第一章

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「ねぇ日野ちゃん、今度の土曜日空いてる?」 鼻孔を擽る花の香りに驚いて顔を上げると、そこには可愛らしく首を傾げる瀬川さんの姿があった。 「土曜、ですか?」 「そう!ゼミのプレゼンも終わったところだし、皆んなで飲みに行かない?って話してて」 私と瀬川さん――そしてその他八人からなる都市法のゼミは、確かにこの間プレゼンを終えたばかりだ。論文を読み、フィールドワークを行い、ゼミ生で意見を出し合うという一連の流れはなかなかに大変で、共に苦難を乗り越えたゼミ生同士の絆も深まった……ような気がする。だから、打ち上げと称して飲み会が開かれるのも納得ではあった。――あった、のだが。 「私、土曜日はちょっと……」 飲み会は、その場のノリに乗ることができない私にとって最も相性の悪いものだ。だから、私はどうしても打ち上げに参加する気にはなれなかった。 嘘を吐くのは心苦しいが、皆んなだって私がいない方が楽しめるに決まっている。飲み会を楽しめる人は、同じように飲み会を楽しめる人と楽しさを共有するべきだろう。 「そっか、日野ちゃん無理なのかー」 私がそんなことを考えていると、瀬川さんはがっかりしたようにため息を吐いた。 「日野ちゃんが無理なら他の日考えなきゃだね。いつがいい?」 「……え?」 予想していなかった言葉が飛んできて、私は思わずぽかんと口を開ける。 「他の日にするんですか……?」 「え、うん。だって打ち上げだよ?プレゼンお疲れ様会だよ?皆んなで頑張ったんだから、皆んなで労い合わないとでしょ」 そう言った瀬川さんの真っ直ぐな瞳と目が合って、私はびくりと肩を跳ねさせた。 共にプレゼン準備をしていた時から薄々気付いてはいたが、瀬川さんにはこういうところがある。個よりも全を優先するというか、"皆んなで"という言葉が好きなタイプ。 「いや、でも私は……」 行きたくない、わけじゃない。少しお節介なところがあるけれど、瀬川さんは良い人だ。もちろん、他のゼミのメンバーだって。でも、だからこそ行けないのだ。 ゼミの皆んなは良い人だから、私が場を白けさせても輪から追い出すことはできないだろう。そうなれば、きっと私は皆んなを困らせてしまう。それだけは避けたかった。 「……もしかして日野ちゃん、飲み会とか嫌い?」 言い淀む私に何かを察したのか、瀬川さんが小さく尋ねた。 「……嫌い、なわけではないですよ」 ただ、どうしても上手くその場に馴染めないだけだ。お酒が入ると、大体の人は饒舌になったりテンションが高くなったりする。平素でさえ場のノリに乗れない私にとって、酒の席はあまりにも不向きなのだ。 「じゃあどうして?」 私が参加を望んでいないということを察してもなお引く気のない瀬川さんを見て、私はついに折れた。下手に誤魔化すよりも、事実を話して向こうから引き下がってもらおう。そう考えたのである。 「私、皆んなが盛り上がってる時にいつも場を白けさせてしまうんです。……私なんかが飲み会に行ったら、せっかくの楽しい空気を台無しにしてしまいますよ」 言いたいことを言うと、幾分か心がすっきりとした。後は、瀬川さんが引くのを待つだけだ。そう思っていたのだが、私の話を聞くと瀬川さんは引くどころか身を乗り出した。 「ねぇ日野ちゃん。もしかして、皆んなが盛り上がってる時に頑なに会話に混ざろうとしないのって、それが原因?」 気付かれていたのか、と少し驚く。 こくりと頷くと、瀬川さんは唐突にトートバッグを漁り始めた。 「……あの、瀬川さん?」 一体何をしているのだろう。私が頭に疑問符を浮かべていると、瀬川さんはパッと顔を上げる。 「あった!これ日野ちゃんにあげる」 瀬川さんが差し出したのは、花のイラストがあしらわれたショップカードだった。 「これは……?」 「これね、うちの近くの商店街にあるお花屋さんなの。そこの店主さんに花束を作ってもらうと、悩みが解決するって噂があるらしくて」 突如として投げかけられた"悩みが解決する"というワードに、私の身体はぴしりと固まる。 確かに私のこれは悩みと言えるかもしれないが、花束を作ってもらったくらいで解決するとは思えない。