第一章

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道が分かりづらいのなら、最初からスマホの地図アプリを使えばよかった。そう気が付いたのは、飲み会の日の土曜日のことだった。 トワイライトを逃さないよう、時間に余裕を持って駅に着いた私は、位置情報サービスをオンにしてから地図アプリを開く。そして、ショップカードの裏面に書かれていた住所を打ち込んだ。すると、地図上に赤い旗が立つ。 「これでよし、と」 いくらトワイライトが分かりづらい場所にあろうと、これさえあれば道に迷わない。すっかり安心した私は、スマホ片手に商店街へと足を踏み入れた。 花屋トワイライトは、商店街の奥まった場所に立っていた。お世辞にも立地が良いとは言えないこの場所で、店はやっていけるのだろうか。そんな余計な心配をしてしまう。 「空が薄明るい時間帯……」 願いを叶える条件を思い浮かべながら顔を上に上げるが、真っ青な空はまだ"薄明るい"と呼ぶには早すぎる。どうしたものか、と考え込んでいると、チリンというドアベルの音と共にトワイライトの扉が開いた。 「お客さんですか?」 店から姿を現したのは、柔らかな雰囲気の男性だった。クセのある茶色の髪と、陽の光など浴びたこともなさそうな白い肌。高身長で細身ではあるが、植木鉢を抱える腕にはしっかりとした筋肉がついている。 「え、と……トワイライトの方、ですか?」 恐る恐るそう尋ねると、男性は笑顔で頷く。 「ええ。花屋トワイライト店主の花影です」 「はなかげさん?」 「はい。変わった名字でしょう?たまに疑われますが、これが本名なんですよ」 花屋を営む花影さん。本当に偽名かと疑いたくなってしまうくらいの偶然だ。 花影さんは、手に持っていた鉢を店先の一角に置くとくるりとこちらを振り返る。 「中、見ていかれますか?」 その言葉に、私は思わず固まった。今店内に入ってしまったら、空が薄明るい時間帯にトワイライトを訪れる、という条件を満たせないと思ったからだ。 「いえ、私は……」 言い淀む私を見て何かを察したのか、花影さんはふわりとした笑みを浮かべる。そして、私の目を真っ直ぐに見ながら「少し歩きましょうか」と言った。 「うちは少し分かりづらい場所に店を構えているんです。ここまで来るのは大変だったでしょう?」 「確かに、初めて来た時は迷ってしまいました。今日は地図アプリがあったので大丈夫でしたけど」 そんな他愛もない話をしながら、花影さんと二人商店街を歩く。 青果店、弁当屋、それから文房具店。この商店街には、他所へ出掛けずとも生活ができそうなほど様々な店が揃っていた。 「本当はもう少し目立つ場所に店を出したかったんですけどね。立地が良いところは地価も高いですから、結局手が出せなくて」 「ああ、なるほど。だからトワイライトはあんな場所に建ってるんですね」 あの店のいちご大福が美味しい、あの店はラッピングに凝っている。時折立ち止まって、そんな風に商店街の紹介をしながら花影さんは淀みなく話し続けた。 「そうなんです。それでもうちの店がやっていけているのは、近くに花屋がないからで――それから、うちの店に少し不思議な噂が立っているからなんですよ」 その言葉に、私は思わず足を止めた。 「不思議な、噂……」 「はい。トワイライトで花束を作ってもらうと願いが叶う、という噂です。……お客さんも、聞いたことがあるんじゃないですか?」 そう言いながら、花影さんが窺うようにこちらを見つめる。 私が噂を聞いて来た客だ、ということはバレているのだろう。とはいえ、ここまで直球に尋ねられるとは思っていなくて驚いた。 「お客さんが店に来た時、入店を躊躇われているようだったのでもしかして、と思いまして。……今店に戻ったら、ちょうど"願いの叶う時間帯"になると思いますよ」 「……願いは、本当に叶うんでしょうか」 そう尋ねながらも、心の中の冷静な部分がそんなわけがないだろうと否定する。噂はただの噂で、きっと願掛けみたいなものだ。花束一つで願いが叶うのなら、誰も悩んだりはしない。 「どうでしょうね。私は神ではありませんから、特別な何かができるわけではありません。でも、トワイライトの花束で願いが叶った、というお客さんが複数いるのも事実です」 その言葉に、数日前に会った少女のことを思い出す。そういえばあの子も、トワイライトを訪れてから姉が変わった、というような話をしていた。 「……そういう噂を流して、客引きをしてるんですか」 けれど、私の口から溢れ落ちたのは、そんな非難めいた言葉だった。 「あ、いや、あの、すみませっ……」 違う。こんなことが言いたかったわけではない。願いを叶えたくて、わざわざ願いが叶う時間帯を狙って来たにもから関わらず噂を信じきれない自分に嫌気が差す。藁にも縋るつもりで来たのだから、せめて縋る藁に身を任せるくらいのことはしなくてはならないのに。 「いえ、お気になさらず。噂に関しては私自身も半信半疑なんです。……でも、せっかくここまで来たんですから、その場の空気に流されてみてもいいのではないでしょうか」 「その場の、空気に……」 それは、私が最も苦手とすることだ。場の空気だとかノリだとか、そういうものは分からない。 ――こういう時、瀬川さんならどうするんだろう。 ふと、そんなことを考えた。瀬川さんなら、花影さんの誘いにも笑って頷くのだろうか。瀬川さんなら、卑屈な言葉を吐いたりしないのだろうか。瀬川さんなら――。 「……やっぱり、お店お邪魔します」 私は瀬川さんにはなれない。ちょっとお節介で、強引で、それでも人から愛されるような、あんな魅力的な人間にはなれない。それでも、一歩踏み出す力が欲しかった。自分を変える力が欲しかった。だから私はトワイライトの噂に縋ったのだ。 「ありがとうございます。では、一緒に帰りましょうか」 言いながら、花影さんが方向転換をする。 どこからか飛んできた落ち葉が、花影さんの靴に踏まれてカサリと音を立てた。
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