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第二章 絡まる糸、途切れる糸
「なんだ、お前かよ」
近付いてくる足音に勢いよく振り返った透は、落胆を露わにする。粗雑な足音で気付くべきだったが、やってきたのは与野だった。
「誰と思ってたんだ? 狩野ならテニス部の朝練にいたぞ」
「知ってる。少しだけど、さっき話もしてきた」
登校してすぐに、球拾いをしていた理子から声をかけられていて、透は部に復帰したことを知った。「さぼりの罰もあって、当分は雑用と筋トレ」の境遇とのことだったが、再び自分が進むべき道を見つけたのか、「倒れる時は前のめり」と宣言してきた彼女に鬱屈は感じられなかった。
「昨日は何がどうなったんだってばよ? 三角関係の縺れとか言ってた奴もいたぞ」
「全然そんなんじゃないって。部活のこととか悩みが色々積み重なってたんだよ。そこら辺のところの話をちらっと聞いていたから、昨日もだから探して、ちょっと話を聞いた、みたいな」
「ちょっとって、午後まるまるさぼりだったじゃないか」
「時間的にはそうだったけど、俺は、ただ付き添っていただけっていうか、そもそも二人きりでもなかったし」
「探しに行ったのお前一人だけだろ?」
「途中で、ばったり会った別のクラスの女子が探すのを手伝ってくれたんだよ。そいつが探し出してくれて、実質、俺はついていっただけのようなもん」
ふーん、と与野は思ったよりあっさり納得する。テニス部の誰かとでも受け取ったのだろう。沙良のことにまで想像が及ばないようで、おかげで余計に煩わされず済んだ。
昨日はあれから沙良とすぐに別れていた。その際に「また明日、昼休みに屋上で」と言われている。今朝、登校中に彼女と遭遇しなかったのは、やはりそういうことなのか。
教室に入り、透が席に着くと、彩佳がやってきて、挨拶をするや用紙を差し出してきた。
「これ、昨日の授業のコピー、良かったらもらって」
「え、いいの?」
「私が原因で、授業をさぼらせることになったようなものだから」
全然そんなことないのに、と透は思うが、好意自体はとてもありがたいので素直に頂くことにする。
「それにしても、綴喜君がいてくれて本当に良かった。これからも狩野さんを支えてあげてね」
「へっ……」
彩佳はさらりと告げるや、理子とのことのみならず、沙良と屋上で会っていた件についても透に釈明の暇を与えてくれずに離れていってしまう。
当然と言えば当然だったが、厄介な誤解をしていたのは彩佳や与野だけではなかった。他の人間からも興味と冷やかしがこもったあれやこれやを向けられて、おかげで透は恋愛スキャンダルが発覚してワイドショーのレポーターに迫られたタレントの気分がどういうものか味わえた気がした。
与野に対してそうしたように通り一辺倒の返答で終始していた最中に、朝練を終えた理子が教室にやってきた。野次馬の好奇心は、最高潮に達したが、理子がいつにもましてあっけらかんに、そして、透がしたのとさして変わりない大味な受け答えで、周囲を納得させてしまい、下世話な好奇心は鎮まった。
それから、理子はいつもと同じ様子で、成り行きを見守っていた透の元へとやってくる。
「これ、貸すよ。昨日、私のせいで授業さぼらせちゃったでしょ。順番的に当たりそうじゃん。って言っても、皆瀬さんがくれたものなんだけどね」
「俺もさっき、もらったんだ」
「ああ、そうだったんだ。そうだよね。ならいいよ」
いそいそと透が同じものを見せると、想定外だったのか、理子は何か言いかけるも微苦笑めいた表情になって、これまた自分の席へと戻っていった。
昼休みになると、昼食を手早く片づけた透は教室を出た。
今度は待ち合わせ場所へ直行したが、沙良はまだ来ていない。
時間潰しにと透はポケットから文庫を取りだして手摺にもたれ掛かる。
「ん?」
若干だが傾いた感じがした。手で押してみると、気のせいではなかった。古い校舎だからこうした老朽化も仕方がないが、安全性に心もとない。教師に報告した方がいいだろうか。だが、報告したらしたで自分が壊したと徒に疑いの目が向けられるのも面倒である。しかも、触っていたら最初より揺れ幅が大きくなっているような……。透が義務感と煩わしさを天秤にかけていると、沙良がやってきた。
「遅くなってすみません。今日は逆になってしまいましたね……何してるんですか?」
「別に、大したことじゃない」
透は少し安心する。第一声で分かっていたが、表情もまとう雰囲気もいつもの沙良だ。
「狩野さん、テニス部に戻ったみたいですね」
「知ってたのか」
「はい、朝方、部活に参加している姿を見掛けました。元気そうで良かったです」
「それで、今度は何の話なんだ?」
「これから話すことは、真面目に聞いて、決して変な人だと思わないでくださいね」
とっくに変人認定している場合は、どうしたらいいのだろう。
「綴喜君!?」
「分かった、分かった。真面目に聞くし、変な奴とも思わない」
約束ですからね、と沙良は念押ししてから切り出してきた。
「実は、私は藤間沙良ではありません。それは世間的というか、元々の彼女の名前であって、私のことではないんです」
やっぱり魂の名前とか、真名が登場する展開なのか。透は身構えたが、前置きをした沙良はそれを気にした素振りもなく自分の胸に手を置いた。
「私の本当の名前は二紫野真美といいます」
別の名前を名乗った少女は、少し寂しそうに続けてくる。
「この身体の持ち主である藤間沙良さんとは、全く関係がない別の人間です」
突飛な告白は、透を唖然とさせるとともに困惑させた。それが何によるものか、はっきり形になる前にしゃぼん玉のように弾けて消えてしまう。
「……綴喜君?」
そっと呼びかける沙良の声に透は我に返ると首を頻りに横に振った。
「いやいやいや、いきなりそんなこと言われて、どう反応しろって言うんだ。さらりと言われて、はいそうですかって受け入れられないって」
「どうしたら、信じてくれますか?」
「え、えー……そうだな、せめてその本物の藤間沙良が別にいるっていうのを証明してくれたなら、まだ信じられるかも」
「だから、昨日、ここで……少し、待っててくださいね。お願いしてみますから」
言うや否や沙良は目を閉じる。
宇宙からの交信か、と突っ込みたくなる気持ちを抑えて透は大人しく待つ。いつだったかのテレビで重犯罪を犯した多重人格者が他人格の入れ替わりをしてみせた光景を連想させた。
焦れるぐらいの間を経て、ようやく沙良はゆっくりと目を開けた。
こちらに向けられる無機質な眼差しに、透は思わず息を呑んだ。直前の柔らかな雰囲気が一変して、別人であると頷かせる差異が確かにあった。容姿に何の変化がないのに、人はこれほどまでに印象を変えられるものなのか、といった驚きとともに、その印象に対して真新しい記憶があった。まさに昨日、ここで会った彼女である。
「あんたが、藤間沙良……?」
透は恐る恐るといった体で尋ねてみる。
「一応、そうです」
「一応?」
「他人から見たら、あの人だって、藤間沙良です」
なるほど、と透はつい頷いてから、念のために確認してみる。
「昨日、ここで会ったのって……」
「私です。あの人がどうしてもと言うので」
昨日の彼女が繰り返し目的の人物が自分であると言っていた理由を透はやっと納得する。
「あんたが本物の藤間沙良だとしたら、ここ最近は……」
「はい、四月初めに真美さんが私の中にやってきたからは、ほとんど彼女が表に出ています」
つまり、今、眼前で愛想のない彼女こそが、本来の藤間沙良ということか。理子が驚きながら話していた沙良像を思い出した透は、そこに違和感を覚えない。
「信じてくれましたか?」
透の驚きや混乱などお構いなしのように、素っ気無く沙良は尋ねてくる。
「まあ、何となくは、かな。まだすっきりはしないけどさ……」
説得力はあるが、まだ信じられない部分もあった。世の中には、演技の訓練を受けたわけでもないのに、時にその道のプロでさえ誤った判断をしてしまうぐらいに詐術が巧みな大した人間だっていたりする。目の前の少女がそうではないとは、一介の学生に判別できない。
「ん? 何か変なこと言ったよな……二紫野真美は、やってきたって言わなかったか?」
「言いました」
「それって、どういうことなんだ?」
「真美さんに聞いてください」
一方的に言うと、沙良は目を閉じてしまう。
またも待たねばならなかったが、先程よりも早く彼女は目を開いた。表情から受ける印象がまたもがらりと変わった。真美という別人格に入れ替わった、と透が信じてもいいくらいには。
「もう! 沙良さんったらっ! すぐに引っ込んでしまうのだから!」
「……えっと」
「はい、真美です」
「えっと、さっきまで、沙良と話してたんだけど」
「勿論、分かってますよ」
真美はくすりと笑う。お淑やかな性格という印象ではあるが、沙良と話した直後だと笑い上戸なのではないかと思うほどの落差があった。
「表に出ている人格が橋渡ししてくれるからですが、基本的に外からの情報は共有できています。それができない場合でも、後で私と彼女との間では個別にやりとりができますから」
「面倒がなくていいな……」
いわゆる多重人格者の中には、別人格と入れ替わっている間の記憶が全くないとか、入れ替わっていることにさえ自覚がない場合もあるという。それらに比べれば当人たちにとっても、きっと他者にとってもいらぬ混乱がもたらされないのはいいことだった。
「なら、教えて欲しいんだけど、沙良が言っていたのは、どういうことだ?」
「これも、疑わずに信じて欲しいんですけど」
真美はまたもや前置きをしてくる。
「私は、二紫野真美は、実在している人間です。今は、私の意識が身体から離れて、沙良さんの身体の中にこうして入り込んでしまったんです」
これまたファンタジーな。あまりに現実離れした話で信じられなかったが、頭ごなしに否定するわけにもいかず透は一応は真に受けることにする。
「それだと、あんたの身体は今どうなっているんだ?」
「……眠っています。ずっと、もう何年も……」
「何年も?」
