をかけてきたのは双川だった。
「すみません」
「謝っている暇があったら、教室へ行くんだ」
透が応じかねていると、双川は面倒そうに溜息を吐いた。
「さぼったことがないわけじゃないから、とやかく言いたくはないが、俺も立場上、そういう生徒を見つけたら注意しないといけないんだ」
メールの受信音がして、透は携帯を見た。
理子からたが、何も書かれていない。事情は分からないが、より放置できない気がした。
「すみません、ちょっと放置できない用事があるんです!」
「おい、待て!」
言うや否や透は走りだしたのだが、双川は呼び止めはしても追いかけてまでこなかった。物分かりがいいのか、職務に不熱心なのか分からないが、どちらにせよありがたい。
とはいっても、理子を探す当てがないのは変わりがない。校外へ出た直後に、右左、どちらに行くべきかの時点で早速、迷っていたら、たったったと軽やかな足音がしてきた。
「綴喜君!」
驚いたことに、藤間沙良であった。
「狩野さんを捜しているんでしょう?」
「なんで? それより、どこに行ったのか、知っているの?」
「何となく、分かると思うんですけど」
透が尋ねると、沙良は胸元に手を当てて目を閉じてしまう。
「あっちです」
少しして沙良は一方を指してくる。この期に及んでの電波には、透も当惑する。
「お願いです。どうか、私は信じてください」
沙良の真剣な眼差しと強い訴えに、透は迷いを抑えて言う通りにすることにした。
狩野理子は駅にいた。
朝方と異なり、平日の昼間となると駅構内の人影はまばらであった。今時、女子高生がさぼっているなど珍しくなく、制服姿の自分を観ても、誰も奇異の視線を向けない。
電車の到着を告げるアナウンスされる。
程なくして電車が線路の向こうから姿を現して、こちらへと迫ってくる。
理子はホームの端近くに立つ。入ってくる側なので、電車が停車を始めていたとしても、スピードはほとんど落ちていない。
理子は躊躇いも見せずに線路へと足を進めた。
飛び込もうと駆け出した足が点字ブロックを超えて、白線をも越える。
理子が最後の一歩を踏み出そうとした寸前、不意に腕を掴まれた。
「狩野さん!」
そんな声とともに、理子の身体は本人の意思に反して線路とは反対側へ引っ張られた。
線路に飛び込む寸前のところで理子を引き寄せた透は、勢い余って一緒に後ろに倒れ込んだ。
「だ、大丈夫?」
透は再び呼びかけるが、理子は茫然としていて何が起こったか理解できてないようだった。
「怪我をしていないなら、ここから移動しましょう」
透たちが無事なのを確かめた沙良が、周囲を気にしつつ声をかけてくる。
透に異論などなく、沙良と協力して理子を半ば抱きかかえるようにして駅を出ると、最寄りの公園へと移った。
「何か飲み物でも買ってきましょうか?」
理子をベンチに座らせたところで、沙良は申し出た。
「俺が行くよ」
「綴喜君は、彼女をお願いします」
「分かった」
離れていく沙良の背中を見て、透はやっと一息を吐く。間一髪だった。それにしても、まさか本当に沙良が理子の居場所を言い当てるとは。ただの偶然にしても出来過ぎだ。
抜け殻のように茫然としていた理子が、俯いたまま何か呟いている。
「ん、何?」
逸れかけた意識を眼前に戻した透は、理子を窺った。
「……どうして、余計なことをしたのよ……」
「とめないわけにいかないだろ」
思わずむっとして透が言い返すと、理子は顔を上げて見据えてきた。
「だって、プロになれないのよ、もうどうしようもないじゃん! 私にとってその夢が全てだったんだよ!」
悲痛な叫びを正面から浴びせられて、透も押し黙る。
視界に影がかかり、透が顔を向けると、沙良が傍に立っていた。
「良かったら、これをどうぞ」
穏やかな物腰で沙良は買ってきたペットボトルを差し出す。
だが、理子は視線を逸らすばかりだった。無視されても気を悪くするでもなく、沙良はペットボトルを理子の傍に置くと、もう一本を透に差し出した。
「綴喜君も、どうぞ」
「すまない」
間が持たないのもあって、透は遠慮なく受け取る。惰性で口をつけたつもりだったが、思ったよりも身体が水分を欲したようで、一気に半分ほど飲んでしまった。息を吐いて、心身が落ち着くのを自覚する。だが、喉の潤いほどに頭と心の働きはそれほど滑らかにはなってくれず、理子にかける言葉は出てこない。
透が見やるばかりでいると、沙良が理子の視線に合わせるように相対して身を屈めた。
「狩野さん、まだ自分自身を粗末にするような考えを持っていますか?」
「そんなの、あんたに関係ないことでしょ。私の何を分かるって言うのよ!」
傷口を触れられて、毛を逆立てる野良猫のように理子は激しく反発してくる。
「ほんの少しでいいので、息を整えましょう、ね」
穏やかに言うや、沙良は理子のこめかみにそっと触れて目を閉じた。
「どうです? 気分は、落ち着きましたか?」
数秒そうしてから、手を離した沙良が問うと、理子は険が和らぎながらも戸惑+ったような表情になって見返してくる。
「だけど……」
「まだそうした考えは頭から離れられません?」
この場合は無言であることは、即ち肯定だった。
「もし、狩野さんが望むならですけど、その苦しい気持ちを今よりもっと軽くすることもできるかもしれません」
