第二章

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「……失礼します」 ドアを押しながらそう呟くと、小さなその声はドアベルの音でかき消された。 もう直ぐ日が沈むような時間帯とはいえ、夏の暑さはどこまでもじりじりと肌を焼く。滲む汗をハンカチで拭っていると、「お客さんですか?」という澄んだ声が響いた。 店の奥から姿を現したその人は、全てを包み込むような優しい表情でこちらを見つめている。 「え、と……」 美咲は何と言っていただろうか。確か、花影さんのオススメで花束を作るよう頼め、と。そう言っていたのではなかったか。 店内には、他に人の姿はない。だとしたら、この人が噂の"花影さん"なのかもしれない。そう思い、私は小さく口を開く。 「花影さんのオススメで、花束を一つ作ってほしいんですけど……」 すると、目の前の男性は全てを察したように頷いた。 「かしこまりました。願いを叶える花束ですね」 「……え?」 男性の発した聞き馴染みのない言葉に、私は思わずぽかんと口を開ける。 「願いを叶える花束って何のことですか?」 そう問いかけると、「すみません、この時間帯に来店されたのでてっきり噂を聞いてやってきたお客さんかと……」と申し訳なさそうに眉根を下げた。 「いえ、あの、そもそも私は自分の意思でここに来たわけではなくて……」 どう説明したものか、とオロオロしていると、男性はレジ横に置かれた丸椅子を一つこちらに差し出した。 「よろしければこちらにどうぞ」 「え、でも……」 戸惑う私をよそに、彼はにこりと笑って着席を勧める。 「今日はもう他にお客さんも来なさそうですし、気にしないでください」 そこまで言われてしまっては断ることもできなくて、私は言われた通りに腰を下ろす。すると、男性はレジカウンターの下に置かれていた椅子を引っ張りだし、向かい合うようなかたちで腰を下ろした。 「それで、よろしければお客さんの話を聞かせてくれませんか?その方が花束も作りやすくなると思うので」 「……はい」 この人と私は初対面だというのに、話を聞かせて、という要求に頷いてしまったのはなぜだろう。自分でも理由はよく分からないが、男性にはこちらの警戒心を解くような不思議な魅力があった。 「私の家、この商店街にある文房具屋なんですけど」 そう話し始めると、男性は「ああ」と頷く。 「ということは美咲さんのお姉さんですか」 「美咲を知ってるんですね。……じゃあ、あなたが花影さんですか?」 尋ねると、男性はまた一つ頷く。 「花屋トワイライトの店主をしている花影です。妹さんは、よくうちに花を買いにきてくれるんですよ」 「やっぱりそうなんですね……」 美咲の部屋に置かれていた花も、やはりこの店で買ったのだろうか。そんなことを考えていると、花影さんが不思議そうな目でこちらを見た。 「では、花束は美咲さんに頼まれて?」 「……はい。さっき家で美咲とちょっとした言い合いになって。そしたら、この店のショップカードを渡されました」 私がそう言うと、花影さんは続きを促すように相槌を打つ。 「こんなこと同じ商店街の人に話すものではないかもしれないですけど、文具屋を継ぐとか継がないとかそういう話で揉めてしまったんです」 「なるほど。……では、お客さんは店を継ぎたくはないんですね?」 花影さんにそう問いかけられて、私はぎゅっと唇を噛みしめる。 私だって店のことは好きだ。継ぎたくないわけじゃない。でも、店を継いで夢を諦められるかと聞かれたら、それもできそうにないのだ。 「継ぎたくない、というか……。小さな頃からの憧れを捨てきれないというか」 「憧れ、ですか?」 その問いかけにこくりと頷く。 「……私、漫画を描くことが好きなんです」 最初はただ絵を描くことが好きなだけだった。図工の先生に褒められたり美咲や両親に褒められたりして、それが嬉しくて毎日絵を描いた。描くのに必要なものはうちにたくさんあったから。それがいつからか漫画を描きたいという気持ちに変わり、原稿用紙に細々と漫画を描いてはSNSにアップしたり、或いは賞に応募したりするようになった。 「でも、私は長女だから……本来なら、あの文具屋を継ぐ立場なんですよね」 美咲の言う通り、一番上の子どもが店を継ぐ、というのは絶対の決まりごとではない。私にしろ美咲にしろ、誰かしらが家督を継ぐことができればそれでいいのだろう。でも、どうしたって考えてしまう。私のちっぽけな夢のために店を捨てても良いのか、と。 そんなことをぐるぐると考え込んでいると、花影さんが納得したようにひとつ頷いた。 「何となく事情は分かりました。……なので、今から花束を作りますね」 「……え?」 突然のその言葉に、私はぽかんと口を開く。 話をしたのだから何かしらのリアクションが返ってくるだろう、と思っていた私は、少し拍子抜けした気分になった。 