「はい。私は事故が原因で入院をしていて、意識を取り戻せずにずっと眠り続けています」
「それで、どうして、藤間沙良の中に?」
「信じられないかもしれませんけど……」
真美は繰り返しその言葉を口にする。
「ある時から、私の意識は身体から抜け出るようになったんです。幽体離脱とでも言うのでしょうか。そんな存在になって、外へ出歩けるようになったんです。おかげで、変な噂が立つようになっちゃいましたけど……」
不思議なくらい透はすぐにピンときた。
「まさか、それって、マミコさんとか言われてたり?」
「その通りです。実は私です」
小さな悪戯を白状するみたいに、真美は肯定してきた。
「なんで、そんなことができたんだ?」
「私、魔法少女なんです。だから、魔法が使えるんですよ」
「えっ!? 本当に?」
「ふふふ、そういう設定です」
にこやかに言われて、透はしばし瞑目した。
「……これは怒っていいのか?」
「ああ、冗談です、冗談。ごめんなさい。綴喜君はきっと、私をそんな変な人間と見ているだろうと思ったから、だから、言ってみたかったんです」
詫びつつも真美の指摘は間違っていないだけに透も苦笑するしかなかった。
「魔法使いは冗談ですけど、ちょっと変わった力があるのは本当です。強い思いを抱えている人の心の声が聞こえたりするんです。他には、その人が持つ心の痛みをなくしたりとかも……」
つまらない冗談ではないが、非現実的なのは変わりがない。ただ理子の件もあって、透としても受け入れられない話ではなかった。
「意識が身体から出られたのは、そうした力を持っていたのと関係があるのかもしれませんが、事故に遭う前からできたわけではないので、本当のところは私にも分かりません」
「どうして、また藤間沙良の中に?」
「元より不自然なことをやっていて無理が生じてきたのか、私の身体の方が駄目になってきているのか、段々と力というか存在がなくなっていたんです。そんな時に沙良さんに出会って、話の流れでそのことを口にしたら、沙良さんは、それなら私の身体に入ってみないかって」
「え、なんで?」
「何となく、思いついたので言ってみたとのことだったんです……私もまさかできるとは思わなくて、ものは試しとこうするりと……」
真美はその時に実際にやったであろう動作をしたのだが、まさに幽霊が憑依する様だ。
「ものの見事に入れちゃった、わけか?」
「そういうこと、ですね……」
真美は自嘲と困惑が入り混じった返事に、透は察した。
「もしかして、入ったはいいが出られなくなった、とか?」
「何分、初めて尽くしだったので……」
間抜けな話だな、と言いたくなったが、透もさすがに口にするのは躊躇われた。
「でも、それをどうにかしたいと言うのなら、霊能者とかが専門じゃないのか?」
「私は幽霊じゃありません! ……半分はそんなようなものですけど」
勢いよく抗議しておきながら、真美は次にはがっくりしてくる。直前まで妙に落ち着き払った印象だったのに比べて、今の真美は怒ったり凹んだりやたらと忙しい。
「ということは、昨日、言ってた、あの子ってのは……」
「はい。相談したいのは、沙良さんのことです」
「もしかして、同居生活が、上手くいってないのか?」
ひょんなことから、別の人格が他者の身体に入り込むなんて設定の物語に透は幾つか心当たりがあるが、大抵は元の人格とやってきた人格の間で諍いがつきものである。だが、真美はあっさり否定してきた。
「沙良さんとは最初から仲良くしてもらっています。留まっているのも、沙良さんが受け入れてくれているからこそでしょうし、こうして表に出ているのも、そもそもは沙良さんの好意だったんです」
「どういうことだ?」
「ずっと身体は眠っていて、意識はあっても実体がなかった私に、沙良さんが気を遣ってくれたと言いましょうか。せっかくだから、入れ替わってみないかと……」
真美から申し出たのではないとは、やや意外だ。本当の藤間沙良について、透はほんのわずかしか知らないが、そこから得られる印象よりも随分と思い切りがいいらいし。
「私としてはできるだけ変わりなくしていたつもりだったのですが、無意識にしろはしゃいでしまったところもあったみたいで……」
「ああ、なるほど」
透は納得する。人格ごと変わったならば、それまでの沙良の印象しかない他者からすれば驚きしかないだろう。沙良と比較すれば、真美は実に表情豊かで闊達だ。周囲が戸惑ってしまうのも頷ける。
「それで、困ったことになってしまって……」
「どうしたって言うんだ?」
「私が表に出る方が上手くいっているからと、沙良さんが出てこなくなってしまったんです」
「問題なのか? そりゃ将来的にはまずいことぐらいは分かるけど……」
「まずいどころの話ではありません! そのせいで沙良さんの存在が、どんどん小さくなってしまっているんです。このままでは、いずれ沙良さんの人格は消えてしまって、私の人格だけになってしまうかもしれません」
行く末を想像して透は一瞬、言葉に詰まる。
「本人は、知っているのか?」
「沙良さんは承知の上で、この状況に納得してしまっているんです」
真美は困り果てたように言ってきた。
「ってことは、要するにだ。相談ってのは、あいつが考え直すのに協力しろってことか?」
「はい」
あっさりと頷かれて、透は天を仰ぎそうになった。
「俺に何ができるっていうんだ? 大体、なんで俺にそんな話をした?」
「一番の理由は沙良さんが多少でも興味を持ってくれた人だったからです。あと、他に理由を上げるとすれば、運命的なものを感じたから、でしょうか」
真美からさらりと言われて、透は反応に困った。便利に使っているだけな気がするが、幼い顔立ちに似合わない大人な雰囲気をまといながら確信を込められると、妙な説得力がある。
「だけど、それこそ専門家、ってカウンセラーとかだぞ。そういうのに任せた方がいいような。この学校にだって常駐じゃないがいるし、教師でもそれっぽいことして、特に女子に頼りにされているのがいるぞ」
「沙良さんは絶対に聞く耳を持ちません。どうにかお願いした結果とはいえ、綴喜君と会うためだけに二度も出てきてくれたことは、異例なんですよ」
「へえ、そうなのか」
透の反応は、意識せず皮肉気になる。欲してもいない、何より美味いとも思えない珍味を持ってこられて、これは貴重だからありがたく受け取れと言われたみたいな気分だ。
「だから、お願いします。手伝ってください」
律儀に頭を下げる真美を前にして、透はどう答えるべきか迷った。
真美の話を嘘とは思えないが、全面的に真に受けていいものか。ただ、なんであれ面倒事には変わりはない。協力しても見返りはないだろうことを考えれば、断るのが無難だ。ただ理子の件では、透自身も恩を感じるところがあったし、不謹慎かもしれないが、退屈さを感じる新学年の日々もあって、興味が刺激されるところはあった。
「まあ、何が出来るってわけでもないと思うけどさ。それでいいなら」
「ありがとうございます」
ぱっと顔を輝かせて、真美が礼を述べたのと同時に扉が開いた。
現れたのは三年の女生徒だった。背が高くて、短めの切り揃えた髪型とはっきりした顔立ちはいかにも理知的な優等生といった印象である。
彼女と会うのは初めてではなかった。昨日も、真美、ではなくて、藤間沙良と話をしていた時にやってきた。まさか二日連続で遭遇が起こるとは。向こうも同じ思いを抱いたようである。
「あ、また、邪魔しちゃった?」
「いいえ、大体の話も終わっていましたから」
昨日の沙良は無言でさっさと立ち去ってしまったのだが、真美は誰にしてもそうである柔らかな物腰で答えた。同じ姿で、同じような場面で、それぞれの人格の対応を見せられると、より一層、個性差の違いを、透は考えさせられる。
「本当に良かったの?」
気遣わし気に確認してきた女生徒は、本を抱えていた。カモメという題名とチェーホフの名が見えた。
ちら、と真美は透に同意を求めるように見てきた。透としては話したいことがないわけではなかったが、この場での、密談に固執するほどのことでもない。
「はい、失礼します」
透は答えると、真美とともに屋上を後にした。
用事を片づけて職員室から出て行こうとした密に、美術教師の村方が話しかけてきた。
「次、授業だったかい?」
「いえ、いつものです」
携えていたスケッチブックを示しつつ密が答える。
「そうかそうか、熱心だね。君は学生の頃も美術部でもないのによく絵を描いていた」
穏やかに言う老教師は、密の在学時から、この学園にいた。担任になったこともあったが、学生時代は特段、交流があったわけではなく、美術の面でも特に手ほどきを受けていない。実感を伴って恩師と呼べるほどではなかったが、穏やかな人柄に今も昔も悪い印象はなかった。
「それにしても、授業を受け持ってくれているだけでもありがたいのに、色々と余計なこともさせてしまっていて、すまないね」
村方が言っているのは、生徒たちの相談役になっていることだった。密が職員室に訪れていたのも関連の報告書の提出のためだった。
「無理も無茶もしないようには心がけていますよ」
密は如才なく答える。相談役として生徒から頼りにされていることについて、教師たちの反応は様々だった。面倒ごとを押し付けられて便利だと考える者もいれば、本職の自分よりも生徒に信頼されているとやっかむ者もいる。どちらであれ煩わしいのが密の正直なところであったが、口には出さない。
「頼んだ身でなんだが、そうしてくれるとこっちもありがたい」
「先生こそ、くれぐれも無理しないでください」
密が母校の美術講師の職にありついたのは、当時、担当教諭の村方が長期入院することになって、自分の代行にと斡旋してくれたからだった。村方は密の担任であった頃にも大病を患って休職している。職場復帰はしたものの完治したわけではなく、以降も度々入院をしていた。
「どうにか定年まで頑張るよ」
密が学生だった頃に比べて、年齢以上に老け込んでしまった感がある村方は、かつてと変わらない穏やかさで決意を述べてから、密を見てきた。
「何か?」
「いや、いいんだ。いいんだよ、気にしないでくれ」
