失踪

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失踪

夜も更けて、人もまばらな老舗の中華料理屋。 あれから何日かが過ぎたが、その後、あの天才少年と出会うことは無かった。 私は麺をすすりあげると、テーブル席の向かいに座る右京を覗き見た。 彼はスマートフォンを覗き込みながら難しい顔をしている。 カウンター席では会社員風の男が新聞を広げながら、坊主頭の店主と雑談している。 「へぇ、ゴールドバッハ予想が証明されるかもしれないんだってさ」 「なんだいその、ゴールドなんとかってのは?」 「数学上の超難問さ。すべての偶数は二つの素数の和として表すことが出来るという予想でね、その単純な命題からは予想もつかないくらい証明が難しいんだ。あ、こう見えても俺、理系なんだよね」 「そんなニュースにするようなことなのかい、その数学の証明ってのは?」 「本当に証明が認められたら、歴史的大事件だよ。フィールズ賞間違いなしさ。しかし、このニュースは中々興味深いよ。どうも証明論文の著者が匿名みたいなんだ。つまり、どこの誰が書いた論文かわからないってことさ」 「よくわからんが、この世には地位や名誉に興味のない天才がいるってことかい?」 「いやはや、俺みたいな凡人には理解できない話だね。ただ、こんな匿名の論文が有名な学術誌の査読に回るなんて、それこそ前代未聞だ。つまり、証明が正しい可能性がとんでもなく高いってこと」 カウンター席のやり取りを呆けた顔で聞いていた私は、頬杖をついて溜息をつく。 「なんかさぁ、最近、数学の話題ばっかりで、もうお腹一杯って感じ。なんかこう、もっと爽やかな陰謀論は無いもんかねぇ。文系寄りのさぁ…」 「わかったぞ! 思った通りだ」 めずらしく右京が興奮して、私に携帯の画像を突きつける。 そこには、例の広場に描かれた極彩色のモザイク画の写真があった。 「それぞれの色は、1から9までの自然数に対応している。1は黄色で、2が赤色、3が紫って感じ…。そして、ウラムの螺旋みたいに渦巻き状に配列されてある。でも、中心は1の黄色じゃないんだ。何色だと思う? 紫、3なんだよ」 「だからさぁ、マジ数学もういいわ」 「あの子はパターンを探してるって言ってたよな。素数や無理数の。無理数ってのは分数では表せない実数のこと。そして無理数は循環するような明確なパターンを持たずに無限に展開していくんだ。さて、無理数の代表といえば何でしょう?」 「無理です」 「πだよ。円周率。あの子が広場に描いたのは、円周率の無限に少数展開していく数字の羅列だ。循環しないとされる無限の数字の中に、あの子はパターンを見出そうとしたんだ。そのために、色分けして視覚化した」 「落書きの犯人も見つかったんだし…、その話題、もうよくない?」 「おそらく、何の資料も見ずにこのモザイク画を作図したんだろう。あの子の中にはπの無限展開がすでに頭にあるんだ。全く、恐れ入るよ……」
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