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「ごめんなさい。どうしても誰かに話を聞いてもらいたくて…」
美しい黒髪をかき上げて深い溜息をつく女に同情の表情を向けた後、アレハンドロは彼女が立ち上がるのに手を貸してやった。
促されて立ちあがろうとした途端、眩暈がしたのだろう。女がバランスを崩してアレハンドロにしなだれかかる。
慌てて彼女を受け止めるが、女の指に引っかかって彼のワイシャツのボタンが弾けた。
「大丈夫ですか? 家まで帰れそうですか?」
「ええ、本当にごめんなさい。帰ったら薬を飲んで、ゆっくりと眠るわ」
「ちなみに、その子供の名前は?」
「ジョルディ。ジョルディ・エレーラ」
「わかった。もし何か手がかりをつかんだら、すぐに知らせるよ」
帰り際に、女がデスクの新聞を認めて問いかけた。
「まあ、先生。随分古い新聞ね」
「ああ、これかい? すごく興味深い記事が載っているんだ。数学は得意? ゴールドバッハ予想というんだけどね。どこかの誰かが、この難問を解いたみたいなんだ。僕は数学が趣味でね、感慨深くて取ってあるんだよ」
「さすがね。高尚な趣味をお持ちだこと」
アレハンドロは女の連絡先を受け取ると、診療費も貰わず、代わりに診療所の表まで付き添ってやった。
深く感謝の意を表して夜の闇に消えていく女を見送った後、彼は再び扉を閉めて鍵をかけた。
診察室の明かりを消すと、二階に上がり廊下を進む。
寝室の扉を開けると、飲みかけのグラスを手にとり、もう一度室内を確認する。
窓は厚いカーテンで閉め切られ、四方に並べられた無数の蝋燭の明かりが、中央に配置されたベッドを妖しく浮かび上がらせる。
三脚に固定したビデオカメラが、ベッドに手足を縛られて大の字に横たわる肌の黒い少年の姿を捉えている。
アレハンドロはグラスの残りの液体を喉に流し込むと、少年の脇に身をかがめて、口にはめた猿ぐつわを解いてやった。
「気分はどうだ? ジョルディ・エレーラ。“洞察”を司るホルスの守護者よ」
ショーペンハウアーからのメッセージを受け取ったのは一か月前だった。
ショーペンハウアーはシオルーン秘密協会における仲介役で、神々からの神託を伝える役目を果たしている。
三人目の守護者の情報がもたらされたとき、アレハンドロは体の震えを止めることが出来なかった。
それは慟哭にも似た狂気の笑いだった。
標的はこの街に住んでいたのだ。
それから二週間ほど経って、標的の詳細情報が送られてきた。
解像度は低いが、その画像は確かにジョルディ・エレーラを示していた。
誘拐が横行するこの街で、ターゲットを拉致することなど造作もなかった。
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