旧師のこんな不可解な態度は、今に始まったことではない。授業のやり方や生徒への接し方について意見があるのかと思い、幾度か密から尋ねたことがあったが、それはきっぱりと否定されている。
今回もまた老教師は何も言いはしなかったので、密も尋ねもせずに話を終えると、職員室を後にする。
密が廊下に出たところで、生徒指導室の扉が開き、狩野理子が姿を現わした。
気疲れした、と離れた場所からもはっきり分かるほど息を吐いていた理子は、密に気付くや、幾分、躊躇った様子になって、近付いてきた。
「そ、その節はどうも……」
「俺は何もしてないよ」
どうにも決まりが悪いといった体ではあるが、理子の表情には深刻な翳は見受けられなかった。何かあったのだろう。たった一日で彼女の問題が何もかも解決したとは思えないが、それでも、今の状況で自分なりの歩み方を見つけられたのかもしれない。
「気休め程度にしかならないだろうが、何かあったらまた気軽に話をしてくれていい」
はい、と遠慮が少なからず伴った苦笑で理子は返してくる。
「そういえば、君に聞こうと思っていたんだが……」
密が尋ねようとしたのは、昨日の理子の行動である。彩佳からあの後に何があったかおおよそ聞いてはいたが、詳細は不明だった。理子から相談を受けた時に見た幻覚のようなものは、直後の理子にあったことと関連があったのか。
「なんですか?」
だが、密個人の都合で、生徒の繊細な事情に踏み込むことへの躊躇いが優った。
「いや、今日はどこで絵を描くかまだ決めてないんだが、いい場所はないかと思ってな」
「よく描いてますよね。でも、私、詳しくないからなあ」
窓外へ向けられた理子の視線が止まった。密も、そちらを見れば、北棟の屋上に誰かいた。あれは昨日、理子を探しに郊外へ飛び出た綴喜であった。この位置からは彼の姿しか見えないが、どうやら一人ではない様子である。
「すみません、ちょっと思いつかないです」
何事もなかったかのように言うと、理子は一礼して密の前から去っていく。
一人になった密はとりあえず南棟を出る。丁度、綴喜らしき生徒が一緒にいたであろう女子生徒ともに北棟から出てきたのが見えた。
だから、というわけでもなかったが、密は北棟へ行くことにした。北棟の二階には、密の実際的な職場である美術室がある。馴染みのある建物と言えたが、向かったのは講師として戻ってきてから一度も足を運んでいなかった、屋上だった。
校舎棟の中で、北棟のみ屋上が解放されている。学校側は風紀と安全面から立ち入りを禁止したいのだが、現在まで実現していないのは、北棟屋上が学生運動が盛んだった時代に生徒たちの抗議集会所だったそうで、その伝統を引き摺るOBらが許さないとの噂がある。真偽がどうであれ、密の在学時には煙草の吸殻が見つかって、全校集会で話題にされたりしたのに、今やそうした意味においてすらすっかり寂れた場所になっていた。無意味な伝統も、あと数年もすれば、建物ごと取り壊されて消え去る運命だろう。
階段を昇り切った密は屋上の扉を開ける。
相変わらずの退屈なだけの風景、との最初の認識は、だが、次の瞬間に強烈な感情に揺さぶられる。
眼前には夕焼けを浴びた女生徒が佇んでいて、こちらに気付いて振り返るや微笑みとともに何事か語りかけてくる。
「双川先生!」
狼狽めいた呼びかけで、密ははっとする。
目の前にいたのは、三年女子の支倉千早だった。容姿も雰囲気も、自分を前にした反応も、密の意識の表層に出現してきた少女のそれとはまるで異なる。
「なんか、用ですか? というより、ヤダ! もしかして、聞いてました!?」
問われて、密は開ける前から扉越しに台詞らしきものが聞こえていたのを思い出す。
「何か困るのか? そういう道に進みたいんだろう?」
密の冷然とした指摘に千早はしゅんとするも、切り返すように切実な表情をしてきた。
「なら、教えてください。私の台詞、どうでしたか?」
「絵描きに演技について聞いてくれるな」
「だけど、ほら、同じ芸術家なんですから」
「医者だからって、眼科医に胸の痛みについて答えてもらったなら、お前は安心できるのか?」
「……先生も、やっぱり反対なんですか?」
どこまでも冷淡な密の態度に、叱られた子犬のような眼差しで千早は尋ねてくる。
「昨日も面談で言ったろ。賛同はできない。なりたいと思ってなれるような職業じゃないし、なれなかったら悲惨だ。カモメに出てくるニーナがまさにそうじゃないか」
密は彼女が手にしている戯曲を見やりつつ言う。
富豪の娘でありながら、何もかも捨てて女優を目指した彼女は、舞台終盤に赤貧で喘ぐ姿で再登場する。女としての幸せも得られなかったと嘆くも、なお芝居にとり憑かれていた彼女の生き様を、どれほどの人間が幸せだと共感できるだろうか。
しかも、そんなニーナと千早には重なる部分があった。どちらも、代々続く医者の家系のお嬢様なのだ。おまけに千早は、優等生であったので、誰からも親の後を継ぐために難関の医科大学へ進学するものだと思われていた。ところが、高三になり、いよいよ進学先を確定しようとする矢先に、何を思い立ったのか、役者になりたいと言い出した。担任も、これには仰天して考えを改めさせようとしているのだが、千早は聞く耳を持たないために、職員室でもちょっとした騒動になっていた。
この件について、密は千早、担任双方から愚痴と相談を受ける羽目になってしまった挙句に、双方から相手を説得する手助けをしてほしいと懇請されて、先日などは進路相談と称する対決の場に引っ張り出されてもいた。
席上、控えめながら仲裁役に徹した密ではあったが、学校での立場を抜きにしても千早を積極的に応援するまでになれない。美大に進学した密は、様々な芸術分野の職業を志望する知り合いを得たが、今や彼らの半数は転向し、残りの半数は未だにその道に留まってはいても、ほとんどがろくに当てもない生活を送っている。専門的な教育を受けてきた中でさえ、どうにか食べていけている自分がどれほど運に恵まれているのか、当の密がよく分かっていた。
「あれから親御さんには話をしたのか? まだなんだろ?」
「……分かりますか?」
面談では、千早は親に進路希望を伝えたかどうか誤魔化していたが、恐らく担任もその程度のことは見抜いている。
「近々、話をするつもりで、今、時機を探しているんです。ただ、確実に大激怒します。特に母の中では、私は、医者になるのが確定しているので……」
「両親の説得ができないうちは、俺としても何もできない」
当てにならないと密かより告げられて、千早は神経質に眉を顰める。
「先生は、今の道に進もうと決めた時、親から反対されなかったんですか?」
「女優を目指すよりも、難しくない職業だったからな」
実際のところ、どちらが難しいと簡単には言えない。ただ、美大に進学して絵描きになれなくても、何かしらの関連の会社に就職はできるが、演技の場合は劇団や養成所に入ってもプロになれない場合は、就職のフォローをしてくれるわけではない。専門の学科がある大学に通っても、そっち方面の人間から以前聞いた話では、プロになる可能性においても就職においても、強い利点になるわけではないようだった。そもそも、千早の親からすれば何の妥協点にもならない進路だろう。
「理解がある両親だと良いですね……」
「理解なんて全然なかったさ」
千早から羨まれての密の反応は、自然と辛辣なものになる。
密の父親は金融マン、母親はエステの経営者だった。どちらもかなりのやり手で、収入だけでなく、名声にも恵まれていた。おかげで家は裕福であったが、密が小学校高学年になった頃には両親はすっかり仮面夫婦になっており、どちらも家庭よりも大事な相手が外にいた。
それでいて、両親は非常に世間体を気にした。自分たちが崩壊の原因を作りながら、他者が羨む家庭を演じ続け、密にも当たり前にそれを強いた。密が絵を描くようになったのは、口煩い親からの干渉を忌避して、自分の世界に没頭できたからというのもある。息子の心情など露知らずの両親は、良家の子息にお似合いの高尚な趣味だと無邪気に歓迎し、美術道具の購入費用に出し惜しみはしなかった。それで親の責任は立派に果たしていると言わんばかりだった。
美大への進学は確かに反対されなかった。ところが、いよいよ受験する時期になって、事態は急変する。折からの不況で、両親どちらも仕事が立ち行かなくなったのだ。自分はどうなっても子供の将来だけは守る、などといった殊勝な考えを露ほども持たない両親で、その結果が密への無関心と不干渉であったが、この時も例外ではなかった。おかげで、密は、人生で最もそれが必要だった時に、あれほど見せつけられてきた親の力を当てにできなかったのである。利用できる奨学金を探し、親族間を駆け回り、アルバイトまでして必死に学費を調達した。
何とか密が美大進学の道を確保した頃、両親は何よりの自慢だった富と名声を全て失っていた。
密からすると呆れを通り越して、感心しかないのだが、不義の相手はどちらも、すっかり没落した両親を見捨てなかったらしい。もはや取り繕うべき体面もなくなった両親は、「真実の愛に目覚めた」らしく、密が大学生になって間もなく離婚するや、それぞれの相手と再婚した。彼らの人生に密の存在はなく、密にとっての両親もまた同様だった。
自らが描いた未来への道を進もうとするにあたって、とにかく両親から突き放され、また両親を突き放していた自分と、両親がしっかりと手綱を掴んで離そうとしない千早とどちらがましなのか、比べるつもりは密にはない。ただ、当時の自分と今の千早では大きく異なるところがあった。
「最低限の保護者の理解は必要だし、それを得るためにも、自分の将来についてちゃんと向き合って考えた方がいい」
「真面目に考えて、本気で目指したいんです」
「本当にそうか?」
「本当です!」
千早は強く言い切るが、密がじっと見詰めると怯んだ気配を示した。
迷い、がある。普段、はっきりしている性格なだけに、余計に浮き彫りになる。成功するかどうか、といったありがちな不安は皆無ではないにしろ、それが主な理由ではない。千早との幾度かの話から推測するに、数か月前に亡くなった病院長だった祖父の件が原因のようだ。