けれど、よく考えてみたらここは花屋で、花影さんの仕事は花を売ることだ。私の悩みごとに答えを出すよりも花束を作る方が大切なのは当然だろう。そう思い、姿勢を正して椅子に座り直す。 「お客さんはご存知なかったようですが、うちの店には『空が薄明るい時間帯に店主に花束を作ってもらうと願いが叶う』という噂があるんです」 店の中にある花をじっくりと眺めると、花影さんはそう溢した。 「それがさっき花影さんが言っていた"願いが叶う花束"ですか?」 「ええ。もちろん噂は噂ですし、私には特別な力があるわけではありませんから、偶然と言われてしまえばそれまでですけどね」 花影さんはそんな風に付け加えたけれど、この人なら願いの一つや二つくらい叶えられるような気がする。花影さんには、そう思わせられるようなどこか浮世離れした雰囲気があるのだ。 「じゃあ美咲は私の願いを叶えるために花束を買わせようと……?」 立ち上がって花を手に取り出した花影さんに向かってそう問いかけると、彼はちらりと私の方を振り返った。 「おそらくそうでしょうね。尤も、美咲さんだって本気で"願いが叶う"と信じていたわけではないでしょうけど。それでも、一つのきっかけになればいいと思ったのは確かではないでしょうか」 私が店を継ぐのはほとんど決定事項のようなものだというのに、花束一つで何が変わるのだろうか。そう思ってしまう気持ちがないわけではない。でも、今は花影さんの持つ不思議な力を信じてみたい気持ちの方が勝っていた。 「それが花束になるんですか?」 いつの間にか花影さんの手の中にあった小さなひまわりを見ながらそう尋ねる。すると、彼は笑って頷いた。 「ええ。ミニひまわりです。可愛らしいでしょう?」 確かに可愛い。祖母宅の庭に咲いている大きなひまわりしか見たことがなかった私は、余計にそう感じる。 一つひとつは小さいけれど、束になるとかなり存在感があるから花束にもちょうど良さそうだ。 「それからこれも入れましょう」 そう言って花影さんが手に取ったのは、どこかで見たことのあるような形をした白色の花だった。 「それは?」 「これは白色のアサガオです。夏っぽくて綺麗ですよね」 その言葉に驚いてよく見てみると、確かにそれはアサガオの形をしていた。 「アサガオって白色もあるんですね……。私、てっきり青とピンクしかないのかと思ってました」 私が小学生の時に育てたアサガオは青色だったし、通学路に咲いているアサガオはピンク色だ。アサガオを目にする機会などそれくらいしかなかったため、白色があるなんて知らなかった。 「白だけでなく、赤や紫もありますよ。うちにも色々と取り揃えてありますから、お時間あればぜひ見ていってください」 慣れた手つきで花束を作りながら花影さんはそう口にする。少し興味がひかれて店内を見回したが、そこにアサガオらしき姿を見つけることはできなかった。もしかしたら、店内ではなく店の外に置いてあるのかもしれない。 「白色のアサガオには、『固い絆』という花言葉があるんです。お客さんのご家族にはぴったりではないでしょうか」 私がアサガオを探している間に花束が出来上がっていたらしい。花影さんは、そう言いながら完成した花束を私に差し出した。 「固い絆、ですか」 思わずそう呟くと、「はい」と花影さんが頷く。 「美咲さんがお客さんの願いが叶うことを望むのも、お客さんが文房具店を大切に思っているのも、全部ぜんぶ家族の絆があるからでしょう?」 そう言って、花影さんは優しげな笑みを浮かべる。 「アサガオ自体には『愛情』なんていう花言葉もありますし」 そんな言葉を続けられて、私は思わず花束に落としていた視線を上げた。 「もしかして、このミニひまわりにも意味があったりします?」 私は花に疎いから、当然花言葉にも詳しくはない。けれど、花影さんがこの花束に意味を持たせてくれていることだけは分かった。 「はい。ミニひまわりの花言葉は『憧れ』なんです。――お客さんが、自分の憧れを大切にできますように、と。そんな想いを込めました」 憧れ。その言葉が、私の胸にじんわりと染み込む。 「お店も、家族の絆も、お客さんの憧れも。全部大切にしたらいいし、どれも捨てる必要なんてないんだって。私はそう思いますよ」 花影さんの言葉は、美咲が口にしたのと同じ夢物語だ。どれも残さず手に入れるなんて、現実にはほぼ不可能に近いだろう。――それでも。 手の中にある花束を見つめて、私はごくりと息を飲み込む。 「自分の気持ち、ちゃんと話してみます。そうしたら、何か新しいものが見えてくるかもしれないから」 宣言するようにそう告げると、花影さんは笑って頷いた。 「ええ、それがいいと思います。――どうか、お客さんの願いが叶いますように」
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