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ニーナは逃げるようにしてイヴァンを見返した。
そこには先ほどと同じ、無邪気で無垢な笑顔があった。
イヴァンが安堵の溜息をもらす。
「いやー、緊張した。どうしてもあなたに直接伝えたかったんです。あなたの才能がいかに素晴らしいかを! 月並みな褒め言葉じゃなくて、もっとこう哲学的な表現で。私がいかにあなたを崇拝しているか伝えたかったんです。どうです? 今の言葉、気に入っていただけました?」
ニーナは脱力して長い息を吐く。
それから、イヴァンの非常識な振る舞いに沸々と怒りが湧いてきた。
「ありがとう、イヴァン。お気持ちは有り難く受け取るわ。でも、まだリハーサルが残っているの。この部屋からさっさと出て行って下さる?」
「これはこれは、大変失礼しました。すぐに退散いたします。それと……、明日の演奏、きっと上手くいきますよ」
イヴァンが一礼して踵を返したので、ニーナは再び譜面台に向き直った。
ひどく心を乱されてニーナの怒りは収まらなかった。
明日は国家元首も参加する重要な晩餐会だというのに……
深呼吸して気持ちを落ち着けると、ニーナは再び鍵盤に指を触れた。
瞬間、禍々しい不協和音が耳に炸裂した。
半秒遅れてから事態を把握する。
イヴァンが鍵盤蓋を叩き閉じたのだ。
恐慌して両手を引き抜くと、左右の指が、潰れた蜘蛛の足のようにてんでばらばらの方向に折れ曲がっているのが見えた。
悲鳴を上げようとするが、舌が喉に張り付いて声にならない。
右腕を強引に掴まれて、鍵盤蓋の上に叩き付けられる。
身をよじって抗うが、恐ろしい力で固定された右腕はびくともしない。
視界の端に移った異物を認識して、ニーナは絶望した。
イヴァンが振り上げた右手には、鉄のハンマーが握られていた。
「“魔法”を司るホルスの守護者よ。その名にふさわしい、とびきりの悪夢を与えよう」
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