「先生も、やっぱり一時の気の迷いみたいに思っているんですか?」
「そうは思ってないさ。ただ、迷いがある、押し切れるとの印象を相手に抱かせるうちは説得なんて難しいだろうな。どっちにしろまだ一学期だから、焦らなくてもいいんじゃないか」
密の無難な助言に重なるように、チャイムが鳴った。
気落ちした様子で千早が出ていくと、密は何とはなしに校内を行き交う生徒を眺める。
もう少し親身に相談に乗るべきだろうか。
そういえば、かつて自分もこの場所で将来に関する話をしたことがあった。
あれは、誰とであっただろう。はっきりとその記憶はあるのに、もどかしいほどに思い出せない。
屋上に来た時に浮かんだ映像が、再び蘇りかける。
焦慮に駆られながら密はスケッチブックを広げるも、手は途方を暮れたように止まってしまうのだった。
やはり、安易だっただろうか。
午後の授業を右から左へ聞き流し、掃除の時間になっても透はとりとめなく考えていた。今更ながらの後悔めいたものは、多少なりとも当事者意識が芽生えているということか。具体的にどうしていくかは、放課後にまた真美と話をすることになっているけれど。
「おうい、綴喜、なにぼーっとしてんだよ?」
与野に呼びかけられて、透が現実に意識を戻す。一緒に掃除していた面子たちが集まっていた。
掃除と言っても、目立ったゴミと一通り掃いて集めた埃塵を集めてごみに捨てる程度で、ちゃっちゃとした作業で終了する。最大の労働は焼却炉へのごみ捨てで、透たちはいつもじゃんけんで決めていた。
「あれだな、他のところで運を使い果たしたんじゃないか」
結果を前にして、勝者の一人となった与野が珍しく機知と皮肉を利かせたことを言ってくる。
談合したわけでもないだろうに六人参加で、一発勝負で自分の一人負け、という状況では透もその言葉を甘受するしかなかった。自分の置かれた状況が幸運によるものとは思えはしないのだけれど。
焼却炉に行き、舞い上がる埃と灰に顔をしかめながら透がゴミを中へ放り込んでいたら、同じく教室内で溜められたゴミ袋を抱えた彩佳がやってきた。
「ついでだから」
透は、手を差し出した。単純な善意もあるが、彼氏が出来たと知って、好きだった子にいきなり冷たい態度をするのもあからさま過ぎる。
半拍の間を置いて礼とともに彩佳が渡してきたゴミを、透は焼却炉へ放り込む。
教室へ一緒に戻る形になって歩いていたら、途中で彩佳が意外な話題を持ちだしてきた。
「都築君って、藤間さんと、仲が良いんだね……」
「えっ、そ、そうかな?」
透は動揺してしまう。
「藤間さん、急に雰囲気変わったみたいだけど、ひょっとして、綴喜君のおかげだったりするの?」
「全然、関係ないよ。初めて話したのが、一昨日かそこらだから」
事件捜査に訪れた刑事にアリバイを問われた時のような心情で透は言う。しかし、口にして自分でも思うが、ほんの数日前まで存在すら知らなかった相手に随分と近付いたものだ。彩佳との距離はどれほども縮まらないのに。しかしながら、彼女がこんな話題を降ってくるとは。同性との間ですら、むしろ避けているように見えるのに。
「藤間さんって、そんなに一年の頃と感じが違うの?」
「私は、ほとんど話したこともないからよく知らないけど……とても大人しい子だったよ」
彩佳はさも言葉を選んだ様子で答える。
「だから、恋をすると変わるって話は、やっぱりそうなんだって思ってたって言うか……」
「ほんとに俺は違うから」
透はついむきになって否定をしてしまう。大体、藤間沙良は性格が変わったのではなく、人格が変わっているのだ。そのことを明かしたくなったが、さすがに信じてはくれないだろう。
「うん、信じていないわけじゃないから」
彩佳は面食らったみたいで、内心で恥じた透は何とか矛先を逸らそうとする。
「皆瀬さんこそ、何か変わったみたいな自覚はあるの?」
「どうして、私が変わるの?」
「え、だって、付き合っている人が……」
言いかけた透と、彩佳との間で探り合うような視線が交差した。
「そのことなんだけど、本当は先輩とは付き合ってもいないの」
「え、そうなの? だけど……」
「そういう話になってしまっているだけなの……」
噂のイケメン先輩とは、デート的なものはして、交際も申し込まれてはいた。その場では断ったのだが、先輩がそれでも諦めていないのが中途半端に広まって、いつの間にかすっかり既成事実化してしまっていたという。
「だから、改めてはっきり断るつもりだったんだけど……」
「そうだったんだ」
彩佳の気まずそうな白状に、思わずにんまりしそうになった透は、顔を見られるのを回避するために一歩先を進む。
「あ、でも、それなら周りに言われた時も否定しておいた方が……」
「そうだったんだけど……」
透の視界の隅で、彩佳は複雑な表情になっていた。
「やっぱり誤解が広まらないように……きゃっ」
短い悲鳴がして、彩佳が倒れ掛かってきた。
透は咄嗟に彼女の身体を抱き留める。だが、不安定な体勢から力が入らず、足音高く階段を三、四段滑り落ちて、どうにか踏み止まった。
「ど、どうしたの?」
転落に至らず安堵しながら、透は尋ねた。
「誰かとぶつかったみたいだったんだけど……」
彩佳が戸惑った様子で答えてから視線を落とす。突発的事情とは言え、透は彩佳と密着していて、しかも、支えた手は危ういところを触れそうになっていた。
「こ、これは」
「どうした? 何か物音がしたようだったが……」
慌てて、透が釈明しようとしたら、よりにもよって双川が割って入ってきた。
無粋な、とのいくらかの思いを透の心中で過ぎったが、腕の中の彩佳はといえば、息を呑んで身を固くするや、次の瞬間には押しのけるように離れてしまっていた。
「な、何でもありません!」
そして、彩佳は逃げるように走り去ってしまう。
透は取り残され、双川の冷ややかな視線を一身に受ける羽目になる。
「何があった?」
声は落ち着いていたが、眼差しと同じくらい冷たさがあった。女生徒に特に人気な双川の端正な佇まいは、こういう時だと妙な迫力が伴う。後ろ暗いところがないのに透は嫌な汗を感じていた。
「別に、何もです。ただ、皆瀬さん、あの子が、階段を転びそうになったので、自分は支えただけになったみたいな」
良からぬことをしたと疑われているのだろうか。透からしたらとんでもない誤解なのに、双川の目付きは虚偽を探るようである。
だが、言葉に出してきたのは別のことだった。
「君は、綴喜君だったな?」
「はい、そうですが……」
「狩野理子とは仲が良いんだよな?」
「まあ、一応」
透は曖昧に頷く。
「昨日、彼女と一緒にいたのは君だな?」
どうして、そのことを。一年の時に美術の授業を受け持っただけで、昨日、理子を探す間際に久しぶりの会話をしたぐらいしか接点がない雇われ講師が、そんなことを把握しているのか。
「はい……」
「あの時に会ったのは、狩野理子を探しに行くためだったんだな?」
「はい」
探られる意図が分からないながらも、透はこれには素直に頷く。
双川は何事か考え込むような顔になった。
「あの、早く教室に戻らないと……」
理由が分からず、落ち着かない気分になってきた透は、そう理由を口にしてこの場から去ろうとする。
「あの後、彼女を見つけたそうだが、どこにいた?」
「駅ですけど……」
透の答えに、双川はさらに難しい顔になっていた。
「もういいですか?」
何が気になるのかは分からないが、藪蛇になるようなことは避けたかった透は、双川の返事を待たずにその場から離れることにした。
教室に戻ると既に担任がいて、遅いと透は注意された。
それもあったわけではなかろうが、手短にHRが終わる。
彩佳に詫びておかないとと透は思ったが、目が合うとすぐに逸らされてしまった。もし、あれがラッキースケベに入るのなら、明らかに割の合わない代価を突きつけられている気がする。
失恋してないと分かっても、これでは収支が合わないではないか。何とか誤解を解きたいのだが、生憎、真美との約束もある。後ろ髪を鷲掴みにされる想いに囚われながら、透は教室を出る。
「どうしました? 浮かない顔をして」
直後に、待っていたらしい真美が声をかけてきた。
「別に……」
透が言葉少なに応じると、真美は小首を傾げる。心の声が聞こえるとのことだったが、どうやら自分の今の声は聞こえてないらしい。
とりあえず話をするために、とまた北棟の屋上に移った。
「ここ、気に入ったのか?」
「この学校にいた頃から、よく来ていましたね」
「いた頃って……学校に居ついていたのか?」
「違います! 地縛霊みたいに言わないで下さい。私、この学校の生徒だったんですよ」
「えっ? それ、冗談ではなく?」
「こんなことで、嘘を言ってもしょうがないでしょう」
そうかもしれないが、中々に驚くべきことである。
「先輩、だったのか……」
「はい、先輩なんですよ、後輩君」
自分と年は同じ、見た目はそれより幼い姿の少女から、余裕たっぷりに言われると、相当に違和感がある。
「ずっと気になっていたんけど、心の声が聞こえる他にできることがあるって言ってたよな。人の持つ心の痛みからなんとか、あれってどういうことだ?」
「……狩野さんにも少し使ったのですが、結果的に辛い記憶を忘れさせることができるのです」
「記憶消去ができるってことか?」
これまた透は驚いたが、理子の時のやりとりから疑う気にはなれなかった。
「あくまで、結果的にです」
真美は念押しするように繰り返す。
「記憶を操作できるのではなくて、辛いことやストレスに感じていることを忘れたいという心の働きを促す能力です。その結果として辛い記憶がなくなる、というのがより正しいと思います」
好き勝手に他人の記憶を弄れるわけではない、ということか。それでも、凄い能力であるのは変わりなく、魔法少女はあながち冗談とも言えない。
何か言いかけて、真美が扉を見た。数拍置いて開き、姿を見せたのは、昼休みの時の三年の女生徒であった。
またか。透は思わず芸人風のツッコミでもしたくなったが、相手も同様の思いであろうことは表情が雄弁に語っていた。
「すみません、私たち、別のところに行きますね」
先んじて真美が言ったので、透も出ていこうとする。
