スロベニア 首都 リュブリャナ

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スロベニア 首都 リュブリャナ

歴史的建造物が立ち並ぶ旧市街を一望できる小高い丘の上。 中世の古城を改装したホテルの一室。 少女の細い指が躍る度、無人の客間に荘厳な音色が反響した。 彼女の名はニーナ・ガロア。 若干、十四歳にして“スロベニアの魔法使い”の異名をとる天才ピアニストだ。 豊かな表現力と精密機械のような正確さ。 権威ある国際コンクールに最年少で入賞したという実績。 それらの事実だけでニーナの天才を説明することは不可能だ。 彼女の神髄は、直感的洞察。シンデレラの魔法ともいうべき“アレンジの力”だった。 ニーナの手にかかると、どんな駄曲も名曲も全く違う印象に生まれ変わる。 生まれ変わった曲は、まさに“本来のあるべき姿”を取り戻したかのように瑞々しく躍動した。 美容外科医が作り出す人工的な美しさと対極に、ニーナが創造する美しさは完全な姿を現した化石のようなものだ。 深い地層に埋もれてはいるが、真実の姿はすでにそこにあり、掘り起こされるのを待っている。 熟練の考古学者のように、彼女はそれを発掘し解放するのだ。 いつからか、彼女は一つの楽曲がまるで多次元に展開する幾何学図形のように視覚化できることに気付いた。 そして優れた楽曲には、この構造の中に神秘的な対称性や複雑なパターンを内包していることを理解した。 彼女の演奏は、対象の楽曲をより美しく完全性を備えた幾何学構造に造り替える営みそのものだった。 そして、彼女のこの能力の本質については誰も気づいていなかった。 彼女が演奏を終えて一息つくと、後方から手を叩く音が聞こえた。 驚いて振り返ると、そこに白いタキシードを着た若いホテルマンが立っていた。 「実に素晴らしい!! さすがスロベニアの神童! あるいはリュブリャナの魔法使い!」 ニーナは(いぶか)った。 リハーサル中は、誰も部屋に入ってはいけないルールだったからだ。 「あの…、失礼ですが、どちら様?」 「これは失礼をいたしました。イヴァンと申します。あなたの熱烈なファンでございます」 「ファン……?」 イヴァンと名乗る若い男は無邪気な笑みを貼り付けたまま、(おもむろ)にニーナの傍まで近づいた。 思春期を迎えたニーナにとって、それは明らかにパーソナルスペースを逸脱した距離感だった。 彼女はこの無神経な振る舞いに明らかに不快になった。 イヴァンがニーナに顔を寄せると、囁くように口を開く。 「かつて……、古代の哲学者プラトンは時空の概念から独立して存在する、美と完全さを備えたイデアの世界があると宣言しました」 「は? あの…、何の話をしているの?」 「そしてピタゴラスは、弦の長さの単純な整数比によって、美しい協和音程が発現することを見出します。彼は、抽象的な数学的イデアの世界に、音楽を通じてアクセスできることを知った初めての人類でした。そして……」 イヴァンが耳に触れそうなほど口を寄せたので、ニーナは怖気が走った。 「あなたはその先へ進もうとしている。音楽の神秘の海に、人類が未だ到達していない領域があることを知っている。それは、神の手によって書かれた譜面であり、イデアの世界に属する完全な美しさを備えた抽象的パターンだ」 ニーナは混乱すると同時に激しく狼狽した。 イヴァンの言葉は意味不明だったが、なぜかそれは脅しの言葉にように聞こえた。 お前の能力の秘密を知っているぞ……と。
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