投げつけられた置時計は

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投げつけられた置時計は一直線に壁にぶつかり、パイル地のカーペットの上で一度だけ跳ねてすぐに止まった。文字盤の見えなくなったそれは、うつぶせになった死体のように見えた。部屋の主は時計から飛び出した電池をつかみ、もう一度壁に向かって投げつけた。握りの甘いせいですっぽ抜けたそれは、投球フォームに似合わぬマヌケな音を立て主から逃げるようにあっさりとモニターの載った文机の裏に消えた。 男は舌打ちをして電池の方角を睨みつけ座椅子に座り、鼻毛を抜いた。男の想像より二本多く抜けた。彼は指をティッシュで丁寧に拭き横向きになった。目一杯手を伸ばし、うず高く積まれた大学ノートの山から適当に一冊を引き抜いて中を開いた。 七月十七日(木) 晴れのちくもり  係長と呼ばれるのにも慣れてきた。昇進前に脅かしてきた奴もいたけど、仕事のきつさは主任の時と変わらない。文書課に配属されたての頃や、ロンドンでの研修中の方がよっぽど堪えた。 まだまだ余裕だ。お前なら大丈夫。そうだろ?でも気を抜くなよ。分析するに、これまでのピンチは環境の変化と共にやってきてるぜ。来年どこの税務署長に任命されるのか知らねぇが、完璧にこなしてやるぜ! 出来の良い事務次官になるんだろう? 周りを出し抜け!余裕を絶やすな!同期の観察を怠るなよ。 男はページをめくり、終わりまで簡単に目を通した。傍のペットボトルのキャップをひねりサイダーをマグカップに注いだ。一気に飲み干し、二度ゲップをした。指で股を掻きながらノートをしまい別の一冊を取り出した。   五月二十日(月)晴れ  車中でのBGMはメンデルスゾーンの無言歌集だった。六曲のうち「五月のそよ風」が気に入った。選曲は今日も運転手に任せた。彼は顔に似合わずクラシックに精通していて、俺が選ぶよりよほどふさわしい選曲をする。車窓から息子と同じ高校の制服を着た集団を見つける。よほど努力したのだろう。あいつは親から見ても申し分ない結果を出した。子規と南方の後輩ってのが良いじゃないか。漆の蒔絵師を父に持つ女を嫁に選んで失敗したかと思うこともあったが結果としてこれでよかったのだろう。俺も次は近畿か東海の局長だろう。前を向け。まだ4コーナーにも入っていない。 男はあくびをしながら立ち上がり先ほど投げた電池を探し始めた。床に四つん這いになり上体をひねり、腕を目一杯に伸ばし文机の下を探した。指先を使い手繰り寄せ、なんとか電池を回収した。立ち上がり落ちていた置時計をつかんだ。電池を入れ、秒針が動いたのを確認すると、男は満足そうに頷いて布団の脇にそれを置いた。小指と手首にホコリがついていた。男はそれを払わず、時計の時刻も合わせなかった。    九月八日(日)くもり 息子の交際相手の家族と顔合わせをした。車内で音楽は聴かなかった。先方の指定した銀座のグランメゾンで「和とフレンチの融合」をテーマにしたコースを食べた。交際相手の父親は私の同窓で、フランスの全権特命公使をしている。過去に面識はなく、こちらにも多少の緊張はあったが立派な男でほっとした。この縁談は上手くまとまるだろう。私に似て寡黙な男だった。会食の途中から私はなぜか息子たちが笑う度、自身の今後のキャリアの事ばかり頭をよぎるようになった。眼前に主計局長の椅子が見える。ようやくここまで来た。男なら誰もがうらやむ人生を歩んできた。異論は認めない。欲の無い男などこの世に存在しないし、してはならない。数多の同僚と蹴落とし合い、その多くに勝利した今、心底そう思う。成人してから何度も見る夢がある。小学生の私は夕暮れ時に一人で教室の椅子に座っている。机上には手動の鉛筆削りがあり、私はいつもそのハンドルをただひたすらに回し続ける。どれだけ芯先が尖っても何故かカスだけが増え続ける。私は芯先に自分を重ねる。前に出なければ埋もれ、中に居らねば沈んだのだ。つまらない話になった。もう止めにする。 男はノートを閉じ、文机に放り投げた。舌で歯をさすり、サイダーを少し口に含み、前歯から順に指の腹で擦った。立ち上がりガニ股で歩き、窓を開け口の中のサイダーを捨てた。 階下から木の軋む音が鳴り始め、男の部屋に近づいて来た。その音は部屋の前で止まり、何かが丁寧に置かれた。男は扉の前に向かい、床との隙間に鼻をつけた。塩と味噌の匂いが鼻に入った。 「またアジの開きかよババぁ!今日は肉に決まってんだろ!解れよ!」 男は扉を叩いた。汁物がこぼれ、ワカメが椀の縁に載った。男は鼻息を荒くし、唾を吐いて大股でノートを取りに向かった。
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