「待って」
女生徒が呼び止めてきた。
「あ、あなたたち、今、少し時間ある!?」
「ないわけじゃないですけど……」
横目で真美の反応を見やりつつ、透が答えた。
「突然の話で悪いんだけどね、あ、私、三年の支倉千早」
言われて、透たちも名乗り返した。
「それでだけど、変な奴と思われてもしょうがないんだけど、お願いがあるの……」
言いながらいそいそと千早が鞄から取り出してきたのは、あのカモメの戯曲で、この中にある場面の一部をこれから演じるから観てほしいとのことだった。
「私はいいですよ」
変な頼みであったが、真美が応じたので、透も異論は唱えなかった。
透たちは隅に寄って、適当なところに腰を下ろす。
「で、では……」
理知的な風貌との落差もあって、千早からやたら緊張している気配が伝わってくる。
「ひ、人も……」
第一声からひっくり返っていて、透も自身がひっくり返りそうになる。
「先輩、リラックスです。深呼吸してください」
さすが年長者というべきか。真美は落ち着き払って励ましてくる。
顔を強張らせた千早は素直に応じると、少しの間を置いてから演技を再開した。
「……人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない……」
最初こそ、見ている透も肩に力が入りそうであったが、後半になるに従って千早からぎこちなさが消えていった。
やがて、長い台詞を言い終えて、演じる役で退場していった千早は透たちの前に戻ってくると、深々とお辞儀する。
真美が拍手しだしたので、透も倣う。
「変なことに付き合ってくれて、ありがとうね」
たった数分の演技であったが、流れる汗をハンカチで拭いながら千早は礼を言う。
「何か発表でもあるんですか?」
「そういうわけじゃなくて。演技力の向上には人に見てもらうのがいいって本にも書いてあって。私、結構上がり症で、芝居の経験もなかったから……」
髪を触る千早の指は小刻みに揺れていて、まだかなり緊張が残っているみたいだった。
「将来は、そちらの道に進まれるんですか?」
「希望しているんだけどね」
真美の問いに、千早は小さく肯定してきた。
「夢、かなうといいですね」
「ありがと、初めて言われた」
千早は照れくさそうに微笑で応じる。
彼女の練習の邪魔をしても悪かったので、透たちは場所を移ることにした。
「本当に、夢がかなうといいですよね」
後にした屋上を気にした様子で、真美は本人に言ったことを再び呟く。
「何か、感じたりしたのか?」
「ええ、そうですね。ただ、狩野さんほどの深刻さはないみたいです」
流れで、真美はもう一つの能力についても語った。他人の心の声が聞こえるのだが、ただしこちらも自由にできるものではないという。強い願い、それも助けを求めるような声で、親和性があるのか、十代の同性の声が聞こえやすいとのことだった。
「沙良さんの中に入る前はかなり聞こえていた、というか、引き寄せられていたというべきかもしれません。ふっと気がついたらその人の近くにいたみたいな……こう言うと、幽霊そのものみたいですよね」
都市伝説のもとになった状態の時のことを説明する真美は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「藤間沙良と会ったのも、彼女の声に引き寄せられたからなのか?」
「沙良さんの場合は違うと言いましょうか……」
真美によれば、彷徨っている最中に沙良とは遭遇したものの、沙良の心の声が聞こえたわけではないとのことだった。
「なので、沙良さんも何かしら思うところがあっても、はっきりとは私も分からないんです」
「うん? なんでだ? お互いに相手のことは分かってるんだろ?」
「沙良さんと共有できているのは、私が沙良さんの中に入ってから得た外からの情報です。それ以前のこと、要は記憶ですね、それは個々人のものなので、沙良さんが話してくれないことには知ることはできないんです」
相手のプライバシーはそういう意味でも尊重されているわけか。ますます一つの身体に二つの人格が共存するのに不都合がないようだ、と透は思うものの、目下の問題を解決するには実に不都合である。
それでも、多少でも事情を知っているなら真美には話をしてもらいたいのだが、どうも歯に物が挟まったような物言いだ。遠慮深い彼女としては、沙良個人のことについて、ペラペラと話すのに躊躇いがあるのだろう。
「本人も出てきたがらないなら、俺はどうしたらいいんだ?」
「すみません」
「責めているつもりはないから。ただ、そこから考えないとどうにもできないし、そもそも俺は必要ないような……」
「そんなことはありません! 沙良さんが出てきてくれないのは、綴喜君のことをよく知らないのもあると思うんです。だから私との会話をして、それを通して、綴喜君の人柄を分かってもらえたなら、きっと出てくる気になってくれると思うんです」
こうした会話すら無駄ではないと言いたげに真美は力説してくる。
買ってくれるのは悪くないが、なんだか、巣穴に潜り込んで出てこようとしない警戒心の強い小動物の保護をするはめになった何かの職員になった気分であった。
前途は多難だ。口に出しはしなかったが、それが率直な想いであった。
翌朝、透が登校すると、先日と同じように真美が待っていた。
「おはようございます。ご一緒していいですか?」
待っていたのは、事前に聞かされてはいなかったが、意外でもなかった。ただ、周囲にいらぬ誤解をされるのではないか、との懸念があった。彩佳のことも考えると尚更だった。
「不都合がありました?」
透は首を横に振った。個人的な事情の変化があったとはいえ、昨日の今日で邪魔者扱いをするのは、あまりに身勝手な気がした。
「だけど、こうやって、登校することで何かが変わるのか?」
「沙良さんも、綴喜君の人柄をもっと知ってくれたら、打ち解けてくれると思うんです」
まずは慣れさせて警戒心を解こうというわけか。ますます小動物との付き合い方である。
「意味があって欲しいけど……藤間沙良とは普段、どんな話をしているんだ?」
「最近は私が一方的に呼び掛けたり、話しかけたりするばかりですが……それ以前は、最近のことや沙良さんとして生活するのに必要なことですね。あと、お料理についてよく教えてもらいましたし、その際は替わってもくれました」
「へえ、なんか意外だな」
透は率直な感想を漏らす。雰囲気からのみであるが、家庭的な部分でも真美は得意で、沙良はそうではない印象だ。
「沙良さん、お料理上手なんですよ。手際がいいと言うんでしょうか、逆に私は苦手で、最初は身体を使うのが不慣れだったのもあって、食事は任せきりでした」
真美は気恥ずかし気に明かしてくる。
「ただ、私がある程度、慣れてくると、料理の時でも替わってくれなくなってしまったのですけど……」
「そういや、家では問題になってないのか?」
「沙良さんは、ご家族と離れて、一人暮らしをしています」
何となく言葉を選ぶような真美の口振りだった。沙良の性格から推測はできたが、気安く語れない相応の事情があるということだろう。
それも自分から本人に聞け。それができるくらいには沙良から信頼を得ろ、ということか。いかにも何かありそうな家庭事情などただでさえ気軽に聞けるものではないところへきて、沙良は非協力的で、しかも、直接交流できないと来ている。
この時点で、もうムリゲーだろ。
透は心中ぼやかざるを得ない。乗りかかったとはいえ、もう船から降りたい気分の方が強かったが、傍にいる船頭が、見捨ててくれるな、と期待に満ちた眼差しを向けてきては、それも容易ではない。
「すみません」
「ま、何とかなるだろう」
本当になるのかなあ。
昼休みになり、弁当を手早く片づけた透は席を立つ。
「図書室に野暮用だよ」
見上げてきた与野に機先を制して伝えた理由は、嘘ではない。
登校時の別れ際に真美から、今日は午後の授業の準備があるとのことで、詫びとともに会えないことを伝えられていた。それで、図書室へ行こうと考えたのだけれども、急ぎの用事でもないのに昼食を手早く片づけるのが癖になってしまったらしい。
「相変わらずの文学青年だな」
与野の皮肉とも呆れともつかない言葉に、透は何も言う気になれず、苦笑だけ返して、図書室へ向かう。
私立だからなのか、中園高校の図書室はやたらと蔵書が豊富だった。しかも、多感で悩み多き年頃の学生たちを意識しているのか、精神系の書籍も充実していたと透は記憶している。
真美と沙良が置かれている状況は非現実的で、一般的な心理学や精神医学がどれほど役に立つのかは甚だ疑問である。ただ、何かしら参考になる知識があるかもしれないし、彼女が多重人格症ではないか、といった可能性も捨て去ったわけではない。
というわけで、図書室に来てはみたものの、『十代の悩める君たちへ』、『やってみよう! 心理テスト』、『リラックスの仕方』など、とても役立つとは思えない題名ばかり目につく。
『犯罪心理学者による、記憶操作術』
本棚の隅に他の当たり障りのない書籍に隠れるようにして、その本はあった。物々しい題名といい、厚さといい、かなり専門的な様相である。これは期待していいかもしれない。
透が本を手に取ろうとしたら、別方向からも、手が伸びてきた。
「支倉先輩!?」
「えっ、つ、綴喜君?」
反応の差に多少はあれど、透たちは相手に気付くや驚きの声を上げる。
「あれ、今日はこっちだったの?」
どうやら、千早は自分たちが北棟屋上にいると思って、図書室に来たらしい。
「そうなんです、すみません」
「もしかして、彼女と喧嘩でもした?」
「いえ、ただ用事があるそうでって、俺たち付き合ってるわけじゃないですよ」
「えっ、そうなの?」
千早はさも意外そうな反応をしてくる。人気のない場所で、深刻そうな顔で話をしているのを何度も目撃したら、そう思われるのも仕方がないのだろうけど。
「ちょっと相談ごとに乗ってる、みたいな……」
「相談? もしかして、綴喜君は、こういうのに、詳しい人なの?」
千早は、本の題名をちらりと見てから尋ねてくる。
「そうじゃないんですけど……」
