二等辺三角形

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妹には年子の兄がいた。小学生時分の彼の通信簿には、どの科目にも「たいへん良くできました」の欄に丸がついていた。自ら進んで見せてと言ったにも関わらず、妹は赤いランドセルに入ったままのそれと比較し、少し憂鬱になった。 彼女は左端にずらっと丸が並んだ兄の通信簿の上下を素早く逆さまにした。急いでひっくり返す方が効果がある気がした。文字が読めなくなった代わりに全ての丸が右端に移り自分のそれと近くなった。ホッとした自分に気付いた彼女は、その通信簿を兄に向かって放り投げた。 数年後、高校受験をパスして進学校に通いだしてからも、彼の快進撃(妹にはそうとしか考えられなかった)は衰えることなく続いた。入学式で新入生代表のあいさつをして、中間考査でもトップを取った。バスケ部でキャプテンをシューティングガードに追いやり、フォワードのレギュラーを奪い取った。簿記とアマチュア無線の資格を立て続けに取った。 一足先に高校生になった兄の日常を、妹は母と三人で摂る夕食時に聞くことになった。 母は息子たちの話を平等に聞いた。息子が生徒会での応援演説に駆り出された話も、娘がカバンに付けたキーホルダーが絡まって花束みたいになった話も、どちらも母にとっては同価値だった。子供たちにとっては取るに足らないように思える話でも、彼女は熱心に耳を傾け、気の済むまで(時に意地悪に)話を膨らませ、彼らの何倍も良く笑った。 妹である少女は疑問に思った。兄が家で努力しているように見えなかったからだ。なにもかも簡単にこなしているように見えた。 ある日の夕食後、妹は兄に尋ねた。 あなたはなぜそんなにも優秀なのか? なぜ何をしても上手くいくのか? と。 妹の積年の疑問に対し、兄は両腕を大きく広げながら答えた。 「抽象的に取り組むからさ。僕以外の誰もが」と兄は言った。発言の内容が理解できなかったので、妹はソファーに寝ころびスマホのディスプレイを見ながら話の続きを待った。兄がそのまま自分の部屋に戻ろうとしたので少女が声を上げて引きとめると、彼は目を丸くして不思議そうな顔をして妹を見、説明を加えた。 「まず優秀ってワードが抽象的なのさ。そんな単語は辞書から失くすべきだね、僕に言わせれば。抽象的な言葉で自己や他人を評価して無為に過ごすから、多くの人が何一つ掴めないまま人生を終えていく。まぁ、妹に褒められるのはヤブサカではないけれどね」 「あたし褒めてないわ、別に」 「『可愛い』って枕に付けなかったから怒ってるのかな?」 妹は彼の言葉を聞き流し、ソファーのひじ掛けに頭を乗せ、スマホをいじり始めた。 目がチカチカして、指で眉間を抑えた。兄の着る空色と白のセーターの色が、妹の眼に濃い残像として残っていた。 「授業の間の休み時間、君はどんな風に過ごしてる?」 「しゃべってトイレ行ってボーっとしてる」 「僕はね、真っ先に教壇に行って教師に直前の授業の疑問点について説明を受ける。これで二分」 「にふん」と妹はつぶやいた。 「そのあと席に戻り、ガルフマンのタイマーを入れ、二百四十秒の瞑想に入る」 「めいそう?」妹はクラス中の生徒が休み時間に着席し目をつむる姿を想像した。迷走の文字が頭に浮かんだが、兄には言わなかった。いくら私の理解が及ばない進学校であっても、そんな奇行を行うのは兄だけだろうと妹は思った。 「眼を閉じるだけで脳は十分な休息を取る事ができる。五分でなく四分なのが残念だが致し方ない。ぼくだけの希望で授業間の休憩時間を十一分にするわけにはいかないからね。残りの二分は次の授業の教科書を開き、予習に充てる。以上だ。」 異常だ、と妹は思った。「充実してるのね」 「君は何を聞いていたんだ」と兄は言った。「心配しなくて良い。君の頭が他人より劣っているわけじゃない」白く狭い額から生えた整った眉毛が、きれいな八の字を描いた。 「僕は君たちとは違う世界を生きているんだ。君は今日から僕のことを兄と呼ばないほうが良い」 「じゃあどう呼べばいいのよ」 「オール5の象徴」 「はぁ?」