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役立たずの守護者
俺が差し出した手を、園田は拒否した。
ひどく動揺し、怯えている様子だ。
現実を拒否するため、園田はなおも食い下がろうとした。
「だって、清信君は…、あのとき確かに言ったの…。首に悪魔の絵が描かれている男が、ほるすのしゅごしゃか、と聞いてきたって……」
俺は園田の肩にやさしく触れる。
「そして、お前はたまたまそこに居た警官に言ったな。“怪しい奴がいて、そいつは首に悪魔の刺青をしているかもしれない”と。その話を聞いたからこそ、俺は確信したんだ。お前は都合のいい妄想を作り上げて、自分で書いた小説の世界を現実世界に再現しようとしているって」
「じゃあ、清信君の言葉は…、私の幻聴だったの?」
俺は頷いてやる。
「お前は自分が聞きたかった声を聞いたんだ」
「望月先生…、あなたは一体何者なの?」
「お前の主治医だよ。数学者じゃなくて、精神科医だ。そして、お前が通っていたのは万葉大学じゃない。万葉大学の学生でもない。それはお前の願望だ。お前が毎日通っていたのは、万葉大学付属病院の精神科であり、俺の診察であり、作業療法プログラムだ」
呆然自失とする園田の表情をみて、俺は居たたまれなくなった。
いじめによって、園田が失ってしまった時間、経験できなかった青春、それはあまりにも貴重なものだ。
そして、園田は二度とそれを取り戻すことが出来ない。
何かを取り返すには、あまりにも時間が過ぎてしまった。
園田を取り巻いている現実は、あまりにも残酷で空虚な世界だ。
だから、俺はあえて完治を目指さなかった。
園田が妄想の世界で、自分を守ってくれるイマジナリーフレンドと理想の生を謳歌することを誰が責められよう。
いじめという名の暴力によって無理矢理引き剥がされてしまった人生の欠損を、祈りにも似た気持ちで埋め合わせようとする無垢な営みを、どうして止める権利があるだろう。
それが精神科医として取るべき立場だと言い聞かせてきた。
だからこそ園田の求めに応じて、俺は支障の無い範囲で道化を演じた。
ある時は医師であり、ある時は哲学者であり、歴史家であり、数学者だった。
自分でもよくまあ、ここまで演じ分けられたものだと感心する。
だが、それが間違いだった。
結果的に園田は、とんでもない事件を犯してしまった。
俺こそが園田を狂気の犯罪へ導いた、役立たずの守護者だった。
俺はもう一度、園田に手を差し伸べた。
園田はもう抵抗しなかった。
実田刑事に強く命じて、右手の手錠を外させる。
世界から取り残されたこの男の残りの人生を、どうやったら幸福に満ちたものに変えてやれるだろうか。
もはやこの命題は、偽物の数学者である俺にとって証明不能問題だ。
窓から赤色灯が明滅する光が差し込む。
五十歳を目前に控えた、この哀れな男が立ち上がるのに手を貸してやると、俺は抱きすくめるようにしてパトカーに向かった。
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