「……ほんとに?」
「はい。ただ、今よりもテニスが好きという気持ちがなくなっているかもしれません」
数拍の間、茫然とした面持ちだった理子であったが、意味を理解して激しく首を横に振った。
「それはイヤ。ずっと好きでいたのに、私の中から、それがなくなるなんて考えられない!」
「だけど、プロになるためのテニスができないことで、今も狩野さんはそこまで苦しんでいるんですよね? 苦しむ原因を抱えていたいのですか?」
「私にとって、その夢が一番の大事だったんだよ!」
間近で見ていた透は、沙良と理子の不思議なやりとりを戸惑いつつ見守るばかりであったが、切なげに想いを吐露する理子の姿を目の当たりにして、考えるより先に言葉が出ていた。
「そんなお前が好きだった……」
沙良は目を丸くして見詰めてきて、理子は呆気にとられた表情になる。
「あ、あんた、いきなり何を。しかも、今になってとってつけたみたいに」
「いや……そうじゃなくて……、そうじゃないってのは、この場の思いつきで言ってるってわけじゃないってことであって、俺が言いたいのは、テニスをしている姿はほとんど見たことないけど、そうやって、凄い目標を持って、そのためにずっと頑張ってきてたのは、知ってて実は尊敬していたって言うか、憧れていたって言うか、一年の頃から羨ましいと思ってたんだ。口には出さないけど、眩しく感じてたってのは、他にもいると思う」
透は焦りながらも言葉を探して重ねる。
「抱えている苦しみとか、俺に分かるわけがないって言われたらそれまでだし、頑張れとか、諦めるなとか、簡単に言えるものではないとも分かっている。でも、狩野さんはそれだけ凄いんだから、そんな凄い自分を粗末になんてしないでくれよ。でないと、俺も、とても悲しいし悔しい」
どうにか言い終えたが、直前まで潤っていた口の中はすっかりからからになっていた。
「なんか、びっくりした……」
唖然とした様子で理子はそんなことを呟いてから、尋ねてくる。
「これって、告白、じゃないんだよね?」
「えっ、あー、うん、うん、そうじゃない。別に嫌いとか魅力がないってことじゃなくて」
答えてから透は慌てて釈明を付け加える。
理子は肩を震わせて笑いを漏らした。
「なんか、おかしいの……」
一人呟いてから、理子は再び透を見てきた。
「私さ、小さい頃からずっとテニス、好きでさ」
「うん」
透は頷いた。
「小学生の時には、絶対にプロになってやるって決めてさ」
「うん」
「中学の時に、プロの人に素質があるって褒められてさ、去年もインターハイとか行けてさ」
「うん」
「自分は確実に夢に向かって近づいていると思ってたんだよね。だからさ、だからさ……」
にこやかに語っていた理子の目が潤みだして、すぐに大粒の涙がぽろぽろと零れ出した。
「だから、さ……」
それからは言葉にならなかった。
理子は声を上げて泣いた。
ひたすら泣き続けた。
「ご迷惑かけたのと、お騒がせしました」
吹っ切れた表情になった理子は深々と頭を下げた。
あれからかなりの時間が経過していて、すっかり夕暮れ時だった。
「こちらこそ、どれだけ役に立ったかなんて分からないけど……」
「鞄もそのままだし、戻りましょうか」
透の言葉に続いての沙良の提案に、透と理子は異論なく同意する。
「あっ」
学校へ戻る道すがら、携帯を取り出した理子が呟きを漏らした。
「なんか、電話とか着信とか凄い……」
恥ずかしそうに言った理子は留守電に耳を傾けてから、折り返しの電話をした。
「……心配させてごめん、もう平気、うん、ありがとう。また明日、学校で」
手短な会話を終えると、理子は苦笑めいた表情になる。
「皆瀬さんから伝言。八つ当たりみたいなこと言ってごめんなさい、だって」
ああ、と透は返事をする。意外ではないが、思いやりがあるというか律儀である
学校に到着した透と理子は、沙良と分かれて自分たちの教室へ戻った。
「鍵返しておくから」
教室の戸締りをしながら理子は言う。
「今日はっていうか、今日も本当にありがとう」
改めての礼に透は言葉もなく頷いた。
「あのだけどさ……」
「ん?」
「お礼にキスぐらいしておいたほうがいい?」
「えっ、それは、でも」
いきなりの申し出に透が当惑していると、理子はやけに挑戦的な笑みを浮かべてきた。
「人目を気にしないなら、だけど……」
理子の視線を辿って、透が振り返れば、鞄を手にした沙良が立っていた。
「まとめて返しておくから」
理子は、沙良からも教室の鍵を受け取ると足早に行ってしまう。
「もしかして、お邪魔しちゃいましたか?」
「いいや、そんなことはない、ないから」
本気とも冗談ともつかない沙良の詫びに、透はとりあえず否定する。
「じゃ、帰りましょうか」
促されたのもあって、透は沙良と一緒に帰る形になる。
「言いたいことは分かってます」
ろくに会話がないまま学校を出たところで、沙良は切りだしてきた。
「綴喜君を見込んで、お願いがあるんです」
「な、なに?」
改まった態度に、今度は何事かと透がいささか身構えながら尋ねる。
「この子を、助けてくれませんか」
そう言いながら彼女は自らの胸の手を置いたのだった。
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