と妹は不快な声を上げた。兄に対し、こんな声を出すのは初めてだった。一日の疲れをどっと感じた。スマホにはSNSの更新通知が来ていた。友人の彼氏が尿検査の前日に自慰行為をして、タンパク異常で再検査になったエピソードが、面白おかしく綴られていた。 「ばかじゃないの」と何とか声にした後で、笑顔を崩さずこちらを見つめる兄を見て妹はぞっとした。 彼の顔に「ずっと前から誰かとこんな話をしたかったんだよ」と書いてあるような気がした。 この男はずっと、周囲にこんな感情を抱いて生きてきたのだ。 「お兄ちゃんは彼女つくらないの?」 「一人付き合ったさ。僕に近い考え方をして、僕と似たような結果も出していた」 「なんでうまくいかなかったのよ?」 「次女だったからさ」と忌々し気に彼は言った。 「兄がいるだけだから正確には長女さ。でもそんなの関係ない。僕は兄のいる男と結婚なんてする気はない」 「結婚ってお兄ちゃんまだ高校生でしょう?」 「おまけに骨盤が細すぎた。むろん直に触れたわけじゃないが」 妹は聞かなかった振りをして言った。 「ねぇ、お兄ちゃんのいる世界、生き辛くない?」 兄はリビングをうろうろ早足で歩き始めた。 「なぁおい! お兄ちゃんは? と言ったか? お兄ちゃん「は」って言ったか?」 「ええ、そうよ」妹はクッションを抱きしめながら言った。「新しい彼氏」 「ちょっと待て。カレシ? カレシって何語だ?」 「そりゃ日本語でしょうよ」 「僕は許可してない」 兄は丁寧に刈り揃えられた髪に指を挟み、繰り返し毛を抜き始めた。 「父さんは知ってるのか?」 「母さんには言ったわ。こんど一緒にブラジャー見に行こうって」 「ファック!」と彼は言った。粒だった声はカニエ・ウェストのそれに似ていた。 「今回の彼は特別なのよ。今までの彼氏で一番お兄ちゃんに似てるかも」 「過去にもいたのか?」妹は当然じゃない、といった顔をした。 「お前、俺が必死こいて受験勉強してた間に彼氏つくってたのか?」 「そん時あたし受験じゃないもん。ねぇ、『必死こいて』って抽象とは違うの?」 兄はうつむいてしばらく黙っていた。泣いているのか怒っているのかわからず、妹はゆっくりと兄から距離を取った。兄は顔を上げた。 「嫉妬かもしれない。この感情を人は嫉妬と呼ぶのかもしれない」 「そうね。嬉しいわ。こんなにも兄さんに愛されているなんて」 「僕も君の彼に告白してみるよ」 妹は思わず首をかしげた。反射的に唇をキュっと結んだ。 「キミがカレを好きならカレもボクが好きに違いない。ボクもカレに告白してみるよ」 「ねぇ兄さん」 「ボクは二等辺三角形が大好きなんだ」「お兄ちゃん」 「質問に答えなさい!」 「わたしは何も聞かれてないでしょう!」妹はクッションを兄に投げつけリビングを飛び出した。「一人で勝手にしゃべってるだけじゃない!」 妹は玄関わきの階段を上がり、自室に戻ろうと思った。 勉強も運動も誰よりできる兄さん。顔だって文句なく整っている。その長いまつ毛何度うらやましいと思ったことか! 彼の泣き顔を見ても、妹の考えは変わらなかった。 どうしてこんなことになってしまったんだろう? 階段の中腹で足首を掴まれた。振り返ると、歯を食いしばった兄がこちらを見ていた。 口角に泡が溜まり、唾があごに向かって垂れていた。めいいっぱい腕を伸ばし妹の足を必死につかもうとする兄は、まるで何かに追われている毒グモのように見えた。  兄は握った手を決して離さず、たっぷり時間を掛け呼吸を整えた。 「君がどんな彼氏と付き合っているのか理解したよ。マケレレやフレッチャーほど守備的でなく、ランパードほど攻撃に特化していない。君の彼はきっと良いセンターハーフになる」 「もういやぁ」と言って妹は泣き崩れた。 うつむく妹に対し兄は懸命に声をかけ続け、ようやく彼氏が文化部であることを聞き出すと心底不満げな表情を隠さず、ぶつぶつ言いながら彼女を追い抜き自分の部屋に戻っていった。
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