第二章

2/4

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
「そろそろ希咲も将来のこと考えんとね」 商品棚に貼り付けるポップを描いていると、突如として母がそう言った。 「将来、って?」 思わずそう聞き返してしまったが、本当は尋ねずとも分かっている。私はこの家の長女なのだから、将来は文房具店を継ぐのだ。漠然とそう思って生きてきたし、家督を継ぐ時の役に立てばと思い大学では経営を学んでいる。だからこそ、今もこうして文具屋の手伝いに勤しんでいるのだ。 「あんたももう大学二年生でしょう?そろそろ本格的に店のことを教えないとって、お父さんも言ってたわよ」 店の手伝い自体は高校生の時からずっとしている。だから、「教えないと」というのはおそらくもっと別のこと――商品の発注だったり、経営方針だったりの話なのだろう。 「そうだねぇ……」 ついにこの時がきたか、と思った。覚悟なら決めていたはずなのに、いざそう言われると絞首台に上る死刑囚のような気持ちになる。 「その時になったら、ちゃんとお祝いしないとね」 気の早い母は、そう言って楽しげに口角を上げる。 「……うん、そうだね」 頬を伝った汗が、ポップに描かれた鉛筆のイラストをじわりと滲ませた。 家が文具屋であることの利点は、タダで画材を手に入れられるところにあると思う。 傷が付いていたり、発注ミスで大量に商品が届いてしまったり――。そういう所謂"ワケあり"の品物は、全て無料で私の手もとにくるのだ。 シャーペンも消しゴムもコピックも原稿用紙も、私のもとにあるほとんどの画材はうちの文具店のもの。絵を描くという趣味は何かとお金がかかるから、それらがタダで手に入るのはとても有難かった。 「でも、それももう終わりかなぁ……」 シャーペンをくるくると回しながら、私は思わずそう呟く。 机の横に積まれたノートやスケッチブックは、私の膝ほどの高さになっていた。それらとお別れするのは少し――いや、だいぶ寂しいけれど。でも、私だって本気で漫画家になれると思っていたわけではない。なれたらいいな、という淡い憧れを捨てきれずにここまできてしまっただけ。目前まで迫ってきた文具屋を継ぐという現実は、むしろ夢を諦めるちょうどいい理由になってくれるかもしれなかった。 そうと決まれば、と思い、私はゆっくりと椅子から立ち上がる。そして、自室を出て隣にある美咲の部屋のドアをノックした。 「美咲、いる?」 そう声をかけると、中からくぐもった返事が返ってくる。 その声が「どうぞ」と言っているらしいことに気付き、私はガチャリと音を立ててドアを開けた。 「急にどうしたのー?」 私の部屋と同じようなつくりでありながら、美咲の部屋は私のそれとまるきり違う。風に揺れる白色のカーテンにはリボンの刺繍がされていて、ベッドシーツはピンク。勉強机の上には一輪花が生けられている。絵に描いたような"女の子の部屋"だ。 だが、そこに奇怪な物体を見つけて私は思わずぴたりと動きを止めた。 「それなに?」 ローテーブルの上に置かれた粘土細工のようなもの。それを指差して尋ねると、美咲は何とも言えない笑みを浮かべる。 「……うさぎに見える?」 「うさぎ?」 言われてみると、確かに垂れ下がった細長い二つのパーツがある。頑張れば耳に見えないこともないかもしれない。でも、うさぎらしさが感じられるのはそこくらいだ。 「……見えなくもない、かも?」 「そういう言い方は逆に傷つく!」 私の気遣いをそう切り捨てると、美咲はため息混じりに粘土に手を伸ばした。 「粘土で動物を作れっていう美術の課題なんだけどね、それが全然終わらなくて。色も塗らなきゃなのに、そもそも形が上手く作れないんだよね〜……」 その言葉に、美咲がどうしようもなく不器用だったことを思い出す。そういえば、小学生の頃も図工の授業を受けたくないと言って泣き喚いていた。物を作ったり絵を描いたりすることは、美咲にとっては苦痛でしかないのだろう。 「って、それよりお姉ちゃんは?何の用だったの?」 私が無言で粘土細工を見つめていると、美咲が思い出したようにそう問いかけた。 「え、と……美咲の部屋に紙ひもあるかなって思って」 ノートにしろスケッチブックにしろ、捨てるなら紙ひもで結んでおかなければならない。だから私は紙ひもが置いてあるであろう美咲の部屋に来たのだ。 「それならそこにあるけど」 そこ、と言って美咲が窓際にある背の低い棚を指差す。雑誌をよく読む美咲なら持っているのではないか、と思ったのだが、どうやらそれは正解だったようだ。 「借りてっていい?」 「いいけど……。あ、でも待って!」 紙ひもを取ろうと手を伸ばすと、美咲がガッシリと私の腕を掴んだ。 「貸してあげるから、ちょっとこれ手伝ってくれない?」 言いながら、美咲は奇怪な形をした粘土細工を手に取る。 「……課題なら自分でやらなきゃだめでしょ」 私が作ったら、それは美咲の作品ではなくなってしまう。そうもっともらしい説教をするが、美咲は一歩も引き下がらない。 「作るのはちゃんと自分でやるから!お姉ちゃんは手伝うだけ――いや、教えてくれるだけでもいいから!」 