「勉強中?」
まあ、と透は曖昧に肯定する。
「先輩こそ、メンタルトレーニングの一環か、何かですか?」
「うん、それになるのかな……あ、これ、いいよ」
「いいんですか?」
「目について、気になったぐらいだったからね……それでなんだけど、ちょっといい?」
借りた本を手に透は、求められるままに、千早と一緒に図書室を出る。
落ち着いて話ができる場所へと移ってから、千早は切り出してきた。
「綴喜君はさ、もう進路は考えてるの? それこそ将来はカウンセラーとか?」
「いえ、全然です」
「じゃあ、あの子の悩み解決のためにわざわざ本まで読もうとしたの?」
千早はきょとんと尋ねてから、口元に女子特有の意味ありげな笑みを浮かべてくる。
「偶々ですよ。偶々、時間が空いたんで、前から興味あったので、それで、ついでとばかりに、ちょっと読んでみようかな、と」
あらぬ疑いをかけられてはたまらぬと透は説明する。
「うん、信じる信じる……そっか、君は多分、良い人なんだろうね」
苦笑気味な千早の反応に、透は褒められているというより慰められている気分になる。
「だけど、そうかあ、二年のうちはのんびりしていられるけどね、三年になるともう大変だよ。本人はそのつもりはなくても、周りが煩くなってきてさ……」
「進路のことで、何かあるんですか?」
中園は進学校であるので、千早が目指したい道を考えれば、何かしら問題が生じているであろうとの推測は難しくなかった。
「あのさ、思い出したくない、嫌な記憶ってある?」
「……ぱっと思いつくのは事故に遭った時のことかな、って言っても、ろくに覚えてないんですけど……何かあるんですか?」
不意の問いに答えた流れで透が問いを返すと、千早は間を挟んで語りだしてきた。
代々病院を営む家系に生まれた千早は幼少の頃から利発で、病院長をしていた祖父からもいずれ自分の後を継ぐと可愛がられてきた。千早自身、そのことに何の疑問もなく勉学に励んできたのだが、昨年、友人に誘われて観たとある舞台で衝撃を受けて、表現をする仕事につきたいと思うようになってしまった。だから、まず祖父からの許しを得ようと時間を作ってもらって会うことにした。
「いざ、話をしようとした時なんだよね……」
祖父が急に苦しみだして、倒れてしまったのである。救急車が呼ばれ、ただちに入院となったが、典型的な医者の不養生で、もはや手遅れであった。結局、祖父とは、ろくに会話もできないままの離別となってしまった。
千早の決意はそれで変わることはなかったのだが、家族に言いだせぬまま今に至っている。いつまでも黙っているわけにはいかないのだが、両親の期待を裏切ることになるのが辛い。しかも、特に母の口から何かと言えば出てくる「義父さんの期待」という言葉は、今の千早にとってはもはや苦痛でしかない。
「
「それに、あの場面を、どうしても思い出しちゃうんだよ……」
思い詰めた表情になって千早は自分の手を見る。いざ話そうとすると、咄嗟に支えた祖父の苦し気な様子、伝わってきた体温や震え、掠れた声、どうしてもあの時の光景が蘇ってしまい、言えなくなってしまうという。
「この本、先に借りちゃっていいんですか?」
「そこまで掴みたい藁ってわけでもないから。あ、でも、もし、いい方法が書いてあるならついでに教えて」
本を読むのは変わらないはずなのに、これだと千早に面倒ごとを押し付けられたような感じがする。
透がどことなく釈然としない顔つきでいると、千早は詫びるように告げてきた。
「もし良かったらってだけだから。やっぱり、私としてもさ……」
「そんなことがあったんですか……」
放課後になって、透から昼休みの出来事を伝えられると、真美は呟いた。
「気になるのか?」
「いえ、そこまでは……」
理子と比べたら深刻さはないかもしれないが、直に話を聞いた透からすると、真美の反応は思ったよりも素っ気なく感じる。
「そういやさ、能力で忘れるってのは具体的にどういうことになるんだ?」
質問を分かりかねたのか、真美は小首を傾げる。
「ほら、記憶が消えるって感覚もそうだし、いきなりそんなことがあったら自分の身に何かが起こったって混乱したりしないのか?」
「私自身はそれを体験しているわけではなく、見てきただけなんですが……実はですね、綴喜君、昔、あなたと私はとても仲良しで、結婚の約束までしていたんですよ」
「はあ!? 何を唐突に……」
「やっぱり思い出せません? それが私の能力なんです」
胸元に手を置いた真美は真剣な眼差しで見詰めてくる。
「ほんとなのか……?」
「結婚の約束なんて、さすがに冗談です」
悪戯っぽい微笑で真美は平然と白状してくる。
「俺はまたからかわれたのか……」
いちいち引っかかって真に受ける自分もどうかと思うが。
「すみません。口で説明するよりも、分かりやすいと思ったので。記憶が消えた感覚とはそういうものです。時に人は、嫌な気持ちや辛い気持ちをなくすために、それにまつわる出来事をなかったことにしてしまいます。そんな心の働きを促すのが、私の力の本質なんです」
「要するにあれか、重い荷物を持っていて腕がつりそうになっている奴に、その手を離していいんだよ、楽になりなよって囁くみたいなものか」
「間違った理解ではないとは思いますけど……」
たとえがお気に召さなかったらしく、真美は複雑な表情をしてくる。透としては、上手い表現だと思ったのだけど。
「でも、狩野に少し使ったんだよな? あまり変わったように見えなかったけど、狩野は何かを忘れたってことか?」
「具体的には私にも分かりません。ただ、あの時、あんな行動を引き起こすきっかけとなった出来事の負担はいくらか消えたはずです」
「もし、あの後も力を使ったら、狩野はテニスをしていたことを忘れたのか?」
「狩野さんにとって、テニスがどれだけの意味を持っているかによりますけど……力を使って最初に消えるのは、テニスに対する想いです。かつての活躍して嬉しかった気持ちや、負けて悔しいという気持ちが消えてしまえば、そうした記憶は人の意識の中で簡単に埋没していきます。結果として、狩野さんのテニスそのものへの気持ちも薄れていくんです」
感動や衝撃を忘れた記憶は、たとえば惰性の授業で得た知識と変わらない。ある記憶がその人にとって重要でなくなり、薄れる一方となれば、良くも悪くもその記憶や関連する物事に、人は束縛されることもなくなえればこだわりを持たなくなる。
「そうやって、忘れていくわけか」
「その人の気持ちが消えてしまうんです」
透の言葉に、真美は口調こそ変わらないが、何かを訴えるように重ねてきた。
藤間沙良、いや真美なのだが、一緒になって登校するのは何日目だろうか。
特別な事情があってのこととはいえ、それまで思慕以上の恋愛沙汰とは無縁だった自分からすれば非日常的な出来事も、当たり前の日常になりつつあった。一つは思ったより騒がれていないのもある。高校となれば付き合っているのも珍しくないわけで、この辺りの警戒感は自意識過剰の為せる業なのかもしれない。ただ、彩佳に誤解されているままの現状は変わらないのが、悩みであったが。
「それで、沙良は出てこないのか?」
「はい……」
「困ったもんだな」
「すみません」
謝らなくていいよ、と短い間で何度となく繰り返された返事を透はする。
「あっちが俺を嫌っているというのは、やっぱりあるんじゃないか」
基本の性格がそうだと言われても、あんな態度をとられると、どうしてもその考えに向かう。
「いえ、そんなことはないですよ」
真美は即座に否定しかかるも、どことなく自信なさげに答える。
「それならそれでいいんだけど……」
はっきりしてほしいものだ。
「ところでさ、真美にも忘れたい記憶ってあるのか?」
「……やり直せない間違いという意味でなら、あります」
どんな後悔があるのだろうか、気にはなったが、気紛れで問うにも躊躇いを覚えさせるものであったので、透は追及はしなかった。
会話も途絶えて気まずい空気になっていたところで、不意に真美が足を止めて中空を見詰めた。
「どうした?」
「いえ、別に……」
透の問いかけに答えようともせずに真美は歩き出す。
「綴喜君、今日の昼休みなんですけど、ちょっと用事があって行くことができません」
「そうか、こっちは構わないけど……」
すみません、と透が言い終わらないうちに真美は詫びると足早に自分の教室へと向かっていってしまった。
「最近、忙しないな。なんか願掛けでもしているのか?」
「なんだそれ?」
「北棟の屋上で願掛けすると願いが叶うって言い伝えがあるんだよ」
「初めて聞いた。具体的に何をするんだ?」
「なんだっけな……姉貴に聞いておこうか?」
確か、この高校の卒業生だったか。いつぞや聞いたことを思い出しながら、透は与野との会話を適当に切り上げる。向かう先は北棟の屋上である。登校時の真美の態度が気になっていたのが理由だった。
扉を開けると、千早が何事か叫びながら手摺を蹴飛ばしている姿が目に入った。
「あ、これは、お呪いって言うか、この学校に古くから伝わっているもので、本当よ、ちゃんとあるんだから」
透に気付いた千早は慌てふためいて弁解してくる。
「あれ、今日は一人なの?」
「いつもですよ。待ち合わせがここなんです。でも、藤間は用事があって来ないんですけど」
「じゃあ、どうしたの?」
「ここで過ごすのが習慣になっているみたいな……」
透は言いあぐねる。千早と遭遇するとの予感はあった。というよりも、それを想定したからこそ訪れたのだが、既に千早がいたことと、それにもまして彼女の様子に当惑する。
「えっと……何かあったんですか?」
上手い切り出し方が出てこず、透は愚直に問い返す。
明らかに苛立っていたのもさることながら、千早の目は充血していて、溌剌としていた表情には疲弊の翳りが色濃く出ていた。
「担任がさ、親に連絡したんだよね」
「進路のことですか?」
透の問いに、千早は返事の代わりに苦笑しようとするが、失敗した表情になる。
「おかげで、母親とガチンコバトルですよ……」
「どう、なったんですか?」
「一歩も譲らず、だったと言いたいんだけどね……」