そんな迷信めいた話を伝えてきた瀬川さんの気持ちが分からなかった。 「……っていうのは建前で」 私が困惑していると、瀬川さんはそう言葉を続けて窺うように私の目を見つめる。 「日野ちゃんセンス良いし、先輩にあげる花束選んできてくれないかな?」 そう言われて初めて、ゼミでお世話になった先輩が卒業する際に花束をプレゼントしよう、という話が上がっていたことを思い出した。 「今度の飲み会には先輩たちも呼ぶつもりだし、日野ちゃんが選んだ花束、先輩たちに渡そうよ」 ね、お願い。そう言われてしまっては、さすがにもう断ることはできなかった。 「……わかり、ました」 受け取ったショップカードを裏返して、住所を確認する。瀬川さんのお節介は、今の私にはどうしようもないほどに重かった。 飲み会の日までは、あと一週間ほど時間がある。しかし、先にどんな花があるのか見ておきたかった私は、瀬川さんと別れるとその足で花屋に向かった。 花屋トワイライト。 それが噂の花屋の名前らしい。ショップカードの裏面に書かれた地図を見ながら、私はゆっくりと商店街を歩く。 「えーっと……駄菓子屋の角を曲がって……」 道を間違えることのないように、何度も場所を確認しながらゆっくりと。しかし、そんなにも入念にチェックをしていたというのに、目的の花屋は一向に見えてこなかった。 「どうしよ……」 瀬川さんの家から近いのだというこの商店街は、私にとっては馴染みのある場所ではない。一度駅に戻って駅員さんに道を尋ねるべきだろうか。そんなことを考えていた時、「あの」という小さな声が聞こえた。 「何かお困りですか?」 声のする方へと振り向く。すると、そこにはブレザーの制服に身を包んだ少女の姿があった。見た目からして高校生くらいだろうか。竹箒を手に持ち、こちらを窺うように見つめるその顔はまるで小動物のようだ。 「トワイライトという花屋に用があって……」 こんなことを聞いてくるくらいだから、きっとこの子はこの商店街に住んでいるのだろう。そう思い用件を告げると、少女は「ああ」と小さく声を溢した。 「トワイライトのお客さんだったんですね。……もしかして、お姉さんも願いを叶えに?」 その言葉に、私はつい数刻前に瀬川さんから聞いた話を思い出す。 「トワイライトは、願いを叶えてくれるんですか?私は悩みを解決してくれると聞いたのですが……」 「ああ、それはきっとトワイライトの噂が伝言ゲーム方式で広がっているせいですね。正しい噂は、『空が薄明るい時間帯にトワイライトを訪れ、店主に花束を作ってもらうと願いが叶う』ですから」 少女の告げた内容は、瀬川さんが口にしたものより詳細だ。 花束一つで願いが叶うなんて、そんなことあるはずがないのに。その話を聞いた時に、私の中で好奇心が頭をもたげた。 「……願いを叶えるには、空が薄明るい時間帯でなければならないんですか?」 「トワイライトは、日の出直前や日の入り直後の薄っすらと明るい空を指す言葉なんですよ」 「なるほど」 店の名前にかけているのだ、と気付く。 「あのお店、ちょっと分かりづらいところに建ってるんです。よろしければ案内しましょうか?」 その申し出はとても有り難いものだった。しかし、私は首を横に振る。 「いえ、また後日――願いの叶う時間帯に行ってみます」 少女と話している間に、辺りは薄暗くなり始めている。今日はもう願いを叶える条件を満たすことはできないだろう。それならば、日を改めて飲み会の前にでも寄ってみようと思った。 「それがいいと思います」 そう言って、少女がふわりとした笑みを浮かべる。 「私の姉も、トワイライトに行ってから変わったんです。だから、きっとお姉さんの願いも叶いますよ」 「……え?」 予想外の話に驚いて目を見開くと、少女はそれ以上語る気がないというように竹箒を持ち直した。そして、何事もなかったかのように道端に落ちた枯れ葉を掃き出す。 場の空気が読めない私でも、それが会話終了の合図であることは分かった。 「……ありがとうございました」 一心に掃き掃除に励む少女に向かってお礼を告げると、駅へと続く道を歩き出す。 私が一歩踏み出す度に、道路に散る枯れ葉がカサカサと音を立てた。
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