そんな風に懇願されてしまっては、断るのは可哀想だ、という気持ちになってしまう。 「……ちょっとだけだからね」 諦めてそう口にすると、美咲は花が咲くような笑みを浮かべた。 「たれ耳のうさぎを作りたいの?」 そう尋ねると、美咲はぶんぶんと首を横に振る。 「全然!ほんとはちゃんと耳が立ってるうさぎにしたかったんだけど、耳くっつけたら垂れてきちゃって」 「それは耳を長くしすぎるからでしょ……。完全に重力に負けてるよ、これ」 言いながら、無駄に長い耳を作り直すべく頭部から耳を引きちぎる。 「もっと短く作り直しな」 そう言って耳だったパーツを手渡すと、美咲は渋々ながらもそれを受け取った。 「やっぱりお姉ちゃんに聞いて正解だったな〜。お姉ちゃんはこういうの詳しいもんね」 「別に詳しくはないけど……」 今だって、誰にでもできるようなアドバイスしかしていない。だが、美咲にとってはそうではなかったらしい。美咲は何かを思い出すように目を細めると、ゆっくりと口を開く。 「小学校の絵画コンクールとかもさ、私は全然だめだったのにお姉ちゃんはいつも入賞してたよね」 「……そうだった?」 さも忘れていたかのようにそう言うと、すぐさま「そうだよ!」と返される。 「今だって店のポップは全部お姉ちゃんが描いてるし――。あ、そういえば」 そう言って、美咲が何かを思い出したようにパッと顔を上げた。 「確かあの頃、お姉ちゃんは漫画家になりたいって言ってたんだっけ。やっぱり今もそうなの?」 それはきっと、何気ない問いかけだったのだろう。けれど、私は動揺から思わず視線を彷徨わせた。 「今も、って……。まさかそんなわけないでしょ。店継ぐのは私なんだよ?」 美咲は次女だし末っ子だし、お父さんにもお母さんにも甘やかされて育ったから分からないだろうけど。そんな嫌味ったらしい言葉が溢れそうになり、私は慌てて口を閉じる。 だが、美咲はそんな私の動揺をよそに楽しげに口もとをゆるませた。 「一番上が店を継ぐって、別に絶対じゃないんでしょ?だったら私が継ぐことになるかもしれないじゃん!そしたらさ、お姉ちゃんはうちで画材を買って、希咲先生愛用の画材はこれ!って感じで売り出すのもいいかもよ?」 夢物語のようなことを口にしながら、何が楽しいのか美咲はにこにこと笑みを深める。 「そうなったらポップの価値も上がっちゃうよね!お姉ちゃんのファンの人がポップを見に店まで来るかもしれないし!」 「だから、私は別に漫画家を目指してるわけじゃ……」 小さく否定の言葉を紡ぐが、それでも美咲の口は止まらない。 「お姉ちゃんが漫画家になって、私が店を継いで――。そういう未来も、結構ありかもって思わない?」 無邪気な問いかけ。叶うはずのない絵空事。美咲の口から溢れ落ちる"未来"の話を聞くことが、私はどうしようもなくつらかった。――だからだろうか。 「もういいってば!!」 気づいた時には、そんな大声を出してしまっていて。視線の先で、美咲が驚いたように目を丸くしたのが分かった。 「確かに私は漫画家に憧れてたけど――なれるものならなりたいって思ってたけど。でも、もういいの。お父さんもお母さんも、店を継ぐのは私だって思ってる。そう思って話を進めてるんだから、今更そんなこと言い出せるわけない……!」 妹の前で泣くなんて情けない真似はしたくなくて、必死に涙を堪える。ノートもスケッチブックも捨てると決めたくせに、未練がましく夢に縋り付こうとしている自分のことが嫌で嫌で仕方なかった。 「……お姉ちゃん」 そんな私を呆然と眺めていた美咲は、暫くすると小さくそう呼んだ。 「私のお願い、聞いてくれる?」 「……お願い?」 美咲の願いなら、現在進行形で聞いている最中ではないか。耳の取れたうさぎを見ながらそう思っていると、目の前に一枚のショップカードが差し出された。 『花屋トワイライト』と書かれたそれは、小さな花のイラストがいくつも描かれている。 「これ、うちの商店街の……?」 花を買う習慣のない私は入ったことがないけれど、商店街の奥まった場所には確かにこのような名前の花屋がある。勉強机に花瓶を置くくらいだから、きっと美咲はこの花屋にも行ったことがあるのだろう。 とはいえ、なぜこのタイミングで花屋なのか。そう疑問に思ったのが顔に出ていたのか、美咲が「花を買ってきてほしいの」と告げた。 「花影さんのオススメで、花束を一つ作ってくださいって頼んでくれる?それで、その花を持ってお父さんたちと話そう?」 「……花束でご機嫌とりでもするつもり?」 うちの両親は倹約家で、生活に必要なもの以外は一切買わない。当然花束も。そんなものを買っていったところで、余計なものを買ってくるなと言われるのがオチではないだろうか。そう思ったのだが、美咲はやけに自信に満ち溢れた顔で「いいから買ってきて!」と叫ぶ。 「今なら間に合うから。日が落ちる前にはやく!」 美咲が何をしたいのか全く分からない。――分からないけれど、こうなった美咲を止めることは不可能だということだけは分かっている。 私は渋々そのショップカードを受け取ると、「いってきます」と小さく呟いて部屋を後にした。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加