激しい口論となって、母から「お義父さんの期待を裏切るのか」だった。自分の口から伝える前に親が進路希望を知ってしまったのは誤算だったが、必ず出てくると千早は分かり切っていたし、受け答えを想定して繰り返し練習さえしていた。
ところが、いざ言われると事前の準備など何の意味もなさなかった。自分の意思をしっかりと言葉にできず、筋立てて反論もできず、「一時の気の迷いです。ごめんなさい」と言うのだけは避けられたのが実情だった。
母との対話を凌いで、自分の部屋に逃げ込んでからも千早を苛む心に変わりはなかった。母は祖父を尊敬していて、千早にもそれは受け継がれ育まれてきた。祖父も、そんな千早に病床にあっても気を遣い、自身の容態について詳しく伝えることはしなかった。
祖父の期待を密かに裏切っち得るという後ろめたさがある千早にとって、母の言葉は実際に言われると覚悟していたより痛烈であった。
「しかもさ、担任、母親を学校に呼んでいるらしいんだよね……」
「今日ですか?」
千早は頷くと、救難ボートを求める漂流者のような眼差しを向けてきた。
「本、何かいい方法書いてあった?」
「すみません、まだ途中なんであれですが、目次だけ見るとあまり期待できそうには……」
「そっか、都合が良すぎるとは思うんだけど、結構期待してたのにな」
落胆しきった千早を前にして、透は躊躇いつつも言わずにはいられなかった。
「今の先輩の悩みについて、力になることがあるかもしれません……」
最初に藤間沙良の教室へ行ってみたが、本人の姿はなかった。
一年の時に同じクラスだった知り合いがいたので、透は尋ねてみたが、どこに行ったか知らないという。それだけでなく、昼休みのうちに何か準備せねばならないことなどないとのことだった。
校内を当てもなく探し回った透は、中庭の一角、樹木と校舎に隠れるようにあったベンチに、藤間沙良が腰掛けているのを見つけた。
透が近寄っていくと、何をするでもなくただ座っていた彼女はこちらに気付いた。一瞬、藤間沙良が表に出てきたのかと思ったが、透と目が合ったが瞬間、さっと視線を下ろした仕草から、真美だと認識する。それとともに人目を避けるように一人でいる理由についても察することが出来た。
「屋上に支倉先輩がいて、話をした」
「そうですか……」
「先輩のことは、本当に気にしなくてもいいのか?」
前置きは置かずに透が本題に入ると、真美は目を伏せた。
「本当は、放ってはおけないくらいには良くない声が聞こえているんだろ?」
「……すみません」
真美からぽつりと出てきた詫びは問いに対する肯定を意味していた。
「なんで、放っておくんだ? 先輩が嫌いなのか?」
「決してそんなわけじゃありません。ただ、支倉さんの心の負担となっているのはお祖父さんの、家族との記憶に関することなんです」
「他のことの記憶は消えてもいいけど、家族の記憶は消えてはいけないのか?」
数瞬の間が生じた。透自身は意地の悪い尋ね方をしてしまったのではないかと思ったが、逡巡を滲ませた反応は、少なくとも真美の中では価値の差があるようだった。
「……家族に関する記憶なら、何もかも大事とまで思っていません。時には消えてしまった方がいい記憶だってあります。でも、支倉さんの場合は、仲の良かったお祖父さんとの記憶なんです」
「倒れた時の記憶だぞ……」
大切な家族が苦しんで倒れたのを目の当たりにした記憶なんて、とても大切にしたいものではないと思うのだが。
「でも、家族の、それももう埋め合わせができない、亡くなった方との記憶なんです!」
直後、真美は自分の語調の強さにびっくりしたような顔をしてから、続けてきた。
「確かに辛い記憶だとは思います。その痛みや辛さは忘れてはいけない、そして、支倉さんが自分で克服した方がいいものだと、私は思うんです」
真美から切々と訴えられても、透の困惑は消えなかった。
人の心の痛みなど、所詮は他者に分かるものではない。一部にしろその声が聞こえる真美は極少の例外であろうが、透は理子の苦悩にすら気付かなかった凡人である。だから、千早の心の痛みは外観からの印象を通すのみで、千早のそれが理子に比べてどれほどなのかも、真美の言わんとするところも、本当のところ透は理解ができてない。ただ今の千早が背負うべき試練とするのは釈然としないものがあった。
「先輩の担任が、母親を学校に呼んでいるらしい。今日の放課後、進路の話し合いをするんだってさ」
透が伝えると、真美は何か言いたげな顔をしてきた。それだけで、どんな話し合いが起こるか推測できるくらいには、真美は千早の心の声から事情を察しているようだった。
それでも、真美は頑なに首を横に振ってきた。
「すみません、それでも、私は力になれません……」
会話の打ち切りを告げるように昼休み終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
午後の授業を終えて、放課後となるや透は再び北棟の屋上へ向かった。最初に三年の教室へ行ったのだが、千早は午後の授業に出てない、とのことであった。
急いで屋上に行ってみると、隅で、膝を抱えて蹲っている千早がいた。
「やあ」
のろのろと顔を上げた千早は、透の姿を認めるや力なく笑って迎える。
「もしかして、今までずっと待っていたんですか!?」
透が驚いて、尋ねる。
「期待していないと言ったら、嘘になるかな……本当のところはね、これからある話し合いのために心の準備をするためだったんだけど」
千早の様子からそれが上手くいってないのは明らかだった。
「どうしても、思い出しちゃうんだ。あの時のことさ……。医者の道になるのが嫌なわけじゃないんだ……そっちよりも、どうしても、進みたい道が出来たってだけで……」
誰に向けてのものなのか、千早は途方に暮れたように、顔を伏せて呟く。
「……駄目元なんですけど、少し待ってもらっていいですか」
考える先に出てしまったのだが、言ってしまった以上は、それなりの行動をせねばならない。真美を探すべく急いで階段を駆け下り、北棟を出たのだが、昼休みの時と違って今度はあっさりと会うことが出来た。傍にいたのである。
「昼休みからずっと、支倉先輩は屋上にいて悩んでたようだ。知ってたか?」
「……声は聞こえていました」
真美はそれだけを答えてくる。
「相当、困っているみたいなんだけど、力になってやれないか?」
「……」
「こえrは、勝手な推測だけど、このまま先輩が夢を諦めることになったら、お祖父さんが倒れた時のことも辛いだけの思い出になったりしないか?」
「一つだけ、教えてください。綴喜君は、どうして、そこまで支倉さんの力になろうとしているんですか?」
いきなりの問いに、透は大いに戸惑った。何となく、や、意図せず乗ってしまった船、というのが正直なところであるが、それでは答えになってないだろう。
「ただのいらぬお節介なんじゃないかってのは、常にちらついてはいるんだよ。でもさ、今のうちなら、俺でもできることがあるんじゃないか、それで、俺にしかできないことならやってみた方がいいんじゃないかって、そんな気がするんだけど……駄目な理由かな?」
探り探り言葉を重ねてから、透は窺うような眼差しを向ける。
数瞬の沈黙を挟んで、真美はいつもの穏やかな微笑を口元に浮かべた。
「いえ。十分な理由だと思いますよ」
それから、透は真美を伴って北棟の屋上へ戻った。
「……あれ……藤間さん?」
扉を開けて屋上へ入ると、先程の姿勢のままだった千早がのろのろと顔を上げて、不思議そうに見てきた。
「物は試しに何ですが、聞くだけ聞いてください」
詳しい理由はさておいて、透は連れてきた真美が、悩みを解決できる方法を知っていることを伝える。
「そんなこと、本当にできるの?」
掠れた声で尋ねてきた千早は、砂漠でオアシスを発見した遭難者のような足取りで近寄ってくる。
真美は大人びた微笑で応じてから、口を開いた。
「難しいことはありません。これから、私の言う通りにしてみてくれますか?」
疑う素振りもなく頷いた千早の手を真美は取る。
「では、目を閉じてください。深呼吸して、気分を楽にしてくださいね」
自分の指示通り、千早が落ち着いたのを見計らって、真美は本題に入った。
「辛い記憶だと思いますが、支倉さんが心の負担に感じているお祖父さんが倒れた時のことを思い出してくれますか。他のことは考えずにその時のことだけを思い出してください……」
千早の顔が早速、歪んだ。
「余計なことは考えないで下さいね、お祖父さんが倒れた時のことだけです……」
催眠をかけるように繰り返し囁いていた真美は、そっと千早のこめかみに手をやった。
「……あ、ちょっと、待っ……」
突然、千早ははっとした表情になって何か言いかけたが、理子の時よりもずっと集中している様子の真美には届かなかったようだ。
千早の表情から驚きめいた気配が薄くなっていく。
「……終わりました」
程なく、千早から手を離した真美はほっと息を吐いてから告げてきた。
「お祖父さんが倒れた時のことを覚えていますか? 思い出すと、まだこれまでと同じくらいの辛さがありますか?」
「あ、覚えてるけど、あれ、でもなんかぼやっとしているというか、気持ちが軽くなったみたいな……」
憑き物が落ちた、というと大袈裟だが、千早の表情からは直前まであった強い翳りがなくなっているように透の目にも映った。
「だけど、私、何か言いたいことがあって……」
千早が小首を傾げていると、校内放送で呼び出しがかかった。
困惑混じりの表情を決然としたものに千早は改める。
「お呼びがかかったから、行かないと。なんか不思議だけど、とにかく助かった、ありがとう」
礼を述べた千早は身を翻すと、急ぎ足で屋上からいなくなる。
「ご苦労さん」
見送る真美の背中に透は声をかける。
何も応えず佇んでいた真美の身体が揺れ出して、急に体勢を崩した。
「お、おい、どうしたんだっ!?」
透は慌てて真美を支えながら、呼びかける。
「すみません……沙良さんの身体で、本格的に能力を使ったのが初めてだったのと、お祖父さんに関する他の記憶が損なわれないよう集中し過ぎてしまって……」
「保健室、行くか?」
「そこまでのことではありません……」
会話している間にもずるずると真美は崩れ落ちていき、あたふたするばかりの透も引き摺られる形で体勢が降りていったおかげで、膝枕をする形になってしまう。
「ほんとに平気か?」
「はい……少し、休めば……」
と言うや、真美は完全に無言となり微かな寝息らしきものを立ててしまう。
大事ではないとのことで、透はほっとしたが、ふと冷静になると、何とも言い難い困った状況になると気付かされる。無理を言って、協力してもらった手前、真美の休息を邪魔することなどしたくはないが、今この状況を誰かに見られたなら、弁解しようがない。自分は藤間さんの個人的悩み相談を受けていたが、その最中に藤間さんが生来の病弱さから貧血を起こしたので、介抱がてら膝枕を提供しているのです。
……まず信じる者などいないだろう。ほとんどが事実であるのに、である。
透としては、ともあれ人目に触れないことを願うばかりであった。
困ったなあ。困惑を持て余していたのと、女の子の寝顔を覗き込むことへの罪悪感から、透は、さして面白みがあるわけでもない空をしばし眺めた。
やがて、それも飽きて視線を戻したところで、透はぎょっとした。真美が目を覚まして、自分を見詰めていたのだ。
「起きたか。もう平気……」
言いかけて透は違和感を覚える。
「……もしかしてだけど、藤間沙良か?」
透が尋ねると、膝に頭を乗せて見上げる少女はわずかだがはっとした様子だった。
どうやら当たりらしい。
「えと、これはだな……」
「分かってます」
透が焦って弁解しようとするのを、沙良は相も変わらずの愛想の欠片もない口調で遮ってきた。表に出ている人格が主導権を握っているとはいえ、外部からの情報を共有できるのだった。事情の理解も早いのは透にとって幸いである。
「ならいいんだけど……真美は、どうしているんだ?」
「休んでいます」
簡潔に答えてから、沙良は起き上がろうとするが、真美の意識とは別に肉体も疲労していたらしい。
ふわぁ、と気の抜けた声を微かに漏らして、沙良は透の膝に倒れ込んでしまう。
「まだ無理なら、大人しくしてろよ」
納得しかねると言いたげに沙良は顔を逸らした。
「……動けないからって、変なことしないでくださいね」
「誰がするか!」
言ってから、透は空を仰ぐ。せっかく表に出てくれたのに、これである。しかも、真美の協力が得られない状況でどうすればいいのか。
「……寝心地良くないです」
沙良は遠慮もなく不満を口にしてくる。
「しょうがないだろ。男が膝枕なんてするものでもないし」
「男の人が、女の人にするものではないんですか?」
沙良が意外そうに問いかけてきた。
「むしろ逆だろ。いや、決まってるとまで言わないけど、どっちかって言えば女がする方が様式美っていうか、一般的な気がする」
あるいは儚い男の願望か、透は心中、付け加える。
「そうなんですか。姉が父にしてもらうのをよく見ていたので、それが普通だと思ってました」
「なら、男が膝枕してるのに、文句を言うなよな」
「不満なのは寝心地の悪さです。これはあなた個人に問題がある気がします」
文句を言いながら沙良は遠慮なくぺちぺちと透の腿を叩いてくる。
「悪いけどここには俺しかいないからな。どうしても嫌なら直接、寝るがいいか?」
透がいささかむっとすると、沙良はわずかに唇を尖らせるだけで、やっと大人しくなった。
それ以前の短い会話で薄々感じていたが、大人しさにとんだ毒を含んだ性格のようだ。
「なあ、なんで出てこないんだ?」
黙っているのも間が持たないので、透は話しかけてみる。
「真美さんが言ったはずです」
「一応、聞いてるけどさ、本人から直接、聞いてみたいっていうか」
「真美さんの方が上手くやれているからです」
沙良はどこまでも淡々と答える。
「だけどさ、そのままだったら、自分自身は消えるんだろ。それでいいのか?」
「構いません。人はいずれそうなるんですから」
「ちょっと極端すぎないか?」
百年後には寿命が尽きるからといって、では来年そうなるのも同じではないだろう。
「家族や周りの人間に、気付かれないまま、お前はいなくなるんだぞ」
唐突に沙良が透を見詰めてきた。
「な、何だ?」
睨むではないが、真っ直ぐな眼差しに透が動揺していると、沙良は無言のまま手を伸ばしてきて前髪に触れてくる。
「だから、何なんだよって」
との透の抗議を無視して、額を晒すように動いていた沙良の手が側頭部で止まった。
「怪我、したんですか?」
「小学校時代の交通事故の古傷」
髪に隠れて目立たないが、触れば気付くぐらいには跡が残っている。
沙良がのそりと起き上がった。
「もういいのか?」
心配する透を尻目に、沙良は立ちくらみに気を付けながら慎重に立ち上がると、まだ危うさを感じさせる足取りながら、扉に向かって歩き出そうとする。
「本当に平気なのか? もう少し休んだ方が……」
また無視して去るのか。せっかく出てきて、とにもかくにもせっかく会話が成立しているこの機会を無駄にしてはなるものか、と透は止めようとする。腕を掴むより先に、沙良が振り返ってきた。
「私たちのことは放っておいてください」
「そういうわけにいかないだろ」
「何でですか? あなたには関係ないことじゃないですか」
「そっちはそう言うけどさ……」
「真美さんとの関係だって、なくなってるのに!」
「どういうことだ?」
不可解な物言いに透は尋ねると、沙良は一度口を固く結んでから、再び開いた。
「私、あなたが嫌いです」
沙良は言うだけ言うと屋上から出ていった。
放課後の生徒との面談に担任から同席を求められたが、密は用事を理由に断っていた。
千早に、彼女の担任が母親を呼んでの三者面談を企てていると教えたのは、密である。進路問題について、個人的には担任の主張の方がもっともだと密は思う。それでも、本人の自主性を尊重して一先ずは様子見のはずだった。それが親を呼び出してまで押し切ることになったのは、担任の口からの出任せだったのか、変心をもたらす事情があったのか、定かではない。どうであれ、不意打ちのようなやり口と複数の大人が寄ってたかって責めるような方法は歓迎できなかった。
担任の意図を伝えると、千早は愕然としていた。彼女の揺らいだ眼差しから、密はそれ以上の助力はもはや事態を徒に混乱させるだけにしかならないと思い、静観することにしたのだが、それでも、気にはなっていた。
千早の母親が来たことを伝えられると、担任は職員室を出ていった。本人であろう上品な女性とともに担任は進路指導室へ入っていき、直後に校内放送で千早に呼び出しがかかった。
結果は変わらないだろうが、変な後悔はしないよう密は声をかけてやるつもりだった。
そして、いくらかもせずに千早が姿を見せた。
呼び止めようとして、密は思い留まる。
何があったのか、まるで決闘に赴く剣士のように決然とした顔つきをしていた。
驚きに近い感情で密は見送るばかりになる。
話し合いは紛糾したであろうことは、通常の三者面談を大幅に上回る経過時間から容易に推測できた。
進路指導室の扉がようやく開く。
出てきたのは千早だけだった。
佇む密の方へと歩いてきた千早は、疲労の色が濃かったものの、入る前よりも挑戦的な雰囲気になっていた。
「突き進んでいくのか?」
「はい」
千早は力強く頷く。密が手を掲げでもしたら、元気よく叩いてきそうだった。
「頑張れよ」
密としてはもうそれ以外の言葉はない。
面談の詳細については、こちらが聞かずとも彼女の担任がぼやきまじりに教えてくれるだろう。いずれにしろ、彼女に関する面倒ごとで、自分が煩わされることはないようだった。
密と別れてから、千早は大きく深呼吸をした。
やった、という心地良い高揚感が、なお胸中を占めている。
激闘であった。と言っても、母や他人を説得できたわけではない。千早の想定外の頑なさに手を焼いた大人二人が話を切り上げただけで、母親と担任は今後について協議している。進路を巡る攻防の長丁場は始まったばかりだった。それでも、最後まで怯まず自分の意思を示すことが出来たのは、千早にとってはとても大きな第一歩である。
祖父にはきちんと自分から報告しておかないと。それが自分なりの礼儀であり、心からの供養のはずだった。それにしても、祖父との記憶、特に倒れた時のことは、あれほど重荷が伴うものだったのに、今は嘘のように軽くなっている。藤間沙良が何をやったのか千早は理解できてないが、綴喜ともども、感謝せねばならないのは確かだった。
「あれ……」
呟いて、千早は立ち止まった。先程の屋上でのことを振り返って、途中で、藤間沙良がやっていることを中止してもらおうとしたのだ。
どうしてだったのか。
「そうだった。何か、思い出そうとしかけて……」
藤間沙良に促されるがままに、祖父が倒れた時のことを思い出していたら、気付いたことがあったのだ。
あの時の祖父は意識をほとんど失いながらも、千早の耳元で何かを呟いていた。
ただでさえ動揺していたところへ、家の人間に助けることばかりに意識が向いていたあの時の千早は祖父の譫言に意識を向ける余裕がなかった。
だが、気持ちを落ち着かせて、改めてあの時のことに向き合っていたら、祖父が口にしていた言葉が形になろうとしていたのだ。
祖父は自分が医学ではない道に進もうと知っていたのではないか。そして、それを後押ししてくれようとしたのではなかったか。
不意に浮かんだ可能性は、だが、千早の中であやふやなままで、はっきりとした確信にはなってくれない。一枚の写真のようにあの時の光景はまだ思い出せるのに、ドラマの一場面のように他人事の感じがする。あれほど忘れたいと思って消えてくれなかった祖父の体温や息遣い、それに声は、まるで経験していなかったように消えてしまっている。
千早の芽から涙が零れる。
それを自覚して、今更ながらに自分が取り返しのつかないことをしてしまったことを、千早は悟った。
誰のせいでもない自分のせいなのだ。
この胸の痛みだけは、何があろうとも、もう決して忘れてはいけないものだと千早は固く誓った。
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